ウクライナ侵攻を前に、歴史で何ができるのか
2022年2月24日、ロシアによるウクライナへの侵攻が始まりました。収録は3月8日の19時ごろで、深井さんたちは当日から番組として何ができるかを考えていたといいます。
ちょうど日露戦争を勉強していた深井さんは、侵攻に触れないままロシアや日露戦争の話を放送するのは違うと感じました。そこで選んだのが、この件の歴史を調べ、リスナーの解像度を上げることでした。
この件に関するその解像度を上げるっていうことが、まあ悪く働くことは僕はないと思ってるんですよね。
迷うこととかはあるとは思うんですけど、それは迷うべきことであるということだと思うんですよね。
樋口さんは、自分はニュースについていけておらず情報が入っていない状態なので、とてもありがたいと応じます。同じような聴き手は多いはずだという受け止めです。
深井さんは、こうした長時間の解説ができるのはCOTEN CREW ── コテンラジオを運営する株式会社COTENの活動を月額で支援する仕組み。番組は広告ではなく、この支援を主な支えにしていますの支援のおかげだと話します。広告モデルなら、再生数のために単純化した解釈や感情を揺さぶるタイトルで発信する方向に流れかねないからです。
本当に必要であると思われるレベルまで粒度を詳しくして伝えられるというスタイルが取れるっていうのは、端的に言ってCOTEN CREWの皆さんのおかげです。
専門家ではない3人は、どう語ろうとしたのか
深井さんは、自分たちはロシア情勢や世界情勢の専門家ではないと前置きします。より詳しい人も、自分たちが届かない情報源も確実に存在するという認識です。
そのうえでチームは、1週間ちょっとの間に30冊ほどの本を調べ上げました。使ったソースは概要欄に直接載せると深井さんは約束しています。
僕たちが言ってる内容が正しいと思って受け取るっていうのはちょっとやめてほしい、まず。
深井さんが求めたのは、番組を「ソースをまとめてわかりやすく喋っているもの」として受け取ってもらうことでした。今回は特に、本に書いてあったことと自分たちの意見を明確に分けて話すとしています。
本にそのように書いてあるんだったら、まあ皆さんは皆さんが思うように思ってください。
本を30冊読める人はそう多くないので、そこを代わりにまとめることが番組の社会貢献になると深井さんは考えています。ただし、わかりやすくしすぎないことも意識していて、シンプル化しすぎると意味がないと話しています。
ロシアもウクライナも、キエフの小さな集落から始まった
ウクライナとロシアの歴史は、キエフ公国から始まります。深井さんは、ウクライナ語ではキーウと呼ぶ都市を、歴史書にならってソ連崩壊以後の話になるまでキエフと呼ぶと断っています。
深井さんによると、キエフと呼ぶかキーウと呼ぶかだけでも政治的な立場が問われてしまいます。そのため、あくまで歴史の本の表記に合わせるという整理です。
キエフを形成したのは東スラブ人で、今のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の先祖にあたります。東スラブ人は7、8世紀ごろに形成され、キエフの中心を流れるドニエプル川 ── ロシア西部からベラルーシ、ウクライナを通って黒海に注ぐ大河。キエフ(キーウ)の街を南北に貫いていますを中心に部族ごとに暮らしていました。
伝説では、ポリアーネ氏族のキー、シチェク、ホリフの3兄弟と妹ルイベジがキエフを作ったとされます。6世紀後半と推測されるその頃のキエフは、牧畜や養蜂、狩猟で暮らすごく小さな集落でした。
すごいな、もう家族とかからできていったんですね。
深井さんは、6世紀後半は日本でいえば聖徳太子のころにあたると補足しています。
バイキングのルーシが、なぜ東スラブ人の王になったのか
8世紀ごろになると、イスラーム教徒のハザール人と、バイキングであるヴァリャーグ人がキエフ周辺を交易で行き来するようになります。キエフはその交易路の通り道として少しずつ大きくなっていきました。
ヴァリャーグ人は自分たちをルーシと称していました。ノヴゴロドに住む東スラブ人は、支配まではされないものの、強いバイキングに貢物を納めながら自治をしていたといいます。
ところがノヴゴロドの東スラブ人は内紛を起こし、収拾がつかなくなります。そこで彼らは、ルーシに自分たちを治めてほしいと頼みに行きました。
こうしてルーシの首長リューリク ── 9世紀ごろのノルマン系の首長。伝承ではノヴゴロドの支配者として招かれ、のちのリューリク朝の祖とされますがノヴゴロド公となり、東スラブ人を治めることになります。その後ルーシはキエフも攻めて支配し、キエフはバイキングのルーシの街になりました。
深井さんは、ルーシという言葉がロシアの語源で、ギリシア語読みするとロシアになると説明します。ノルマン人、ヴァリャーグ人、バイキング、ルーシは、いずれも同じ人たちを指しています。
東スラブ人の集落
6世紀後半、ドニエプル川沿いに小さな集落としてキエフが生まれる
交易路として発展
8世紀ごろ、ハザール人とヴァリャーグ人の交易の通り道として大きくなる
ルーシを首長に迎える
内紛に陥ったノヴゴロドの東スラブ人が、リューリクを公として招く
キエフ公国の成立
ルーシがキエフも支配し、やがて東スラブ人に同化していく
ロシアとウクライナに共通する「先祖の国」とは?
治める側のルーシは人数が少なく、段階的に東スラブ人に同化していきます。ルーシがキエフを治め始めてから成立したキエフ公国が、今のロシアとウクライナ双方の先祖の国です。
あそこ(ロシアとウクライナは)同じところから発祥してるんですね。
キエフはロシアの都市の母とも呼ばれます。深井さんによると、東スラブ人に同化したルーシがここからモスクワなどへ広がり、ロシアにもウクライナにもベラルーシにもなっていきました。
キエフ公国にはスヴャトスラフ、ヴォロディーミル聖公、ヤロスラフ賢公といった有名な王が現れ、最盛期を迎えます。ヴォロディーミルの時代は10〜11世紀ごろで、キエフ公国はヨーロッパでも大きな国だったと深井さんは話しています。
ギリシア正教を選んだことが、なぜ今まで響くのか
ヴォロディーミルやヤロスラフの時代、キエフ公国は土着の宗教からキリスト教に改宗します。深井さんが重要だと強調するのは、選んだ宗派がカトリックではなくギリシア正教 ── 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で発展したキリスト教の流れ。ローマ教皇を頂点とするカトリックとは1054年に分かれ、典礼や組織が異なりますだった点です。
ギリシア正教を選んだっていうことは、今後のロシアとウクライナの歴史に長い間強い影響を与えていくことになる。
深井さんによると、ギリシア正教はカトリックやプロテスタントとはスタイルがかなり違います。今のロシア正教やウクライナ正教もこの流れを汲んでおり、プーチン大統領もロシア正教を信じているといいます。
違いの例として深井さんが挙げるのは、イコン ── キリストや聖人を描いた聖像画。正教会では礼拝の中で重要な役割を持ちますという聖像画や、儀式、荘厳さ、聖職者の服装です。
改宗には実利もありました。正教によってキエフ公国をまとめ上げ、西のキリスト教国と婚姻政策ができるようになり、西側に少し近づいたのです。
もう1つの違いは文字と言語です。中世の西ヨーロッパは聖書も大学もラテン語のラテン語文化圏でしたが、ロシアはキリル文字 ── 東スラブ人などが使う文字。ギリシア文字をもとに作られ、今もロシア語やウクライナ語で使われていますを使っていました。
ギリシア正教の流れを汲み、イコンなど独自の儀式を持つ。文字はキリル文字
カトリックやプロテスタント。聖書や大学で共通語としてラテン語を使う
深井さんは、ロシアが仮に西ヨーロッパに混ざりたいと思っても、宗教、文字、民族の違いから多くの課題が出てくると話します。日本から見ると同じヨーロッパに思えても、実際は文化のフォーマットが違うというのがこの章の要点です。
モンゴルの「タタールのくびき」は、キエフに何をもたらしたのか
最盛期を過ぎたキエフ公国は衰退し、各地の統一権力が失われていきます。そこへ攻めてきたのが、チンギス・カンの孫バトゥが率いるモンゴル軍でした。
モンゴル軍は1223年にキエフ公国に現れ、ルーシ全体に大打撃を与えます。キエフ公国はある意味で滅ぼされ、しばらくモンゴルの配下に置かれました。
この時期は「タタールのくびき」と呼ばれます。タタールはモンゴルを指し、くびきは馬などを拘束する器具で、自由を束縛されたことを表す屈辱的な呼び名だと深井さんは説明しています。
キエフ公国の正統な後継者は、モスクワかハーリチ・ヴォルイニか
キエフの権力が弱まるのと並行して、キエフ公の親族がハーリチ・ヴォルイニ公国 ── 現在のウクライナ西部を中心に栄えた公国。ガリツィア・ヴォルィーニ公国とも表記されますを、分派としてモスクワ公国を作っていました。
キエフ公国はモンゴルに滅ぼされますが、ハーリチ・ヴォルイニ公国はその後もしばらく残ります。一方のモスクワ公国はモンゴルの配下に入り、逆に勢力を伸ばしていきました。
深井さんによると、モスクワ公国は今のロシアの直接の先祖にあたり、ウクライナが自らの先祖としているのはハーリチ・ヴォルイニ公国です。どちらをキエフ公国の後継とするかで、ロシアとウクライナの意見が分かれているといいます。
どっちが元祖なのかっていう意見対立かな。
ハーリチ・ヴォルイニ公国も、キエフ公国の消滅から1世紀ほどで滅びます。深井さんは、もし残っていればルーツはウクライナという話で終わった可能性が高く、滅びたことでモスクワが正統な後継者を名乗りやすくなったと見ています。
そのうえで深井さんは、とてもデリケートな問題なので、日本人の自分からするとどちらが正しいということはないかなと話しています。
統一権力のない300年で、ウクライナはどう分かれたのか
キエフ公国とハーリチ・ヴォルイニ公国が滅んだあと、ウクライナの地には約300年間、地域を代表する政治権力が存在しませんでした。この間に東スラブ系のルーシの人々は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシへと文化的にも言語的にも分化していきます。
分化の境目について、地形が関わっていると説明されます。ウクライナは黒海から広がる平原を山が囲む地形で、その向こうにベラルーシやモスクワがあり、統一権力が消えたことで人々は土地ごとに分かれていきました。
ウクライナという地名もこのころ初めて出てきたと言われています。意味ははっきりしないものの、「分ける」を意味するクライという言葉と関係があり、領主が分けた土地を指していた可能性があるそうです。
「分ける」には境界線のイメージもあるため、ウクライナという言葉には辺境のニュアンスが生まれました。ロシア人から見るとウクライナはなんとなく辺境、という感覚がこのころ出てきたと説明されています。
ポーランド支配が、ウクライナの東西に何を残したのか
14世紀の初めにはリトアニア大公が、14世紀半ばにはポーランドがウクライナの草原地帯に入ってきて支配を始めます。やがて両国は王家の結婚によって1つの国になり、ウクライナの草原地帯の西半分を支配していきました。
カトリック国ポーランドの支配地域では、中身はほぼギリシア正教でありながらローマ教皇を尊敬する人々が現れます。これがユニエイト(合同教会)で、東方典礼カトリック教会 ── 正教会と同じ典礼や慣習を保ちながら、ローマ教皇の権威を認めるキリスト教の教会。ウクライナ西部に多くの信徒がいますとも呼ばれます。
(カトリックとギリシア正教の)ハイブリッドみたいなことが起こるんですね。
東側はモンゴル系のタタール人の支配下に残り、そこではギリシア正教が信じられ続けました。モンゴルは自分たちの文化を押し付けない統治だったため、今のウクライナの西と東で、文化に少しずつ差が生まれていきます。
カトリックと融合し、ローマ教皇を尊敬するユニエイトが生まれる
統治で文化を強要されず、ギリシア正教がそのまま信じられる
深井さんは、ここで押さえるポイントを3つにまとめます。ウクライナを支配したのはロシアだけではないこと、ウクライナはモスクワと同じルーツを持つこと、分割統治の結果ウクライナ内部でも文化が分かれたことです。
モスクワはなぜ「第三のローマ」を名乗ったのか
2世紀以上続いたタタールのくびきは、モンゴルの内部分裂によって終わりに向かいます。同じころ、1453年にコンスタンティノープルが陥落し、千年以上続いた東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされました。
東ローマ帝国の滅亡を受けて、モスクワ大公国は自分たちこそが第三のローマだと主張し始めます。深井さんは、これをヨーロッパの東の端にある国の権威付け、つまりブランディングだと説明しています。
モスクワ大公国のイヴァン3世 ── 15世紀後半のモスクワ大公。モンゴル支配からの自立を進め、モスクワを中心とする国家の基礎を築いた君主ですは全ルーシの君主を称し、東スラブの人々を統べる存在だと主張しました。もとは北東の小さな一都市だったモスクワは、14世紀初頭から成長し、15世紀半ばには存在感を飛躍的に高めていきます。
深井さんは、モスクワがこう名乗れたのは、キエフ公国のルーツがあるウクライナ側に統一権力がなかったからだと指摘します。樋口さんは、もしそこに強い国があれば「俺らが」と言っていたかもしれないと応じています。
やがてウクライナはモスクワとポーランドに分割される状態になります。深井さんによると、ここから、ウクライナはモスクワを中心とした支配下にある国だという概念がモスクワ側に生まれていきます。分家だったモスクワが、本家キエフがあった場所の人々を治める構図です。
ならず者のコサックは、どうやって政治勢力になったのか
モンゴルに荒らされ、統一権力も失ったウクライナは、深井さんの言葉では日本の戦国時代初期のような「力が全て」の状態になりました。そこで生まれたのがコサックです。
深井さんは、コサックを日本史の悪党 ── 鎌倉時代後期から南北朝時代に、荘園領主や幕府の支配に従わず実力で活動した武装集団を指す歴史用語ですや、オスマン帝国の回に出てきたガージーに近い人たちだと例えます。主に東スラブ人で、トルコ人やアルメニア人のキャラバンやオスマン帝国を襲い、略奪して生きていました。
(コサックって)コサックダンスの。
コサックの首領はヘトマンと呼ばれ、ヘトマンに率いられたコサックはヘトマン国家と呼ばれる国のようなものを作ります。もとはならず者の集団でしたが、軍事力が高まり近隣国から恐れられるようになり、16世紀後半には1つの政治勢力になっていました。
フメリニツキーの反乱から、なぜモスクワへの臣従に至ったのか
コサックのボスであるボフダン・フメリニツキーは、タタールと組んでポーランドに反乱を起こし、ヘトマン国家の自治を一時的に認めさせます。しかしその後タタールに裏切られ、ポーランドに対抗できなくなりました。
そっち(モスクワ)と組むんですね、なるほど。
フメリニツキーたちがモスクワと結んだのがペレアスラフ協定 ── 1654年にコサックのヘトマン国家とモスクワのツァーリの間で結ばれた協定。ウクライナとロシアの関係を語る際によく取り上げられますです。コサックたちは、ローマ皇帝の後継として皇帝を自称していたモスクワの君主、ツァーリに忠誠を誓いました。
これは今回の件、ウクライナの侵攻の件とかの、まあものすごく遠いルーツになったようなものなんじゃないかなと言えるかなと思う。
深井さんは、このペレアスラフ協定から、ロシアの配下にウクライナがいるという流れが出来上がってきたと話しています。
コサックの台頭
統一権力のないウクライナで、コサックが政治勢力に成長する
フメリニツキーの反乱
タタールと組んでポーランドに反乱し、ヘトマン国家の自治を認めさせる
タタールの裏切り
後ろ盾を失い、ポーランドに対抗できなくなる
ペレアスラフ協定
モスクワのツァーリに忠誠を誓い、ロシアに臣従する流れが始まる
ウクライナ側が求めていたのは、忠誠と引き換えの自治でした。しかし実際には、モスクワとポーランドに頭ごなしに統治される結果になり、ウクライナ側には不本意な状況だったと深井さんは説明します。
モスクワとポーランドがウクライナの分割を決めた条約が結ばれたのは1667年です。深井さんは、日本では江戸時代初期、3代か4代将軍のころではないかと話しています。
マゼッパはなぜピョートル大帝を裏切ったのか
フメリニツキーに続く強力な指導者として現れたのが、イヴァン・マゼッパです。マゼッパはロシアのピョートル大帝 ── 17世紀末から18世紀前半のロシアの君主。西欧化と中央集権化を進め、ロシアを大国へ押し上げましたと信頼関係を築きました。
マゼッパはウクライナの自治を広げ、独立的な国家に近づけたいと考えていました。一方のピョートル大帝は中央集権国家を作りたいと考えていて、両者の利害は一致していませんでした。
深井さんによると、強いコサックの兵士たちはピョートル大帝に消耗品のように使われてしまいます。ただし深井さんは、これはウクライナの歴史書から見た表現で、ロシアの歴史書ならそうは書かれていないだろうと注意を添えています。
親ロシア的な態度を取っていたマゼッパは、戦争に駆り出されて大きな損害を受けたことで、ロシアとやっていくのは嫌だと感じ、ピョートル大帝を裏切ります。しかしピョートル大帝には全く勝てず、モスクワが圧勝しました。
このころからモスクワは自らをロシアと名乗るようになります。ここからロシアがさらに大きくなっていく話は、次回に続きます。
まとめ
第1回では、ロシアとウクライナが同じキエフ公国から生まれながら、宗教や支配者の違いを経て分かれ、ペレアスラフ協定を通じてウクライナがロシアの配下に置かれる流れができるまでがたどられました。深井さんは、本に書かれていることと自分たちの意見を分け、受け取り方はリスナーに委ねる姿勢を繰り返し示しています。
- ロシア、ウクライナ、ベラルーシは、いずれもキエフ公国と東スラブ人をルーツに持つ
- ギリシア正教とキリル文字の受容が、東スラブ文化圏と西ヨーロッパの違いのルーツになった
- キエフ公国の後継をモスクワとハーリチ・ヴォルイニのどちらと見るかで、ロシアとウクライナの見方が分かれている
- ポーランド・リトアニアとタタールの分割支配で、ウクライナの西と東に文化の差が生まれた
- コサックがペレアスラフ協定でツァーリに忠誠を誓ったことが、ロシアに臣従するウクライナの始まりとされる





