なぜ人は同じ過ちを繰り返すのか
今回岡山さんが持ち込んだのは、人が歴史から学ぶことは可能なのかという問いです。きっかけは、またオイルショック ── 石油の供給不足や価格急騰による経済混乱。1970年代に世界的に起きた出来事を指すことが多いのような事態が起こるのではないか、という話題でした。
岡山さんは、本当に歴史から学べているなら過ちは減っていくはずだ、と考えています。政治や経済、文化も含め、人の暮らしや考え方は理想に向かって発展していくものではないか、というのが素朴な期待です。
人はなぜ同じ過ちを繰り返し続けるのだろうか。歴史から学んでいたら、理想的には同じ過ちを繰り返さないようにだんだん減っていくだろうし、より良い理想に向かって発展していくはずなんじゃないか。
しかし現実はそうなっていない、と岡山さんは指摘します。古代中国の書物に書かれたことが今も学びになると言われ続けている状況を、その証拠として挙げました。
何千年も昔の思想家が警鐘を鳴らしていたことなんて、もう「こんなことが問題視されてた時代があったなんてありえないな」となっているはずなのに、そうなっていない。
そこから岡山さんは、そもそも歴史から学ぶこと自体が絵空事なのではないかという疑いにたどり着きます。田中さんは、この問いを「歴史から学ぶのは不可能なのでは、つまり同じ過ちは繰り返してしまうものではないか」という主張として受け止めました。
徳島の津波、逃げた人と逃げなかった人
田中さんは、歴史から学ぶという話には情報の非対称性が関わるのではないか、と応じます。歴史から学ぶといっても、その実態や仕組みをどれだけの人が知っているのか、という問題です。
田中さんは、自分が地元の徳島県沿岸部で取り組んでいる聞き書き ── 地域の人などから昔の話を直接聞き取り、記録として書き残していく手法を例に挙げます。この地域は地震のあとに津波が来る土地でした。
驚いたのは、昭和の南海地震のとき、地震のあとに津波が来ることを半分ほどの人が知らなかった、という事実です。そのため家の中にいて助かった人も、亡くなった人もいたといいます。
さらに田中さんは、逃げなかった人たちの傾向にも触れます。家長がいる家では逃げた人が多く、逃げていなかったのは女性や子供が多かったといいます。当時は学がある人が津波のことを知っていた、という語りも出てきました。
津波が来るという情報を知らなければ、過ちを起こしてしまうじゃないですか。
ここから田中さんは、最初の問いへ話を戻します。オイルショックや戦争がなぜ起こっているのか、それに自分がどう関わって何を変えられるのか、いま自分は答えられない、と率直に語ります。
火は熱い、体で覚えた教訓は伝わる
岡山さんは、田中さんが感じた「なんという」という気持ちの中身を尋ねます。田中さんは、生死に関わることは語り継がれているはずだ、という前提が崩れたことに驚いた、と答えました。
知ってたら逃げれてたはずが、情報の格差によって逃げられなかったみたいなことがあっていいのか。ない方がいい。
この応答から、岡山さんは教訓の伝わりやすさに注目します。命に関わることでも、体で覚えられるものは教訓として染みつきやすい、というのが岡山さんの見立てです。
例えば「火は危ないから触ってはいけない」「道路からはみ出て歩いてはいけない」といった教えは、直感的にわかり、大人が子供に伝えやすい、と岡山さんは説明します。だから生活の中で伝承されやすいのだといいます。
津波も同じで、頭で知っていた人だけが逃げられた状態と、体感で知っていてみんなが逃げられる状態は違う、と岡山さんは整理します。近年の東北の地震で人々がすぐ避難できたのは、体感の経験が周りに伝えやすかったからではないか、と述べました。
経験が消えたとき、それは「歴史」になる
ここで岡山さんは、大事な区別を持ち出します。体感で経験し、周りに伝えやすいものは残っていきやすいが、それはまだ歴史ではなく、経験から学んでいる状態だという見方です。
経験が生きてる、新しい経験が残ってる間は繰り返さないんだけど、経験が消えて歴史になったら繰り返してしまうっていうことなんじゃないか。
田中さんは、この整理では歴史が「頭で捉える情報」に位置づけられていると受け止めます。そのうえで、歴史は情報と経験のどちらとも捉えられるのではないか、と問い返しました。
田中さんが注目したのは、情報と経験の間にある「身近な人の語り」です。聞き書きを通じて、その語りが情報と経験の差を埋めてくれる可能性を強く感じている、といいます。
歴史の中に経験も、その語りも包含されるなって思ったんですよね。
岡山さんは、戦争や震災の語りを例に、それは経験が歴史になる過程で継承されていく一つの段階だと応じます。経験を直接語れる間は、まだ歴史になりきっていない状態だという見立てです。
戦争が「歴史」になる境界はどこにあるか
岡山さんは、経験が歴史に変わる境目について踏み込みます。直接経験した人が誰もいなくなったときに歴史になるのだろう、というのが基本の考えです。
ただし、それはある日いきなり切り替わるわけではない、と岡山さんは付け加えます。最後の戦争経験者が亡くなった瞬間からではなく、身近に語る人がいなくなった時点で、すでにその人にとっては歴史になっている、という捉え方です。
さらに岡山さんは、同じ地域内でも差が出ると指摘します。親族に被爆者がいて話を聞いた長崎市内の子供と、原爆の話に触れずに育った隣の諫早市 ── 長崎県の市。長崎市の隣に位置するの子供とでは、歴史になるタイミングが違う、というのです。
つまり、経験が歴史へ変わる過程には大きなグラデーションがある、というのが岡山さんの結論です。九州の子供にとって、2011年以後に生まれれば東日本大震災も生まれた時から歴史上の出来事になりうる、という例を挙げました。
歴史を「経験化」する追体験としての避難訓練
岡山さんは、問いをさらに絞り込みます。身近な語りで伝承を受けた人は学べるかもしれないが、そうでなければ情報として処理されるだけで、経験にならず学びにならないのではないか、というものです。
その例として岡山さんが挙げたのが避難訓練です。過去に震災被害を受けた地域で避難訓練を重ね、体で津波への対応を学べば、津波自体は経験していなくても仮想的な追体験になっている、と説明します。
これは歴史に学んでるというよりは、歴史を経験化することができてるっていう話なのかなと思ってて。
一人で語りながら、岡山さんは仮の手がかりにたどり着きます。キーポイントは身体化することや、経験に変える、追体験することかもしれないという気づきです。
直接の経験
自分が体感し、繰り返さない状態
身近な人の語り
情報と経験の差を埋める継承の段階
情報としての歴史
経験が消え、処理されるだけになりやすい
経験化・追体験
避難訓練などで再び身体化し、学びに変える
昔話や短歌に込められた「経験化」の工夫
田中さんは、岡山さんの「経験化」という言葉に強く共感します。昔の人が経験の継承のために工夫していたのが、日本昔話のような物語ではないか、と応じました。
紙や情報を保存する方法がなかった時代には、覚えられる物語にして口で伝承していく必要があった、と田中さんは説明します。それこそがまさに経験化の手法だったのではないか、という見方です。
さらに田中さんは、聞き書きの中で見えてきた短歌の例も紹介します。ある町のある時代に短歌をよく詠んでいた人たちがいて、戦争の語りを父から受け継いだ資料の最後に短歌が載せられていた、というのです。
物語とか経験とかをさらに凝縮していくと、そういったものになっていくのかみたいな面白さも感じていました。
岡山さんは、これに関連して童謡や民謡にまつわる話を持ち出します。「実はこの歌にはこんな闇が隠されていた」という語りが、陰謀論のような形で流行ることがある、というのです。
岡山さんが例に挙げたのは、子供の頃に囁かれていた「赤い靴」の歌の解釈です。教訓をそのまま伝えても残らないから、歌に織り込んでそっと忍び込ませて伝えていくのではないか、と述べました。
すべてが記録される時代に、なぜ経験化されないのか
田中さんは、昔の人がどんな発想で伝承の術を身につけたのかが気になる、と話します。今の時代は多くのことが自動でアーカイブされるため、凝縮したり何かに置き換えて残す必要がなくなっている、というのが田中さんの見立てです。
今の時代の私たちってもう結構全てがアーカイブされてしまうから、凝縮したり、何かに置き換えて残していく必要がもうない。
岡山さんは、ミーティングが自動で全部記録されるような話はここ最近のことだと補足しつつ、それでも本質は同じだと指摘します。情報がどんどん蓄積されても、量が膨大すぎて見ないからです。
田中さんは、この状態を「経験化されていかない」ことだと言い換えます。岡山さんも、情報の膨大さのレベルは変わっても、昔の人も全てを覚えられたわけではなく、紙が高級品だった時代もあった、と応じました。
だからこそ、大事なことだけを伝えるために歌にしたり、話にしたり、絵にしたりしてきた、と岡山さんは整理します。壁画や石板、石碑もその延長にあるといいます。
平和だからこそ、歴史は自分から遠ざかる
田中さんは、この問いをさらに自分事にしていきます。過去の歴史からどう学ぶかだけでなく、自分がたどっている経験を大切にどう残すか、という視点も含まれるのではないか、というのです。
岡山さんは、何を残すかの優先順位を考えます。火や寒さ、動物に襲われるといった、生死に直結する原始的なことが最優先だった時代があった、という整理です。
さらに岡山さんは、生き延びられるようになった後は、災害や毒のある食べ物といったイレギュラーな事態への対処が残されていく、と続けます。戦争やオイルショックのように、人によって起こされ避けられないものもそこに加わります。
ただし、それらは自分に関係するタイミングでしか精神に関わってこないため、どうしても重要度が薄れていく、と岡山さんは指摘します。ここから岡山さんは、一つの見立てを示しました。
歴史を学ばなくても生きていける、経験してないことが関係なくなる時って、要は平和な時代なんだろうなと思った。
平和で生きるか死ぬかの状態ではないからこそ、歴史は自分から遠いところにある、と岡山さんは言います。それよりドーパミンを出してくれるものの方が大事になっていくのではないか、という見方です。
田中さんは、戦争を語ってくれた人の言葉を重ねます。今の日本は平和でのんびり生きているが、日本が戦争していた時代には周りの国がそうだった、という話です。
今みたいにのんびり暮らしていて、「あの国はまた何かしよるな」って思ってたみたいな話をしていて、まさにその話だなと思いました。
自分から遠い出来事をどう経験化するか
最後に、田中さんは次回への問いの発展を岡山さんに尋ねます。岡山さんは、いま出てきた前提を踏まえて問いを立て直そうとします。
岡山さんの整理では、生き死にに直結しないことや自分の経験の外にあるものは、なかなか会得しにくいものです。それが平和ボケも含めて事実なのだとすれば、という条件を置きました。
じゃあ、もう歴史から学ぶって無理なんじゃない?みたいな。いや、でも、やりようはあるんじゃない?とか。
そのうえで岡山さんは、そういう前提の中でも歴史から学ぶを実現するにはどうしたらいいか、を次に話したいと提案します。田中さんは、それを「自分から距離がある事柄も、どうやって経験化できるか」という話だと受け止めました。田中さんは、こうして前編を締めくくります。
まとめ
前編では、人が同じ過ちを繰り返す理由を出発点に、経験と歴史の境界、そして学びが成立する条件が語られました。経験が生きている間は繰り返さないが、それが消えて歴史になると繰り返してしまう、という見立てが軸になっています。
- 歴史から学べているなら過ちは減るはずだが、現実は古代の教訓が今も繰り返され、学びは絵空事ではないかという疑問が起点
- 徳島の津波の例では、津波が来ることを知らなかった人が逃げ遅れ、情報の非対称性が生死を分けた
- 体で覚えた教訓や身近な人の語りは伝わりやすく、それはまだ歴史ではなく経験から学んでいる状態と整理された
- 経験を直接語れる人がいなくなると出来事は歴史になり、その境目には地域や世代によるグラデーションがある
- 平和な時代ほど歴史は自分から遠ざかり、後編では自分から距離のある出来事をどう経験化するかが問われる



