無職・追放・子供二人でブリュッセルへ
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マルクス・エンゲルス編の前回までで、マルクスは唯物史観 ── 歴史を動かすのは思想や理念ではなく、生産や経済といった物質的な条件だとする、マルクスの歴史観ですを形成し、エンゲルスと出会い、そしてパリを追放されたところまで進みました。
今回のエピソードは、そのパリを追われたマルクスが、プロイセンからフランス政府への圧力で国外退去となり、ベルギーのブリュッセルへ向かうところから始まります。
このときすでにマルクスには妻イエニーとの間に娘がおり、次の子を身ごもったイエニーを連れての移動でした。エンゲルスも一度実家のバルメンに帰っていましたが、後にブリュッセルへ合流します。
深井さんは、この時点でのマルクスの状況を端的にまとめます。無職、追放、子供二人という状態です。
めっちゃ大変な状況に、家庭。
なのでここまでで無職、追放、子供二人。
なぜマルクスはプロイセン国籍を放棄したのか
ブリュッセルに移ったマルクスは、さらにプロイセン国籍を放棄します。トリーアの市役所に行き、アメリカに移住するためプロイセン市民の義務から解放してほしいと申し出ました。
ただし、深井さんによれば、このアメリカ移住という理由は方便で、実際には嘘だったようです。とにかく国籍を放棄したかったのだといいます。
理由について楊さんは、マルクスの思想から解説を加えます。マルクスは、理想的な社会に達するには資本主義というプロセスが必要だと考えていました。
その資本主義によって、宗教や慣習、民族といった伝統的な思考様式や制度が壊されていくことも必要だと考えていた、と楊さんは説明します。その中に含まれるのが、人々の帰属意識でした。
彼にとって(帰属意識)っていうのは打破されないといけないものだったっていうのが、やっぱり意識としてあったみたいです。
一方で、楊さんはより具体的な理由も挙げます。プロイセン国籍がある限り、どこに行ってもプロイセン政府に圧力をかけられてしまうという大問題があったのです。深井さんも、それが一番の理由だろうと応じます。
経済学の勉強と、六週間のイギリス旅行
ブリュッセルに着いたマルクスが始めたのは、経済学の勉強でした。深井さんは、彼にとって金を稼ぐことはどうでもよく、社会を変えるために経済学が必要だったと説明します。
マルクスは市民社会を分析し、革命の力であるプロレタリアート ── 資本を持たず、自分の労働力を売って賃金を得て暮らす労働者階級を指すマルクスの用語です、つまり労働者階級に、精神的で科学的な武器を提供しようと考えていました。深井さんは、この時点ですでにマルクスが革命を意識していたと指摘します。
親友となっていたエンゲルスもバルメンからブリュッセルへ移ってきます。二人はパリでの意気投合以来、手紙で思想交換を続けており、久しぶりに会うと考え方が驚くほど一致していました。
そして二人は、六週間のイギリス旅行に出かけます。樋口さんは、家族が身ごもっているのに何をしているのかと驚きますが、深井さんは、これは資本主義の実態を見に行った旅だったと説明します。
いやもう好きやん。いやいや、身ごもってるんすよ。家族、家族身ごもってるのに何言ってんすか?
すでに資本主義の現場を見ていたエンゲルスが、マルクスにもその現場を見せた方がいいと考えたのだろう、と深井さんは推測します。恋人同士の旅行ではなく、資本主義を観察する旅でした。
『ドイツ・イデオロギー』での哲学批判と「実践」への転換
二人はイギリス旅行のあとも執筆を続け、『ドイツ・イデオロギー』を書きます。ここでは哲学そのものへの批判が始まり、バウアーやフォイエルバッハといった人物が批判の対象になりました。
その主張は、抽象的な理念ではなく、現実の関係から物事を考える必要があるというもので、唯物史観にあたる内容です。ただし、この本はなかなか出版できず、実際に世に出たのは書かれてから86年後、二人が亡くなった後のことでした。
(原稿は)書いた後放っておかれて、屋根裏でネズミにかじられたりとか、そういう目に遭ってて。
深井さんは、この本の中でのマルクスの批判をさらに紹介します。抽象的で非現実的な哲学的空論、無気力な観念論こそが、ドイツの立ち遅れた現状を反映しているというものです。樋口さんは、これはもう悪口だとツッコミを入れます。
ただの悪口ですよ。もうだから問題は実践なんだと。革命なんだっていうことをここら辺から言い始めてるんだよね。
楊さんは、この構造は儒教における朱子学と陽明学の関係に似ていると指摘します。陽明学が朱子学に対して「実践できていない、もっと実践だ」という違いを打ち出したのに近い、というのです。
現実を分析した結果、この社会がどう変わるかを哲学のレベルから考え、その結論として辿り着いたのが革命でした。深井さんは、短絡的に聞こえるかもしれないが、彼らは自己意識まで深く考えた上でこの結論に戻ってきていると強調します。
現実の分析
抽象的な理念ではなく、現実の関係から社会を考える
哲学レベルの考察
自己意識まで深く掘り下げて社会の変化を考える
結論は革命
問題は実践であり、革命であるという結論に至る
共産主義者通信委員会と、国際的なネットワークづくり
『ドイツ・イデオロギー』によって唯物史観が確立されたこの時期、マルクスとエンゲルスは共産主義を国際的に宣伝し、国際的な組織を作った方がよいと考えていました。そこでブリュッセルに共産主義者通信委員会を設立します。
各国が個別にバラバラで動いても、それぞれの政府に潰されてしまう。だから団結すべきだ、という考え方です。深井さんは、こうした主張こそが、この思想が今でも敬遠される理由の一つであり、危なさを孕んでいると指摘します。
これがマルクスが28歳か29歳ごろの出来事です。各地のドイツ人活動家と連絡を取り、ロンドンにも通信委員会を作るなど、共産主義者のネットワークを形成していきました。本人たちはブリュッセルにいながら、国際的な規模で団結を呼びかけていったのです。
プルードンとの決裂
この頃、マルクスは有名なプルードンに協力を求めますが、断られます。すると、マルクスはプルードンを痛烈に批判し、あいつはクソだと言うようになりました。樋口さんは「仲良くしろよ」とツッコミを入れます。
こうした活動をしながら、マルクスはひたすら経済学の勉強を続けていました。深井さんは、彼が非常に忙しいことを繰り返し強調します。ただし、身分はあくまで無職です。
もう一回言うけど無職です。無職だが、非常に忙しくなってくるわけですね。
決裂の中身について、樋口さんが補足します。プルードンは、今のシステムの中で改良すればいいのではないかと述べたのです。革命など起こさなくていいという立場でした。
一方でプルードンも過激な人物で、私有財産制そのものに疑問を抱いていました。財産は盗みだと言い切っていたのです。深井さんによれば、これは正確には不労所得を指しており、不労所得は盗みだという主張でした。
マルクスはこの主張に感心してプルードンに話しかけたものの、断られたのだと深井さんは説明します。思想が似ていたからこそ、近づいていったのです。
それでもマルクスはプルードンを批判します。プルードンは労働者の賃金と、それによって生産された生産物の価値が同じだと考えているが、それはありえない、という批判です。深井さんは、これは後の『資本論』で出てくる論点であり、この時期にすでにマルクスがその考えを持っていたことがわかると指摘します。
正義者同盟との合流、そして「宣言」を書く
ブリュッセルで共産主義者通信委員会を作り、ロンドンなどにも支部を広げるなかで、各地の共産主義者との繋がりができていきました。これが有名な共産党宣言につながっていきます。
当時、マルクスとエンゲルスの通信委員会とは別に、同じような組織を作っている人たちがいました。ドイツからの亡命者が作った正義者同盟です。深井さんは、この直球すぎる名前を「ドストレートでいい」と評し、楊さんは「そこそこ中二病」と表現します。
(正義者同盟という名前は)そこそこ中二病。
この正義者同盟は、やがて共産主義者同盟という組織になっていきます。同じ共産主義を掲げ、団結を呼びかけている以上、一緒にやろうという流れは自然なものでした。こうして両者が合併し、共産主義者同盟が生まれます。
そして、この共産主義者同盟の理念を示す23ページほどのパンフレットを書いてほしいと、マルクスが依頼されます。同盟の考えを言語化してほしいという依頼で、深井さんは、無職ながらマルクスが界隈で一目置かれていた証だと語ります。こうして書き上げられたのが共産党宣言でした。
共産主義者通信委員会
マルクスとエンゲルスがブリュッセルで設立
正義者同盟
ドイツ人亡命者が作った、同じ共産主義の組織
共産主義者同盟
両者が合併して成立。マルクスが理念のパンフレットを依頼される
共産党宣言
依頼を受けてマルクスが書き上げた理念文書
なぜ「宣言」という言葉を使ったのか
楊さんは、この文書がプレスリリースのようなものだったと説明します。自分たちが何をしようとしているのかを世界に向けて発信するものだったのです。
そのうえで楊さんは、「宣言」という言葉を使った点が興味深いと指摘します。宣言はドイツ語でもマニフェスト ── 「宣言」を意味する言葉。当時はカトリック教会や皇帝など、最高位の権力者が重要な意思を民衆に知らせるときに使う言葉でしたといい、当時はカトリック教会や皇帝といった最高位の権力者が重要な宣言をするときに使う単語でした。
権威もない一民間人のサークルが、自分たちのパンフレットにわざわざ「宣言」という言葉を使う。楊さんは、これを不謹慎極まりないことだと表現しつつ、同時にとてもビジョナリーでもあると評します。深井さんも、彼らの目標の高さの表れだと応じます。
だからすごい小さい思想団体なんだけど、その「万国の労働者よ、団結せよ」っていう、有名な文言があって。世界中の人に言ってんの、だから。
この「万国の労働者よ、団結せよ」という呼びかけは、文字どおり世界中の人に向けられたものでした。しかし、当時はほとんど反応がなかったといいます。樋口さんは、自分のひい爺ちゃんも呼びかけの対象に入っていたかもしれないと反応します。
当時は無反応、のちに世界を動かした共産党宣言
当時はほとんど影響のなかった共産党宣言ですが、その後にすさまじい影響を及ぼすことになります。深井さんは、レーニン、毛沢東、ホーチミン、ポル・ポト、スターリンといった名前を挙げます。
これらの人物に読まれ、さまざまな形で使われていきました。深井さんは、本人たちにとっては不本意な使われ方もだいぶしてしまっただろうと語ります。マルクスとエンゲルス自身は、暴力を必ずしも必要とは考えていなかったといいます。
発表当時はほとんど反応がなく、影響力はなかった
レーニン、毛沢東、スターリンらに読まれ、世界を動かす文書となった
深井さんは、共産党宣言の中身も紹介します。書き出しは「ヨーロッパに一つの幽霊が出る、共産主義という幽霊が」という序言から始まる、いきなり分かりにくいものです。
深井さんは、この一節に、文学を好きだったマルクスの名残があると指摘します。楊さんも、言葉による表現へのこだわりだと応じます。深井さんは、頼むからわかりやすく書いてほしいと苦笑しつつ、樋口さんは確かに引きつけられると感想を述べます。
階級闘争の歴史と、労働者に託した希望
深井さんは、共産党宣言のもう一つの有名な一節を紹介します。「今までにあった全ての社会の歴史は階級闘争の歴史である」というものです。
領主と農奴、親方と職人、ブルジョワ ── 資本や生産手段を持ち、労働者を雇う側の階級。資本家階級を指すマルクスの用語ですとプロレタリアという、支配階級と被支配階級の矛盾が、歴史を突き動かしてきたという主張です。共産党宣言は、この第一章に続いて、労働者階級と共産主義の関係、社会主義や共産主義の歴史、共産主義の任務や覚悟へと進みます。
深井さんは、共産党宣言はマルクスの書物の中ではかなり分かりやすい方だと評します。第四章には、共産主義者は労働者階級の当面の目的のために戦うが、同時に運動の未来を代表する、といった熱い言葉が書かれています。
楊さんは、マルクスが労働者に託した希望を解説します。労働者は財産を所有することから締め出され、社会の中で地位を持てず、人生のレールから落ちた人々です。マルクスは、彼らをあらゆる身分が解体された後の成れの果てだと捉えました。
彼らの抱いている苦しみっていうのは普遍的なものである。誰もがその苦しみを持ちうるし、共有し合える、そういうポテンシャルを彼らは持ってる。
労働者の苦しみは普遍的なものであり、誰もが持ちうるからこそ、彼らは革命の担い手になりうる。それがマルクスの解釈でした。そして、こうした宣言をしながら勉強を続けるマルクスは、深井さんいわく、まだ無職のままでした。
なぜ哲学者たちは「エモい」文章を書いたのか
樋口さんは、共産党宣言が万国の労働者に向けて、労働者に読んでほしくて書かれたものかを確認します。深井さんは、そのとおりで、比較的簡単な言葉で、なぜこうなのか、それはこうだから、というQ&Aのような書き方がされていると答えます。
深井さんは、あれだけ哲学から考え、スーパーロジカルシンキングをやってきた人たちが、やたらエモいことを書く点に注目します。このエモさこそが、この時代全般に共通する特徴だというのです。
団結せよとか言われたらうってなるじゃないですか。なんか僕、ちょっと距離を置きたくなっちゃうような書き方をされてるんだけど、そういう時代なんだよね。
楊さんは、この時代のエネルギーの爆発を、日本の幕末に近い雰囲気だと例えます。樋口さんも、それぐらいの熱さを感じると同意します。
深井さんは、共産党宣言について、普通に読むと熱すぎて気持ち悪く感じるかもしれないが、熱いなと思いながら読むといいとすすめます。冷静に距離を置いて眺めるのがコツだというのです。
樋口さんは、いろんな人と喧嘩しながら理想へ突っ走るマルクスの姿を「マジスポ根」だと評します。深井さんと楊さんは、マルクスからスポ根を導き出すのは樋口さんくらいだと笑います。次回は、激動の時代に翻弄されていく無職のマルクスがどうなるのかが語られます。
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まとめ
今回は、パリを追われたマルクスが、無職のままブリュッセルで経済学と革命に打ち込み、エンゲルスとともに共産党宣言を書き上げるまでが語られました。国際的なネットワークづくりと、熱い時代のエネルギーが印象に残る回です。
- マルクスはブリュッセルへ移り、無職・追放・子供二人という状況の中で経済学の勉強と革命の準備を進めた
- 国籍への圧力を避けるため、また帰属意識の打破という思想的理由から、マルクスはプロイセン国籍を放棄した
- 『ドイツ・イデオロギー』で哲学を批判し、問題は実践であり革命だという立場を鮮明にした
- 共産主義者通信委員会と正義者同盟が合流して共産主義者同盟となり、マルクスが依頼を受けて共産党宣言を書いた
- 共産党宣言は発表当時ほぼ無反応だったが、のちにレーニンや毛沢東らに読まれ、世界を動かす文書となった







