Facebookでディグって会いに行った、清水推薦のゲスト回
この回は、パーソナリティの清水さんが推薦するゲスト回として始まります。ゲストは、岩手県一関市で染物店を営む蜂谷悠介さんです。
清水さんと蜂谷さんの出会いは、京都で開かれたイベントでした。共生圏の関西エリアで活動する北林さんに誘われて清水さんが足を運んだ際、たまたま同じ会場に蜂谷さんも来ていたといいます。
最初は名刺交換だけで解散したものの、清水さんは名刺からFacebookのページを見て、地域のローカルプレイヤーとして相当な活動をしている人物だと一気に理解したと話します。
Facebookでディグった?
そうですね、あの割とディグりがち。
その後、清水さんは現地訪問を打診しますが、自分の都合で3回リスケしてしまったと明かします。案内してもらえないほど断ってしまったと、自嘲気味に振り返ります。
(リスケの連絡に)分かりましたって一文だけ送ったら、清水さんから、え?ひょっとしてもう冷めちゃいましたか?っていう。
最終的に清水さんは、東北大学での公開収録の翌日に一関を訪れ、蜂谷さんの活動と地域を案内してもらったといいます。その体験から、ゲストとして呼びたいと強く感じたと語ります。
京都から岩手へ、着物から祭りの衣装へ変わった老舗の歩み
自己紹介として、蜂谷さんはまず会社の成り立ちを話します。京屋染物店は大正7年に創業し、蜂谷さんで4代目にあたります。
初代は京都で友禅染の修業を15歳から10年間積み、25歳のときに岩手県一関市で友禅染の会社を起こしました。岩手なのに「京屋」とつくのは、京友禅の「京」から取ったものだといいます。
そのため、各地で「京都の染屋さんですか」とよく聞かれると蜂谷さんは話します。しかし着物の文化は時代とともに需要が減っていきました。
一関市はかつて城下町で芸者衆も多く、着物の需要がありました。それが代を重ねるごとに減り、先代である3代目の頃には、ほぼ着物を染めることはなくなっていたといいます。
その頃に日常的に染めていたのは、郷土芸能の衣装や、全国の祭りのはんてん、浴衣、手ぬぐいでした。京屋染物店は、こうした製造販売が中心の会社へと変わっていきます。
蜂谷さん自身は、山形の東北芸術工科大学に進みます。デザイン系の大学で、フィールドワークを通じて地域からどんなデザインを起こせるかや、地方創生についても学んだといいます。
卒業後もすぐには家業を継がず、独立起業などさまざまな活動をしました。そのひとつが、街づくりのチャレンジショップの立ち上げでした。
ダイエーなどの大型店が撤退して生まれた空きビルを小さく区画割りにし、商店主に挑戦してもらう企画です。1年間の育成を経て、筋のある人が空き店舗に出店していく取り組みを、若い人たちと進めたと振り返ります。
一方で、本体である京屋染物店の経営はあまりよくない状態が続いていました。蜂谷さんは本腰を入れて弟子入りし、代を継ぐことになります。
父の他界と震災、「染物屋の仕事は人の役に立たない」という絶望
蜂谷さんの父、先代の3代目は2010年6月9日に膵臓がんで他界します。余命宣言から半年ながらえての死でした。父が59歳、蜂谷さんは32歳のときのことです。
(父の)すねかじって生きてられると思っていたら、突然他界するんですね。
その直後、東日本大震災が起こります。全国の祭りが中止となり、地域や全国から受けていた仕事はすべてキャンセルになっていきました。
仕事がなくなるなかで、蜂谷さんは自分の仕事にレッテルを貼ってしまったといいます。染物屋の仕事は、結局は人の役に立たない、最後には見捨てられる仕事なのではないか、と考えたと振り返ります。
(染物屋の仕事は)飲み食いとか人の命とかには関係ないじゃないですか。やっぱり俺らの仕事には価値がないんだ。
それでも、最後くらい人の役に立ちたいと思い、蜂谷さんは被災地の支援に入ります。一関から車で50分ほどの陸前高田です。
丘の上で問われた「お前はどんな気持ちになるんだ」
被災地で蜂谷さんは、避難所ではなく、金剛寺というお寺の裏山の丘の上で、ブルーシートで野宿のような生活をする人たちと出会います。
蜂谷さんは丘を駆け上がり、物資が届く避難所へ移った方がいいと勧めました。しかし「お前どこのやつか知らんけど、余計なお世話だ」と言われてしまいます。
食い下がる蜂谷さんに、その人はこう問いかけました。眼下に広がる、街だった場所がすべて流されて廃墟のようになった景色を見て、もしお前がこの町の住人だったらどんな気持ちになるか、と。
蜂谷さんは何も言葉が出ませんでした。当時の蜂谷さんは、父を亡くし、仕事を奪われ、自分に価値がないというレッテルを貼り、望んで継いだわけでもない家業を継いだだけだと、自分を不幸だと思い込んでいたからです。
もし自分がこの場所に生まれ育ち、力の及ばない大災害ですべてを奪われたら、今以上に人生が終わったと塞ぎ込むだろう。そう思って、蜂谷さんは何も言えませんでした。
すると、その人はさらに続けます。今ここに住んでいる人たちは、今のお前以上の気持ちになっているのだ、と。
(震災で)一歩も前に踏み出せない肉親が全て流されて、もう一歩も前に踏み出せない奴もいるし、もう二度とこんな惨劇見たくないって遠くに引っ越してった奴もいる。
その人は、散り散りになった住人たちがいつかこの丘に立ったとき、隣に行って肩を叩き勇気づけてやる者がいなくてどうする、自分たちはそのためにここにいるのだ、と語りました。
その言葉を聞いて、蜂谷さんは涙が止まらなくなったといいます。
瓦礫から見つけた半纏と、「あんた祭り支える染屋だろ」
様子のおかしい蜂谷さんに、その人は身の上を尋ねます。染物屋で被災地のボランティアをしていると答えると、「俺の宝物見せてやる」と、ブルーシートのテントから宝物を持ってきてくれました。
それは、その地域の祭りの半纏でした。家ごと流されたなかで、瓦礫の中を探し歩き、誰の持ち物かわからないけれど自分の町内会の半纏を見つけ、汚れを綺麗に洗って畳んでしまっていたものでした。
その人は半纏を見せながら、全国の祭りは中止でも、被災地の真ん中の自分たちは一日でも早く祭りをしたいのだと語ります。祭りには力があると信じているから、というのがその理由でした。
祭りの場では、年配の人が昔話に花を咲かせて伝統を引き継ぎ、自分たち世代は酒を酌み交わしながら、この地域を次の世代にどう残すかを真剣に語り合う。そんな大人を見て、子どもたちは将来の夢を走らせる。そんな空間が祭りにはあるのだと話します。
蜂谷君、あんた祭り支える染屋だろ。頑張ってくれよ。
その言葉に背中を強く叩かれて、蜂谷さんはハッとします。沿岸の岩手・宮城・福島の3県の被災地支援を、自分たちにしかできないプロの仕事として尽くそうと決めたのです。
蜂谷さんたちは、60団体以上の郷土芸能の衣装、半纏、浴衣、手ぬぐいの復元に取り組みました。ボランティアで贈ったものもあれば、助成金を活用して作られたものもありました。
茶封筒に包まれたお金と「残るべき会社だ」という言葉
衣装の復元とともに、被災地の祭りが次々と復活していきました。若い人たちがバスをチャーターして、わざわざ鳴子の京屋染物店まで訪ねてくることもあったといいます。震災から1年経つか経たないかの頃です。
店の前の通りが自動的に歩行者天国のようになり、そこで祭りが行われていきます。団体の人たちは口々に、京屋と出会わなければこの祭りは復活できなかった、この演目を地域の外でやるのは最初で最後だと語りました。
蜂谷さんは請求書を出していませんでした。それでも団体の人たちは、茶封筒にお金を包んで持ってきます。生活も大変だろうからいらないと断る蜂谷さんと、受け取ってくれと言う人たちの間で、押し問答が繰り返されました。
最後には、たいてい蜂谷さんが怒られたといいます。いい加減にしろ、これを受け取れ、と。それでも食い下がろうとしたとき、その人が口にした言葉を、蜂谷さんは今でも胸に持っていると話します。
その人は、なぜ金を渡すのかを説明しました。お前たちの会社がこれをきっかけに潰れてしまったら、この先どんな顔をして祭りをすればいいのか。だから今この金を受け取れ、残らなければダメだ、というのです。
それまで蜂谷さんは、商売とは対価がなければ成立しないもので、見積もりを出して他と比べて高いか安いかを問うものだと思っていました。だが、人の役に立ちさえすれば対価をいただけるのだと気づいたと話します。
蜂谷さんは、お客さんから応援されるような仕事ができるのだと知り、その言葉が本当にありがたかったと振り返ります。
関わった祭りの若い人たちも、次々と言葉をかけてくれました。瓦礫のなか、笛や太鼓のお囃子をしながら歩くと、高台の公民館から年配の人たちが杖をつきながら降りてきて、泥だらけのアスファルトにひざまずき、涙しながら拝んでくれたと聞かされたといいます。
その様子を見た若者たちは、この地域を元気にしていくと決意を新たにできた、そのきっかけをくれたのは京屋だと、蜂谷さんに感謝を伝えました。
この体験が、蜂谷さんの原点になっています。地域コミュニティの大切さ、そこに集まる動機、そして生活から生まれた祭りそのものを大切にする事業を展開したいと語ります。
アパレルではなく「道具」を作る、自社ブランド縁日の思想
蜂谷さんは、震災の経験を経て、祭りのオーダーメイドだけでは事業が成り立たないと考えていました。自分で価格をコントロールし、価値を世の中に広められる自社ブランドを作りたいと、コロナ前から準備していたのが「縁日(えんにち)」です。
コロナ禍で、売上の8割以上を占めていた祭りのオーダーメイドの仕事がパタンとなくなります。仲間の染物屋が次々と倒産していくなか、自社ブランドを立ち上げていたことが功を奏し、京屋染物店は経営を続けることができました。
これをきっかけに、蜂谷さんは社内のリソースを一気に自社ブランドへと舵を切ります。縁日は徐々に世の中に知られるようになっていきました。
番組の対話のなかで、清水さんが「アパレルを作っている会社なのか」と尋ねる場面がありました。蜂谷さんは、衣類やパンツは作っているが、アパレルを作っているつもりは全くないと答えます。
蜂谷さんが作っているのは、あくまで「道具」だといいます。道具は流行り廃りがなく、手や体に馴染むほど完成度が上がり、手放せないパートナーになっていくものだ、という考え方です。
東北の生活に密着したものづくりが、自分たちの性に合っているだろうと蜂谷さんは考えています。縁日は、その東北の文化から湧き立った生活の道具を提供し、使い続けた先に価値が上がっていくプロダクトを目指しているといいます。
流行り廃りがあり、シーズンで移り変わっていく衣類
使い込むほど手や体に馴染み、完成度が上がって手放せなくなるもの
東京進出をやめ、里山の古民家に根を下ろした選択
コロナ禍では、東京のビルのテナントに空きが増え、地方の勢いのある会社に出店を勧める声が都内から相次ぎました。京屋染物店にも「家賃も安いし出店しないか」という話が実際にあったといいます。
しかし社内で議論が起きます。縁日は東北の文化から生まれた生活の道具のブランドなのに、作り手である自分たちがまだ東北の生活文化に根を下ろしていない、という問題です。
自分たちが何者かも強く語れないまま東京に行き、根無し草のままブランドだけを先走らせるのはどうなのか。そういう議論になり、蜂谷さんたちは確かにその通りだと考えました。
そこで京屋染物店は、まず自分たちが体現者になるために、旗艦店を自分たちを体現する場所に作り、どっぷりと生活者になる道を選びます。生活者が作り上げたプロダクトを世の中に広めていく、という順番です。
選んだのは、一ノ関駅から車で10分ちょっとの里山でした。アクセスはよいものの、うっそうと茂るジャングルのような場所を切り開き、江戸時代から建つボロボロの古民家を改装して、縁日のブランドショップにしています。
清水さんは、実際に縁日を訪れた印象を語ります。建物も周辺もめざましく立派で、「お寺だったのか」と言われるほど大きな門や蔵があるエリアだといいます。
「どこにでもある染物」を強みに変えたブランドの形成
縁日には、全国のテキスタイル産地の人々が集まるネットワークが勉強会のために訪れました。清水さんを縁日に導いた北林さんとの出会いも、この場でした。
テキスタイルの産地は、加賀友禅など伝統的な技法として国から認定されているところが多いといいます。一方、京屋染物店は産地認定も伝統的工芸品としての認知もされていない染物です。
蜂谷さんは、生活に密着したどこにでもある染物を続けていることを、最初はネガティブに捉えていたと明かします。産地認定されたら羨ましいのに、と思っていたそうです。
産地認定されたらいいな、羨ましいな、どこにでもある染物だもんな、僕らって思ってた。
しかし、生活者になることを考えたとき、見え方が変わります。生活に密着し、文化から派生した染物に精通している染屋だ、それはむしろ強みだ、と気づいたのです。
産地ではないけれど、この地域の文化と生活を背景にしたものづくりとしてブランドをやり続けた結果、多くのファンに巡り合えたといいます。その形成の仕方が、テキスタイル業界でも学ぶべきものとして注目されました。
染物を超えて、地域全体へ広がる「観光」と共生圏
蜂谷さんは今、染物以外の事業にも越境しています。農業や飲食業を始め、食品の加工施設や観光業にも取り組んでいます。会社は染物を超えてさまざまな事業を展開していると語ります。
蜂谷さんが目指すのは、どこかで流行っているものを地域に持ってくることではありません。その地域に脈々と受け継がれ、光り輝いているものに目を向ける取り組みだといいます。それこそが「観光」だと考えています。
その地域の本当に光り輝いてるその光に目を当てて、その光を見ていく活動をしていきたい。それこそが観光だと。
ものづくりも食も、それを取り巻く環境も含めて地域の光に目を向ける。そうした人たちがタッグを組んでいけば、もっといい地域になっていくだろうと、蜂谷さんは事業を展開していると話します。
その姿勢を聞いた聞き手の江口さんは、石を積む職人の話を引き合いに出します。同じ石積みでも、石を積んでいると答えるか、人が集まる大聖堂を建てていると答えるかで意味が変わる。蜂谷さんの仕事は、物を染めてただ売っているわけではなく、地域が地域らしく元気であることや文化の継承を見据えたものだと受け止めました。
蜂谷さんは、その気づきを使い手に教えてもらったことこそ価値だと返します。事業が順調で調子に乗っていたら、絶対に気づけなかっただろうと語ります。
(すべてが)つながっていくみたいなイメージが、僕の解釈でいうと、もうまさに共生圏っていう感じ。
蜂谷さん自身は「共生圏とは何か」をまだ知らないまま活動していると笑います。地域循環共生圏の考え方については、次週以降に江口さんから説明していく流れになりました。
まとめ
岩手県一関市の老舗染物店を継いだ蜂谷悠介さんは、父の他界と東日本大震災で「染物屋の仕事に価値がない」と絶望しました。被災地で出会った人々の言葉が、その考えを根本から変えます。祭りを支える染屋という役割に気づいた原体験が、アパレルではなく道具を作る自社ブランド「縁日」や、里山に根を下ろす選択へとつながっていきます。
- 京屋染物店は大正7年創業の老舗で、着物から祭りの衣装づくりへと業態を変えてきた
- 震災で仕事を失った蜂谷さんは、被災地で「あんた祭り支える染屋だろ」と背中を押された
- 茶封筒に包まれたお金と「残るべき会社だ」という言葉が、商売観を変える原点になった
- 自社ブランド「縁日」は、アパレルではなく使い込むほど馴染む「道具」を作る思想を持つ
- 東京進出をやめ、里山の古民家に根を下ろして生活者になる道を選んだ





