チンギスからバトゥまで、ユーラシアを覆う拡大の速度
モンゴル帝国襲来編の第2回は、視点を日本からモンゴルへ移し、チンギス・カーンからクビライまでの流れを振り返るところから始まります。
1206年、テムジンがモンゴリアの遊牧民族を統一して即位し、チンギス・カーンを名乗ります。それ以後20年間で、西夏、ウイグル、そして強国の金を次々に侵攻していきました。
番組では、モンゴルの「国」の感覚が現代とは違う点が改めて説明されます。モンゴル語で国を指すウルスは、土地や領域ではなく人間集団を指す言葉です。
人間集団が移動すればウルスも移動するという、僕たちと全く違う感覚の国という感覚を持ってる。それがモンゴルの人たちでしたね。
この遊牧民由来の性格が、機動的で精強な騎馬軍団の強さと結びついていたと語られます。
(モンゴルの騎馬軍団は)いわゆる銃が普及するまで本当に世界最強なのよ。しかも断トツで。
チンギスは1227年に死去し、内紛の末に三男のオゴデーが2代皇帝を継ぎます。オゴデーは1234年に金を滅ぼし、中国の北半分を併呑しました。
さらにオゴデーの甥バトゥが、遥か西方の東ヨーロッパまで手を伸ばします。ボルガ川に至り、キプチャク大平原から南ロシアを含む広大な地域を支配していきました。
バトゥはさらにハンガリーを撃破し、東欧に進出して、今のオーストリアのウィーン直前まで迫ります。
(地図で見ると)ユーラシア大陸ほとんど入ってるやんみたいな。
ただし当時のモンゴルが中国全土を治めていたわけではありません。南宋、チベットの吐蕃、四川あたりの大理国などが、まだ南中国に割拠している状態でした。
後継争いの果てに立った四代皇帝モンケ
ウィーン陥落かと思われた1241年、2代皇帝オゴデーがいきなり死去します。これによりバトゥは引き返しました。
番組では、この死がなければヨーロッパ側へさらに攻め込んでいた可能性があると語られます。当時の東欧では、ローマ教皇庁と神聖ローマ皇帝が互いにいがみ合っていた状況でした。
オゴデーの死後、5年間にわたる内戦が勃発し、その末に庶長子のグユクが三代皇帝として即位します。しかしグユクは、対立していたバトゥに暗殺されてしまいます。
(後継争いは)ぐちゃぐちゃだろ。
一悶着の末、バトゥに押される形で四代皇帝が即位します。これがチンギスの末子トルイの子であるモンケでした。
樋口さんは、日本の北条一族の名前が「時なんとか」ばかりでややこしいのと同じく、モンゴル側も馴染みのなさでややこしいと冗談を交えます。
モンゴルの人から言わせたらね、日本の方が覚えづらいって言われると思うよ。時なんとか、時なんとか、なんとか時とか言って。
モンケは1251年に正式にカーンとなります。ここでカーンは皇帝を指す一方、王もカンと呼ばれることがあり、カーンとカンの区別があると補足されます。
後継を決めるのはクリルタイという部族長が集まる会議ですが、この頃には全員を集めず、勝手に開いて決めてしまう状況だったと語られます。
弟2人に東西を任せる、モンケの遠征命令
モンケも即位してすぐ、先帝たちに倣って未征服の土地へ遠征します。番組ではこれを「Vの論理」と呼び、皇帝は周辺諸国を攻めるものだという価値観だと解説します。
モンケは2人の弟を指揮官として、西方と東方に大軍を派遣します。三番目の弟フレグには西アジアの攻略を命じました。
フレグは1253年にモンゴル本土を出発し、5年後の1258年にバグダッドを攻略してアッバース朝を滅ぼします。深井さんは、この事実の重さを強調します。
そのアッバース朝を、皇帝がわざわざ現地に出向くのではなく弟を派遣して滅ぼす、という規模感が語られます。
もう一人の弟クビライには、中国や朝鮮、大理国など東方の攻略が任されました。番組では、この任せ方をグローバル企業の一部署のようだと表現します。
(国を攻めるのを)一部署でやってるぐらいの感じだよね、国とかじゃなくて。
内政から軍事デビューへ、異色のクビライ
この東方攻略が、クビライにとって初めての本格的な軍事・政治デビューだったと語られます。それまでのクビライは、自分の宮殿から離れず母を助けて内政を取り仕切っていました。
クビライは母の指導のもとで学問を学び、マネジメントを学んだのではないかと言われています。ここから、腕っ節ではないタイプの皇帝像が浮かびます。
(クビライは)珍しく腕っ節系じゃない可能性があるんだよね。チンギスとかさ、めちゃくちゃ強い。そういう感じとまた違うタイプの皇帝。
ただし文化系といっても、武力を持たないわけではありません。武力も文化系の領域も両方持ち、人もバンバン殺す君主だと補足されます。
クビライがモンケから任されたのは南宋の攻略でした。南宋は、唐滅亡後の五代十国時代を制した宋が、金に追われて南へ逃げて立て直した中華王朝です。
南宋は文化的に世界最高水準にあり、少なく見積もっても人口3000万人はいたとされます。当時の鎌倉時代の日本とは桁違いの規模でした。
さらにクビライには、大理国、ベトナムの大越国、ミャンマーの緬国なども任されます。東方を任されるとは、これらをまとめて攻略することを意味していました。
3、4百キロの荒野が阻む南宋攻略
南宋がなかなか滅ぼせなかった理由の一つが、南宋とモンゴルの間に広がる荒野でした。その幅は300から400キロにわたっていたと語られます。
幅3、4百キロの荒野がグーってあったから、その兵站が大変じゃん。ご飯を続かせるのが大変で、なかなか攻めれなかった。
南宋はモンゴルより兵力があり、水軍も持っていました。荒野を越えての正面攻撃は難しく、これが30代後半のクビライに任されたミッションでした。
番組では、この規模を日本の合戦と対比します。日本では三浦氏や北条氏が数百騎、多くて千人ほどで戦っていた時代でした。
何十万とかで3百キロ、4百キロの荒野を越えて、数カ国を同時に相手してくださいみたいなのを総司令官になって戦ってますみたいな人がこの後日本に来るからね。
そのためクビライは、まず荒野のある南宋を後回しにし、大理国から攻める初陣に臨みます。
使者殺害への怒りと、諫言を容れたクビライ
大理国征伐では、プチエピソードが紹介されます。クビライが大理国へ派遣した使者を、大理国側が殺してしまったのです。
これに激怒したクビライは、住民を皆殺しにするよう命じます。しかし側近の漢民族の官僚たちが諫めました。
民の罪はございませんから、もうちょっと許してあげてくださいよ。
クビライはこれを聞き入れ、布を裂いて旗を作り、殺戮をやめる命令を書き起こして掲げたと伝わります。番組では、美化された可能性にも触れます。
このエピソードが示そうとしているのは、クビライのそばに漢民族の官僚がいて、その諫言を君主として受け入れた姿だと解釈されます。
諫められて言うこと聞くとかってもう中国の美徳だからさ。
南宋という中華王朝の征服を担うクビライが、後天的にこうした振る舞いを学び、忠誠心を得ようとしたのではないか、と語られます。
キリスト教徒の母と、中国皇帝へ寄っていく学び
ここからクビライ自身がより詳しく語られます。クビライはチンギスの子トルイの息子、つまりチンギスの孫にあたります。
実母はトルイの正妻ソルコクタニで、ネストリウス派キリスト教徒でした。7世紀に唐に伝わった一派です。
母ソルコクタニは他の宗教を排除せず、文化教育に熱心でした。黄金や土地を拠出してムスリムのための学校を建てさせたという記述も残っています。
多文化、ダイバーシティみたいな、なんかそういった文化圏だったんじゃないかな。
クビライの見た目については、マルコ・ポーロの記述が残っています。ただしマルコ・ポーロはクビライにべったりだったため、番組では信頼度に留保が付けられます。
体の大きさはちょうどよく、小さくも大きくもない。中くらいの大きさでかっこよく肉がついている。
深井さんは、これはむしろ褒めづらい見た目を、怒られないよう無理に褒めた表現ではないかと推測します。
母の教育の影響を伝える資料もあります。ソルコクタニは学者を集め、クビライに帝王学を学ばせたとされます。多少盛られている可能性にも触れつつ紹介されます。
クビライは古い官僚や各地の学者を招き、国を治める道を問うたと描写されます。座学で学び、有能な人を集めて統治のあり方を教わったというのです。
めちゃくちゃ中国の倫理って感じだね。中国がいいと思う王様像ですね。
さらにモンゴル人の学生に儒学の本を学ばせ、儒教が分かる中国人官僚にモンゴル語を習得させて、儒教のテキストをモンゴル語に訳させたとも記録されています。
クビライは馬に乗りながら儒教を聞いたとも伝わります。番組では、これを「生きたオーディブル」と例えます。
クビライは異なる意見も一旦すべて聞く姿勢を持っていたとされ、中華王朝についてある気づきを得たと語られます。
(歴代の中華王朝で)君主を諫める人はいたけど、耳の痛いことを聞き入れる皇帝がいなかったのが、衰えた原因なんじゃないか。
深井さんは、クビライの代から中国の理想的皇帝観にかなり寄ってきた点が興味深いと語ります。実際この後クビライは南宋を滅ぼし、中国の後継王朝である元を作ることになります。
草原の外で迎えた拡大の限界と、南宋征服の意味
1260年頃、ちょうど日本で北条時頼が専制を固めていた時代に、モンゴルは従来のやり方での拡大が限界を迎えていたと語られます。
その理由は、草原がなくなってきたことでした。馬で戦える草原では圧倒的に強い一方、そうでない場所では別の要素が必要になります。
(草原じゃないところは)軍事組織の根本的変革とかね、いろいろしないといけなかったり、海軍が必要になったりする。
この限界を突破し得るのが、南宋やアッバース朝の征服でした。そこにある技術や文化を吸収できるからです。
クビライが中国皇帝らしくなっていくことも、このモンゴルの限界を突破しようとする動きと結びついていたと整理されます。
馬と羊を連れていける土地では圧倒的に強く速いが、草原の外では強みが効かなくなっていた
南宋やアッバース朝を征服し、その技術・文化・統治を取り込むことで限界の突破を図った
クビライは初陣で大理国を滅ぼし、次のターゲットを南宋に定めます。しかし直ちに攻めず、長期戦の構えを取りました。これに大カーンのモンケが苛立ちます。
四川の暑さに倒れたモンケと、クビライの選択
モンケは自ら軍を率い、大理国側から四川の山岳地帯へ進軍します。荒野を避け、山から攻める方がまだましだという判断でした。
ところが四川は夏の暑さと湿気が激しく、疫病が蔓延していました。おそらく赤痢かコレラで、モンケ自身が亡くなってしまいます。
(皇帝が亡くなるとは)ちょっと四川舐めすぎだ。
兄である皇帝の死により、クビライには2つの選択肢がありました。すぐモンゴル中枢に戻って後継争いに加わるか、戦争を続けてモンケの遺志を継ぐ姿勢を示すかです。
モンゴルの中枢部に戻り、後継者争いにいち早く参画する
南宋への戦争を続け、モンケの遺志を継ぐことを内外に示す
クビライは戦争を継続する道を選び、南宋を取りに行きます。番組では、この判断が結果として後の後継争いで彼を優位に立たせたと語られます。
2人のカーンが並び立った4年の内戦
モンケの後継候補としては、弟たちと、モンケの子供たちが考えられました。ただし子供たちはいずれも20代で、モンゴルでは若造扱いされたと語られます。
歴代の大カーンは、チンギスもオゴデーもグユクもモンケも40代で即位していました。そのため後継レースで有利だったのは、40代の弟たちでした。
フレグはアッバース朝を滅ぼしたものの、遠すぎて皇帝にはなれません。こうして後継争いは、クビライとアリクブケの実質一騎打ちになります。
結論から言えば、モンケの死の翌年、両者ともに勝手にクリルタイを開いて「俺がカーンだ」と名乗りました。
どちらも勝手にクルルタイを開き、俺がカーンだと言って名乗るってことをしますね。
この時クビライが有利だったのは、先帝の遺志を継いで南宋を攻めていたため、モンゴル軍を集結させる権利を持っていた点でした。
2人のカーンが並び立ち、4年間にわたる皇帝同士の戦争に突入します。この構図は、19歳などで執権を継いだ日本の鎌倉時代とは対照的だと語られます。
2つの派閥は方向性でも分かれていました。アリクブケ側は遊牧社会の優越性に固執し、クビライ側は定住民社会と遊牧社会の一体化を目指しました。
うまく融合した方が残ったんや。面白い。
4カ国の連邦の頂点に立ったクビライ
武力に勝るクビライがアリクブケを下し、決着がつきます。アリクブケは処刑されず除名にとどまりましたが、数年後に死去したとされます。
クビライが正式に一人の皇帝となった時点で、帝国は複数の国からなる連邦の形を取っていました。
大元
クビライが直接治める国。のちに南宋を滅ぼす中国の後継王朝となる
フレグ・ウルス(イルハン国)
西アジア。アッバース朝を滅ぼしたフレグの国
チャガタイ・ウルス
中央アジアのチャガタイ・ハン国
ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)
西北アジア。バトゥが築いた国
これら4カ国が連邦を作るのがイェケモンゴル・ウルスであり、これがモンゴル帝国です。そのトップにクビライが君臨していました。
ただし圧倒的な権力集中があったわけではありません。宗主国はクビライでも、各国は実質的に独立国家的な立ち位置でした。
強烈なトップダウンってわけではないです。
番組では、鎌倉幕府が六波羅探題を置いて西を任せるのも難しかったのに対し、モンゴルは土地のスケールが違いすぎて独立させるしかなかったと整理します。
攻める方角は南か東しかなかった
一人の皇帝となったクビライが次に取り組むのは、まだ服属していない国を攻めることでした。残っていたのは南宋、高麗、大越、チャンパ王国、そして日本です。
西側にはすでに親族のイルハン国、チャガタイ・ハン国、キプチャク・ハン国があり、攻める必要はありません。西にはもう氷しかない、と語られます。
そのため攻める方角は、おのずと南か東に絞られました。東には高麗と日本、南には南宋とその先のベトナムがありました。
西
フレグ・チャガタイ・ジョチの親族の国があり、攻める先がない
南
巨大な南宋があり、その先にベトナムの諸国がある
東
高麗があり、海を挟んで日本がある
なぜここまで攻め続けるのか。番組では、攻めていないと大将としての威信に関わったからだと解釈します。
それが彼らのアイデンティティだから、それをやらない皇帝ってどうなん?っていう支持基盤に関わる話。
深井さんは、当時のモンゴルでは売り上げを上げる社長でなければ言うことを聞いてもらえない組織のようなものだと例えます。
この当時のモンゴルとかだと、売り上げ上げてる社長じゃないと言うこと聞かないみたいな態度取られるってことなんだろうね。
さらに、自分たちも強くなり続けないとフレグやジョチにやられるかもしれない、という理由も語られます。こうした複数の理由から、拡大を続けたいという力学が働いていました。
30年耐えた高麗と、灰と化した戦場
南宋への侵攻と並行して、モンゴルは朝鮮半島にも侵入していました。オゴデーの時代、クビライが皇帝になるより前から高麗への侵攻は始まっていたのです。
高麗は陸続きでモンゴルと接しながら、約30年にわたって耐え続けました。オゴデーの治世下には将軍サルタイが侵入しますが、討ち取られています。
陸続きであのモンゴルを耐えて。
高麗はモンゴルの侵攻を恐れ、首都を高架島という島に移します。馬で来るモンゴルから、海や川を使って守ろうとしたのです。
それでも侵攻は繰り返され、多くの人が殺害され、捕虜になり、略奪されたと記録されています。番組では、その回数は日本の倍にあたると語られます。
皇帝モンケの時代には、将軍ジャラルタイが来て凄惨な被害を残しました。高麗の歴史書には、その惨状が刻まれています。
軍隊が通った後は全て灰となった。骸骨が脳を覆ったと書いてあります。
隷属した高麗と、血で結ばれる従属
こうした侵攻に、これ以上抵抗するのは辛いという状況が高麗内部に生まれます。対モンゴル体制を築いていた崔氏政権が倒され、国王がモンゴルと和睦を結びました。
高麗は大使を人質としてモンゴルへ送ります。その途中でクビライが後を継ぎ、クビライはこの大使を歓迎して高麗へ帰し、王への即位を促します。これが元宗です。
これによって高麗の政治的従属が起こります。約30年抵抗し征服はされなかったものの、内部からの限界で隷属したという形でした。
楊さんは、隷属によってモンゴルと高麗の立場が全く違うものになったと説明します。
モンゴルは高麗の生殺与奪を握っている立場なんですよね。
元宗の息子で後の忠烈王には、クビライの娘クトゥルクケルミシュが嫁ぎます。これにより息子にモンゴル皇室の血が入ることになります。
代を経れば「本当にモンゴルの一部だ」と言えるようになる、という狙いがあったと語られます。日本も負けていれば、最大でここまでされていた可能性があるというのです。
忠烈王は、モンゴルに服属しながらも高麗を国として存続させようと尽力した君主だと紹介されます。この王のおかげで、高麗は完全な併合を免れ、国としての形を残しました。
番組では、朝鮮半島の統治難易度は「シミュレーションゲームで最高難易度」だと語られます。ヨーロッパまで届くモンゴルに接しながら独立を保ったことの凄まじさが強調されます。
これと対比して、深井さんは日本を「伝統的に政治力のない国」だと語ります。愛国心を持ちながらも、フラットに見た評価として述べています。
(日本は)必要としなかったし、環境が緩すぎる。
海に守られた日本と、大陸で瞬間ごとの判断を迫られた朝鮮半島とでは、政治の難易度が根本から違ったと整理されます。
高麗の陥落が整えた、日本への準備
高麗が陥落したことで、日本に攻め入る準備が整ったと語られます。高麗が落ちていなければ、日本を攻めることはできなかったのです。
その理由は、モンゴルが海軍を持っていなかったことにあります。海軍は高麗が持ち、南宋も持っていました。
高麗を隷属させることによって、これでやっと日本に攻め入ることができるというオプションがピュンって出てきた状態になった。
この状態になったのが、ちょうど日本で北条時頼が専制化していた時代でした。深井さんは、両者がそろって整っていく巡り合わせに運命を感じると語ります。
どっちもレディーになってきたみたいな時に、攻めてくるよみたいな感じになるんで。
次回は視点を再び日本に戻し、北条時頼の時代に生まれ育った北条時宗を追います。この時宗が執権のときに、モンゴルが来襲することになります。
まとめ
この回では、チンギスからクビライへ至る帝国拡大の流れと、その果てに日本が狙われるまでの事情が整理されました。草原での強さが限界に達したモンゴルは、南宋やアッバース朝の征服を通じて定住民社会を吸収し、クビライは中国皇帝像へと寄っていきます。高麗の隷属が、海を越えた日本への攻撃を可能にしていきました。
- チンギスからオゴデー、モンケを経てクビライへ、内紛を繰り返しながら帝国は急速に拡大した
- 草原の外で拡大が限界を迎え、南宋やアッバース朝の征服による技術・文化の吸収が突破口とされた
- クビライは母ソルコクタニの教育のもと中国皇帝像へ寄り、諫言を容れる君主像を身につけていった
- モンケの死後、クビライは戦争継続を選んでアリクブケとの後継争いを制し、4カ国連邦の頂点に立った
- 約30年耐えた高麗が隷属したことで海軍が得られ、海を越えた日本への攻撃準備が整った




