寡黙な司令長官・東郷平八郎はどんな人物だったのか
日露戦争編の第15回は、いよいよクライマックスの日本海海戦です。楊睿之さんはまず、この海戦の重要人物である東郷平八郎の経歴から話を始めます。
東郷平八郎は1848年に薩摩藩で生まれました。西郷隆盛の生まれた場所のすぐ近くだったそうです。薩英戦争 ── 1863年、生麦事件をきっかけに薩摩藩とイギリスの間で起きた戦闘。この戦いを通じて薩摩はイギリスとの関係を深めていきますや戊辰戦争にも関わり、1871年ごろから明治政府に選ばれてイギリスに留学しています。
政府の狙いは、東郷にイギリス海軍の教育を受けさせることでした。ところが東郷平八郎は海軍学校に入れてもらえず、商船学校で学ぶことになります。ただ、その商船学校で国際法に精通できたことが、のちに生きてきます。
樋口聖典さんは、日清戦争の際に東郷平八郎がイギリス船籍の船を沈めた出来事を補足します。
これ(東郷平八郎の件)、日清戦争の時にイギリス船籍の船を沈めたの覚えてます?あれ結構イギリス世論で問題になったんですけど、実は国際法上は厳密には問題じゃなかったんですよね。
その時なんかね、イギリスの法学者もそれは国際法違反ではないという見解も出してましたもんね。
帰国後の東郷平八郎は中尉、大尉、少佐と順調に昇進し、現場勤務を続けました。楊さんによると、艦を自分で運転するのではなく、艦全体を動かす指揮官としての操艦能力が高かったといいます。1901年には舞鶴鎮守府の初代長官、1903年には新設された連合艦隊の司令長官に抜擢されます。
東郷平八郎は寡黙な人柄で知られていますが、もともとはおしゃべりだったという説もあるそうです。イギリス留学中に誰とも会話ができず、そのせいで寡黙になったというものです。
実際イギリス人の友人がいた形跡がないと。
ぼっちだった。それで寡黙になったっていう説があって。
勝ち目が薄れてもバルチック艦隊が送られた理由とは
話は、ロシアから日本へ向かうバルチック艦隊に移ります。バルチック艦隊を派遣する目的は、旅順とウラジオストクにいるロシア太平洋艦隊と合流し、日本海か黄海の制海権を得ることでした。派遣が決まった時点では、旅順艦隊もウラジオストク艦隊もまだ健在でした。
バルチック艦隊は戦艦7隻を含む45隻、乗員1万2000人の大船団です。1904年10月15日にバルト海から出航し、ドーバー海峡、アフリカ南端の喜望峰、マダガスカル、シンガポールを経て東アジアへ向かいました。航路はおよそ1万9000キロに及んだといいます。
で、この何て言うかな、韓国の方に来るみたいなね。すげえ経路だよね。
ところが実際に出航した頃には、ウラジオストク艦隊はすでに消滅し、旅順艦隊も港から出られない状態でした。合流という派遣の目的そのものが危うくなっていたわけです。
それでも莫大な時間と経費をかけて派遣に踏み切った理由について、楊さんは、ロシア国内で高まりすぎた革命の機運から国民の関心をそらすためだったという見方を紹介します。
まあバルチック艦隊が向かってる間はさ、バルチック艦隊頑張れってなるわけじゃないですか。
一説には、仮に日本に勝てなかったとしても、革命勢力が勝利者づらをするよりはましだという感覚さえあったそうです。一方で皇帝ニコライ2世とその周辺は、司令官ロジェストウェンスキーが連合艦隊を必ず撃破すると期待していました。反戦派だったウィッテ ── ロシアの政治家。財務大臣などを務め、日露戦争には慎重な立場をとりました。のちにポーツマス条約のロシア全権を務めますは、日本で大恐慌が起きると周囲が吹聴していたと後に書き残しています。
補給地点がない航海はなぜ生まれたのか
1万9000キロの航海は、当然ながら前途多難でした。そして実際の大変さは予想をはるかに上回ったと楊さんは話します。石炭、食料、飲み水の補給が欠かせないにもかかわらず、ロシアは出発の時点で航路のどこにも確かな補給地点を持っていませんでした。
理由は、補給地点のほとんどをイギリスが押さえていたからです。イギリスは日英同盟を結んでいるため、ロシアを援助するはずがありません。ロシアと同盟関係にあったフランスも、イギリスへの配慮からロシアに手を貸すことを控えました。
だから全然補給地点がないんですよね。これだから日英同盟が効いてんだよね。
頼みの綱になったのはドイツでした。ドイツは、民間の商社がロシアに物資を売る形なら問題ないとして取引をしていたそうです。楊さんはこれを「資本主義っぽい」と評しています。
それでも先行きが不安なバルチック艦隊は、石炭や食料を大量に積んだ輸送船を伴走させました。積みすぎて、最初から船が沈み気味だったという話もあります。
派遣の決定が突然だったため、船体の補修や装備の整備も済まないまま出航しています。かき集めた兵士は実戦経験が少なく、航海しながら操縦の訓練をするような状態だったそうです。
さらに、バルチック艦隊の現在地は世界中に報道され続けました。航路が、イギリスが整備した海底ケーブル網のルートと重なっていたためです。艦隊が目撃されれば、その情報はすぐに電信で伝わり、日本海軍も動きを把握できました。
マダガスカルでの足止めと、崩れていく士気
出航から3ヶ月後の1905年1月9日、バルチック艦隊はマダガスカル島に到着します。そこでロジェストウェンスキーは旅順陥落の知らせを受けました。旅順艦隊との合流という当初の目的は、ここで完全に失われます。
加えて、日本艦隊が想像以上に強いかもしれないことも少しずつ見えてきました。勝利が見込めないと感じたロジェストウェンスキーは、首都ペテルブルクに増援を求めます。
しかしロシア本国に残っていたのは黒海艦隊だけで、これを送ると西側の守りがなくなります。そこで旧式艦を寄せ集めた第三艦隊が急ごしらえで編成されました。バルチック艦隊はマダガスカルで第三艦隊を待ちますが、なかなか来ないため出航してしまいます。
この第三艦隊はマジで古い船を集めて作っていて、酔いどれ艦隊みたいなことを呼ばれていて、ほっとっても沈没するって言われてるんですよね。
楊さんによると、ロジェストウェンスキー自身も第三艦隊は「いた方が邪魔」と言っていたそうです。待った分だけ時期は遅れ、3月16日にマダガスカルを出たバルチック艦隊は、4月13日ごろベトナムのカムラン湾に着きました。
カムラン湾で船体を整備しようとしたバルチック艦隊でしたが、当時ベトナムを支配していたフランスの当局に拒まれます。日本がフランスに猛抗議し、イギリスとの関係を重視したフランスはその抗議を無視できなかったのです。この頃に第三艦隊がようやく追いつきました。
士気の低下は深刻で、ロジェストウェンスキーは健康を理由に辞任を願い出ますが、却下されます。5月14日にヴァンフォン湾を出て東シナ海へ向かう頃には、7ヶ月の航海で船員は極度に疲弊していました。
だからその戦力としては強いんだけど、士気低くてやる気もないし、なんか負けそうって思ってる人たちが、ものすごい長い時間をかけて整備せずにやってきたっていう状態になってるわけだね。
3つのルートのどれに来るのか、東郷に課された超ハードモード
日本側から見ると、バルチック艦隊がいつ、どこを通るのかが最大の問題でした。目的地がウラジオストクであることはわかっています。旅順を日本が押さえた今、ロシアの港はそこしかないからです。問題は、ウラジオストクへの行き方が複数あることでした。
| ルート | 通る場所 | 特徴 |
|---|---|---|
| 北回り | 太平洋側から北海道の北、樺太と北海道の間 | 最も大回り |
| 津軽海峡 | 太平洋から青森と北海道の間を抜ける | 北海道まで回らずに済む |
| 対馬海峡 | 対馬と博多の間から日本海へ | 最短ルート |
日本海軍の使命は、バルチック艦隊を撃滅することでした。ルートを外せば戦えずに失敗し、戦っても逃げ込まれれば失敗です。ウラジオストクの目の前で待つ案も、攻撃できる時間が短く、すぐ港に逃げ込まれてしまうため使えません。
これでもしウラジオストク港にさ、バルチック艦隊が行っちゃったらさ、また制海権が脅かされていくじゃん。それはそれで戦争に負けるわけ。っていう状態の超ハードモードをさせられてんだよね、東郷平八郎。
日本側は、長い航海で疲れたバルチック艦隊は一刻も早く着きたいはずだから、最短の対馬海峡を通るだろうと考えていました。それでも、裏をかかれるかもしれないという不安は消えませんでした。
撃滅を確実にするために考えられたのが、秋山好古の弟で海軍参謀の秋山真之 ── 日露戦争期の日本海軍の参謀。兄の秋山好古は陸軍の騎兵を率いたことで知られ、兄弟は司馬遼太郎『坂の上の雲』の主人公としても描かれていますによる「七段構え戦法」です。昼と夜で攻撃の担い手を入れ替え、敵を休ませずに削り続ける作戦でした。
七段構え戦法を実行するには、この繰り返しができる場所で待ち構える必要がありました。だからこそ、どこで待つかの判断がますます重くなったのです。
ロシア士官の「対馬に向かう」発言は本当だったのか
日本側が対馬だろうと考えつつ迷っていた5月19日の早朝、三井物産 ── 明治期に設立された日本の総合商社。当時から海運を含む国際的な貿易を手がけていましたが雇った船が、フィリピンのルソン海峡でロシア艦隊に遭遇し、3時間拘束されます。その間に、ロシアの士官が「台湾東方を経て対馬海峡に向かう」と話すのを聞いたといいます。
そう、聞いてもねえのに、「俺ら対馬海峡に向かう」って言ってきたんですよ。
この情報が連合艦隊の司令部に届くと、わざわざ進路を明かすとは考えにくいとして、日本側はかえって混乱しました。ブラフの可能性があったからです。
実際には、ロジェストウェンスキーは最短の対馬海峡を強行突破するつもりでした。士気も燃料も人員も足りず、日本艦隊と本気で戦うより、ウラジオストクに逃げ込むことを考えていたのです。
ロジェストウェンスキーには希望的観測もありました。前年8月の黄海海戦 ── 1904年8月、旅順艦隊がウラジオストクへの脱出を図って日本の連合艦隊と戦った海戦。多くの艦が旅順へ引き返し、日本は撃滅に至りませんでしたで日本は旅順艦隊を取り逃がしていますし、日本は3つのルートに艦隊を分散させているはずだと考えていたのです。
楊さんによると、この時のロジェストウェンスキーの精神状態は正常ではなかったとされています。戦後の軍法会議では、部下が「提督はせん妄状態だった」と証言したそうです。突然怒り出しては艦長たちに変なあだ名を付けて罵倒していたといいます。
近衛兵の洋服がけ。脳みそのない虚無主義者。二重バカ。
思いつかんわこんな悪口。今度使おう。
誰もロジェストウェンスキーに近づかず、他の艦長の中には別の進路を考えている人もいたそうです。バルチック艦隊は統制も意思疎通も取れていない状態でした。
対馬ルートは誰が決めたのか、三笠の作戦会議の舞台裏
5月25日、ロジェストウェンスキーは役目を終えた輸送船6隻を、仮装巡洋艦2隻に護衛させて上海郊外の呉淞へ向かわせました。翌26日、連合艦隊はその輸送船が上海郊外にいることを察知します。これで、バルチック艦隊が対馬海峡を通ることが確定しました。
ほんとやったんや!って思う。
27日の早朝には、商船に仮装した巡洋艦・信濃丸が長崎の五島列島西方沖でバルチック艦隊を発見します。この知らせが東郷のもとに届き、決戦がこの日になることが決まりました。
このとき東京に送られたのが、有名な「本日天気晴朗なれども波高し」という電信です。樋口さんは、この一文に込められたとされる解釈を紹介します。
波が高いって船が揺れるじゃないですか。揺れても射撃できるんですよね、日本海軍。
樋口さんによると、天気が良くて敵を見つけやすいという意味や、士気が高いという意味、揺れても射撃の腕で勝る日本が有利だという意味があると言われているそうです。
上海沖で対馬ルートが確定した段階で、東郷は全艦隊に即時出動を命じ、港に積んでいた高価な石炭を惜しげもなく海に捨てて船を軽くしました。ただ当日は強風と高波で小さな船があまり動けず、七段構えの前夜の奇襲はほとんどできなかったそうです。
楊さんは、対馬ルートが決まるまでの舞台裏も明かします。上海沖での発見の前日、旗艦三笠で開かれた作戦会議は午前から午後3時ごろまで堂々巡りし、実は津軽海峡ルートに決まりかけていました。
そこに所用で遅れてきた第二艦隊参謀長の藤井較一さんが「絶対対馬やろ」と強く反対し、もう一人の有力者も同調して対馬に決まったといいます。根拠はよくわかっていないそうです。
司馬遼太郎さんの坂の上の雲では、その東郷平八郎がみんながガーって議論して、最後の最後に東郷平八郎が口を開いて、対馬海峡よみたいなこと言って決まったって書いてあるけど、実際はそうじゃないってことですね。
秋山真之の回想によれば、東郷平八郎は決定の1週間ほど前から日に日に痩せていき、食事も喉を通らず眠れなかったそうです。判断を一つ誤れば日本が終わるという重圧の大きさがうかがえます。
Z旗と「皇国の興廃、この一戦にあり」
5月27日正午、連合艦隊は対馬・壱岐と三角形をなす沖ノ島の北方に達し、12ノット、時速22.2キロほどに減速して待ち構えました。沖ノ島は宗像大社 ── 福岡県宗像市にある神社。沖ノ島は宗像大社の沖津宮が置かれた島で、2017年に「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群として世界遺産に登録されましたの御神体で、今は世界遺産にもなっていると話されています。
午後1時39分、旗艦三笠の艦橋に立つ東郷平八郎は、南西の彼方に2列縦陣で進むバルチック艦隊を視認します。1時50分には北西へ変針し、15ノットに増速して叩きに向かいました。
1時55分、三笠にZ旗が掲げられます。アルファベットの最後の文字であるZで「これ以上先はない」という覚悟を示し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という信号が出されました。皇国は日本、興廃は栄えるか滅びるかを意味します。
楊さんはここで、1969年の東宝映画『日本海大海戦』を紹介します。特撮を担当したのはゴジラやウルトラマンで知られる円谷英二で、東郷平八郎を演じたのは三船敏郎です。
マジでね、声がマジ最高なんですよね。ドスの利いたボイスで皇国の興廃、この一戦にありとか言ったんですよね。
楊さんは、この場面は日本人としてナショナリズムをくすぐられるところだと率直に語ります。東郷平八郎は日本の艦がどれだけ危険にさらされても構わないと判断しており、全員がそれを承知で向かっていきました。
秋山真之らに装甲で守られた司令塔へ入るよう懇願されても、東郷は拒み、吹きさらしの艦橋にとどまり続けます。
長官、司令塔の中にお入りくださいと秋山参謀が声をかけると、東郷が「ここにいる。私は年を取っているからここでいい。みんなは中に入れ」って言います。
楊さんによれば、東郷はここで死ぬ覚悟だったそうです。その姿を見た周囲は大いに勇気づけられたといいます。
敵前8000メートルでの大回頭、東郷ターンの決断
午後2時2分、連合艦隊は敵前8000メートルまで近づきます。この時点ではまだT字になっておらず、両艦隊がただ向かい合って進んでいる状態でした。T字の形をつくるには、艦隊が大きく旋回しなければなりません。
しかし8000メートルの距離で旋回すれば、旋回中は無防備に敵の砲撃を浴びることになります。そのまま進めばすれ違うだけで、攻撃時間が短く撃滅はできません。三笠の艦橋では、旋回すべきかどうかをめぐって激論が交わされ、混乱の極みにあったそうです。
一つの選択をミスったら日本が終わるみたいな状況で、どうするかみたいなのを決めないといけないのがタイムリミットありみたいな状態を今みんなやってるんですよ。
各艦の砲術担当者も焦っていました。ターンするかどうかで、左右どちらの舷から撃つかが変わり、準備が始められないからです。
結論として、東郷たちは敵の砲撃に構わずターンすることを決めます。三笠以下の艦が一斉に向きを変え、相手の進行方向を横から押さえにいく、いわゆる「東郷ターン」です。
向かい合って接近
このまま進めばすれ違うだけで、撃滅に必要な攻撃時間が取れない
敵前で大回頭
旋回中は無防備になり、三笠などに砲撃が集中して激しく被弾する
イの字の態勢
逃げる敵を追いながら横向きになり、先頭艦に砲撃できる位置を確保
ターンの最中、ロシア艦隊にとっては最大の好機で、三笠は激しく被弾しました。それでも連合艦隊はしのぎ切り、カタカナの「イ」の字のような形で並走します。相手が逃げるため完全なT字にはなれませんでしたが、横向きの態勢には成功しました。
30〜40分で勝敗が決した理由とは
連合艦隊は、2列で進むバルチック艦隊の先頭2隻、旗艦スワロフとオスラービアを狙って、ロシア側からだいぶ遅れて初弾を放ちます。スワロフの頭上を越えた初弾は、海に落ちた途端に大爆発して巨大な水柱を上げたそうです。
楊さんによると、日本の砲弾に使われていたのは下瀬火薬でした。欄干でも網でもワイヤーでも触れれば炸裂し、可燃物をことごとく燃やしてしまう威力があったといいます。
スワロフは出火して煙突や司令塔、舵が破壊されて制御不能になり、ロジェストウェンスキーも頭部に重傷を負います。オスラービアも船腹に穴が開いて傾き、そのまま沈んでいきました。一方、三笠に集中した敵弾は、3分の1が不発だったそうです。
樋口さんは、当時沖ノ島にいた佐藤市五郎という少年の手記を紹介します。大砲の音が万雷のように響き、無数の水柱が天高く上がり、艦隊の煙で海上が墨を流したように暗くなったという記述が残っているそうです。
勝敗は戦闘開始からわずか30〜40分でほぼ決しました。先頭の2隻を失ったロシア艦隊は統制を失って逃げようとしますが、連合艦隊は常に頭を押さえるように動き続け、集中砲火を浴びせます。
前方を押さえられたロシア艦隊はウラジオストク方面へ逃れられず、散り散りになります。スワロフに代わって先頭に出たアレクサンドル三世やボロジノも集中砲火で沈みました。世界の海戦史でもこれほどの圧勝はなかったと楊さんは話します。
夜の水雷艇攻撃と、数字で見る壊滅
日没後には、七段構え戦法のとおり日本の水雷艇が襲いかかりました。水雷艇はロシア艦のすぐ近くまで迫るため、ロシア側は砲の角度が合わずに撃てず、とても怖がったそうです。
翌28日には大型艦はほぼ沈み、オリョールを除けば二級の艦しか残っていませんでした。残った艦も再開された砲撃戦で撃沈されるか、降伏することになります。
楊さんが挙げたロシア側の被害と、日本側の損害を並べると、差の大きさがはっきりします。
| 区分 | ロシア側 | 日本側 |
|---|---|---|
| 参加艦 | 38隻 | - |
| 撃沈・自沈 | 撃沈16隻(戦艦6隻含む)、撃破後の自沈3隻、座礁後の自沈1隻 | 水雷艇3隻のみ沈没 |
| 捕獲・逃走 | 捕獲6隻(戦艦2隻含む)、中立港などへ逃走・抑留6隻、本国帰還2隻 | - |
| 人的被害 | 戦死5000人、捕虜6000人 | 戦死110人余り、負傷580人余り |
日本側の戦死者は、主に最初の大回頭の最中に攻撃を受けた人たちだったといいます。三笠もかなり被弾しましたが、戦闘の遂行に問題はありませんでした。東郷平八郎は27日と28日の2日間の戦いを「日本海海戦」と呼んで報告しています。
イギリス、アメリカ、そしてガンディーはどう受け止めたか
日本圧勝のニュースは世界を駆け巡りました。同盟国イギリスでは、ちょうどトラファルガー海戦 ── 1805年、ネルソン率いるイギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を破った海戦。イギリスの海上覇権を決定づけた戦いとされますから100周年にあたる年でもありました。
5月30日の『タイムズ』は、ロシアは海軍国としての地位を失い、世界の四等海軍にも劣るものになったと論評しました。さらに、ロシア皇帝は敗北を認めて国内の治安改善に力を尽くすべきだと書いています。
アメリカの『ワシントン・タイムズ』は、人命損失の責任はロシア民衆ではなく「傲慢怠惰のロシア統治者」にあるとしました。楊さんは、民主主義を掲げるアメリカが専制君主のロシアを嫌っていた背景を指摘します。小国ながら勇ましく戦った日本人を称える論調だったといいます。
樋口さんは、イギリスの植民地支配下にあったインドの民衆への影響も紹介します。村々でも人々が水煙草を回し飲みしながら日本の勝利を語り合ったそうです。その中で強い感銘を受けたのが、当時南アフリカにいたガンディーでした。
彼(ガンディー)はですね、日本の勝利を称賛しただけじゃなくて、日本の成功をインドも学ぶべきだという風に言ったんですよね。
ガンディーは、日本の団結や愛国心、犠牲の精神を学ぶべきだと書き、「日本はロシアの顔面に一発食らわせることができ」たとも記しています。列強に抑え込まれていた国々にとって、自分事として喜べる出来事だったと楊さんはまとめます。
美談だけでは語れない勝利と、東郷が語った「奇跡」
楊さんは、日本海海戦を世界を勇気づけた美談として語ることに注意を促します。日本は世界を勇気づけるために戦ったのではなく、列強として振る舞う一員として戦っており、この後、韓国や中国に対して列強的な振る舞いをしていくからです。
なのであんまりなんていうか、ここを英雄譚的に語るのもなんかちょっと片手落ち。かといって東郷さんたちが頑張ったのは事実ですから。なんかそれが全部否定するのもやっぱおかしいんだよね。
実際、インドの政治エリートの一部は、その後の日本の侵略政策を見て日本に幻滅していったと補足されています。英雄譚と否定のどちらにも寄らない見方が必要だというのが、楊さんの立場です。
東郷平八郎自身は、この勝利について、敵との兵力に大差はなく、ロシアの将兵も祖国のために奮闘したと認めています。そのうえで、勝利は天皇の威光によるもの、損害の少なさは歴代神霊の加護によるものと述べました。自分の力以外の力で奇跡的に勝てたという感覚だったと楊さんは読み解きます。
東郷平八郎は宗像大社の神様のおかげだと考え、のちに三笠の螺鈿盤を奉納しました。今も宗像大社の資料館に展示されているそうです。戦艦三笠も横須賀に残されています。
振り返りでは、東郷ターンをしなければ危なかったかもしれず、大回頭中に三笠が沈んでいても危なかったかもしれないと語られます。何百年単位の歴史を扱う番組の中で、この回は数十分から数時間で歴史が決まる瞬間を描いたものでした。
日本海海戦の大勝利によって、日露戦争は一気に終結へと傾いていきます。その結末が、シリーズ最終回となる次回で語られます。
まとめ
日本海海戦は、補給も士気も失ったバルチック艦隊と、ルート予測から大回頭まで一つの判断も誤れなかった連合艦隊との戦いでした。結果は圧勝でしたが、番組はそれを奇跡と準備の両面から捉え、英雄譚だけで終わらせない視点も示しています。
- バルチック艦隊は日英同盟の影響で補給地点を得られず、整備不足と低い士気のまま7ヶ月かけて日本近海に到着した
- 撃滅が使命の日本は3つのルートから待ち伏せ場所を選ぶ必要があり、作戦会議では一時、津軽海峡に決まりかけていた
- 敵前8000メートルでの東郷ターンは大きな被弾を伴ったが、先頭2隻を短時間で戦闘不能にし、30〜40分で勝敗を決めた
- 勝利はイギリスやアメリカ、ガンディーら世界に強い衝撃を与えた一方、その後の日本の列強的な振る舞いも併せて見る必要がある





