当たり前に染みついている感覚
今、『資本主義と生きていく』という本を読んでいます。積読になっていたのを、ちょこちょこ読み始めたところです。
まだ第5章まで、3分の1くらいしか読めていないんですけどね。
この本は、資本主義という考えの中に、どれだけキリスト教的な価値観や西洋的な感覚が染み込んでいるかを解き明かしていくものです。
たとえば時間の感覚。始まりから終わりに向かっていくという直線的な捉え方です。
でも元々はもっと循環的な時間の感覚で生きていたんじゃないか、と。仏教はまさにそうで、輪廻転生のような循環的な感覚があります。
それがキリスト教の、終末に向かっていくような直線的な時間の捉え方に変わっていった。そんなことが書いてあるんです。
読んでいて実感が湧かないんですよ。坊さんの僕にも、当たり前に染みつきすぎていて。
仏教の中にもある「働かざる者食うべからず」
価値を出さなきゃいけないとか、働かざる者食うべからず、みたいな感覚。これももう、めちゃくちゃに染みついているなと思います。
でも、よく考えたら仏教の中にも似た話があるんですよね。
『百丈慧海』という中国の和尚さんがいます。禅の決まり事をまとめた人だと言われていると思うんですが、僕は禅の坊主じゃないので詳しくはないんですけどね。
この方はものすごく働き者で、偉くなっても弟子より掃除もお勤めも一生懸命やっていた人でした。
弟子たちが「たまには師匠、休んでくださいよ」といつも言うような方だったそうです。
ある時、弟子たちが策を講じて休ませたんですね。そしたら百丈慧海さんは「一日作さざれば一日食わず」と言って、飯を食わなかったという話があるんです。
やらなきゃ食わない、という話だなと思って。全くそういう価値観が仏教にないかというと、あるにはあるんですよね。
だからこそ、自分の当たり前を疑うというのは難しいなと、改めて思うわけです。
大きくなりすぎた物差し
いろんなものに囚われているなと思います。タイパやコスパが大事だという人も多いと思いますけどね。
でもタイパやコスパを突き詰めていくと、もうとにかく冷たい社会にしかならないんですよね。
わかるけど、それが一番優先されるというのは、本当にどうなんだろう。一事が万事、どういうことにつながっていくのかと考えると、絶望していかなきゃいけないなと思ったりもします。
金をたくさん持っているやつが偉い、仕事ができるやつが偉い。なんか僕も、そう思っちゃうんですよ。
でも、それだけの価値観でいくと、この世のありようがいろいろ説明できなくなる。何なんだろうな、と最近思っています。
稼ぐ人が偉いというのは、数ある物差しのひとつでしかないはずなんです。でも、それがすごくデカい物差しになっちゃっている。
あんまり稼げていない僕なんか、息苦しさを感じます。そういう方が大半じゃないかなと思うんですよね。だってみんな、稼げてないですもんね。
この本を読み始めたら、さらに「何なんだ」という感じになりました。面白いので、ぜひ読んでもらいたいです。
大和さんが、これと合わせて『弱さ考』という本も読んだ方がいいと話していたので、早速Amazonで注文しました。井上さんという、NewsPicksBooksPublishingで編集長をやっていた方の本だそうです。
暑さに負けずに頑張っていきたいですね。僕もそろそろ日傘を出してこようかなと思っております。
皆さん、良い一日をお過ごしください。では、また明日。
まとめ
資本主義の価値観は坊さんの僕にも当たり前に染みついていて、疑うのは難しい。稼ぐ人が偉いというのは数ある物差しのひとつなのに、大きくなりすぎていることに息苦しさを感じています。
- 『資本主義と生きていく』は、資本主義に西洋的・キリスト教的な感覚がどれだけ染み込んでいるかを解き明かす本
- 「働かざる者食うべからず」に近い話は、百丈慧海の「一日作さざれば一日食わず」として仏教の中にもある
- タイパ・コスパを突き詰めると冷たい社会になり、稼ぐ人が偉いという物差しが大きくなりすぎている
- 合わせて読みたい本として『弱さ考』も挙がっていた



