ショートのはずが8話に? 深井さん不在の鑑真編
コテンラジオの鑑真編は、唐から日本へ渡った僧・鑑真の生涯を扱うシリーズです。この回の収録には深井龍之介さんが参加しておらず、楊睿之さんと樋口聖典さんの2人で進められています。
樋口さんによると、深井さんが不在の理由は番外編で説明されており、ネガティブな理由ではないとのことです。楊さんも、本編のシリーズには深井さんが出演していると補足しています。
深井さん不在の2人の回は、本編より短い「ショート編」として始まりました。樋口さんは本編が10話から12話ほどかけるのに対し、このシリーズは2話から4話ほどでサクッと聞ける位置づけだと説明します。
ところが楊さんは冒頭で、鑑真編が8話になったことを樋口さんに「謝罪」します。台本を書いた楊さん本人も、書き終えてから4話に収まっていないことに気づいたといいます。
なんかあれですか、ポケットに入れて叩いたら倍になるみたいな、そういう。
樋口さんは、お金がお金を生む資本主義にたとえて、台本が台本を生んで増えているのだと茶化します。一方で楊さんは、テーマの面では鑑真編の8話に無駄なエピソードは1話もないと話しています。
ガンジーと混同されがちな鑑真を、なぜ今掘り下げるのか
鑑真について、樋口さんは10年ほど前までガンジーと別人だとよくわかっていなかったと打ち明けます。楊さんはそれを「よくある」と受け止め、教科書に必ず載っている鑑真像の写真を見るよう勧めます。
楊さんによると、その鑑真像の現物は奈良の唐招提寺 ── 奈良市にある律宗の総本山。鑑真が晩年に開いた寺院で、国宝の鑑真和上坐像が安置されていますにあります。樋口さんは行ったことがある気がするものの、コテンラジオを始める前だったため、歴史の文脈では見ていなかったといいます。
楊さんは、教科書に載る鑑真の基本情報を整理します。唐の僧侶で、聖武天皇 ── 奈良時代の天皇。仏教による国家の安定を目指し、東大寺の大仏造立や国分寺の建立を進めましたに招かれ、5回渡航に失敗して両目が見えなくなり、日本の仏教の発展に貢献した、という内容です。
楊さんは、この鑑真像が「不屈の精神の持ち主」「感動系の偉人」という文脈で語られがちだと指摘します。そのうえで、鑑真の生涯の解像度を上げると、多くの学びを引き出せると話しています。
楊さんが重視するのは、唐のトップクラスの僧侶であり知識人でもある鑑真が、海を越えて日本へ行ったという現象そのものです。楊さんは、以前の玄奘編と同じクラスの出来事が、いろいろなものを巻き込みながら起きていくと説明します。
樋口さんが奈良時代は仏教で国を動かそうとした時期だと確認すると、楊さんは、鑑真が来日したのは東大寺ができた頃で、仏教ブームが最高潮に盛り上がっていた時期だと答えます。
(鑑真は)明らかに何かの意図を持って(日本に)来てるわけです。
楊さんは、シリーズで扱う問いを挙げていきます。鑑真はなぜ僧になり、何を学んだのか。仏教がすでにブームだった日本は、なぜわざわざ鑑真を招いたのか。そして、5回失敗し、6回目で来日するまでに10年以上かかったのに、なぜ諦めなかったのか。
楊さんは、鑑真が諦めなかった理由を「意志が強かった」で片付けず、仏教徒としての精神構造から読み解けると話します。さらに、来日後の鑑真の活動や、日本側がポジティブにもネガティブにも反応したこと、その後の日本仏教の変化も扱うと予告しています。
楊さんは、個人的な見方として、鑑真編を約5年前に扱った玄奘 ── 唐の僧。インドへ旅して仏典を持ち帰り、翻訳に取り組みました。『西遊記』の三蔵法師のモデルとして知られています編の続編として捉えられると話します。楊さんによると、玄奘の死から24年ほど後に鑑真が生まれています。
仏の真理を得るために、唐から西へ旅に出た
仏の真理を伝えるために、唐から東へ旅に出た
楊さんは、玄奘と鑑真のどちらも命を懸けて旅をしており、仏の教えが西から東へ渡る大きな流れの中に2人がいると整理しています。
取ってきた人と広めた人。
国際都市・揚州で育った少年が、仏像に心を動かされるまで
楊さんは、鑑真編の第1回で鑑真の生い立ちをさらい、第2回からギアを上げると予告します。楊さんによると、抽象的な思想の話にはせず、樋口さんが好きな経営の話も出てくるそうです。
楊さんの説明では、鑑真は西暦688年に唐の揚州で生まれました。揚州は現在の中国・江蘇省にあたります。「鑑真」は出家後に与えられた法名で、出家前の名字は淳于 ── 中国の複姓(2文字の名字)の一つ。古い時代から見られる姓で、1文字の名字が多い中国では珍しい部類に入りますだったとわかっています。
楊さんによると、淳于家は漢帝国の時代から続く古い家だったようです。ただし、鑑真の下の名前はわかっていません。父はおそらく中層か下層の役人で、鑑真は知識階級の家庭に生まれたと言われていますが、はっきりとはわかっていないそうです。
楊さんは、揚州を一言で「国際都市」と表現します。揚州は中国でもトップクラスの繁栄を誇る都市でした。海外の品物はいったん揚州に集まってから中国各地へ流れ、国内の物資や人は揚州の港から海外へ出ていきました。
揚州には外国人も多く、のちに鑑真の弟子の顔ぶれも国際色豊かになります。楊さんによると、揚州は遣唐使がほぼ必ず立ち寄る中継地で、昔から日本とも関係が深い場所でした。
楊さんは、異文化との距離が近い揚州で育った環境が、のちに日本へ行くという決断を下す感覚につながったのかもしれない、という見方を紹介しています。海外へ行くハードルが、他の人よりも低く感じられた可能性があるということです。
鑑真が仏教に出会ったきっかけは、仏教を信じていた父でした。楊さんによると、父は出家こそしていなかったものの信仰心が厚く、実家にも仏教的な空気が漂っていたと考えられています。
14歳の鑑真は、父に連れられて行った寺で仏像を見て強く感動し、すぐに「出家したい」と父に伝えたそうです。父もその志を見抜き、出家を許しました。
楊さんは、この出家のエピソードにも示唆があると話します。出家には親の許しが必要でしたが、鑑真は父の跡を継いだのではなく、自分の意志で出家を選びました。楊さんは、自分の意志で選ぶことこそ本来の仏教の姿であり、寺の家に生まれて住職を継ぐ形は本来の姿ではないと、のちの回で説明すると予告しています。
仏像を見て出家するってなるんやっていう、それすごいですよね。
鑑真が仏像に心を動かされた理由について、楊さんは詳しい心の動きはわからないとしています。そのうえで、家で仏像を見てきた少年が、思春期の敏感な時期に寺へ行き、感動したのではないかと推測しています。
道教推しから仏教推しへ。武則天の時代に儒学を選ばなかった理由
楊さんは、鑑真が出家を決めた時代背景として、唐が仏教にとって追い風の時期にあったことを補足します。唐の皇帝はもともと道教を優遇し、道教を政権のブランディングに使っていました。
楊さんの例では、唐の皇帝の名字「李」が老子 ── 古代中国の思想家で、道教の祖とされる人物。姓は李とされ、唐の皇室はこれを根拠に老子の子孫を名乗りましたと同じだったため、皇帝たちは自分たちを老子の子孫だと称していました。
ところが、武則天 ── 中国史上唯一の女帝。唐の皇后から皇帝に即位し、周王朝を建てました。コテンラジオでも過去にシリーズとして取り上げられていますの登場をきっかけに、唐は道教推しから仏教推しへとガラッと変わります。楊さんはこれを唐の「推し変」と表現しています。
楊さんによると、武則天自身が熱心な仏教徒でした。武則天は自らの正当性を主張するためにも仏教を政治利用し、全国に寺を設置したり、写経を進めたり、各地で出家を受け入れて僧侶を増やす施策を打ったりしました。
道教の優遇
唐の皇帝は老子と同じ李姓を使い、道教で政権をブランディングしていた
武則天の登場
唐が仏教推しへ転換し、寺の設置や出家の受け入れを進めた
鑑真の出家
仏教への追い風の中で、14歳の鑑真が出家を志した
楊さんは、鑑真が知識人の家庭の息子なら、本来は儒学を学んで科挙 ── 隋から清まで続いた中国の官僚登用試験。儒教の経典の知識が中心に問われ、知識人にとっての出世の登竜門でしたを受けるのが既定の道だったと説明します。当時の知識人にとって、官僚になることはキャリアアップのほぼ唯一のコースでした。
(儒教を)やっといた方がメリットはあるのに、あえてそこで仏教に行くっていうイメージになるんですか?
楊さんは、そういう捉え方もできると答えます。役人になることに興味がなかったのかもしれず、10代では未来設計まではしていなかったかもしれません。それでも鑑真は、その時の自分の感動に従い、知識人家庭の御曹司とは違う人生コースへ進んだということです。
出家を志した鑑真は、まず沙弥 ── 正式な僧になる前の見習いの出家者。髪は剃りますが、まだ正式な僧としての戒は受けていない段階を指しますになり、武則天が各地に設けた大雲寺の一つで修行を始めました。楊さんによると、「鑑真」という名前はおそらくこの頃に与えられたもので、文字通りには「真実を鑑みる」という意味になります。
21歳で正式な僧になった鑑真は、揚州から洛陽や長安といった都へ上ります。楊さんの説明では、都には国立の経典翻訳センターや権威ある大寺院があり、有名な僧侶が集まっていました。樋口さんが翻訳センターは玄奘がつくったものかと尋ねると、楊さんはそのとおりだと答えています。
鑑真は26歳で故郷の揚州に戻り、講義をするようになって頭角を現していきます。楊さんはここから話を20年飛ばし、鑑真が50歳手前で「大師」と仰がれる一流の僧になったと続けます。
講義から社会事業まで。高僧・鑑真は優秀な経営者だった?
楊さんは、鑑真が「大師」と呼ばれるまでの20年間に何をしていたのかを具体的に挙げていきます。まずはお経の講義です。膨大なお経を理解し、暗記したうえで講義することは、僧侶なら誰でもできることではなかったといいます。
寺づくりについても、楊さんは鑑真に明確な目的意識があったと指摘します。修行や勉強のために各地から来る僧のために、宿を用意し、食事に困らないようにするなど、修行を支える生活インフラへの設備投資をしていたということです。
楊さんによると、鑑真の活動は講義や寺づくりにとどまりませんでした。
- 仏や菩薩の像を数え切れないほどつくらせた
- 身分や貧富の差に関係なく施しを与える法会を開いた
- 貧しく病に苦しむ人々のための社会事業を起こした
- チームを使って写経事業を進めた
- 有名な僧として活躍する弟子を育てた
ハードやってね、デベロップメントやって、で、一般的な講義もやるし、で、後継を作る育成もやってるし、マジ全部。
楊さんは、鑑真のこうした姿を、自分のエネルギーや志、ものを社会に還流させてコミットする姿だと表現します。楊さんは、大乗仏教 ── 自分の悟りだけでなく、多くの人々の救済を重視する仏教の潮流。中国や日本に広まった仏教の多くがこの系統にあたりますだから当たり前かもしれない、とも話しています。
楊さんが強調するのは、鑑真の多様な事業には人を統率する力と、お金を管理する実務能力が欠かせないという点です。講義で得たお布施を元手に事業を興し、社会に還流させる鑑真の姿について、楊さんは僧侶の中でも経営者としての才能を持っていたと評価しています。
楊さんはさらに、鑑真は仏教の世界に進まなくても、優秀な官僚になれたかもしれないと話します。樋口さんも「会社っぽい」「優秀な経営者みたい」と応じています。
楊さんは、鑑真が本当に偉い僧だったのかという疑問が、かつて研究の中で出たことも紹介します。鑑真自身が書いた伝記などはなく、残っている資料のほとんどが弟子によるもの、つまり身内から見た鑑真像だからです。
楊さんによると、「鑑真は唐では思われているほど評価されていなかったのでは」という説は、現在の学術研究では否定されています。有名な弟子を多く育てたという事実から逆算すると、鑑真は普通の僧ではなかったと考えられる、というのが今の考察だということです。
55歳で日本行きを決意。すでに成功者だった鑑真の転機
高僧としての地位を固めていた鑑真のもとに、日本から2人の留学僧が会いに来ます。書き起こしでは、2人の名前は「栄」と「文殊」と聞き取られていますが、正しい表記はそれぞれ栄叡と普照です。
楊さんによると、この時の鑑真は55歳で、今の感覚でいえば後期高齢者くらいにあたるといいます。2人の若い日本の僧からお願いを受けた鑑真は、日本へ行くことを決意します。そのお願いの中身は、次回以降に語られる予定です。
楊さんは、唐で不動の地位を築き、そのまま唐にとどまる選択肢もあった鑑真が、すべてを捨てて、唐から見れば文明の外れにある日本へ死ぬ気で行こうとすると語ります。なぜ鑑真の中でスイッチが入ったのかは、次回以降のテーマです。
一人の人物を扱って、もう第一話で55歳まで来てるっていう。
樋口さんは、成功するまでの道筋を詳しく語ることが多いコテンラジオで、すでに成功した後から物語が始まるのは今までにないパターンだと面白がります。楊さんは、唐での鑑真の詳しい活動はあまりわかっていないとも補足しています。
楊さんは次回、戒律 ── 仏教の修行者が守るべき規範と、教団を運営するための規則を体系化したもの。「戒」は自らを律する戒め、「律」は教団の規則を指しますを丸ごと1話かけて扱うと予告します。楊さんによると、戒律は鑑真を語るうえで避けて通れない軸です。
楊さんの説明では、奈良時代の日本には仏教が広まっていたものの、戒律の制度が正しく実装されていないことが課題でした。日本が求めていたのは、戒律の専門家として中国の僧を招くことで、その一人が鑑真だったといいます。
(戒律は)ルール、法律とかと比べて何が違うのかが全然わかってないから。
楊さんは、戒律を仏教を支える根底概念の一つだと位置づけています。戒律を深く掘り下げなければ鑑真の本質は理解できない、というのが楊さんの考えです。
まとめ
鑑真編の第1回は、国際都市・揚州で生まれた少年が、武則天の仏教推しの時代に儒学ではなく仏教の道を選び、経営者のような手腕で高僧となり、55歳で日本行きを決意するまでを描いています。教科書の「不屈の偉人」像の手前にある、鑑真の人物像が見えてくる回です。
- 鑑真は、異文化との距離が近い国際都市・揚州で育ち、14歳で自らの意志により出家を志した
- 武則天による道教から仏教への転換が、知識人家庭の鑑真が科挙ではなく仏教の道を選んだ背景にある
- 鑑真は講義、寺づくり、社会事業、写経、弟子の育成を資金調達とともに進め、経営者のような才能を発揮した
- 楊さんは、仏の教えが西から東へ渡る流れの中で、玄奘を「得た人」、鑑真を「伝えた人」として捉えている
- 日本が鑑真に期待したのは戒律の専門家としての役割で、次回はその戒律が掘り下げられる



