ロシア帝国はウクライナをどう飲み込んだのか
前回のコテンラジオでは、ウクライナのコサックがモスクワ大公国に抗って敗れ、モスクワ大公国がロシアを名乗り始めるところまでが語られました。今回は、そのロシアが帝国化して強くなる中で、ウクライナの土地がロシアの一部にされていく歴史から始まります。
深井さんによると、ロシアの帝国化はピョートル大帝の100年ほど前、イワン雷帝 ── 16世紀のロシアのツァーリ(皇帝)。権力を強めて国土を広げた一方、激しい気性で知られ、息子を殺した逸話が残っていますの頃に始まりました。ピョートル大帝の時代に大きくなり、その後のエカチェリーナ2世の時代にさらに拡大していきます。
この拡大の過程で、ロシアは自分たちを「大ロシア」、ウクライナの人々を「小ロシア」とみなすようになりました。ロシア皇帝は「大ロシアおよび小ロシアの専制君主」を名乗るようになっていきます。
1774年には、オスマン帝国を宗主とするクリミア・ハン国からクリミア半島を奪い、ロシア帝国に併合しました。今のウクライナの土地は、こうしてロシアにどんどん取り込まれていったと深井さんは説明します。
エカチェリーナ2世の「完全な併合」と小ロシア
エカチェリーナ2世は、ピョートル大帝の遺志を継いでロシア帝国を中央集権化し、領土を広げた女帝です。この女帝が、ウクライナの自治組織を完全に解体してしまいました。
それまでのウクライナは、自治組織を残したまま支配下に置かれる形でした。エカチェリーナ2世の時代からは知事が派遣され、ロシアの行政区の1つとして扱われるようになります。コサックの連隊もロシア軍に編入されました。
なんか廃藩置県とかに感覚近いんですか?
樋口さんの問いに対し、深井さんは廃藩置県とは違うと答え、日露戦争後の韓国併合に近いと説明しました。楊さんは、琉球の国王を日本に連れてきて県知事を送り込み、沖縄県にした琉球の併合にも似ていると補足しています。
自治組織を残したまま、ロシアの支配下に置かれる
自治組織が解体され、知事が派遣される一行政区になる
その後の行政上の正式名称は「マロロシア」、つまり小ロシアでした。ウクライナには9つの県が置かれ、港町オデッサだけが中央の直轄地として治められていたといいます。
西側はオーストリアへ。なぜウクライナは分割され続けたのか
東側をロシアが内部化していく一方で、ポーランドが治めていたウクライナの西側では、ポーランドの国力が落ちていきました。代わりに台頭したのがプロイセンやオーストリアで、西側は主にオーストリアに支配されるようになります。
深井さんによると、土地の比率では今のウクライナの80%がロシア帝国、20%がオーストリアという状態でした。14世紀から続いたポーランドによるウクライナ支配は、1700年代後半にいったん終わります。この体制は第一次世界大戦までの約120年間続きました。
ロシア帝国が支配し、行政区として内部化
ポーランドの衰退後、主にオーストリアが支配
ウクライナの支配者がたびたび変わる理由について、深井さんは大国と大国の間にある立場の不安定さに加え、地形を挙げます。ウクライナは西からも東からも入りやすい広い平原で、一度入られると守りにくい土地です。
(ウクライナは)みんなが欲しがる上に攻めやすい場所で、こんな風にいろんな国に分割されてしまうっていう運命をたどっているんだと思います。
ウクライナはギリシャ神話の時代から穀倉地帯として知られる豊かな土地でもあり、欲しがられやすく攻めやすいという条件が重なっていたと考えられます。
ナポレオン戦争で見えたロシアの遅れ
1700年代後半から1800年代前半にかけて、フランス革命とナポレオンの時代が訪れます。イワン雷帝からエカチェリーナ2世の時代まで力をつけてきたロシア帝国は、この時代以降、産業革命のイギリスやフランス、追い上げるプロイセンに対して後進国の立場になっていきました。
ナポレオンが強かったのは、国民国家の軍だったからだと深井さんは説明します。それ以前のヨーロッパの戦争は、貴族同士、傭兵同士の「仕事としての戦争」でした。
自分たちには人権があって、この国っていうのは自分たちの国なんだと。自分たちの国を守るために戦うんだっていう兵士が初めて出てきたわけです。
深井さんはすぐに、正確にはギリシアの民主政以来、久しぶりに出てきたのだと言い直しています。こうした国民国家 ── 共通の「国民」意識を持つ人々がまとまって作る国家。フランス革命を機に広まり、近代国家の基本的な形になりましたの登場で、世界史はダイナミックに変わっていきました。
ナポレオン戦争に参加したロシアの兵士たちは、西ヨーロッパに比べてロシアの生活が遅れていることに気づきます。当時のロシアは農奴制 ── 農民が土地に縛られ、移動の自由がないまま領主に重い負担を課される制度。ロシアでは1861年の農奴解放令まで続きましたで、移動の自由のない農民が重税の中で貧しく暮らしていて、産業がなかなか育ちませんでした。
国民国家の登場
フランスで国民国家の軍が生まれ、ナポレオンが勝ち続ける
遅れの自覚
ナポレオン戦争に参加したロシア兵が、西欧との格差に気づく
近代化の必要
近代国家にならないと戦争に勝てないとささやかれ始める
根本の問題
近代化の要として「ロシア人とは何か」が問われる
近代国家化の要になるのは「ロシア人とは何か」という問いでした。深井さんは、ロシアはこの問題を片付けることができなかったと強調します。
クリミア戦争の敗北が突きつけた危機感
1853年、ロシアはクリミア戦争を始めます。ロシアは伝統的に南下政策 ── ロシアが不凍港や地中海への出口を求めて南へ勢力を広げようとした外交方針。オスマン帝国やイギリスとの対立を生みましたをとっており、南にあるオスマントルコ帝国と戦うことになりました。
ところが、オスマントルコが倒れると世界の均衡が崩れるとして、イギリスとフランスがオスマントルコ側で参戦します。イギリス、フランス、トルコを相手にしたこの戦争に、ロシアは1856年までに敗れました。
深井さんは余談として、この戦争で知られるようになったのがナイチンゲールで、看護師の概念が出てくるのもこの頃だと触れています。
ナポレオンを追い返した大国として認識されていたロシアは、この敗北で威信を失いました。西欧化と近代化を進め、国民国家として生まれ変わらないと国力を維持できないという危機感が強まっていきます。
「自分たちはロシア人じゃない」ウクライナの民族意識
ちょうど同じ頃、世界では国民や民族という概念が生まれていました。深井さんによると、民族とは何か、国民とは何かが定義されたのはこの時代で、昔からあったものではありません。
マロロシアとしてロシアに編入されていたウクライナの人々も、国民国家の概念に触れて、ある感覚を持つようになりました。
深井さんは、このときウクライナの人々が自分たちをロシア人だと思っていたら今回の件は起きていないし、その自己認識が尊重されるべきだという話を今の世界各国はしていると指摘しました。
ロシア政府はそれに対して弾圧していくんだよね。ウクライナ語を禁止したりとかして。
ロシア帝国にとって、一地方であるマロロシアに独立されるのは困ることでした。それでもウクライナの人々は、何の単位で集まるかを考え直す中で「僕たちはロシアとは違う」と主張し始めます。
国民国家になれた国、なれなかった国
ウクライナのような地域を抱えたロシア帝国は、1つの民族としてまとまりませんでした。そのため近代化の波に乗れず、ついには日露戦争で、ヨーロッパやロシアから見れば「ちょんまげを結っていた後進国」だった日本に負けてしまいます。
深井さんは、この流れを理解することが大事だと強調します。世界が国民国家化に向かったとき、うまく国民国家を形成できた国となれなかった国に分かれ、第一次世界大戦の頃には、なれなかった国が負けていったのです。
イギリス、フランス、ドイツ、日本
ロシア、オスマン・トルコ、オーストリア(ハプスブルク帝国)
うまくいかなかった国々は、自分たちを新しい単位でまとめようとしたときに説明ができず、統制が取れないまま、第一次世界大戦で退場していきました。
その苦しみは今も抱えてるもんね、ロシアは。
深井さんは、この流れが今のロシアにもずっと続いていることが今回の大切なポイントだと応じ、先の展開も明かしました。
ロシア帝国
国民国家化できずに崩壊する
ソビエト連邦
共産主義というイデオロギーでまとまろうとするが、うまくいかず崩壊する
ロシア連邦
何でまとまればいいかわからない状態のまま国を作っている
(プーチンが)なんとかまとめようとしてるけれども、なかなか思うようにはいかないっていうのが今の状況。
血の日曜日事件と、ウクライナの工業化
国民国家化できなかったロシアは日露戦争に負け、その後に血の日曜日事件が起こります。生活の苦しさを訴えて皇帝ニコライ2世に優しくお願いに行った民衆を、皇帝の軍が射殺した事件です。ロシアは混乱し、グダグダの状態で第一次世界大戦に向かいます。
同じ頃、ロシアの一部だったウクライナも近代化を進めていました。もともと穀倉地帯だったウクライナは、ロシアにとっての工業化の先駆けになっていきます。
工業化の鍵は鉄道でした。19世紀後半のヨーロッパで鉄道ブームが起こるなか、ロシアはクリミア戦争の敗因を輸送インフラの弱さだと考え、モスクワとウクライナの主要都市を結ぶ鉄道網の整備に力を注ぎます。ウクライナ南東部に石炭と鉄が多いことも、この頃わかっていきました。
クリミア戦争の敗北
輸送インフラの弱さが敗因と認識される
鉄道網の整備
モスクワとウクライナの主要都市を結ぶ
工業化
資源のあるウクライナが先行して工業化する
ロシア人の移住
工場労働者として大量のロシア人が働きに来る
なぜウクライナにロシア人が多く住むのか
ウクライナが先に工業化した結果、工場労働者として大量のロシア人がこの地方に移り住みました。深井さんは、これが今の問題の遠因の1つになっていると話します。
侵略してる口実がロシア人の保護なわけ。
ウクライナやバルト三国など、ロシア連邦の周辺国にロシア人が住んでいる状況は、うまく国民国家化できなかったことから生まれたと深井さんは見ています。国は別々でも、ロシア人と呼べる人たちが住んでいる状態をどうするかが、プーチン大統領の永遠の課題の1つだといいます。
楊さんは、ロシア人が移住してきた理由を補足しました。ウクライナ人は農業に従事していて、資源と海に恵まれた工業地帯ができても、工場で働きたがらなかったのです。
だから、ロシア本国からロシア人が労働力として連れてこられるわけですよね。移住してくるわけです。
その後ソ連が崩壊して国々がバラバラに独立したとき、ロシアではない国にロシア人が多く残る状況が生まれました。楊さんによると、今のロシアは、ロシア民族とロシア語を話す人を攻撃から守ることを国家の権利と義務と定めています。これは1990年代にエリツィン ── ソ連崩壊後のロシア連邦の初代大統領。1991年から1999年まで務め、後継にプーチンを指名しました大統領が初めて主張し、のちにロシアの軍事政策に盛り込まれたものです。
14か月の独立と、4か国による分割
ロシア帝国が崩壊して皇帝が処刑された直後、ウクライナは独立を果たします。もともと自分たちはロシア人ではないという自覚を持っていたウクライナの人々は、議会を作って自分たちの国を立ち上げました。
しかしソビエト連邦ができると、ウクライナは再び包含されてしまいます。独立できていたのは14か月ほどでした。深井さんは、短い独立だったとしても、独立したかったこと、そして独立できたことの両方が重要だと話します。
ソ連に包含されたとき、ウクライナは4か国に分割統治された状態でした。ほとんどはソ連の領地で、西側のごく一部がポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアに分かれていました。
うわぁ、バラバラやん。
ソ連の領地には名目上「ウクライナ・ソビエト共和国」がありましたが、独立国家としての主権はまったくありませんでした。
日本は島国だから近代化しやすかった?
深井さんによると、ウクライナに限らず、ユーラシア大陸の中央あたりの国々は、国民国家化の際に同じ問題を抱えていました。陸続きなので、どこからどこまでを自分たちの国にするかについて、隣国と利害が一致しないのです。
深井さんは、その点で日本が島国だったことは近代化に大いに役立ったといいます。
そうだよね。入れ物が目ではっきりと見えるからね。
誰から誰までが日本人かというコンセンサスがとても簡単に取れたわけ。
ロシア帝国から見ればウクライナ人もロシア人でしたが、ウクライナ人から見れば両者は別々でした。深井さんは、当のウクライナの人々が自分たちをロシア人ではないと捉えていること、それがフメリニツキーらのコサックの時代から続いていることが大事だと念を押します。
そこに、工業化の時代の移住によって、自分をロシア人だと思う人たちが20%ほど混ざっていきました。同じマロロシアの中でも混ざっていなかった人々が、近代化で混ざるようになったのです。
スターリン時代のウクライナはなぜ「最悪」だったのか
ソ連の最初の指導者レーニンは、比較的懐柔的で、ウクライナを強く弾圧する政策はあまり取らなかったといわれます。深井さんは、当時のウクライナ人に聞けばそうではないと言う可能性も高く、あくまでスターリンと比べた話だと断っています。
スターリンはソ連の中央集権化を進め、ウクライナの自治を認めず、ウクライナ語の使用も禁止しました。さらに社会主義国家として農業を集団で行わせる政策をとり、これが大失敗します。
穀倉地帯のウクライナで大飢饉が起こり、正確な数はわからないものの、ソ連全体で300万から600万人が餓死したといわれています。集団農業がうまくいかないのに輸出を多くしたため、国内に穀物がなくなったようです。
これがまたソ連に対するしこりとして残っていくよね。
スターリンは権力基盤を固めるため、大テロル ── 1930年代後半にスターリンが行った大規模な粛清。政敵や党幹部、軍人など多くの人が処刑・投獄されましたと呼ばれる粛清も行い、幹部を大幅に入れ替えて政敵を殺していきました。レーニンはウクライナ人を政府要職に登用していましたが、ジョージア出身のスターリンはその方針を改めています。
ウクライナ語は禁止され、中央集権化され、粛清も受ける。深井さんは、ウクライナにとって最悪の状態だったと表現しました。
第二次世界大戦で「全部」ソ連にまとめられたウクライナ
第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、ポーランドは3週間で崩壊しました。ソ連とドイツがポーランドを分け合い、ポーランド領内のウクライナ人居住地域がソ連に編入されます。ルーマニアの一部にあった地域も併合され、今のウクライナの地域がすべてソ連に入っていきました。
その後ソ連はドイツと戦い、ヒトラーとスターリンの戦いに勝利します。アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリンによるヤルタ会談 ── 1945年2月、クリミア半島のヤルタで米英ソの首脳が戦後処理を話し合った会談。東欧の戦後体制などが決められましたで戦後の枠組みが決められ、4分割されていたウクライナはほぼすべてソ連のもとにまとめられました。
まだどころか全然できてないですね。ソビエト連邦崩壊するまで独立できないんで。
フルシチョフはなぜクリミアをウクライナに渡したのか
1953年にスターリンが亡くなり、フルシチョフの時代が来ます。その後ブレジネフ、ゴルバチョフと続き、ソ連の指導者たちはウクライナを含む周辺国に、懐柔策と強硬策を交互に取っていきました。
フルシチョフはウクライナに好意的でした。ドンバスで金属工として働くなど長くウクライナで過ごした経験があり、親ウクライナでもあったといいます。この時代には中央政府でウクライナ人の地位も上がっていきました。
そしてフルシチョフは、ウクライナを懐柔して自分の側につけ、政権基盤を固めるため、クリミアをウクライナに移管しました。深井さんは、そのクリミアを2014年にロシアが奪ったのだと結びつけます。
楊さんの補足によると、クリミア半島はロシア帝国がクリミア・ハン国を滅ぼして手に入れて以来、ずっとロシアにくっついていました。ソ連時代はロシア共和国もウクライナ共和国も同じソ連の中の国だったので、どちらの管轄かはあまり大事ではなかったのです。
ところがソ連が崩壊すると、1つの国の中で渡していたクリミアが、ロシアから見れば「取られた」状態になりました。
ちなみにこのことに対して、今のプーチンはまるでジャガイモを譲り渡すかのように、クリミアを渡したっていう風に言ってますね。
深井さんはこの発言を、フルシチョフは軽率だった、何を渡しているんだという意味だと受け止めています。
ソ連の中でロシア共和国からウクライナ共和国へ移管。同じ国の中なので大きな問題ではなかった
ソ連崩壊後、ウクライナに編入された状態になり、ロシアから見れば「取られた」形になる
ブレジネフの締め付けと、混ざり合う都市
1960年代に政権を担ったブレジネフは、再びウクライナに厳しくなります。ウクライナ人という単位でまとまることに逆風が吹き、ロシア語が奨励され、ウクライナ語の使用は妨げられました。
出版物では、面白いものをロシア語で、面白くないものをウクライナ語で書かせて、ウクライナ語の読者を減らすような政策もとられたといいます。ウクライナ人のアイデンティティをなくそうとする政策でした。
一方でソ連経済は悪化を続けていました。1950年代に10%を超えていた工業成長率は、1980年代には3.5%まで落ちています。
フルシチョフとブレジネフの時代を通じて、ウクライナはソ連のもとで工業化と都市化が進みました。農村部にウクライナ人、都市部にロシア人という住み分けが崩れ、都市でも両者が混ざって暮らすようになっていきます。
グラスノスチとペレストロイカは何を引き起こしたのか
1985年、ボロボロになったソ連でゴルバチョフが政権を担い、2つの政策を始めます。秘密主義をやめて積極的に情報を公開するグラスノスチ ── ロシア語で「情報公開」の意味。ゴルバチョフが進めた政策で、言論の自由化にもつながりましたと、ソ連の体制を社会主義国家としてバージョンアップするペレストロイカ ── ロシア語で「再建・立て直し」の意味。ゴルバチョフが進めた政治・経済の改革で、市場経済の一部導入などを含みましたです。
ゴルバチョフは、テコ入れをすればソ連は社会主義国家として存続できると考えていました。しかし実際にはグラスノスチが先に進み、公開された汚職や秘密会談に国民の批判が集まって、民主主義的な動きに火がついていきます。
同じ時期にはチェルノブイリ原発事故が起こり、事故が数日伏せられたこともあって、社会主義国家への失望が広がりました。経済もうまくいかず、自由市場経済のほうがいいのではないかという空気が強まります。
抑えられていた不満が抑えられなくなるなか、ウクライナはウクライナ語を国語とするなど、自分たちの主張を始めました。リトアニア、エストニア、ラトビアのバルト三国など、自分たちはロシア人ではないと思っていた人々も同じように動いていきます。
ロシアの「一抜け」がソ連を終わらせた
楊さんは、ソ連崩壊後の地域の展開をわかりやすくするため、崩壊の経緯を詳しく説明しました。ゴルバチョフは計画経済に市場経済を一部取り入れ、多党制も導入しようとしましたが、既得権益を持つ共産党の保守派にとっては都合が悪く、改革は進みませんでした。
そのなかで、ソ連を主導していたロシア共和国が不満を抱き始めます。ロシア共和国の大統領になったエリツィンから見ると、バルト三国のような西側の国は生活水準が高く、カザフスタンやキルギスなど中央アジアにはロシアが多く援助していました。
自分たちより豊かな生活をしている人は豊かな生活をしているし、その自分たちより豊かじゃない生活をしている人のために、自分たちめちゃくちゃ頑張ってる。
割を食っていると感じたロシア共和国は、自国の権限は自分で持つという主権宣言を出しました。困ったゴルバチョフはエリツィンと会談して改革に合意しますが、その内容をKGB ── ソ連の国家保安委員会。秘密警察・情報機関として国内外の監視や諜報を担いましたに盗聴されていました。
改革を阻みたいモスクワの保守派はクーデターを起こし、休暇でクリミアにいたゴルバチョフを拘束します。これに対しエリツィンはロシア共和国内で共産党の全権限を停止すると宣言し、ソ連の権力は骨抜きになりました。
改革の停滞
市場経済や多党制の導入に、共産党の保守派が抵抗する
ロシアの主権宣言
割を食っていると感じたロシア共和国が自らの権限を主張する
クーデター
合意を盗聴した保守派が、クリミアでゴルバチョフを拘束する
共産党の停止
エリツィンがロシア共和国内で共産党の全権限を停止する
CISの結成
ソ連の消滅を盛り込んだ条約で、構成国が主権国家として独立する
支配者だったロシアの一抜けに驚いたのは、ウクライナやベラルーシ、カザフスタンなどの共和国でした。ロシア、ウクライナ、ベラルーシの大統領が集まった「ベロヴェーシの森の陰謀」で、対等な共和国が協力し合う独立国家共同体 ── ソ連崩壊時に旧ソ連の構成国の多くで作られた緩やかな国家連合。英語の略称はCISですを作ることが決まります。
CISを作る条約には、加盟すればソ連は消滅するという条文が入っていました。ソ連を構成していた15か国のうち、バルト三国を除く12か国が参加し、ソ連は消滅します。こうしてウクライナも、主権を持つ国家として独立を果たしました。
ここまでの歴史を振り返ると何が見えるか
深井さんはこの回の最後に、キエフ公国からの流れをもう一度まとめました。キエフ公国がモンゴルの来襲で滅び、ハーリチ・ヴォルイニ公国とモスクワ公国に分かれたこと、統一権力のないウクライナでコサックが独立を目指し、最後はモスクワに臣従したことなど、前回の内容もあわせて振り返っています。
深井さんはロシアが国民国家化に失敗した理由を、地理で決まっていたと説明します。日本やイギリスのような島国はやりやすく、イギリスが統治したインドのように明確に分けて治められる土地もありました。陸続きで民族的な連続性や共有する歴史もあるロシアでは、それが難しかったのです。
ソ連崩壊の瞬間、独立を宣言したウクライナには20%ほどのロシア人が暮らしていました。クリミアはごく最近になってウクライナに管轄を移された地域で、ロシア人が多く住む地域がルガンスクとドネツクだと深井さんはまとめています。
でもなんか全然独立できない状態がめっちゃ長く続いてるんですね。
ウクライナの論理とロシアの論理
深井さんは、この歴史の経緯を踏まえれば、ウクライナの人々が独立を求め、今自分たちの独立のために戦っていることも理解できると話します。
わかりますよね。僕たち日本人でも多分戦うと思う。そのように。
深井さんはこの例えは危険だと断りながらも、その気持ちがよくわかると述べました。一方で、プーチン大統領が大国としてふるまうのも、ロシアの歴史的な経緯の延長線上にあると説明しています。
ソ連時代は共産主義というイデオロギーでまとまっていましたが、それがうまくいかなくなった今、どうするのか。深井さんは、プーチン大統領が世界の賛同を得られるような論理を持ってこられていないことが今の問題につながっているのではないかと述べました。
深井さんは、国民国家化の失敗は歴史的にほぼ確定だとしつつ、それをプーチン大統領が引きずっているという見方は本に書いてあったことではなく自分の意見だと明確に区別しています。次回はプーチン大統領の人生が語られます。
まとめ
この回では、ロシア帝国に組み込まれたウクライナが、民族意識を育てながら支配者の交代に翻弄され、ソ連崩壊でようやく独立するまでがたどられました。根底にあるのは、ロシアが国民国家としてまとまれなかったという問題だと深井さんは整理しています。
- ウクライナはエカチェリーナ2世の時代に自治を失い、「小ロシア」として行政区に組み込まれた
- 国民国家の概念が広がると、ウクライナの人々は「自分たちはロシア人じゃない」と考えるようになった
- 工業化に伴うロシア人の移住が、現在の「ロシア人保護」という侵攻の口実の遠因になっている
- クリミアはフルシチョフの時代に、懐柔策としてソ連の中でウクライナに移管された
- 深井さんは、国民国家化に失敗したロシアがまとまる論理を持てていないことが今の問題につながっていると見ている





