「た」はオールラウンダー、「たった」はスペシャリスト
この回のテーマは、「た」が持つ意味のうち、まだ扱っていなかったモダリティの「た」です。
前回、高田先生は「た」の意味を、状態・完了・過去の3つとして説明しました。今回はそこに、東北方言という新しい材料を持ち込みます。
モダリティの「た」はちなみに何ですか?
(モダリティの「た」も)ジョジョの奇妙な冒険だってなるんですか。違うやつ持ってきてよ。
高田先生はまず、東北方言には「た」に加えて「たった」というもう一つの過去形があると切り出します。「お客さん来た」に対して「お客さん来たった」が言える、というのです。
この2つは、使える状況が違います。昨日お客さんが来て今はもういない場合は、「来た」も「来たった」も両方使えます。
一方で、さっき来て今もいる場合は、「来た」は使えても「来たった」は使えません。「たった」は、その人が今はいないという情報まで含んでいるのです。
あの人来たったよって言われた場合はもう帰ってんだなまで情報が入ってる。
ここで水野さんは、ネット掲示板でよく見た「◯◯したった」を連想します。ただし高田先生によれば、あちらの「たった」は「してやった」の意味で、東北方言の「たった」とは別ものです。
高田先生は、前回の3分類をふまえて「たった」に何が言えるかを問います。水野さんが導き出したのは、「たった」は結果状態も完了も表せず、過去だけを表すという答えでした。
過去だけを表せるのがたった。
つまり、モダリティ ── 話し手が事柄をどう捉えているか、確信や態度を表す文法的な意味。事実の時間関係を表すテンス・アスペクトと区別されます以前のところで、「た」がオールラウンダーなのに対し、「たった」は過去だけを担うスペシャリストだと整理されます。
状態・完了・過去のすべてを表すオールラウンダー
過去だけを表すスペシャリスト。今はその状態にないことも含む
なぜ東北方言だけ「たった」が生まれたのか
水野さんは、「たった」は情報が多くて便利だから発達したのでは、と推測します。しかし高田先生の説明は違いました。
そもそも東北方言の「た」自体が、標準語と少し違うというのです。祖先は同じでも、意味が少し現在に寄っています。
たったがエクストラで加わってるだけじゃなくて、スタンダードのたも違うんですね。
高田先生は、対立する相手である「た」の意味がずれているからこそ、それを補う「たった」が生まれてきた、と説明します。文法にも体系があるという話です。
東北方言では、過去形を現在の意味で使う例があります。電話で「もしもし水野でした」と名乗ったり、「堀本でした」「おばんでした」と言ったりする形です。
水野さんは、北海道出身の祖父世代がこうした言い方をしていたと振り返り、馴染みがあると話します。
東北方言の「た」
意味が現在に寄っている(「もしもし水野でした」など)
過去の表し分けが必要になる
現在寄りの「た」だけでは過去を明確に示しにくい
「たった」が対応
過去に特化した形が「た」と併用されるようになる
「いる」はもともと「座る」だった
話は、「た」が現在に寄る背景として、動詞「いる」の歴史に及びます。人の家を訪ねて「誰々さんいたか?」と、いる意味で「いたか」と言う例です。
高田先生によれば、これは古文の「いる」の使い方を受け継いだものだといいます。存在を表す古語は「ありをりはべりいまそかり」で、「いる」は入っていません。
いるは座るって意味なんだ、へーって思ったことあるわ。
古文の「いる」は「たつ」の対義語で、座るという意味でした。現代語の「立ち居振る舞い」や「いても立ってもいられない」の「いる」も、座るの名残です。
水野さんは、古文単語帳の語呂合わせで「いる=座っている」と覚えた記憶をよみがえらせます。堀元さんも、国語辞典で「いても立っても」が座るの項目に立っていたのを見て驚いたと話しました。
高田先生は、「いる」が存在を表すようになった道すじを説明します。単独ではなく「ゐたり」の形で、座っている結果としてそこにいる、という意味から存在へと広がったといいます。
『竹取物語』の「いとうつくしうてゐたり」は、かぐや姫がいた、ではなく座っていた、という意味です。竹の中に座っている様子が、やがて存在の意味へシフトしていきました。
いと美しうていたりってアホみたいな顔して言ってましたけど、あれ完全にいたっていうつもりで言ってました。
いる(=座る)
古文では「たつ」の対義語で、座るの意味
ゐたり
座っている結果としてそこにいる、という形で存在を表す
いた
「ゐたり」が姿を変え、室町時代ごろまで現在の存在を表す
いる/東北方言のいだ
標準語は「いる」自体が存在を獲得。東北方言は「いた」を受け継ぐ
「出かけてました」は今いる? 今いない?
この経路の違いが、他地方の人を戸惑わせます。「誰々さんいらっしゃいますか?」と電話で聞いて、「出かけてました」と返ってくる場面です。
標準語の感覚では、「出かけてました」は今は帰ってきているように聞こえます。しかし東北方言では、今出かけています、という意味になるのです。
今来たのか、今家にいるのかいないのか、じゃあ俺急いで帰った方がいい?みたいになりそう。
水野さんは、ここまでの話を自分の言葉で整理し直します。東北の「た」は古文の名残で現在寄りに使われ、その結果、過去を担う「たった」が対応してきたのではないか、という理解です。
ただし高田先生は、「便利だから発達させた」「その結果として」とまで言うと言い過ぎだと釘を刺します。連動している、関係している、という言い方にとどめました。
情報量の多さに水野さんは何度も驚きます。「た」一文字の話が、これだけ広がっていくことへの驚きです。
韓国語にも「たった」がある
高田先生は、「たった」と同じような表現が韓国語にもあると話を広げます。韓国語の「た」にあたる形も、意味が現在に寄っているのです。
たとえば韓国語では、結婚しているを「結婚した」のように言えます。「この子はお父さんを似た」のような言い方もできるといいます。
お父さんを似てる娘の絵が出てきちゃって。大釜にお父さん叩き込む人の絵が浮かんじゃって。
韓国語にも東北方言の「たった」にあたる形があり、「た」にあたる形を2つつなげた作り方をします。これは高田先生が取り組む、東北方言と韓国語の対照研究の中心にある事実です。
水野さんは、なぜその2つを比べるのか腑に落ちなかったと打ち明けます。標準語にはない文法的特徴を共有しているからこそ、突き合わせると面白いことが見えてくるのです。
以前ゲストの黒島先生は、この対照を「言語のパラレルワールドをお見せします」と表現しました。標準語と韓国語だけでなく、東北方言と韓国語の間にも、似た構図が見えるといいます。
モダリティの「た」を過去・完了に振り分ける
ここからが本題のモダリティの「た」です。高田先生はまず、前回の分類が複雑で難しかった点を認めます。
「た」のモダリティ用法には、確言の下位分類として発見・想起・要求などがありました。堀元さんも、この分類には納得がいかないと反応していた箇所です。
高田先生の方針は思い切ったものです。動作性の述語で説明できる例は、状態・完了・過去のどこかに振り分けてしまおう、というのです。
たとえば「バスが来た」や、勉強していて「よし覚えた、寝るぞ」の「覚えた」は、動作の結果が今に影響する完了として扱えます。わざわざモダリティに分ける必要はありません。
バスが来たとか覚えたは多分そのやった出来事が今に影響を及ぼしているので完了じゃないですか。
一方で、「畑に猿がいた」や、探し物を見つけて「あ、あった」の「た」は、完了とは言いにくいものです。「いる」「ある」は状態を表す動詞で、そもそも完了を考えにくいからです。
高田先生の提案は、動詞を意味のタイプで分けることにあります。統一理論で押し切るのではなく、動作性の述語と状態性の述語を区別したほうが、すっきり整理できるという考え方です。
動作性の述語
「来た」「覚えた」などは完了に振り分ける
状態性の述語
「いた」「あった」など、完了とは言えないものが残る
残った意味
状態性の述語における「た」を、モダリティの「た」として考える
確言は「発見」だけになる
動作性の例を完了へ振り分けると、確言はぐっとすっきりします。残るのは「畑に猿がいた」「あ、あった」のような発見だけです。高田先生は、確言を「発見」と捉え直そうと提案します。
格言の中に四つ用法あったやつがこれいらんやんってなって間引いた結果、格言が発見だけになった。
発見の「た」は、動詞に限りません。初対面で「水野さんって背高かったんだ」、あるいは「この本君のだったのか」のように、形容詞や名詞述語でも言えます。
そして「そういえば明日堀本さんの誕生日だったよね」のような、思い出す用法が想起です。「誕生日だった」も名詞述語で、状態性の述語です。
こうして、発見と想起という2つが、状態性の述語におけるモダリティの「た」として残ります。分類が減っていくことを、水野さんは素直に喜びます。
分類が減るって嬉しいんだな。
「地球は青かった」に含まれる意味
高田先生は堀元さんに、ガガーリンの「地球は青かった」を題材に問いを投げます。この一文に、どんな意味がありうるかを考えさせるのです。
まず水野さんが挙げたのは発見です。外から地球を初めて見て、青い星だったと気づいた、という読みです。
次に過去の読みも出ます。かつては青かったが今は赤くなってしまった、という状況なら、事態そのものが過去になった過去の「た」として読めます。
さらに、遠い星に移住して「昔住んでいた地球は青かったな」と振り返る想起の読みも成り立ちます。1つの文が、状況しだいで複数の意味を持つのです。
ここで高田先生は、意外な事実を補います。ガガーリンの「地球は青かった」は、実は地球帰還後の発言でした。ロシア語では過去形にあたる表現を使っておらず、日本語訳で「た」が当てられたのです。
地球は青かったっていうあの発言はどの時点できた発言かっていうと、あれ地球の帰還後なんですよ。
地球を見て、青いということを今知った
地球が青いということを、宇宙にいたその時に知った
状態は変わらないのに、なぜ過去形?
高田先生は、状態性の述語の特徴を説明します。状態は、金太郎飴のように均質なまま続きます。地球の青さは、昨日も一昨日も同じです。
運動には時間的な展開がありますが、状態にはありません。だから、事態そのものの時と、それを知った時がずれてくるのです。
水野さんは、金太郎飴の比喩で理解を進めます。模様(=地球の青さ)はどこも同じでも、切っている場所(=認識した時点)が過去にある、という捉え方です。
金太郎飴の見てる模様は一緒なんだけど、切ってる箇所が場所が違いますよね。
つまり、地球が青いという内容は今も成立していますが、それを知ったのが過去だから過去形が使われる、という理屈です。状態性の述語に「た」を付けると、「◯◯であることを知った」と言い換えられます。
状態性の述語は、恒常的なものに限りません。「誰々がいる」も状態です。走るのように途中を切り取ると全体と違う動作は金太郎飴になりませんが、「いる」はどこで切っても同じです。
発見は「認識の完了」、想起は「認識の過去」
高田先生は、ここからさらに整理を進めます。発見は「地球が青いということを今知った」、想起は「その時に知った」と言い換えられます。
発見の「今知った」は、現在のつい直前の認識です。直前の認識は現在とつながっているので、これは認識の完了と言い換えられます。
一方、想起の「その時に知った」は、過去の認識です。つまり想起は認識の過去だ、ということになります。
これは前回、尾上先生が「完了には確認がつきまとい、過去には回想がつきまとう」と述べていた内容と同じです。ただし今回のほうが、はるかにシンプルに説明できます。
格言っていう用語を発見に切り替えたことで、かなり見通しすっきりしましたね。
結局、テンス・アスペクトの「た」は事態の側面についての完了・過去で、モダリティの「た」は認識の側面についての完了・過去だ、という整理になります。過去か完了かという骨組みは共通です。
事態の側面についての完了(例: バスが来た)と過去
認識の側面についての完了=発見、過去=想起
モダリティの「た」も『ジョジョ』で説明できる
高田先生は、前回に続いて謎かけを持ち出します。モダリティの「た」も『ジョジョの奇妙な冒険』だ、というのです。心は、完了と対応するのが発見、過去と対応するのが想起だから、というものです。
モダリティの他はジョナサンの奇妙な冒険だ。
前回、完了はジョセフ、過去は承太郎に対応していました。今回はその子ども世代が登場します。発見が仗助、想起が徐倫です。
親子関係を確かめると、対応がきれいに取れます。ジョセフの隠し子が仗助、承太郎の娘が徐倫です。完了と発見、過去と想起という対応が、そのまま親子でつながっているのです。
このタオル順にちゃんと割り振ってったらそうなりましたから。
高田先生は、高田先生が持ち込んだタオルのデザインにも触れます。中央に「た」があり、そこから左右にテンス・アスペクトとモダリティが広がる構図で、コアの意味が真ん中にあることを示しています。
要求の「た」は認識の完了
残っていた要求の「た」も、ジョジョの系譜に組み込まれます。要求に対応するのはジョルノで、その父DIOの体はジョナサンのもの、つまりジョースター家の一員だという説明です。
要求とは、「どいたどいた」「さあ買った買った」のような使い方です。前回は、「する」でも言えることから「た」の意味ではないとして除外されていました。
高田先生の新しい説明はこうです。話し手の認識の中で、すでに事態が完了したと述べることで、聞き手に行為を促している、という読みです。
自分の認識の中では、あなたはすでにどいたっていうことを聞き手に提示することで、聞き手に行為を促そうとしてる。
水野さんは、これをアファメーション ── なりたい状態を、すでに実現したかのように口に出して自分に刷り込む自己啓発の手法。「私は億万長者だ」などを繰り返しますになぞらえます。理想の状態を相手に提示し、繰り返し刻み込む点が似ている、というわけです。
堀元さんも、「綺麗にご利用いただきありがとうございます」の張り紙を例に挙げます。実現してほしい状態を先に言うことで行動を促す形です。ただし、これ自体は「た」ではないと補足します。
結局、要求も自分の認識の中で完了したという意味なので、認識の側面についての完了に入れられます。発見とは違う形ではあるものの、完了とつながっているという結論です。
東北方言で仮説を検証する
ここまでは理屈の話でした。しかし高田先生は、東北方言を使えばこの仮説を検証できると畳みかけます。
問いはこうです。過去のスペシャリストである「たった」は、モダリティの3つの意味のうち、どれを表せてどれを表せないか。水野さんは即座に答えを導きます。
たったは過去のスペシャリストだったんですが、過去に対応してる方のモダリティしか表せないはず。ってことは過去の認識だから想起ですね。
実際の東北方言でも、「たった」は想起しか表さず、発見や要求は表しません。東北方言の話者は、こんな理屈を知らずに自然に運用しているにもかかわらず、です。
たとえば思い出して言う「確かあそこにつばめの巣があったった」は言えますが、発見の「あ、こんなところに巣があった」を「あったった」とは言えません。要求の「どいたったどいたった」も言えません。
| モダリティの意味 | 対応する側面 | 「たった」で言えるか |
|---|---|---|
| 発見 | 認識の完了 | 言えない |
| 想起 | 認識の過去 | 言える |
| 要求 | 認識の完了 | 言えない |
これは、過去と想起が密接に結びついていることの証拠になります。標準語だけを見ていては、理屈にとどまってしまう部分です。
方言比較で見える言語のロマン
堀元さんは、方言の意義を整理し直します。多様性の保全や記録という意義だけでなく、方言そのものが文法研究に寄与する面がある、というのです。
従来ゆる言語学ラジオでは、状況を変えた例文を並べて説得力を出してきました。しかし方言という雄弁なデータが日本中にあり、まだ記述・分析が済んでいないものが多く残っています。
高田先生は、今回示した整理はあくまで自分の枠組みであり、研究者の数だけ整理の仕方があると強調します。断定ではなく、1つの仮説として提示された考えです。
堀元さんも、東北方言はたまたま適合したデータであって、適合しない体系もありうると水を差します。そこからさらに仮説の精度が高まるのが科学のプロセスだ、という指摘です。
そこで二人は、リスナーへの呼びかけで締めます。自分の地元の言葉がこの仮説に合わない、という例があればぜひ寄せてほしい、という依頼です。
まとめ
東北方言の「たった」という一つの形を手がかりに、「た」のモダリティ用法が過去と完了という骨組みで整理されていく回でした。方言が、標準語だけでは届かない検証を可能にする点も印象的です。
- 東北方言の「た」は現在に寄っており、それを補う形で過去に特化した「たった」が併用される
- 動作性の例を完了などに振り分けると、モダリティの「た」は状態性の述語の発見・想起に絞られる
- 発見は認識の完了、想起は認識の過去であり、テンス・アスペクトの「た」と過去・完了の骨組みを共有する
- 過去だけを表す「たった」は想起しか表せず、これが過去と想起の結びつきの証拠になる
- 標準語にない方言の形を突き合わせることで、文法研究が進み、仮説の検証が可能になる



