久々の3人体制で始まる「鎌倉武士編」
この回は、いつものメンバーである室越さんが不在で、久しぶりの3人体制でのスタートとなりました。室越さんは会社の別の仕事で運転手として同行していたものの、収録には参加していません。
あれ?室越さんがいない。
いないですよ、今日は。彼の意思じゃない可能性。
テーマは、大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」と同じ時代を扱う鎌倉武士編です。樋口さんは大河ドラマを一度も見ておらず、「鎌倉殿」を建物の名前だと思っていたほど、この時代の知識がないと打ち明けます。
俺だからずっと(鎌倉殿を)建物かと思ってたので、ぐらいもう知識ないんで。
鎌倉殿とは、源頼朝、つまり鎌倉将軍のことです。深井さんは、鎌倉時代が出来上がっていく時期の話だと説明します。
信長編のおさらいから深掘りする武士の世
鎌倉武士のテーマは、以前の織田信長編で律令制の頃からざっと扱っています。今回はその中でも、鎌倉幕府が定着し、武士の世が定着するまでにさらにフォーカスして掘り下げていきます。
深井さんは、信長編で言えなかったことも今回話していくと語ります。特に、源氏と平氏とは何なのか、なぜこの2つの家ばかりなのか、そしてなぜ頼朝が将軍になれたのかを深掘りするといいます。
逆になんで源氏と平家だけ?とか思わないですか?知らない時は他の家は?って思ったもん。
樋口さんは、源氏の「じ」は氏なのに平家の「け」は家であることも分からないと疑問を投げます。深井さんは、その違いにもちゃんと理由があると応じます。
桓武天皇が始めた「皇族のリストラ」と平氏の誕生
源氏と平氏がどこから生まれたのか。話は8世紀後半の桓武天皇の時代までさかのぼります。当時、天皇の皇子や皇女に新しい姓を与え、家臣として位を一段階下げる臣籍降下 ── 皇族が姓を与えられて臣下(貴族)の身分に移ること。皇族が増えすぎるのを防ぐための措置で、源氏や平氏はこの仕組みから生まれましたが行われるようになりました。
天皇家は血の濃さを保つ必要があり、たくさんの子をもうけます。しかし天皇家に残れるのは嫡男に認定された人だけで、それ以外の兄弟や子孫まで厚遇し続けると、天皇家がどんどん膨れ上がってしまいます。それを防ぐための措置でした。
ちょっとした語弊はあると思いますけど、リストラみたいなやつだよね。
ただし、位を下げられても平民に落ちるわけではなく、貴族として存在し続けます。このとき皇族に下賜された姓の一つが「平」で、桓武天皇の皇子である葛原親王に与えられたのが最初とされます。
「源氏」が上で「平氏」が下だった格の違い
源氏と平氏には、もともと格の違いがありました。源氏は歴代天皇の皇子に下賜される姓であるのに対し、平は2世王以下に与えられる姓でした。つまり、源氏のほうが天皇の血筋に近く、位が上だったのです。
源の方が天皇の血筋にもっと近くて、もっと濃ゆい、だから血筋ブランドがちょっと高めっていうふうなイメージですね。
一方で、氏よりも「家」のほうが格が上とされます。平清盛らが平家の格を上げたことで、「平家」と呼ばれるようになりました。源氏、平氏、平家という呼び方の違いは、この位や格の違いから来ています。
歴代天皇の皇子に下賜される姓。天皇の血筋に近く、位が上とされた
2世王以下に下賜される姓。もともとは源氏より一段下の格だった
臣下になることには、皇位継承の資格を破棄して王権に挑戦しない態度を示すことで、逆に自己保身になるという側面もありました。政治闘争から距離を取れるうえ、位の高い皇族が増えることによる経費削減にもつながっていたといいます。
中央から関東へ下った貴族が武士になっていく
桓武天皇の皇子で平の姓を与えられた系統は、もともと3つあったとされます。そのうち高望流から出た平氏が、上総介という関東の土地を管轄する役職に任命され、その地に土着していきます。これは信長編でも触れた、中央から下った人が地方に根付いていく流れです。
中央に残っても、これ以上偉くなる見込みは少なくなります。一方、地方に下れば、天皇の子孫として「すごい人が来た」と扱われ、その土地でトップに君臨できます。地方に下るメリットがあったのです。
地方に下るとさ、天皇の子どもとか孫とかだから。めっちゃすげえ人来たみたいなわけですよ。
高望流の子孫は下総、常陸、武蔵といった関東各地に土着し、坂東平氏を名乗っていきます。「鎌倉殿の十三人」に出てくる武士の6割から7割は、この坂東平氏の流れだといいます。
ここで押さえるべきは、武士の源流が貴族にあるという点です。歴史に名を残す有力な武士の多くは、天皇や中央貴族の系譜を引いていました。
弱々しい貴族と屈強な武士、そのイメージは後世の創作
貴族と武士は、まったく別の人種のように思われがちです。弱々しい貴族と屈強な武士、というイメージです。しかし楊さんは、これは近代になって作られたイメージだと指摘します。
もともと貴族は、奈良時代の乱などでも自分で兵を率いて戦っていました。貴族イコール弱々しいというイメージは、実像とは違うのです。貴族には武的な一面もありました。
俺だってもう庭で蹴鞠してマロはって言ってる(イメージ)。
それだいぶドラマの影響が。実際その貴族の属性としては武的な一面もあるっていうことなんですよね。
下ってきた貴族が土着の人々と結びついて地方の武士になっていく一方、中央にも武士はいましたし、貴族と直接つながりのない武士も普通にいました。ただ、有名な武士の多くは中央から下ってきた人たちだった、という整理です。
源氏と平氏ばかりになった理由も、シンプルです。臣籍降下の際にこの2つの姓、特に源氏を渡しまくったからです。嵯峨天皇の頃からは基本的に源氏と平氏を中心に姓を与えるようになり、そこからいくつもの庶流が枝分かれしていきました。
武芸担当の貴族と、土地に根付く中世武士の違い
武士がどう出てきたのかを、信長編のおさらいとして深井さんが整理します。天皇は律令制で中国の唐をモデルにした中央集権国家を作ろうとしましたが失敗し、天皇のものではない土地が生まれます。その土地を守ろうと武装した人たちが武士になっていきました。
もともと律令制の中には、武芸を担当する人たちがいました。紀、伴、坂上、小野、文室といった姓の人々で、征夷大将軍の坂上田村麻呂もこの系統です。ただ、彼らは見世物的に洗練された武芸の担い手で、実戦経験は少なかったとされます。
楊さんは、坂上らは官職としての側面が強く、中央から派遣される軍事官僚のような存在だったと補足します。彼らは必ずしも中世の武士にはつながっていない、という説です。
辺境に派遣される公務員みたいな、そういう人たちですね。
一方、中世の武士は自分たちで土地を持ち、その土地から武士を動員する存在です。武士の特徴は、土地に根付く土着性・在地性にあるという点で、武芸担当の貴族とは質が違いました。
紀・伴・坂上など。中央から派遣される軍事官僚で、洗練された武芸を担うが実戦経験は少ない
自分たちで土地を持ち、その土地から武士を動員する。土着性・在地性を特徴とする
平将門の乱と藤原純友の乱が生んだ「公認の武士」
国内で反乱が起こる中、武力で治める必要が高まっていきます。ここで活躍したのが、高望流の平氏や、清和天皇の子孫から出た清和源氏でした。関東で起きた平将門の乱、瀬戸内海で起きた藤原純友の乱を、彼らが鎮圧することに成功します。
この鎮圧の成功によって、彼らは武士としてのブランディングを確立します。武装している人はたくさんいましたが、朝廷に認められた武士かどうかが、この後もずっと影響し続けることになります。
切った張ったりする人はたくさんいるんですよ。でもお墨付きを国からもらえた人たちを先祖に持ってるんですよね。公認武士と野良の武士みたいな。
楊さんは、反乱を鎮めるために中級・下級の貴族が朝廷から警察権や軍事動員権を持つ役職に任命され、地方に派遣されたと説明します。それは律令制に定められていない例外的な官職で、特命のような形で現地に送り込まれ、反乱や海賊を鎮圧していきました。
当時の朝廷には、天皇制がなくなるかもしれないほどの強い危機感があったといいます。その危機を鎮めた武士が朝廷から認められたことが、後の歴史を大きく左右していきました。
反乱の発生
関東で平将門の乱、瀬戸内海で藤原純友の乱が起こり、朝廷が深刻な危機感を抱く
鎮圧の成功
高望流の平氏や清和源氏がこれを鎮圧する
朝廷の公認
活躍した者が「朝廷に認められた武士」としてブランディングを確立する
なぜ武士は「家業」になったのか
反乱で活躍した武士は、朝廷から「お前の家は代々それを継いでいきなさい」と扱われるようになります。武芸が家業化していったのです。実戦経験を持つ者が子孫に武芸を伝授し、その子孫は英雄的な先祖に恥じない武士を目指して日夜鍛錬に励む家が生まれました。
こうした家業化は武士に限りません。深井さんは陰陽師の例を挙げ、代々父から子へ技が継がれていくものだと説明します。ブランドとスキルが特定の家に独占される状態です。
なぜ家業に委託されるのか。理由はシンプルで、教育機関がなかったからです。武士の学校があれば優秀な者を官僚にすればよいのですが、日本は中国のような官僚育成機関をうまく作れませんでした。
もし武士の学校があったら、そこで一番優秀なやつを官僚にしていけばいい。日本は適切な大学や官僚育成機関みたいなのを中国のように作れなかったので。
学校がない以上、武芸に秀でた者に「お前の家が教育していきなさい」と任せるしかありません。自分の子に教えるのは、教える動機もあり、教えやすくもあります。こうして武芸は世襲されていきました。
軍事的ニーズの高まり
反乱の鎮圧で武士が必要とされる
教育機関の不在
日本は中国のような官僚育成機関を作れなかった
家業への委託
活躍した者に「お前の家が代々継げ」と任せるしかなかった
世襲の成立
父から子へ武芸が伝えられ、家業として継がれていく
家業化されたかどうかで、位に大きな差が生まれます。武士が名乗りを上げる際に口にするのは、平将門の乱や藤原純友の乱で活躍した先祖の名前です。それは「お墨付きの子孫だ」という宣言だったのです。
朝廷の内と外で揺れ動く武士という存在
源氏や平氏はバンバン姓を与えられて枝分かれしたため、もはや親戚という感覚は薄いといいます。いとこ同士はもちろん、父と子、兄と弟でも平気で殺し合いをするのが武士でした。
武士ってそういうなんか親戚同士でも平気で殺し合いする人たちなんで。仲良いわけではないんですね。
楊さんは、武士と貴族の関係を整理します。武士は貴族を源流とするため権力に吸い寄せられる属性を持ち、天皇や朝廷の命令、官位といった権威を重視します。一方で、戦の際には朝廷の命令を無視し、朝廷の存在を相対化する動きもありました。
ここでいう相対化とは、武士がどちらの価値観を重視するかを自分で選ぶ選択権を持っていた、ということです。朝廷の権威と自力救済の間で武士は揺れ動く存在であり、この構造は今後の歴史にもずっと出てきます。
朝廷の権威、そして自分たちの力で頑張るっていう自力救済の間で武士が揺れ動く存在であるということなんですよね。
ただし深井さんは、武士はあくまで朝廷の中の一つの機能だと補足します。役職として朝廷に組み込まれているものの、私有地を持つがゆえにそこが崩れていく。それが中世日本であり、根底には土地の問題があるといいます。
彼らが私有地を持っているがためにそこが崩れていくっていうのが中世日本なんです。土地の問題なんです、それは。
武士の偉さを決めた「朝廷からの距離」のグラデーション
武士は朝廷に組み込まれていますが、その組み込まれ方にはグラデーションがありました。深く組み込まれた者から、中ぐらいの者、あまり組み込まれていない荒くれ者まで、およそ3段階に分かれていたといいます。
その偉さを決めるのは、天皇からどれだけ血が近いかです。深井さんは、日本には誰が偉いかを説明する際に、血の濃さ以外のロジックがほとんどないと指摘します。力が強いとか金を持っているといった理由では、人は納得しませんでした。
もう一つの物差しが、朝廷の役職です。血のつながりがない場合は、朝廷の役職を上げていくことで地位を高めました。後の豊臣秀吉などがこの道をたどります。
なぜ頼朝は兵を持たずに武士の頭領になれたのか
源頼朝が武士のリーダーになれたのは、武士の中でも比較的朝廷に近い、軍事貴族の嫡流だったからです。血のつながりが近く、官職も高い。だからこそ頭領になっていけたのです。
関東の平氏は最初に進出して土着した一方、源氏は関東進出に乗り遅れ、中央に近いところにいました。そのため大きな土地は持たないものの天皇に血が近く、武士のリーダーになりやすかったといいます。
頼朝は兵を一人も持たずに、挙兵の場でいきなりリーダーになります。北条氏や上総介のように、関東に来て中央とのつながりが薄れた者が「僕がリーダーをやる」と言っても、力でねじ伏せなければリーダーにはなれません。頼朝の場合は血筋ブランドがそれを不要にしました。
血筋ブランドってやっぱり説明しなくてもいいから血筋ブランドなんですよね。ブランドって説明しなくてもいいという。
樋口さんは、これを生まれながらのハンデ戦だと驚きます。深井さんは、実力主義に見える武士も、この時代は血だけでかなり地位が決まっていたと応じます。戦国時代にはほぼ実力に移りますが、鎌倉時代はそうではなかったのです。
これ今どころじゃないガチの親ガチャやん。もう血だけでかなり決まってるん。
ただし、頼朝と同レベルの血筋を持つライバルも複数いました。木曾義仲もその一人です。ほぼ同格の中で頼朝が勝ち残ったからこそ、彼がリーダーになりました。深井さんは、これをサッカーのリーグにたとえます。
リーグが違うんです。(血筋の)リーグが違うから、このリーグ違う人たちは試合がないんですよ。
天皇に血が近く官職も高い。血筋ブランドで、兵を持たなくても人を説得できる
北条氏や上総介など。リーダーになるには力でねじ伏せる必要があり、権威が効かない
源氏と平氏の起こりから、次回の背景説明へ
ここまでのおさらいをまとめると、源氏と平氏は、軍事貴族としてオフィシャルに朝廷から認められた血筋のよい家として登場しました。血筋がよいとは、公認された家の嫡流であることを意味します。
その嫡流ではない傍流が枝分かれを重ねて関東に分布した人たちが、三浦氏、千葉氏、上総介、北条氏といった有力武士です。先祖をたどれば軍事貴族ですが、頭領にはなれない立場でした。さらにその下に、土着して武士化した家来層がいる、というグラデーションです。
深井さんは、次回はいつも通り背景説明になると予告します。鎌倉幕府がなぜ誕生したかを理解するには、古代の天皇王権が中世的な天皇王権へと質的にどう変化したかを説明する必要があるといいます。
これめちゃくちゃ面白いけど、結構難しい。
源氏と平氏がどのようなルーツで生まれ、どんな挙動で平清盛の時代まで進むのか。その本題へ向けた導入として、この回は締めくくられました。
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まとめ
鎌倉武士編の第1回は、源氏と平氏の起こりと、頼朝が武士の頭領になれた理由を、血筋と朝廷の公認という軸で読み解く導入回でした。武士の源流が貴族にあり、朝廷に認められたかどうかがその後を大きく左右したことが、繰り返し確認されました。
- 源氏と平氏は、桓武天皇以降の臣籍降下で皇族に与えられた姓で、もともと源氏が上、平氏が下の格だった
- 武士の源流は貴族にあり、中央から地方へ下って土着した貴族が武士になっていった
- 平将門の乱・藤原純友の乱を鎮圧した平氏・源氏が朝廷に公認され、武芸が家業として世襲されていった
- 教育機関がなかったため、武芸に秀でた家に代々継がせるしかなく、家業化が進んだ
- 頼朝が兵を持たずに頭領になれたのは、軍事貴族の嫡流という血筋ブランドが、説明なしに人を従わせたから






