「何を?と聞けたら他動詞」は間違った教え方か?
水野さんのXのタイムラインに、ある予備校講師の英語の教え方を批判する投稿が流れてきました。その講師は「他動詞は意味を聞いたら『何を?』と聞ける動詞、自動詞は『あっそう』となる動詞」と教えていたそうです。
批判の中身は、例外があるというものでした。resembleは「〜に似ている」という意味なので「何を?」とは聞けませんが、実際には「resemble 人」の形をとる他動詞です。この教え方ではresembleに当てはまらないから問題だ、という主張でした。
私はですね、立場をはっきりさせますけれども、その教え方に問題はないと思います。
ラジオ的な見やすさで言うと、これ俺は「いや問題がある」って言った方がいいんですけど、俺も問題ないと思います。
二人とも同じ意見で、堀元さんは「いつも思ってることだから、今日言いたい」と前のめりです。そこで今回のテーマは、教えるときにどの程度正確な知識を教えるべきか、に決まります。
水野さんがモデルケースに挙げるのは、前回扱ったThere構文です。学校では、There構文の意味上の主語にはtheの付いた名詞が来ないと教わります。しかし実際にはThere's theという文はいくらでも見つかり、両者の関係は完全な一致ではなく強い相関にすぎない、というのが前回の論旨でした。
この事実をもって「学校の英文法は間違っている」と言う論に、水野さんは反対します。理由は、「〇〇という傾向がある」と覚えるのは面倒だからです。「theは来ない」と教えたほうがほとんどのケースで合っており、正しく教えたところで得がそれほど大きくないとも指摘します。
そう、これマジでそうだよな。正しい説明されたら、「え、結局何?」ってなって何にもわかんなくなるっていうね。
堀元さんは喫煙のたとえを出します。喫煙者が必ず不健康とは限りませんが、傾向はあるので「喫煙は不健康」と言ってしまってよい。「うちのおじいちゃんは喫煙してたけど長生きした」という例外を持ち出さないでほしい、という話です。
勉強したての人って最初そっから徐々に精緻化していくんじゃないって僕は思うんですよ。
学びはステップで進む。正しさの「同心円」とは
堀元さんは、人間の理解は素朴な理解から始まると考えています。なんとなくわかったつもりになってから「でもそうとは限らないんだ」と誤解を正していく形でなければ、理解は進まないのではないか、という見立てです。
水野さんも、AならばB、BならばCと一歩ずつ正確に積み上げたい人は、ものすごく頭がよく認知的な負荷に耐えられる例外だと話します。
水野さんはこの構図を、かねて嫌っている「ビジネス書を読む人を馬鹿にする風潮」と重ねます。ビジネス書は読みやすく、そこから文芸や学術書に進む人もいるはずです。その手前にいる人を「お前は読書家じゃない」と言うのは、自分にもその時期があったのに同じことをしている、という指摘です。
中学校の教科書とかまさにそうだよね。方便として分かりやすいことを教えてるのに、「はいはい、正しくないです」って、自分より手前の段階にいる人をあざ笑ってる構造ですもんね。
ここで水野さんは、教える内容の最適性が同心円状のレイヤーになっていると整理します。There構文を例にすると、次のような3つの層があります。
水野さんによれば、外側の学術のレイヤーは安全バッファが大きい場所です。そこから内側のレイヤーを「間違っている」と言うのは簡単で安直ですが、そのレイヤーで教えている人の状況を踏まえて批判できる人はそう多くない、と話します。
英語嫌いの中学生も教室にはいるんですよ。その中で一生懸命教えられる範囲を教えようと思ったら、どうしても複雑なものを単純化して話すことになりますよ。
さらに、学校で間違ったことを教えていると聞いた中高生は、先生の授業を馬鹿にして揚げ足を取るようになるかもしれません。水野さんは、批判する人が知りたいことの最適性と、クラス全体に教えることの最適性がずれていて、そのずれを意識していないのが問題だと語ります。
ソ連崩壊の「乱暴な説明」が大人の学びを助けた
ターンを渡された堀元さんは、小学校の授業は今考えるとかなり間違っていた、と切り出します。道徳の「みんなと仲良くしましょう」に脱線しかけたあと、本題として社会の授業の例を挙げます。
堀元さんが習ったのは、ソビエト連邦が崩壊したのは、社会主義国では頑張っても頑張らなくても同じ給料なのでやる気が出ず、みんなが頑張らなくなったからだ、という説明でした。
ただ、落ち着いて考えると、その説明ではソ連を作った人たちが愚かすぎることになります。堀元さんは、当時は資本主義が暴走して1日18時間労働のような非人間的な環境があり、そうではないものを目指したのが社会主義だったこと、ソ連もインセンティブの仕組みを多分頑張って作っていたことを挙げ、学校の説明は乱暴だったと話します。
僕は元の説明があったから、大人になってからいろいろ調べた時にピンと来やすくて。最初にこの説明なかったら何にも始まってないんですよ、学びが。
堀元さんはこれを絵のラフスケッチにたとえます。最初は大雑把に形を取るだけでよく、構図を決めてから微修正すればいい。それなのに「正しく形が取れていない」と言われたら「うるせえよ、後でやんだよ」となる、という感覚です。
一方で水野さんは、人の命や差別に関わる問題は別だと補足します。雑に誤解させると問題になるものがあることは承知したうえで、他動詞と自動詞を間違えても人は死なない、という線引きです。
堀元さんが「強盗が銀行員に他動詞と自動詞の違いを説明させて、間違えたら撃つ可能性もある」と茶化すと、水野さんは「ないよ」と即答します。医療のような分野では傾向と断定を分けるべきでも、社会や英文法ならそうしたリスクはない、というのが水野さんの考えです。
間違いを見つけて「見下す喜び」は学びになる?
堀元さんはさらに、最初から正しい説明をしろと言う人は、学ぶ側から喜びを奪っていると主張します。人の間違いを見つけるのは楽しく、本の誤字を見つけたときに少し嬉しくなるのと同じだ、という話です。
出版社で働く水野さんは、誤字を見つけると作り手に同情し、重版で直ることを願うと返します。辞書の誤字をSNSに上げられると辞書の人たちは本当に傷つく、という訴えに、堀元さんが謝る一幕もありました。
堀元さんが例に挙げるのは、二人が好きな飲茶 ── 『史上最強の哲学入門』などで知られる著述家。難解な哲学や科学を、たとえ話やマンガ的な語り口で平易に解説する一般書を多く書いていますさんの本です。大筋は合っていても、99パーセント言い過ぎている、と堀元さんは笑います。
たとえば最初の哲学者タレス ── 古代ギリシャの哲学者。「万物の根源は水である」と唱えたとされ、神話に頼らず自然を説明しようとした最初の哲学者と位置づけられることが多い人物ですは、神話ですべてを説明していた時代に、初めて自分で観察して「万物は水からできているのでは」と考えた、と説明されます。堀元さんは、当時の人が全員神話で片付けていたのか、観察した人は他にもいたのではないか、とツッコミを入れます。
水野さんも、タレスは港の近くに住み、水をよく見て、違う神話を持つ他地域の人と出会ったから気づけた、という説明を思い出します。それだけが原因ではないはずですが、わかりやすくて面白いのも確かです。
その後にもうちょいちゃんとした哲学書とかを読んでると、「なんか言い過ぎてるな完全に」って思うんだけど、その第一歩がなかったら俺その本(哲学書)手に取ってないから。
堀元さんは、かつて通ってきた入門書を、あとから意地悪な視点で見る楽しさがあると語ります。最初のきっかけをくれた間違った説明には感謝していて、そのうえで「感謝しながらバカにしている」のだそうです。
堀元さんは、その気持ちをネットに書き込まず内心で思っているだけだと強調し、水野さんも「内心の自由」だと認めます。また、学者が正しい理解をしてほしいという願いで正確さを求めるのは全く問題なく、嫌なのは愉悦のためにやる人だ、と補足しています。
学校を下げてカリスマを演出するのは「親の金で奢る」のと同じ
水野さんは言葉を選ばずに、高校生に勉強を教えながら学校教育を否定するのには快感があると思う、と話します。堀元さんはそれを「見下す愉悦」だと応じます。
水野さんが塾や予備校でその手法をとる先生を好まない理由は、自分のカタルシスを、学校教育という公的な場所からソースとして持ってきていて不平等だからだそうです。堀元さんはこれを「蜜だけ吸ってる状態」と表現します。
言いたいことを一度忘れてしまった水野さんは、少しして思い出し、次のたとえを出します。
学校教育を否定する形でカリスマ性を演出する予備校の先生は、僕の感覚だと実家太いからって理由で友達に飯おごってるやつみたいな感じ。
仮に親の金で友達におごるんだったら、「うちの親いいやつなんだよね」って言ってほしい。せめて。
水野さんは、そうした先生がカリスマの根源を誤認させていると指摘します。堀元さんも同意し、学校の先生は頑張っていて素晴らしい仕事をしている、と言っていこうと呼びかけます。
その直後、堀元さんは中学時代に嫌いだった先生の話を始めます。地域で一番の公立進学校を受けると伝えたら、「私立に行く準備は万端なんだね」と嫌味を言われ、いまだに許していないそうです。物騒な言い回しを慌てて訂正する流れで、話は乳首とBANをめぐる脱線へと転がっていきました。
方便一辺倒の危うさ。2種類の「わかりやすい説明」
ここまで二人は、学校や予備校の教え方が不正確だと批判する人は野暮だ、と話してきました。ただし水野さんは、切り分けて考えるべき問題がもう1つあると続けます。
先生側は方便であることはせめて理解しなきゃいけないんじゃないかって批判はあり得ると思う。
There構文で言えば、先生が本当に「Thereの後にtheは絶対に来ない」と思い込んでいるなら、それは批判されうるということです。水野さんは、わかりやすい説明には内部構造がまったく違う2種類があると考えています。
気になる箇所が多く、単純化に大きな認知的負荷がかかる。価値が高いのに評価されにくい
それがすべてだと思っているので流暢で歯切れがよく、人を引きつけやすい
水野さんは、自身がしている言語学の説明は後者だと言います。だからこそ台本を事前に監修者に見てもらい、複雑なまま理解している研究者のチェックを受けているそうです。
そう、歯切れがいいんです。だから皆さんこっち(単純な理解の説明)に引きつけられるんです。そうです。ゆる言語学ラジオが人気になった理由です。
人が流暢で断言する話を好むのは仕方ないとしても、研究者が複雑な理解をシンプルにしてくれる説明には価値があると言っていかなければまずい、と水野さんは話します。その難しさの割に、現代ではあまり評価されていないという感覚もあるそうです。
堀元さんが挙げるのは、アインシュタイン ── 20世紀を代表する物理学者。特殊相対性理論・一般相対性理論を提唱し、時間や空間が観測者の運動によって変わりうることを示しましたのエピソードです。相対性理論を説明してほしいと言われ、「美女と話す時間は一瞬だが、熱いストーブの上なら一瞬でも長く感じる。そういう感じで時間は伸び縮みする」と答えた、という話です。
本来、認知の話と物理の話はまったく別で、光速に近い移動も出てきません。それでも提唱者自身がそこまで単純にしたことを、堀元さんは「偉い」と評価します。水野さんも、専門レベルの最適性を捨てて一般レベルまで持っていった例だと受け止めます。
水野さんの結論は、授業で「何を?」と聞けるのが他動詞と教えるのは問題ない、ただし先生は例外があることを知っておき、できる生徒が聞きに来たら答えられる状態が理想、というものでした。
堀元さんは、先生方は忙しいのでそれを求めるのは少し酷だと返します。水野さんは、番組を聴いている英語の先生も多く、「説明を丸パクリしてます」と言われることもあると明かし、参考文献を示すのは先生方にも読んでもらえたらという思いもあると話します。
「鉄球も羽も同じ速さで落ちる」と教えた先生
水野さんのバランスの取れた結論に「正しくて腹立つ」と言う堀元さんは、あえて極論を出します。単純にしか理解していない人が単純な説明をしても、最悪いいのではないか、という主張です。
きっかけは小学校の理科の思い出です。担任の先生は「重かろうが軽かろうが物は同じ速さで落ちる。鉄球でも羽でも同じだ」と伝え、実際に鉛筆と消しゴムを同時に落とさせました。当然、重い消しゴムが先に落ちると、先生は「離すタイミングがずれているだけ」と説明したそうです。
堀元さんによれば、同じ速さで落ちるのは真空下の話で、空気のある教室では羽のほうが遅く着きます。つまり先生は、中途半端にガリレオの知見を取り入れたせいで、かえって間違えた人になっていた、というのです。
| 誰の理解か | 内容 | 現実の教室との関係 |
|---|---|---|
| アリストテレス・中世の人 | 重いものほど先に落ちる | 真空でない条件ではおおむね成立する |
| ガリレオ | 空気抵抗の条件をそろえると同じ速さで落ちる | 同じ大きさで重さだけ違う鉄球で実験したとされる |
| 担任の先生 | どんな物も同じ速さで落ちる | 空気抵抗を考えず、ずれは離すタイミングのせいにする |
堀元さんはこれを「知識を入れたことで、知識皆無の人より下回る推論をした珍しい事例」と呼びます。水野さんも「プロ野球選手の球が速いのも離すタイミングのせい」と乗っかり、笑いが起きます。
それでも、その先生はとても良い先生だったといいます。堀元さんが「重いほうが早い」と反論すると、先生は否定せず「なんでだろう」と一緒に考えてくれました。堀元さんは家で親に聞き、子ども向けのガリレオの伝記を読み、空気抵抗のせいだと自力で理解したそうです。
単純な理解しかしてないやつが単純な説明するのもめっちゃ悪いとは言いたくない。理想とは言わんよ。
水野さんは、生徒の疑問を頭ごなしに否定しないところが素敵だと話します。堀元さんも、もし「うるせえ」と言われていたら嫌になっただろうと振り返ります。
原子模型の授業は科学史の追体験になっている
堀元さんは、理科の中学校教育は本当によくできていると話します。原子は、真ん中の原子核の周りを電子が回る模型で教わりますが、厳密には正しくありません。
堀元さんによれば、電子は粒子として回っているのではなく確率的に波として存在していて、正確に描くなら原子核の周りにもやっとした確率の雲の濃淡を描くことになります。これを電子雲 ── 原子の中で電子が見つかる確率の分布を、雲の濃淡のように表した考え方。量子力学では電子の位置は確率的にしか決まらないため、この描き方が用いられますと呼びます。
水野さんが「電子はどこにあるの?ヘリウムなら2個あるんでしょ?」と戸惑うと、堀元さんは「これ理解できないでしょ?」と返します。だからこそ、粒子の模型で教えることが理解の助けになっているというわけです。
ラザフォードが描いた、原子核の周りを電子が回る素朴な模型。中学で最初に習う形
科学の発展で、電子は粒子として存在するわけではないとわかり、雲のような図のほうが正確になった
堀元さんが感動したのは、教育の順番がそのまま科学の歴史になっている点です。ニュートン力学を学んだあとに相対性理論や量子力学に進むのも同じで、素朴な説明から正確な説明に進むことは、人類の科学史をなぞる授業にもなっていると話します。
これを最初からその正確な理解しろっていうのって、その、俺が歩んできた進みって人類と一緒なんだっていうカタルシスも奪うことですからね。
勢いづいた堀元さんは「最初のアリストテレスは間違いだらけだからカスだと言いたいのか、パピルスに現代の論文と同じものを書けと言うのか」とまくし立て、水野さんに「誰もそんなこと言ってないよ」と止められます。
麻雀の方便は責められないのに、英文法だけが責められるのはなぜ?
水野さんは、趣味の麻雀を例に出します。初心者には「ポンやチーはするな、ゴール直前になったらリーチをしなさい」と教え、ポンやチーは存在しないとまで言うそうです。
堀元さんによれば、ポンをするとリーチができなくなり、初心者でも簡単に上がれる方法が1つ減ってしまいます。ネット麻雀で「ポンやチーのボタンはあるので不正確ですよ」と咎める人はまずいません。
それなのに、英文法のときだけ方便がやたらと責められるのはなぜか。堀元さんの答えは、マウントになるかどうかです。
ポンとかチーを知ってるぜっていう事実って当たり前すぎてマウントにならないから。
麻雀の世界でも、他人の打牌を見て「こっちのほうが期待値がいい」と批判したい人はたくさんいます。There構文も、中学レベルの説明には文句が付かないのに、大学受験レベルになると「中学より理解している」とマウントを取れるようになる、と二人は分析します。
堀元さんは、インターネットでマウントを取るコメントを付ける人は現実の友達が減り、さらにネットでマウントを取るという負のループにはまっていると訴えます。熱が入りすぎて、水野さんに「空気吸って」となだめられる場面もありました。
複雑化しすぎたコンピュータと、歴史を抱えた言語
堀元さんは、姉妹番組のゆるコンピューター科学ラジオで台本を書くたびに苦しんでいるといいます。現代のコンピューターは複雑になりすぎて、正確に説明すると機械に詳しくない人には何もわからなくなるからです。
例に挙げたのは、水野さんにポッドキャストの仕組みを説明したときの話です。堀元さんの説明は、次のような流れでした。
RSSフィードを更新
最近の回のタイトルや音源のURLが一覧になったものを番組側が更新する
各プラットフォームが参照
SpotifyやAppleなどがRSSフィードを見て、音源のURLを取りに行く
各プラットフォームで再生
番組側はRSSフィード1つを更新するだけで、各所で聴けるようになる
水野さんが「AppleやSpotifyは音源ファイルをもらっているのではなく、URLを毎回参照しているだけなんだ」と言うと、堀元さんは「その理解でいいです」と答えました。
ただ実際には、プラットフォームが素早く配信するため手元にダウンロードし、別のURLを持っている場合もあります。端末が音声をあらかじめ保存していて、アプリがそれを再生している場合もあり、正確に話そうとすると、いらない要素が8個ぐらい出てくると堀元さんは語ります。
一番素朴なモデルを説明しようとした結果、僕がコンピューターの仕組みってこうなんですよって説明してるの、1980年代のコンピューターの話をしてしまう。
水野さんは、言語も同じだと応じます。言語は何千年も使われてきたので何度もアップデートが起きていて、There構文にも、thereの意味が薄れつつあった時期にthereが2回出てくる形があったといいます。
そうした歴史があるため、「主語はどちらですか」と聞かれても、主語の条件を3つ挙げると2つは当てはまり1つは当てはまらない、という答えになってしまうそうです。そこまで説明するとつまらないので、前回は「主語ということでいい」と話したと水野さんは明かします。
水野さんは今日の話全体を、最適性のレイヤーという概念でまとめます。すべてを包含する外側のレイヤーから「間違っている」と言うのは簡単で、批判するなら内側のレイヤーの最適性を考えたうえでなければ意味がない、という整理です。
その批判が意味があるのかどうかまで考えてテキストを読まないと、結局割を食うのはそれ学校の先生とか、例えば英語が苦手な子に授業をしている先生が割を食ってるから。
「正しい」は反論されない。過度な正しさと戦うという宣言
堀元さんは、この話が自身の今年のテーマ「過度な正しさと戦う」につながると言います。正しいは反論されにくいので、強者の権利として行使できてしまうという問題意識です。
面白いについては「いや、俺面白いとは思わないね」って反論を受けるんだけど、正しいについては正しいから、圧倒的な強者の権利としてそれを行使できるんですよ。
堀元さんは、芸人の冗談に「傷つく人もいますよ」と言うのは簡単すぎて、それでマウントを取り何者かになったつもりの人に反撃したいと話します。水野さんは、その点にはまだ完全には同意していないので、機会があれば説得してほしいと返しました。
堀元さんは最近読んだ『モヤモヤする正義』が今年ベスト級に良かったと明かし、著者名を即答する水野さんに「お前の特技いらんのよ」とツッコみます。この本の紹介はすでにつんどくチャンネルで撮影済みだそうです。
最後に二人は、途中から「自分たちの営みを正当化しているだけでは」という不安もあったと認めます。それでも堀元さんは、「自己正当化だ」というコメントこそ過剰な正しさで人を殴るものだとし、冷笑の時代を終わらせたいと語りました。
まとめ
今回のゆる言語学ラジオでは、英文法の教え方をめぐる論争から出発し、方便としての単純化は学びの入り口であり、外側の正しさから内側の説明を叩くのは安直だ、という考えが多くの具体例とともに語られました。一方で、教える側が方便だと自覚していることや、疑問を否定しない姿勢の大切さも示されています。
- 「何を?と聞けたら他動詞」のような単純化は、ほとんどのケースで役立つ方便として問題ないと二人は考えている
- 教える内容の最適性は同心円状のレイヤーになっており、外側の学術レベルから内側を批判するのは簡単だが、その場の最適性を踏まえる必要がある
- シンプルな説明には「複雑な理解を単純化したもの」と「単純な理解のまま出たもの」があり、前者の価値はもっと評価されるべきだと水野さんは話す
- 原子模型の教え方のように、素朴な説明から正確な説明へ進む過程は、科学史の追体験にもなると堀元さんは語る
- 正しさは反論されにくい強い武器であり、面白さのための説明を正しさで殴ることのフェアさを問い直したいと堀元さんは宣言した





