なぜ音楽を聴くだけで「警備」されなきゃいけないのか
番組冒頭では、郷ひろみと樹木希林が歌った「林檎殺人事件」の話で盛り上がります。古川さんはこの曲をDJでたまにかけると話し、昔の歌謡曲のぶっ飛んだ歌詞を面白がります。
話題は前回に続いて、りんご音楽祭の運営スタイルへ。数千人が集まるフェスなのに警備員を置かない、という運営について古川さんが語っていきます。
古川さんの出発点は、自身のDJやクラブ運営の経験です。ロック系のライブハウスやフェスの最前列とは違い、クラブのフロアには警備員がいないという事実を挙げます。
なんで音楽聴いてるだけで警備される必要があることが起きるの?
起きないのが普通っていうか、起きないのが日常であって。警備が必要なぐらいのことが起きてるの、ちょっとおかしい状況じゃないですか。
つまり、警備が必要な状況そのものがすでに異常だ、という見方です。百瀬さんが「本当は警備員をなくしてやりたいと思ってる主催者は多いのでは」と問いかけると、古川さんは、警備員なしで人が死んだら揉めるという現実的なリスク、つまり「保険」の側面もあると答えます。
悪は作られる——「性善説」で18年やってきた理由
古川さんの運営の根底にあるのが、一貫した「性善説」です。警備をするということは、警備される側に「お前は問題を起こすからな」というメッセージを発していることになる、と指摘します。
俺ね、ずっと性善説なんですよ。性悪説って、ないところに悪を生むと思ってて。
古川さんは、悪も善も他人によって作られるものだと考えています。例として、銭湯でそちらの筋の人に普通に接すれば普通に会話できるが、怖がって嫌な対応をすると相手も途端にそういう人になる、という場面を挙げます。
悪だと思った瞬間にその人が悪になるし、いい人だって思ってたらいい人だと思うんですよ。
だからこそ、平和に保つためには「みんな素晴らしい最高の人たちだよね」という表現をしていれば、ほぼ悪いことは起きないという理論です。古川さんはこの性善説で18年やってきて、意外とできていると振り返ります。
一方で、悪扱いされることが人を悪に変える、とも古川さんは言います。フェスで警備員に睨まれたり、自分ではない隣の人のせいでつまみ出されたりすると、「そんなに悪扱いされるなら悪になってやろう」という気持ちが生まれるのだ、と。
悪扱いされたら悪の行動で、その損しないっていうか。それを掘り起こすっつうのってめちゃめちゃ世界平和にマイナスじゃんみたいなのはすごい思うんですよね。
軽犯罪は許す、でも「音を止める」のは重罪
藤原さんが、DJブースに上がってきてしまう客への対処もあるあるなのか、と尋ねます。警備員ならつまみ出す場面ですが、古川さんの線引きは違います。
例えばそれで音止めたとか、危害を与えたとか、飲み物を機材にかけちゃったとかはもう重罪ですよ。その瞬間に重罪。
古川さんは、警備員という存在自体が「あなたたち全員軽犯罪予備軍です」という表現になっていると考えます。だからこそ、悪気なく起きる軽犯罪は許し、重犯罪にさえならなければ一般的な対処で済ませる、という姿勢です。
ただし、100回に1回ほど起きる重犯罪、たとえばステージ上のアーティストを刺すような事件のたびに警備は厳しくなる、とも古川さんは認識しています。しかし、その特例を前提にすると、そもそも人前で表現すること自体が成り立たなくなる、と考えます。
ここから話は、人前に立つことのリスクへと深まります。古川さんにとって、マイクを通して大声で自分の主張を言うこと自体が、全員をドン引きさせるかもしれない極めてリスキーな行為です。だからこそ尊いのだ、と。
人前で自分の言いたいことをマイク通して大声で言うって超リスキーだと思うんですよ。だって全員ドン引かせるリスクあるじゃないですか。
古川さんは自身をDJという裏方に位置づけつつ、スポットライトを浴びて人より高いところで主張するアーティストに最大のリスペクトがある、と語ります。そして、そのリスクは警備員では防げないものも多い、と締めくくります。
文化と経済は反比例する——コロナ禍で突きつけられたジレンマ
北爪さんが「音楽と商業とイベントをどういう立ち位置で考えているのか」と問うと、古川さんは明確な答えを返します。文化的な活動と経済的な活動は反比例する、というものです。
文化的になればなるほど儲かんないし、ビジネス的になればなるほど文化的じゃなくなるなってのはすごい感じてて。
表現がピュアになるほど経済的に成り立たなくなる。子供に無償で提供すればするほど儲からない
利益を出すには国のフォーマットに収める必要があり、表現としてのピュアさが失われる
りんご音楽祭は、そもそもビジネス的に成り立たせることを前提に始まっていない、と古川さんは言います。しかしコロナ以降、続けるためにはビジネスとして成り立たせなければならない現実を痛感したと語ります。
コロナ禍では、音楽業界がコロナを蔓延させているかのような空気があり、差別されたと古川さんは振り返ります。公衆衛生を学んだ結果、菌が横行する公衆トイレを閉めない状況で音楽業界だけを責めるのはおかしい、という考えに至ったといいます。
一番蔓延させてるのは駅だよ。どう考えても。駅のトイレをみんなで使った段階で一番それが危ないだろ。
余裕がなくなると「一番大事なもの」だけが残る
古川さんが指摘するのは、みんなが余裕を失うと、一番大事なものだけを優先して他を置き去りにする現象です。100人で運営するなら、経済が最重要か文化が最重要か、スタッフの中できっぱり分かれてしまいます。
古川さん自身は、この局面で「文化」を取りました。その結果、経済を最優先するスタッフから総スカンを食らい、大炎上もしたと明かします。
文化をないがしろにすんだったら一緒にできねえよ。逆もしかり。経済ないがしろにするんだったら一緒に仕事できないよ。
それでも古川さんは、その年に少数の心を救った文化的な意義は確かにあった、と静かに語ります。両方を取るのは豊かで贅沢なことだが、苦しい時はどちらかしか取れない、というのがこの話の核心です。
娯楽はなくても生きていける国・日本
北爪さんが「文化が負けてしまう危うさ」を口にすると、古川さんは、文化は理論上なくても生きていける、と応じます。その実感の原点にあるのが、東日本大震災の時の経験です。
古川さんによれば、震災の避難所で、民間が運営する場所にはエンターテインメントや娯楽の部門があったのに対し、国が用意する場所には娯楽が重要な部門として存在しなかった、といいます。
日本の考え方っていうのは、娯楽がなくても生きていけるっていう考え方なんですよね。
ご飯や寝る場所、医療、建築などは、放っておいても最終的に国がやってくれる。だからこそ、国が公共的に必要としていない文化は、民間でやらないとなくなってしまう、と古川さんは考えます。
北爪さんが「なぜそこまで文化にこだわるのか」と尋ねると、古川さんの答えはシンプルでした。自分自身が音楽や文化、表現活動に救われてきたから、というものです。
さらに古川さんは、表現とは「やりたくない」というノーも含むものであり、それが許容されるのは文化レベルが高い証だ、と語ります。北爪さんは、経済とは自分の主張から最も遠ざかる行為だと応じ、二人の見方が重なります。
資本主義に全ベットしない松本という街
古川さんは、経済的に楽なのは人の意見が一致することだと指摘します。チェーン店が仕入れ先を一本化して大量発注で値引きを引き出すように、経済は数が揃わないと成り立ちません。
一方、表現や文化は一人ひとりがマイノリティであることが本質だと古川さんは考えます。だからこそ、経済のことを全然考えていないように見える松本という街が、古川さんは大好きだと語ります。
資本主義の国の中で資本主義に全ベットしてないからめちゃめちゃいいとこ取りだなと思ってるんですよ。
資本主義のいいところは、貧しい人にも高水準の公共サービスが届くことだ、と古川さんは自身の貧乏経験を交えて語ります。市役所に助けを求めれば守ってくれる。その仕組みに全ベットせず、いいとこ取りできる松本は、生きやすい街だといいます。
目指すのは「街の花火大会」——中学生のデートの口実に
北爪さんは、りんご音楽祭が、発展していない頃の村や街のお祭りのような自治のあり方に似ている、と指摘します。演者も裏方も客もフラットに近く、提供する側と享受する側に分けない、コモンセンスでのやりくりです。
古川さんが目指すのは「町の花火大会」のような存在です。15歳以下と65歳以上を無料にしているのも、特に中学生のデートの口実に使われてほしいから、といいます。
子供、特に中学生のデートの口実とかに使われて欲しくて。実際そう使われてるらしくて。
18年やってきた中で、かつて中高生としてフェスに来た子が、今ではスタッフや出演者になっているそうです。もし警備員だらけで持ち物チェックが厳しければ、中学生だけで来る色っぽい雰囲気にはならない、と古川さんは考えます。
「民度が高い」のではなく、こちらが武装しないから
藤原さんが「りんご音楽祭は民度が高い」と評すると、古川さんは「それは逆だ」と切り返します。大きな興行こそ、客の民度を下げすぎているのではないか、という視点です。
普段そんなお前嫌なやつじゃないじゃんってさ。なんでそういう時だけそういうのOKみたいな空気出てるの?って。
北爪さんは、これは民度ではなく相対性の問題だと整理します。提供する側が鎧を構えるほど、相手も剣を持ってしまう。鏡のような関係だ、というわけです。
うちは武装しないからあっちも武装しないで来てようなっていう空気を出してるし、武装してきたらお前ダサいなみたいな。
古川さんは、20年以上続けるクラブでの経験も語ります。モラハラおっさんに対しては、女の子のスタッフに声をかけさせるのではなく、みんなで「うわダッサ」という顔をするだけで居心地悪くさせて帰らせる、という方法です。
空気で解決しないと揉めるんすよ。だからリンゴ音楽祭は極力空気で。
だからこそ古川さんは「禁止」という言葉を極力書きたくない、と話します。火気使用禁止の「禁止」を書くこと自体が苦渋の決断だといいます。禁止するということは、やる前提になってしまうからです。
ヒッピーとギャルが真横で同じ顔をしていた
北爪さんが「これはめっちゃいいな、と思ったワンシーン」を尋ねると、古川さんはある場面を挙げます。ナボアというピースな雰囲気のゲストバンドを見ていた時のことです。
ヒッピーとギャルが真横でどっちも同じぐらいいい顔して見てたんですよ。それは最高だなと。
古川さんによれば、ギャルは資本主義を全力で楽しむ存在であり、ヒッピーは資本主義から脱落した、あるいは資本主義を苦しく感じる生き方をする存在です。本来相容れない二人が、同じ音楽を真横で楽しんでいたことが最高だった、と語ります。
北爪さんが「垣根を取っ払ったのか」と問うと、古川さんは「そもそも垣根などない」と返します。生き方が違っても、住む場所が近ければ同じコンビニを使う。その程度でいいのだ、という考えです。
政治と野球の話はしない——具現化しない主張のかたち
話は「政治と野球の話はするな」という格言へ。古川さんは、これに一定の共感を示します。政治や野球のような深いこだわりの話をすると、相手と一緒にいられるかどうかがわかってしまうからです。
古川さんの理論では、全員が違う以上、深いところまで話して完璧にフィッティングする相手は1パーセントほどしかいません。しかし1パーセントの人とだけでは暮らせない以上、わざわざその話をしない方がみんなと楽しめる、と考えます。
この実感を強めたのがコロナ禍でした。コロナへの見解でみんなが自分の意見を言い、ぶつかり合った。古川さん自身も相当ぶつかったといいます。
多くの人の前で、人の根幹とかこだわってる部分を話すっていうのはなかなかリスキーだなと。
北爪さんは、野球なら阪神ファンと巨人ファンが「よし、ライバルだな、一緒に楽しもうぜ」と認め合える文脈がある、と応じます。政治もいつかそうなれるのか、それともコロナのような生存に関わる局面では真ん中に壁ができてしまうのか、と問いを深めます。
古川さんの答えは、主張はあっても具現化しない、というものです。警備員を置かず見えなくするように、音楽は主張があってもバレずに表現できる。1パーセントの人に深く刺されば十分で、あとの人は「今年もいい感じだったね」でいい、というスタンスです。
その生活の延長上にある祭りでいたいなってのはすごく思うんですよ。
協賛金0円のリアル——街は潤うのに数字が取れない
北爪さんは、花火大会が企業の協賛で成り立っている点を挙げ、りんご音楽祭のスポンサー事情へと話を向けます。古川さんは、明確なメリットを求められる協賛はバランスが取りにくい、と答えます。
りんご音楽祭の空間、全部俺が一番把握してるんですよ。俺の意見の方があなたの意見よりりんご音楽祭にハメんなら、それは結果出ると思ってくれないと一緒にやれないですよ。
代理店が持ってくる高額の協賛は、あちらが内容を決めてくるためハマらないことが多い、と古川さんは言います。その一方で、こうしてラジオで語るような自分のスタイルを認めてくれる協賛者を増やす努力をしており、今年は過去一番協賛が集まったそうです。
背景には、深刻なコスト増があります。コロナ前の2019年まで8000万円ほどで開催できていたのが、今は縮小し経費を切り詰めても1億円かかる、と古川さんは明かします。
さらに根深い問題として、りんご音楽祭は「うちにお金が残らない仕組み」がいくつもある、と古川さんは説明します。その象徴が、街中で開催する「夜の部」です。
松本は昼の街・山の街で、夜の飲食店は苦しいと古川さんは言います。だからこそ、県外から来た客に松本の夜の飲食店を潤してほしいという思いで夜の部をやっており、りんご音楽祭の土曜日はこの10年ほど、年間で飲食の売上が一番いい日になっています。
これ経済効果で言えば何千万払ってもできないことなんですよ。でも俺はそれを自分の思想でやっちゃってるんで、円なんです。
つまり、街に莫大な経済効果を生んでいるのに、りんご音楽祭が受け取るバックは0円、というのが現状です。この構造がある以上、どこか1社だけが多く協賛してもバランスが取れない、と古川さんは考えます。
クラファンに現れた「届いている」証拠と、行政の壁
古川さんが行政に「うん千万を出して継続した方が街にとって得だ」と相談し続けても、成り立ってしまっている18年目のイベントに今から予算を出す仕組みが行政にはない、といいます。立ち上げから一緒でないと難しいのだそうです。
そうした中で今年実施したのがクラウドファンディングでした。りんご音楽祭の客のうち松本の人は約10パーセントですが、クラファンの支援者は約30パーセントが松本の人だったといいます。
なんならお店が忙しすぎて遊び行けないけど、りんご音楽祭で潤ってるから感謝してるよって思ってくれる人とか。
遊びには行けないが応援してくれる人、店が忙しくて行けないがりんご音楽祭で潤っているから感謝しているという人。そういう人たちが支援してくれたことで、思いはちゃんと届いていると古川さんは実感します。
一方で、公的に広く思想でやりすぎた結果、肝心の「数字」が取れていないのが行政を説得できない理由だ、と古川さんは語ります。りんご音楽祭の土曜日が飲食・交通・ホテルの売上で年間一位なのはみんな知っているのに、証拠がないのです。
もう結果が証明してるし、歴史がもう証明してるからそろそろ認めてほしいんですけど。
レッドブルはなぜ「シャトルバスの列」でだけ配ったのか
企業スポンサーの話題では、古川さんはイベント特有の「会場で全部サンプリングしてくれ」といった要望も、思想と違うわけではないと語ります。重要なのは配り方だ、というのです。
レッドブルは長年スポンサードしてくれていますが、古川さんは、必要でない時にもらうと価値が下がると考えました。そこで話し合い、帰りのシャトルバスに並ぶ人だけにサンプリングする方法を採ったといいます。
待ってて疲れた時にもらうと本当にありがたがられるんですよね。
この方法は、対象が一箇所に集まっていてサンプリング効率もよく、待って疲れた客に喜ばれ、配るスタッフの稼働時間も短い。会場内でところ構わず配ってソフトドリンクの売上を奪うより、誰にとっても良いというわけです。
その結果、りんご音楽祭では一人あたりのレッドブルの消費量が非常に高いといいます。レッドブルのイメージが良く保たれているからです。しかもレッドブルは通常スポンサードをせず主催か乗っかるかだけのところ、りんご音楽祭には例外的にお金も出しているそうです。
うちの結果もちゃんと評価してくれるし、エビデンスがあるから通るんですよ、レッドブルの社内でも。
ここで浮かび上がるのが、皮肉な対比です。レッドブルに対しては消費量というエビデンスがあるから協賛が通るのに、街への効果についてはエビデンスを取る仕組みにしなかった。取らない方が結果が出ると信じていたからです。
協賛が消える理由と、りんご音楽祭にできること
古川さんは、以前ホテルから協賛をもらい、そのホテルを案内していた時期があったと明かします。しかしある時から誰も協賛に乗ってくれなくなりました。理由は、協賛しなくてもホテルが埋まるようになったからです。
もうだから経済の上で、そんななんかこう、フェアなことって不可能なんですよね。
北爪さんは、これを社員のボーナスに例えます。当たり前になると、こちらが苦しくても頑張って上げようとしていることが全く通じなくなる、という構造だといいます。
古川さんは行政の人に、公的な組織の中でも利益性を考える部署と考えない部署を分け、商工課のような部署はきちんと費用対効果を考えるべきだ、と話しているそうです。福祉はそれを考え始めると福祉でなくなるが、商工課は別だ、という主張です。
最後に古川さんは、フェスに来られなくてもできることがある、と呼びかけます。当日券を買っておく、SNSで告知する。行けなくてもチケットを誰かにあげればいい、というわけです。
マジでこうあったらいいなって思う人、行動に移さないとマジなくなりそうな時代です。
りんご音楽祭は9月26日・27日に、松本のアルプス公園で開催されます。古川さんは「来てくれるのが一番嬉しいですけど、来れない方も何かしらあったらいいなを行動に移してもらえたら」と、来年への思いを込めて締めくくりました。
まとめ
りんご音楽祭主催者・古川陽介さんの第3話は、警備員ゼロの「性善説」運営から、文化と経済のジレンマ、協賛金0円のリアルまで、フェスの哲学と現実が交差する回でした。
- 警備が必要な状況自体が異常であり、悪扱いが人を悪にするという「性善説」で18年運営してきた
- 文化と経済は反比例し、苦しい時はどちらかしか取れない。古川さんはコロナ禍で文化を取り、炎上も経験した
- 日本では娯楽がなくても生きていけると扱われるからこそ、文化は民間で守らないとなくなる
- 客の「民度」は提供側の武装の仕方の鏡であり、りんご音楽祭は禁止や警備ではなく空気で解決する
- 街に莫大な経済効果を生むのに受け取るバックは0円。数字を取る仕組みにしなかったため行政を説得できずにいる







