「こうあるべき」が嫌いな人へ、真逆を説く哲学
相談の入り口は、ファミ子さんの「ラベルを貼ったような『こうあるべき』が苦手」という感覚でした。
たつろーはまず自分の立場を明かします。べき論は自分も嫌いだけれど、べき論で生きる人がいてもいい、という「どっちでもいい派」です。
自分が嫌いなだけ。俺らみたいに「それ嫌い」っていう人がいてもいいと思う。
そのうえで、この3人の感覚とは真逆を説く哲学として、コミュニタリアニズムが紹介されます。
コミュニタリアニズムから見ると、べき論を嫌う3人はむしろ「傲慢」だといいます。人間を独立した一人として前提に置いているからだ、という指摘です。
大事なのは、自分がべき論を嫌かどうかではなく、所属するコミュニティ全員にとって良いことをすること。会社にとって大事なべき論なら、それを全うするべきだ、という考え方です。
この説明に、ファミ子さんは素直に共感を示します。
そのコミュニティの最適解がこうで、だからこう行動すべきみたいなのは絶対あるよね。その通りですよ。
道徳と倫理を分ける哲学者と、「恥」という物差し
続いてたつろーは、コミュニタリアニズムに反対する哲学者としてバーナード・ウィリアムズを挙げます。
ウィリアムズの面白さは、「道徳」と「倫理」をはっきり区別した点にあります。
社会一般で正しいとされること。いわば「こうするべき」という外からの規範。
個人が「これがいい」と思う、自分自身のルール。
そしてウィリアムズは、社会一般の「こうするべき」に従って生きる道徳を「クソだ」と切り捨てたといいます。
では、自分のルールである倫理は、何を頼りに決めればいいのか。ウィリアムズが挙げたのは、意外にも「恥ずかしい」という感情でした。
人が恥ずかしいと感じるのは、自分が尊敬する人に今の行動を見られたら「よくないな」と思われそうだ、と無意識に感じるときだといいます。
つまり、自分がリスペクトする他者の目を意識することが、自分軸で生きる手がかりになる。自分軸で生きるために、あえて他人軸を持つという逆説的な考え方です。
自分がリスペクトする他者が今の生き方を見た時にどう思うか。それを意識して生きると、倫理的、つまり自分軸に沿って生きれます。
相談者が言葉にした「摩擦」の正体
2つの思想を聞いたファミ子さんは、これは人のタイプによって分かれる話だと受け止めます。
会社でも、自分でいちいち判断したい人もいれば、細かいルールがあった方が安心という人もいる。ファミ子さん自身は前者だと自己分析します。
だとすると、自分はウィリアムズ寄りの自分軸で生きているのだろう、と気づきます。そのうえで出てきた言葉が「摩擦」でした。
そこで何か摩擦が起きるんでしょうね。
たつろーが摩擦の意味を掘り下げると、それは誰かとの対立ではなく、会社がやろうとすることと、自分が「そうじゃないんじゃないの」と思うことのズレだと明らかになります。
くぼちゃんは、今はそのズレを「まあいっか」と飲み込んでしまっている状態ではないか、と言葉を添えました。
「ふみこさんが役員になった」という視点の転換
ここでくぼちゃんが、相談を聞きながら感じていたことを率直に話し始めます。
くぼちゃんが着目したのは、主語の置き方でした。
「役員にふみこさんがなった」のではなくて、「ふみこさんが役員になった」っていう感じことにすごく意味があると思っていて。
会社のために求められることを考えられるのは、ファミ子さんの誠実さの高さゆえ。だが、ファミ子さんを選んだということは、ファミ子さんの殻を出すことこそ会社のためなのではないかという見立てです。
さらにくぼちゃんは、「正解があって、そこに向かわなければ」という感覚があるのでは、と指摘します。
たとえゴールが外から決められたものでも、そこへ至る道の選び方や冒険は、ファミ子さんが自由に取れるのかもしれない、と話しました。
この言葉に、ファミ子さんは「すーんって言葉が降りてってます」と反応します。
今すーんって言葉が降りてってます。確かに。みたいな。そうか。
決断のステレオタイプを疑う哲学者フィンガレット
たつろーは、ファミ子さんが「答えを出さなければ」「決断しなければ」と感じているのではないか、と切り出します。
そのうえで示したのが、哲学者フィンガレットの考え方でした。
フィンガレットは、多くの人が決断というものを勘違いしている、と言います。
私たちが思い描く決断とは、AかBかの岐路に立ち、肩をいからせて「よし、やるぞ」と断固たる決心をすること。しかしフィンガレットは、これこそが陥りがちな罠だと指摘します。
なぜなら、世界は偶然性に支配されているからです。「よし、これをやる」と決心してその通りに進める、という前提そのものが成り立たない、という考え方です。
では本当の決断とは何か。フィンガレットの答えは、能動ではなく受動でした。
決断っていうのは、「こうしよう」ではなく、「ああ、こうなってしまった」というすごい受動的なものなんだ。
岐路に立ち、断固たる決心で「よし、やるぞ」と能動的に選ぶこと。
さんざん悩んだ末に「もうこうするしかない」と受動的にたどり着く道。
いろいろ考え、苦しみ、やり尽くした結果、「もうこれしかない、しょうがない」となって取る道こそが、フィンガレットの言う決断だといいます。
モヤモヤは「待つ」でいい、という結論
この考えを踏まえて、たつろーはファミ子さんの今の状態を、「これしかない」となる前の段階だと見ます。
だからこそ、モヤモヤはモヤモヤのまま味わい尽くせばいい、という結論にたどり着きます。
たつろーが例に挙げたのは、格闘ゲームのプロゲーマー梅原大吾さんです。
高校卒業後、10年以上フリーターを続けた梅原さんは、10年ぶりに格闘ゲームをやったとき「やっぱり俺にはこれしかない」と諦めたといいます。その諦めのタイミングでプロの話がかかった、という経緯でした。
たつろーは、悩み抜いた末に「もうこうするしかない」となる、この流れこそフィンガレットの決断だと重ねます。
そのうえで、「絶対に解消しなきゃ」と思わないでほしいと念を押します。それ自体が「こうしなければならない」という発想の延長でしかないからです。
いずれ来ます。いずれ「ああ、こうするしかないな」。
この言葉を、ファミ子さんは衝撃をもって受け止めます。これまで相談すると「こうしたら」という行動の助言ばかりだったからです。
「よかったんだ」みたいな。この状態をどうにかしなきゃっていうか、確かに、「なんかこの状態ってあんまり健全じゃないかも」って思って話したりしてたけど。味わうということですね。
「詰まったフィルター」と、生きている実感
最後にくぼちゃんは、ファミ子さんが思っている以上に「フィルターが詰まっている」のではないか、と付け加えます。
これまで一緒にやってきた人たちと立場が変わったことによる孤独感は、想像以上のものがあるはずだ、という見立てです。
これまで一緒にやってた人たちがもうなんか違う立場になっちゃって、この孤独感って結構想像以上のものがあると思うんですよ。
だからこそ、どこでもいいから自分を解放し、好きなことをする時間を増やしてもいいのではないか、と提案しました。
ファミ子さんも「めっちゃフィルターバシバシにしてる気がする」と共感します。ただし2人は、フィルターがあること自体は悪いことではない、とも添えました。
相談を終えたファミ子さんは、当初はエネルギーが低下していくイメージだったと振り返ります。
しかし、モヤモヤすら味わおうと思えたとき、逆に「めっちゃ生きている」というプラスのエネルギーを感じられた、と語りました。
そのモヤモヤを味わおうと思った時に、すごい自分ってめっちゃ生きてるっていうプラスのエネルギーを感じれて。普通に頑張って生きてたっていう気持ちになりました。
たつろーは、本当に限界のときは目の前の現実を見ることすらできない、と語ります。
自分の状況を細かく話せたこと自体が、それを見つめる体力と知力がある証拠だ、と締めくくりました。
まとめ
昇進後のモヤモヤに「決断しなきゃ」と焦っていた相談者に、番組が示したのは「待っていい」という答えでした。哲学を物差しにしながら、無理に動くのではなく今の状態を味わう、という視点が共有された回です。
- コミュニタリアニズムは、べき論を共同体の善として全うすることを重んじる立場
- ウィリアムズは道徳と倫理を分け、「恥」を手がかりに自分軸で生きることを説いた
- フィンガレットによれば、決断は能動ではなく「こうなってしまった」という受動的なもの
- モヤモヤは無理に解消せず、「もうこれしかない」となるまで味わって待てばいい
- 自分の状況を細かく言葉にできること自体が、それを見つめる体力と知力がある証拠






