8話一気撮りの先に見えた第3部「躍進」
この回は西田幾多郎編の第8話です。前回までで『善の研究』を世に出し、弟子も集まり、京都大学の教授として研究環境も手に入れたところまでが語られました。
ここからが第3部「躍進」です。西田哲学が人々にどう受け止められ、西田自身がその思想をどう発展させていったのかがテーマになります。
同じ日で8話目まで今撮ってるんですけども。なかなかないですね、8話一気に撮るっていうのは。
ないですが、どんどん統一的あるものが僕から溢れ出てきますね。
ところが、しながわが挙げた今回のテーマは「躍進」ではなく「自覚」でした。タッシーは一瞬困惑します。
第3部のテーマ、躍進だったのに、今回のテーマは自覚ですって。これ第8話目の?
これまで純粋経験、統一的あるもの、自由といったキーワードが登場してきました。今回はそこに西田が新たに打ち出した「自覚」が加わります。
品川がスマホに設定した「自覚アラーム」の正体
しながわは、この「自覚」という言葉が普段からずっと頭にあると打ち明けます。
ぶっちゃけ言うと、僕今アラームが何回か鳴るんですね、自分のスマホで。1日日中に5、6回鳴るんですけど、そこにはもう自覚って書いてあります。
マジっすか。そしてアラーム5、6回も鳴らしてるんですか?
なぜ「自覚」なのか。この意味は回の終盤で明かされます。まずは西田の思想としての「自覚」から話が進んでいきます。
自覚における直感と反省──純粋経験は反省できない
今回のもとになるのは「自覚における直観と反省」という西田の書物です。しながわは、直観と反省という2つの言葉をこう整理します。
夕日を見て「あっ」と思うような、没頭している状態。純粋経験にあたる
ふと我に返り、言葉の力で判断したり考えたりする状態
ここに問題があります。純粋経験が本当に純粋経験であるなら、そこには言葉も判断もないため、反省することができないはずなのです。
純粋経験が本当に純粋経験だと、それ反省できないはずなんですよ。
そこで、直観と反省の間に立って両者を行き来するものとして西田が置いたのが「自覚」でした。直観と反省の間をつなぐのが自覚という位置づけです。
ベルクソンへの傾倒と、カント学派からの批判
京都に来て多くの本に当たれるようになった西田は、西洋哲学の思想家から強い影響を受けます。とりわけベルクソンでした。
弟子の証言によれば、西田は「現在哲学者はベルクソン一人だ」とはっきり言っていたといいます。
京都に来た初め、私の思想を動かしたのはベルクソンの純粋持続の説だと。ここから多大な利益を得たと。
大好き。面白いですね、極端。
西田は自分が直観で捉えていたことを言葉にするとき、西洋哲学から使える概念を積極的に取り込みました。ベルクソンの純粋持続も、まさに自分の言いたかったことだと感じたと考えられます。
一方で、当時の学会では新カント学派も優勢でした。西田の思想はカント的な考え方とは全く異なります。
さらにカント学派からは、西田への批判もつきまといました。純粋経験や作用といった考え方は、すべてを心に帰着させる唯心論、あるいは心理主義ではないか、という批判です。
結局西田の言ってることって、あなたの心の中に映るものが全てですよねみたいな感じに批判されうるものなんですよ。
注目すべきは、西田がこの批判を「そうだよな」と冷静に受け止めていた点です。直観としては違うと感じていても、それをまだ言葉で説明できていないと自覚していました。
自覚とは「自己が自己を見る」こと
こうした問題意識の中から出てきたのが「自覚」という概念です。西田について書かれた本では、自覚は次のように説明されているとしながわは紹介します。
自覚とはシンプルに言うと、自己が自己を認識すること。西田の言葉でいうと、自己が自己を見る、これが自覚だと。
これを時系列でイメージすると分かりやすくなります。夕日を見て「あっ」と思った瞬間が純粋経験、その10秒後に「私は夕日を見ているな」と言葉で考えた状態が反省です。
自覚はその中間にあります。純粋経験ともつながっていて、言葉でも説明しているけれど、対象を明確に分けて考えているわけでもない。そういう状態を「自覚」と呼びます。
つまり西田は、常識的な主体と客体を分ける主客二分をとりません。しかし、それでもどうにか言葉で説明しなければ、哲学体系を広げていけないのです。
ドラム演奏で「境目」を経験する
この抽象的な話を、しながわはタッシーの演奏体験に引き寄せて確かめようとします。スポーツ選手が没頭しながらも自分を俯瞰していると語る例を挙げました。
プレーしてる自分を俯瞰してる自分がいますみたいなことを言う人がいる。そんな感覚かもなとも思いました。
タッシーは、俯瞰までの経験はないとしつつ、フローから普通の状態へ戻る「境目」なら毎回あると答えます。
フローや純粋経験から、それ以外の経験に戻る瞬間、境目があるんですよね、毎回。
その境目が現れるのは、ミスをしたときだといいます。没頭して一体化していた状態から、現実に引き戻される瞬間です。
ミスったら「あっ」って現実に引き戻される。急に主体と客体に分かれるし、ドラムを演奏してる自分に戻るわけですよ。
しながわは、この感覚が自覚に近いと受け止めます。違いは、それを偶発的に経験するか、意識的に活用するかという点にあると整理しました。
合わせ鏡のように、自己が自己を見続ける
しながわは、より理解しやすい説明として「無限の発展」というイメージを持ち出します。1秒前の自分を、今の自分が認識する。しかし認識した瞬間、その自分はもう過去になり、さらに後の自分がそれを見る、という連続です。
夕日を見て「きれいだな」と思った自分を、もう一度自分が見る。その見ている自分をまた自分が見る。この繰り返しが自己である、というわけです。
2つの鏡を合わせると無限に続いていくじゃないですか。あんな感じだよねと西田は言っている。
西田の文章では、こう説明されます。後の意識から前の意識を見たとき、自己を対象として見ているように思える。しかし真の自己とは、いま観察している側なのだ、と。
見られた自己はすでに完結していて、材料になるだけ。見るものが見られるものになり、見られるものが見るものになる。この連続そのものが真の自己だと西田は考えました。
タッシーはこの説明に強く反応します。連続していて区切りがないのだから、少し前の自分と今の自分は「地続き」であり、本当は境目などない、と言い直しました。
しながわは、その気づきこそが核心だと応じます。本当は境目がないと分かっていても、一度「境目」という言葉を置かないと伝わらない。これが、言葉にできないものを言葉にする難しさそのものだと話しました。
自覚が持つ2つの意味
しながわは、自覚という概念には2つの意味があると整理します。1つは、純粋経験からさらに哲学を発展させるための言葉です。
純粋経験からもっと哲学を発展させていくために、自覚を置かないと説明できない。言葉にできないものを反省して言葉にする。
もう1つは、「真の自己とは何か」という問いへの答えでもある点です。純粋経験、統一的あるもの、根源的な統一者と掘り進めた先に、自分が自分を意識する作用の連続こそが真の自己だ、という気づきがありました。
純粋経験
没頭し主客が分かれていない状態を、真の自己とみなす
統一的あるもの
純粋経験の奥にある根源的な統一者に至る
自覚
自己が自己を見続ける作用の連続こそが真の自己だと気づく
自覚アラームに込めた「本当の自分を生きる」
ここで、冒頭の自覚アラームの話に戻ります。しながわは、時間を無駄にしないようにしたい、子どもに優しくしたい、といった「こう生きたい」という思いを普段から持っています。
しかし本を読んだり日常に没頭したりすると、それを忘れて自己中心的になってしまう。そこで1日に何回か、自覚アラームで自分を思い出すのだといいます。
一生懸命本読んでたりすると、それを忘れちゃうんですよね。そのために一日何回かは自覚っていうことで、自己が自己を見てくださいと。
ただし、これは単なる客観視ではありません。しながわはこの点にこだわります。
自覚という概念について、西田はドイツ観念論のフィヒテからヒントを得たと言われています。
フィヒテには「自己意識」という言葉がありますが、西田はあえて「自覚」という言葉を選びました。しながわは、そこに込められた思いをこう読み取ります。
客観視ではなく、本当の自分を生きるための「自覚」。だからこそ西田は、少しエモい響きを持つこの言葉を選んだと考えられます。
自覚の奥にある「絶対自由意志」
最後に、しながわは自覚を極限まで突き詰めるとどうなるかを話します。ここで登場するのが「絶対自由意志」という言葉です。
統一的あるもの、根源的統一力、絶対自由意志は、大きく違うものではないとしながわは言います。ただ「力」なのか「意志」なのかで、感覚は変わってきます。
力であれば、それに従って生きる感覚に近くなります。一方で意志となると、自然や大地が自分に「こうせよ」と促すような感覚に近づきます。
タッシーは、これをスターウォーズのフォースになぞらえます。導かれた自分の意志で、使命ややりたいことを自覚する、というイメージです。
ルークスカイウォーカーがフォースの力に導かれて、自分の使命、やるべきこと、やりたいことを自覚したみたいな。
2人は、スターウォーズやジブリ作品にも、自然や万物が根本ではつながっているという世界観が通じていると語り合います。しながわは、日本人の場合はそこに自然や山、森、大地のエネルギーという感覚が加わる点が、中国の道教との違いかもしれないと補足しました。
こうして「真の自己とは何か」という問いは、純粋経験から統一的あるもの、自覚、絶対自由意志へと深まってきました。自覚は、純粋経験という西田哲学の始まりと、絶対矛盾的自己同一という晩年の思想の、ちょうど間に位置します。
直観と反省の間にもあるし、西田哲学の始まりと終わりの間にもあるの、この自覚。
まとめ
この回は、西田幾多郎が『善の研究』後の躍進期に打ち出した「自覚」という概念を軸に進みました。自覚は直観と反省の間に立ち、自己が自己を見続ける作用の連続として、真の自己をとらえ直す鍵になっています。
- 自覚とは「自己が自己を見る」こと。純粋経験と反省の間に立つ概念として西田が置いた
- 見るものが見られるものになる連続そのものが真の自己だと西田は考えた
- 西田はベルクソンに傾倒し、カント学派の批判を冷静に受け止めて自覚という概念に昇華した
- 自覚には、哲学を発展させる言葉としての意味と、真の自己への答えとしての意味の2つがある
- 自覚を極限まで突き詰めると絶対自由意志に至り、これは晩年の絶対矛盾的自己同一へつながっていく




