そもそもプーチンは「知りえる」人物なのか?
特別編「ウクライナとロシア」の第3回は、ロシアのプーチン大統領その人を扱う回です。語り手を務めるのは楊さんで、冒頭で今回の試みを自虐気味に紹介しています。
プーチンは、良くも悪くも、今全人類の注目を集めている人物なんですけれども、そんな人物を中国人が日本語で喋るっていう、ほんと狂ったことを今からやらないといけないんですけど。
楊さんは本題に入る前に、大前提として「プーチンについて知ることには限界がある」と強調します。プーチン個人に関する確実な情報は、驚くほど少ないからです。
プーチン本人やロシア政府が発信するプーチン像は、ほぼすべてがプロパガンダの目的で操作されたものだと、プーチンの研究者も指摘しているといいます。それ以外の情報も、ゴシップや噂話、周囲の関係者の証言など、エビデンスを確かめようのないものばかりです。
つまりプーチンを語る材料は、憶測の域を出ない情報や事実かどうかあやふやな情報に限られます。それでも、プーチンが何を考えて動いているのかを研究している人たちはいて、今回はその研究をもとに話が進みます。
楊さんが主に参照したのは、ブルッキングス研究所の研究員フィオナ・ヒルとクリフォード・ガディによる『プーチンの世界』です。フィオナ・ヒルは、オバマ大統領の下などでアメリカの国家安全保障の中枢に関わったアナリストだと紹介されています。
ほかに、日本のロシア研究を牽引してきた木村汎の『プーチンとロシア人』と『プーチン』、そして『プーチンの実像 証言で暴く皇帝の素顔』も参照したといいます。番組は、こうした研究の限界を踏まえたうえで聞いてほしいと前置きしています。
祖父はラスプーチンの料理番?庶民の家に生まれた少年
プーチン一族のルーツは、モスクワから120キロほど北西にあるトヴェーリ州トゥルギノ村だと記録されているそうです。祖父のスピリドンはホテルでコックをしていました。
楊さんによると、プーチンの祖父が働いていたホテルによく食事に来ていたのが、ロシア皇帝ニコライ2世の宮廷で実権を振るった怪僧ラスプーチン ── 帝政ロシア末期の僧侶。皇太子の病を癒すとされて皇后の信頼を得て、宮廷で大きな影響力を持ちました。映画などの題材にもなっていますだったといいます。名前の響きが似ていることに、聞き手は一瞬戸惑っていました。
えっと、妖怪の怪に僧侶の僧で怪僧ってことですね。
プーチンの父は当時の首都サンクトペテルブルクで生まれたとされます(生年は父の生年)。母は祖父の故郷から3キロ先の農家の生まれでした。
プーチンの両親の仕事は、父が工場の労働者、母が清掃員やパン屋の手伝いなどを転々とするというものでした。プーチンは庶民の家に生まれたことになります。
プーチンの父は、のちにKGBの前身である内務人民委員部の工作部隊に所属し、ナチスの占領地に送られて焦土作戦を実行したそうです。この戦争で足を負傷し、障害を負いました。KGBはソ連時代の秘密警察・諜報機関で、のちにプーチン自身もここで働くことになります。
プーチンには兄がいましたが、戦争で亡くなっています。当時レニングラードと呼ばれていたサンクトペテルブルクはナチスに包囲され、砲撃や爆撃で少なくとも67万人、一説には150万人の住民が亡くなりました。プーチンの兄もその犠牲者の一人だったと言われています。
兄の死後、母が41歳のときに授かった男の子がプーチンで、ものすごく溺愛されたそうです。楊さんがここで強調するのは、プーチンの家が特権階級ではなく、伝統的な権力の枠組みから見れば既得権益の外にいるアウトサイダーだったという点です。
喧嘩に負けて導いた「4つの結論」とスパイへの憧れ
プーチンが生まれた地区は治安が悪く、家の前の通りではストリートファイトがよく起きていたそうです。体が弱かった少年時代のプーチンはいじめられていたといい、現在もロシア人にしては小柄な168センチだとされています。
少年プーチンは喧嘩でボコボコにされて恥をかきます。大統領になってから、この敗北から4つの結論を導き出したと振り返っています。楊さんは、これはあくまで本人の主張で、当時本心からそう思っていたかはわからないと断っています。
楊さんは、とくに3つ目と4つ目が「すごい」と評しています。引き返すことはできず、最後まで戦う以外に選択肢はないという覚悟が語られているからです。
身を守るため、プーチン少年は柔道とサンボ ── 柔道とレスリングを組み合わせたような、ソ連発祥の格闘技。軍や警察の格闘術としても発展しましたのトレーニングを始めます。喧嘩に勝つため、あるいは身体的な劣等感を克服するためだったとも言われています。
柔道はプーチンを大きく変えたらしく、大統領になってからの日本訪問では柔道の総本山である講道館を訪れています。プーチンにとって柔道は大事なものだったようです。
同じころ、プーチンはスパイになりたいと考えるようになったとインタビューで語っています。きっかけは『盾と剣』という白黒のロシア映画で、番組で調べたところ日本語字幕版は手に入らないようだと紹介されています。
プーチンは9年生、日本でいう中学3年生のときにKGBの支部に直接行き、スパイになる方法を尋ねたそうです。答えは「志願してきた者は採用しない」「兵役を終えるか大学を卒業した者でないと入れない」というものでした。どの学部がよいかと聞くと法学部を勧められ、法学部進学を志すようになったといいます。
なぜ法学部出身のプーチンがKGBに採用されたのか?
プーチンはレニングラード大学で法律を専攻し、とくに国際貿易法を学んだそうです。楊さんは、プーチンの学問のキャリアの出発点が経済と法律の領域だった点に注目します。卒業するとすぐにKGBに就職し、工作員として勤務しました。
法律畑のプーチンがKGBで働けた背景として、楊さんはKGBの性格を説明します。KGBは国家の安全保障というミッションのもと、ソ連の経済政策に深く関わる組織でした。
具体的には、KGBはソ連国内の経済活動とそのプレイヤーを監視し、経済犯罪を暴き、経済政策の立案にも携わっていたといいます。西側の資本主義経済やその思想がソ連に入ってくるのを防ぐことも、KGBの大事な仕事でした。
さらに当時は、KGBの採用方針にも変化がありました。KGB議長のユーリー・アンドロポフ ── KGB議長を長く務め、のちにソ連共産党書記長となった政治家。KGB出身者として初めてソ連の最高指導者になりましたは、弱体化するソ連を改革するには古い体制を新しくする必要があり、既存の権力から距離のある若い人材を採るべきだと考えていたそうです。プーチンはこの人事改革の流れの中で採用されたのではないか、と言われています。
プーチン自身は、KGBの訓練で身につけ、大統領になってから役立ったスキルを2つ挙げています。1つは人間に対処する経験で、味方を作るには相手に共通の目標があると感じさせる必要がある、というものです。もう1つは、大量の情報をうまく処理する能力でした。
KGB時代のプーチンを知る人の証言では、プーチンはとても人当たりがよく、人なつっこい人物だったといいます。それを「KGB仕込みだ」と見る同僚もいれば、もともとの個人的な性質だと見る元職員もいて、評価は分かれています。
東ドイツの崩壊をドレスデンで見たKGB工作員
KGBで働き始めたプーチンは、東ドイツのドレスデンに派遣されます。東ドイツはソ連の占領地域に建国された社会主義国家で、国としての形はあっても、ソ連から主権を制限された衛星国でした。
ドレスデンでのプーチンの仕事は、機密情報を盗み出すことや、現地に住む西側の人間に接触して弱みを握り、協力者に仕立てる工作だったのではないかと言われています。楊さんは思わず「スパイやな」と反応しています。
ドレスデン時代の同僚の証言では、主な任務は西ドイツに対する工作や諜報で、とくにNATO ── 北大西洋条約機構。1949年に発足した、アメリカ、カナダ、西ヨーロッパ諸国などによる軍事同盟で、現在も存続していますの動きを監視することだったとされます。一方でドイツのジャーナリストの中には、まったく重要な仕事をしていなかったのではないかという意見もあり、実態は謎のままです。
ドレスデンでの経験は、プーチンにとって最初の大きな学びになりました。ソ連という基盤の上に乗っていた東ドイツが崩壊していく様子と、西側の資本主義経済が勝利していく現場を、プーチンは目の前で見ることになったからです。
社会主義のもとで導入したが、結果的にうまくいかなかった。市場経済より効果が低いと認めるべきだ
市場経済システムの導入以外にない。特定のイデオロギーや指導者に盲目的に従わず、現実的な考察・経験・歴史の教訓に基づくべきだ
プーチン自身が語ったこの教訓が本当なら、プーチンの思考の性格がうかがえる、と楊さんは述べます。当時の同僚の証言でも、共産党員だったプーチンは実は共産主義に批判的で、経済の自由化や東西の人の移動の自由化が必要だと考えていたといいます。
ドイツの週刊誌記者は、東ドイツが一瞬で崩壊したことで、プーチンが「平穏な生活が一瞬で崩れ去る」という一種のトラウマを背負ったのではないか、と分析しています。この経験こそが政治家プーチンの出発点だという見方です。
この分析を裏づけるかのような場面もあります。大統領就任直後、G8サミットで沖縄を訪れたプーチンは、森喜朗首相との会談で、ロシアは民主主義や法の支配といった西側の価値観を苦労して受け入れたのに、NATOは相変わらずロシアの包囲網を作ろうとしていると不満を述べたそうです。朝日新聞国際報道部の記者たちは、西側が自分たちを追い詰めようとしているという感覚がここに表れていると分析しています。
深井さんはこうした分析について、聞き手が鵜呑みにしないよう念を押しています。
まあ一つの見方ですね。どこまで本当かわかんないですよ。
恩師サプチャークとレニングラード市政へ
ソ連崩壊直前の1990年、プーチンはドレスデンからレニングラードに呼び戻されます。法学部時代の恩師アナトリー・サプチャークがレニングラード市長選に出馬し、プーチンを政治活動のブレーンに据えたからです。
サプチャークは市長選に勝利し、ブレーンを務めたプーチンは副市長と市の対外関係委員会議長に就任します。このときプーチンはKGBを辞職しました。
プーチンには、海外駐在のあとにモスクワのKGB本部へ戻るという、いわば出世コースの誘いもあったそうです。それでもプーチンは、組織自体に未来がないから残っても仕方がないと思った、とインタビューで語っています。
時系列としては、プーチンの副市長就任ののち、1991年6月にエリツィンがロシアの大統領に当選し、同年12月にソビエトが崩壊します。
プーチンが就いた対外関係委員会議長は、楊さんいわく「レニングラードの貿易大臣」のような仕事です。ロシアに参入する外国企業や、海外進出するロシア企業の窓口となり、営業許可の付与や企業設立のお膳立てなどを担いました。
レニングラード時代の成果として、1991年にはドイツの多国籍企業シーメンスがレニングラードに支店を置きます。1993年にはパリ国立銀行とドイツのドレスナー銀行が共同出資の銀行を開設しました。西側資本の銀行をロシアに開くことは、当時のプーチンの大きな功績だったといいます。
食料調達の大失敗が教えた「民間はあてにならない」
レニングラード時代のプーチンには、食料供給というもう1つの重要な仕事がありました。当時のロシアは食べ物、建築資材、消費財など、あらゆるものが慢性的に不足していて、レニングラードも食べ物がない厳しい状況でした。
ところがプーチンは、この食料調達で大失敗し、政治スキャンダルに発展して失脚しかけます。何が起きたのかを流れで整理すると、次のようになります。
ルートがない
レニングラードは独自の物資調達ルートを持っていなかった
民間に委託
プーチンが複数の民間業者を中間業者に指定し、海外からの調達と配送を任せた
中抜きと横流し
届いたのは合意した量のほんの一部で、食料の一部はモスクワなどへ流れた
責任問題
プーチンのマネジメントの失敗として騒ぎになり、失脚しかけた
この経験からプーチンは、「国家がいざという時に強い権力を発揮できることの重要性を私はこの時学んだ」と語っています。予測不能な状況では、民間企業は社会への義務を無視して目先の利益だけを求めるので、国家と指導者は常にコントロールの権力を持っておくべきだ、という考え方です。
楊さんは、食料スキャンダルで得た民間企業は統制すべきだという教訓が、のちのプーチンの政治姿勢に表れてくると指摘しています。
地味なポストから3年で大統領へ、異例の大出世
1996年、サプチャークが市長の再選に失敗したのをきっかけに、プーチンはモスクワの大統領府で働き始めます。最初のポストは大統領府総務局次長という地味なものでした。
研究者の考察では、プーチンは自由主義経済の改革グループに、ビジネスを統制する専門家として迎え入れられたとされます。ソ連崩壊後のロシアは経済を自由化しようとしていましたが、民間企業や資本家が国を食い物にしないよう、誰かがガバナンスを効かせる必要がありました。食料スキャンダルで積んだ経験とノウハウが買われたのではないか、というのです。
大統領府に入ったプーチンは、そこからわずか3年で異例の出世を遂げます。プーチン本人もこの経緯を詳しく語っておらず、理由には謎が残っています。
出世の理由として考察されているのが、プーチンが担った税金を徴収する仕組みづくりです。研究によると、当時のロシアが弱体化した最大の原因は、税を集める能力の欠如でした。
税収不足
税金が取れず、中央政府が力を持てない
政策が打てない
力がないので大きな政策を打ち出せない
さらに税収不足
政策が打てないので、税収を確保する手立ても作れない
社会主義だったロシアには、個人や企業が自治体や国に直接税を払う習慣も、税額を計算して徴収する行政の仕組みもありませんでした。脱税は日常茶飯事で、お金持ちたちは役人を買収し、課税に関する法律の制定にまで影響を及ぼしていたといいます。
プーチンが首相に就いた直後の1999年には、第二次チェチェン紛争 ── ロシア連邦の構成共和国チェチェンを舞台にした紛争。1999年、ロシア各地の爆破事件を受けてロシアが軍事行動を再開しましたが始まります。チェチェンはロシア連邦を構成するイスラム教徒の共和国で、分離独立をめぐる第一次紛争では民間人を含む10万人が亡くなり、事実上の独立状態になっていました。
事実上独立したチェチェンにイスラム過激派が浸透し、ロシア各地で爆破テロが起きます。その報復としてプーチンは第二次紛争を始め、テロリストを「便所にいても捕まえてぶち殺してやる」と言い放ちました。この姿勢で、プーチンは強いロシアのイメージを作り、民衆の人気を高めていったといいます。
エリツィンがプーチンを後継者に選んだ理由には、一説があります。エリツィンの周囲で権力を持っていた政商たちは、自分たちの利権を守ってくれる、脅威にならない人物を後継者にしたかったというものです。財閥とも大物政治家ともつながりのないプーチンは、「無色透明」で据えやすかったと考えられています。
まあ(プーチンを)据えてみたら、めちゃめちゃ税金取ってくるし、めちゃめちゃ利権守ってくれないみたいなことになってくるって、びっくりみたいなことになっていくわけなんですけど。
大統領に強い権限、ロシアの民主主義は「われわれの想像とは違う」
ここで樋口さんが、ロシアの政府の仕組みについて質問します。ロシアの首相は大統領に任命され、議会の承認を得て就任する仕組みです。大統領は国民の選挙で選ばれ、非常に強い権限を持っています。
深井さんは、ロシアは一応民主主義国家だが、われわれが想像する民主主義国家ではないと説明します。マスコミは国に首根っこを掴まれていて、大統領に都合の悪い情報を流し続けることはできないといいます。ソ連崩壊直後から自由市場経済が育たず、マスコミが育つほどの広告も集まらなかったからです。
議会についても、深井さんは「正直プーチンに握られている」と見ています。本来は大統領令を覆すルートもあるものの、そう動く議員はおらず、ニュースでは反対票ゼロの全会一致が続いていると指摘しています。
一方で深井さんは、歴史を学んだ立場から、ロシアには強いリーダーに引っ張ってほしいというニーズがあるのではないかと語ります。広大な土地と多くの内部問題を抱えるロシアでは、投票でうまくいくと中の人もあまり想像していないのでは、という見方です。反対意見があることも承知のうえでの発言だと断っています。
プーチンが登場したのはソ連崩壊直後で、エリツィンはそこそこ頼りなく、うまくいっていない時期でした。そこに税金をバリバリ取ってきて、強い信念を持ち、対外的にも強くロシアを守ってくれる人物が現れたことで、落ち目の大国を再び復興させる存在として国民的人気が高まった、と深井さんは説明します。
深井さんは、組織や国家にはそれぞれ向いているシステムがあると述べ、プーチンの強い権力を「肯定もしないが否定もできない」という感覚で見ていると話しています。
楊さんは制度面を補足します。ロシアの政治システムはフランスから持ってきたもので、大統領と首相の両方がいる体制を半大統領制 ── 国民の選挙で選ばれる大統領と、議会の信任に基づく首相が併存する政治体制。フランス第五共和政が代表例ですと呼びます。旧ソ連の構成国は基本的にこの体制を採用しており、ウクライナもそうだといいます。
深井さんはさらに、ロシアの政治体制は1990年代に社会主義から民主主義へ一気に切り替わって走り出したばかりで、確定したルールとは感覚が違うと指摘します。権限が首相と大統領のどちらにあるのかも流動的に変わってきており、プーチン自身が制度を大きく変えてきたうえ、収録時点でも憲法や法律の改正、メディア規制が続いているといいます。
ライフルで財務記録を押収、オリガルヒとの対決
話は、プーチンが企業活動を監視し、税を納めさせる仕組みづくりに戻ります。プーチンはこの仕事を徹底的に進め、ロシア全土に検査官を派遣して公的機関や民間企業の財務情報を集め、分析し、腐敗や横領を取り締まりました。
根深い腐敗を排除するため、プーチンは武器と威嚇という実力を使ったといいます。ときにはライフルで武装した工作員を大企業の本部に送り込み、財務記録を押収したこともあったそうです。楊さんは、そこまでしないと税金を集められない状況だったのだろうと見ています。
本の中では、プーチンが出世できたのは、ロシアの新興財閥であるオリガルヒ ── ソ連崩壊後の民営化の過程で富と影響力を手にしたロシアの新興財閥。政治と結びついて大きな力を持ちましたの財務情報を独占的に把握できる立場にいたからだ、という考察もあるそうです。プーチンは首相になってからも、この財務情報を握る権利だけは手放さなかったといいます。
深井さんは、オリガルヒが生まれた背景を、他国の近代化と比べて説明します。市場経済を導入するには企業の担い手が必要ですが、社会主義から急に転換したロシアには担い手がいませんでした。
| 国・時期 | 担い手 | 進み方 |
|---|---|---|
| フランス・イギリス | 勃興したブルジョワジー | 最初から担い手がいて、自ら近代化を求めた |
| 明治維新後の日本、ドイツ | 住友・三井などの財閥 | トップダウンで産業化を任せて成功した |
| ソ連崩壊直後のロシア | 天下りした共産党幹部 | 癒着や汚職が起き、好き勝手に儲ける状態に |
共産党の役人だった人々が社長になった企業は、市場経済が未発達なのをいいことに、供給量を絞って価格をつり上げてから売るようなことをしていたそうです。深井さんは、こうして好き勝手していた人たちを叩いたのがプーチンだったとまとめます。
その無茶苦茶やってる人たち(オリガルヒ)をボッコボコにしたのがプーチンっていうこと。
1990年代のロシアは経済も深刻な混乱状態でした。価格の自由化や国営企業の民営化が進められる中、物価が月平均20パーセント上昇する激しいインフレに襲われ、国民の貯金は一瞬で紙切れになったのに、政府の補償もなかったといいます。
「壁際に追い込まれたら殺される」モスクワ騒乱が残したもの
1990年代のロシアは政治の混乱も深刻で、統治がほぼ不可能なほど政治闘争が激化していました。政党の結成が目まぐるしく繰り返され、殴り合いで議会が中断されることもありました。プーチンは当時を、乱闘騒ぎの繰り返しで政治に嫌気が差したと振り返っています。
象徴的なのが1993年のモスクワ騒乱事件 ── 1993年、エリツィン大統領と対立した最高会議(議会)勢力が議会ビルに立てこもり、軍の戦車が砲撃して多数の死者が出た事件です。エリツィン大統領に反発した議会は副大統領を担ぎ上げて内閣を立ち上げ、怒ったエリツィンは戦車を出して議会勢力を攻撃し、大勢の死者が出ました。
この事件について、プーチンは「我々は自分たちの立場を十分に承知している。本流から逸れた瞬間、相手に首根っこをつかまれて壁際に追い込まれ、殺されてしまう。だから壁際には行きたくない」と語っているそうです。プーチンはこのとき、政治的対立に敗れた者は抹殺されると知ったといいます。
深井さんは、伝統的に激しい政争を重ねてきた中国にも通じるのではないかと述べ、ユーラシアの中央にある国々は、これくらいの強気がないとまとめられないのかもしれないと受け止めています。日本の政治闘争では戦車は出ない、と出演者たちは比べ、政治が本当に命に関わるかどうかの違いは大きそうだと話しています。
楊さんは、エリツィン自身もこの腐敗に関わっていたと補足します。エリツィンは政治資金を確保するため、国営企業の民営化の際に資金援助の見返りとして株式を渡すなど、有力実業家や金融機関に特権をばらまきました。その結果、実業界が大統領の政策決定を左右するほどの力を持つ、いびつな状況が生まれたといいます。
深井さんは、それだけエリツィンの権力基盤が弱かったのだろうと見ています。楊さんは、こうした状況のロシアに入ったプーチンが向き合わざるを得なかった最大の課題は「国家の統合」だったとし、その話は次回に続けると締めくくりました。
まとめ
今回のエピソードは、情報が少なく諸説の多いプーチンの半生を、研究書や証言を手がかりにたどる回でした。喧嘩の敗北、ドレスデンでの東ドイツ崩壊、食料調達の失敗、1990年代の混乱と、本人が語る「学び」は、強い国家が民間や政敵をコントロールすべきだという考え方へとつながっていきます。
- プーチン本人やロシア政府が出す情報の多くはプロパガンダで、プーチン像には限界と諸説がある
- 庶民の家に生まれ、既得権益の外にいたプーチンは、KGBを経て経済を統制する専門家として頭角を現したとされる
- 食料調達の失敗から「民間はあてにならず、国家が強い権力を持つべきだ」という教訓を得たと本人は語っている
- 税の徴収とオリガルヒの財務情報の掌握が、異例の出世と政治的な力の源になったという考察がある
- 深井さんは、ロシアの強い権力を求める土壌を、肯定も否定もできないものとして捉えている



