弘安の役の後も、幕府は攻めに出ようとした?
2度目の元寇である弘安の役で、鎌倉幕府はモンゴル軍を追い返しました。深井さんは、これを奇跡と見るか必然と見るかは難しいとしつつ、「とにかく日本を攻めるのが難しすぎて、大体そうなる」と理解していると話します。
とにかく日本を攻めるのがむずすぎて、大体そうなるってことだと僕は理解してます。
弘安の役の直後、幕府は海外派兵を再び検討しました。当時の幕府から見れば、3回目、4回目の襲来があってもおかしくなかったからです。少弐氏または大友氏を将軍とし、筑前・肥前・豊後の3か国の御家人 ── 将軍と主従関係を結んだ武士。将軍から所領を保障される「御恩」と、軍役などで仕える「奉公」の関係で結ばれていましたを動員する計画でした。
樋口さんは、この動きを「勝って兜の緒を締める」を体現した、武士らしい行動だと受け止めます。ただし、敗走するモンゴル軍を追撃する意図があったと思われるこの派兵は、実際には行われませんでした。幕府にはもう余力がなかったと考えられます。
幕府は、ルールを守らずに実力で土地を奪うような「悪党 ── 鎌倉時代後期に、幕府や荘園領主の支配に従わず実力行使をした人々を指す言葉。御家人にも、御家人でない武士にも、農民にもいました」を九州へ派兵しようともしました。京都周辺の悪党を56人ほど集めて九州に集結させる命令を出したものの、これも実現しませんでした。
深井さんは、悪党を幕府の傘下に置こうとする狙い、権力集中の狙い、単純な兵力不足の3つが考えられるとします。一方で、文永の役・弘安の役で戦った武士たちは、いつ恩賞がもらえるのかと待ち続けていました。
「占い」でも止まらない、クビライの遠征計画
モンゴル側のクビライは、日本征服をまったく諦めていませんでした。弘安の役から逃げ帰った将軍たちは、敗因を「嵐」と報告していました。兵力で負けるはずがないと考えるクビライは、「また嵐か」と受け取ったと深井さんは見ています。
普段やらないタイプのプロジェクト、自分のスキルが通用しないプロジェクトに関しては、理解解像度が低くて。
深井さんによれば、草原の戦争なら自分や腹心が現地を見て判断できるため、こうした判断ミスは起きにくいといいます。実際には大宰府も占領できていなかったのに、台風のせいだという報告を信じてしまったのは、海洋遠征ならではの弱点だと指摘します。
弘安の役の後、クビライは天文家のチョウコウを呼んで、日本を討つことの可否を占わせました。答えは「不可」でした。クビライは日本遠征のために作った征東行省 ── 元が日本遠征のために設けた軍事・行政の機関。高麗に置かれ、遠征軍の編成や物資の調達を担いましたをいったん廃止します。
それでもクビライは再び可否を問いました。するとチョウコウは「南方を平定したばかりで民はまだ服従しておらず、出兵は無理だ」と答えます。深井さんは、この根拠の説明はもう占いの域を超えていて、今でいう経営企画のような役割だと話します。
それでもクビライは止まりません。征東行省を廃止した2か月後には平底船3000艘の建造を始め、次の出兵を1283年8月と決めました。弘安の役の2年後です。
高麗には造船、兵糧、兵士の徴収が命じられました。しかし高麗にはもう何のリソースも残っておらず、科挙を目指して受験中の儒学生まで駆り出したといいます。
もうだからほんと15万とかが同時上陸できるみたいなのを目指そうとしてるってことだよね。
ところが、旧南宋の地域などで反乱が相次ぎました。反乱が他の地域へ広がるおそれもあり、強気のクビライも1283年5月に出兵の中止を決めます。出兵予定の3か月前に、造船に駆り出された人々の帰郷を許しました。
日本へ向かう使者が、味方に殺された
1283年の出兵中止の後も、クビライの日本遠征は終わりませんでした。深井さんは「この人本当に諦め悪いからね。死ぬまでちなみに諦めません」と話します。当初の出兵予定だった8月になると、クビライは徴兵と造船を再開しました。
クビライはこれまでの例にならい、日本に使者も送りました。しかし最初の使者は、出発した途端に暴風雨に遭って引き返します。翌年に送った使者は対馬までたどり着いたものの、日本行きを嫌がった味方の一行が、使者の一人を殺してしまいました。
やっぱ1回目も2回目もやっぱ相当士気低かったんだと思うんだよね。
何この戦争?メリットないんですけど、みたいな感じだったんだと思います。
元の領内では、旧宋の地域やベトナムで大規模な反乱が起きました。今の福建省では10万人規模の反乱が起き、楊さんは「規模のでかさが中国っぽいな」と反応します。
ベトナムには、北部に安南、南部にチャンパ ── 現在のベトナム中部から南部にあったチャム人の王国。中国の史料では「占城」とも記されますという王国がありました。元は安南に3年に1度の貢納を求めて役人を送り込み、チャンパには服属を勧めて、抵抗すれば大軍で制圧していました。ところがチャンパは反乱を起こし、屈服しないまま独立してしまいます。
なぜ最強のモンゴル軍が負け始めたのか
深井さんによれば、元が負けた相手はごく少数の国だけです。チンギス・カンの時代から、個々の戦闘で負けることはあっても、戦争全体で負けたことはほぼありませんでした。クビライが何度も日本を攻めようとしたのも、負けた経験がなかったからだと深井さんは見ています。
それがこの時期になると、チャンパ、日本、西方のマムルーク朝などに、ちらほら負け始めます。樋口さんの「何で負けるん?」という問いに、深井さんは「地の利」だと答えます。
やっぱ地の利ですよね。日本の場合は海の壁で、東南アジアの場合はジャングルなんです。
楊さんは、東南アジアの密林では馬をうまく運用できず、雨季には移動もできないと補足します。中国大陸なら運河、川、平野を使って兵站 ── 前線の部隊に食料・武器・人員などを補給し続ける仕組みのこと。遠征の成否を大きく左右します網を築けますが、ジャングルではそれが難しいといいます。
地の利についての3人の話は、モンゴル軍が得意とする戦場とそうでない戦場の違いとして整理できます。
馬を自由に使える。運河や川、平野を使って兵站網を築ける
海の壁や密林に阻まれ、馬を運用できない。多湿で雨季やスコールがあり、疫病で士気が下がりやすい
本当にね、得意が発動できないっていう状態にさせられるとね、やっぱ勝てないんだよ。
元はビルマやジャワにも遠征しましたが、どこでも強みを発揮できませんでした。それでもクビライは、1284年秋からまた出兵の準備を始めます。深井さんは、一度諦めてから再開するまでがわずか数か月しかないことに驚きます。
この再開も、ベトナムの反乱や、側近の漢人官僚の諫言によって取りやめになりました。さらに元の帝室内でもナヤンの乱が起きます。深井さんは、クビライのような人物にとっては、こうした混乱は起きて当然のものとして受け止められていたのだろうと話します。
混乱が収まると、クビライはまた遠征を考え始め、高麗経由でキムウソンという使者を日本に送りました。使者は1293年に日本に着いて鎌倉に送られ、殺されはしなかったものの抑留され、そのまま日本で亡くなりました。
帰ってこれてないし、いまだに一言も喋れてない。
片道切符やん。マジで。いや、これが本物のシカトってやつですね。
北条時宗の急死と、得宗家を支えた安達泰盛
弘安の役の3年後、1284年に、北条時宗が急病で倒れました。直前まで普段どおり執務していたことがわかっており、倒れて5日後に34年の生涯を終えます。
北条時宗は、14歳で連署 ── 鎌倉幕府で執権を補佐する役職。執権とともに公文書に署名しましたに就任して20年間勤め、18歳で執権 ── 鎌倉幕府の政務を取り仕切る最高職。北条氏が代々務めましたとなりました。執権を務めた16年間に、モンゴルが2度襲来しています。
深井さんは、北条時宗の死はストレスによる消耗が原因だろうと推測します。内乱の中で得宗の権力を高めるだけでも大変なのに、モンゴルが2度来て、御家人への恩賞も払えずにいたからです。
未曽有の国難を乗り切り、得宗の権力を高め、その代わり鎌倉幕府自体の寿命はものすごく短くなるんですけどね。
楊さんは、物語的に解釈すれば北条時宗はモンゴル帝国の侵攻に立ち向かうために生まれた人で、それが終わると同時に亡くなったようだと話します。深井さんも、父の北条時頼から期待された役割を果たしたと応じます。
後を継いだのは、14歳の北条貞時でした。北条貞時をいち早く支持したのが安達泰盛 ── 鎌倉幕府の有力御家人で、北条時宗の舅にあたる人物。時宗の死後は幕政を主導しましたで、安達泰盛を筆頭に北条貞時を支える体制ができていきます。
北条時宗の死は、北条一門の中に不穏な動きを生みました。深井さんは、その内乱の最中にモンゴルが攻めてきていたら、かなり危なかったと指摘します。
そもそも「徳政」とはどんな考え方なのか
北条時宗の死後、安達泰盛は、北条時宗がやりたかったであろう政策を「弘安の徳政」として実行していきます。深井さんはその内容に入る前に、そもそも「徳政」とは何かを説明します。
徳政とは、徳のある政治のことです。深井さんによれば、徳政はもともと古代中国の儒教の2つの思想と関係しています。1つ目は、前漢の儒学者・董仲舒 ── 前漢の儒学者。儒教を国家の正統な学問とすることに大きく貢献したとされますが完成させた天人相関説です。地震や彗星の出現などの天変地異は、君主の不徳が原因だとする考え方です。
深井さんは、日本人がモンゴルの襲来も天変地異のように捉えていた点を、日本人の特徴だと指摘します。中国人にとって敵国の来襲は人災ですが、日本人は人災を天災と結びつけていたといいます。
人が起こしたことを人災だと思わない。天災のように扱うっていうのは、僕から見た日本人の特徴であり、あまり良くないと思ってます。
分析しないじゃん、天災に対しては。コントロールできないから。その態度取るんだよね、日本人って。
2つ目は、孟子の易姓革命 ── 天命を失った王朝は徳のある別の家に取って代わられる、という儒教の考え方。中国の王朝交代を正当化する理論になりました説です。統治者の不徳が災いを呼ぶなら、民衆は統治する家を取り替えることができる、という考え方です。
この2つの論理が結びついて、日本では徳政という形で現れました。最初は天皇の徳政として、流星や日食などの異変が起きると、元号を変える、恩赦を行う、貧民を救済するといった対応がとられました。
深井さんは、本来は「統治する家を替える」という意味の易姓革命が、日本では「よいことをする」程度にまで骨抜きにされていると見ます。樋口さんが「日本にローカライズした」とも言えると返すと、深井さんはハロウィンにたとえます。
ハロウィンがもともと何の祭りだったかみたいなのはもうどうでもよくて、コスプレしますみたいなところだけが受け継がれて。
天人相関説
天変地異の原因は君主の不徳にあるとする董仲舒の説
易姓革命説
不徳な統治者の家は取り替えられるとする孟子の説
朝廷の徳政
異変が起きると、元号を変える、恩赦、貧民救済などで対処する
幕府の徳政
裁判制度の整備、御家人の統制、寺社への報いとして行う
幕府ができると、幕府も徳政を行うようになりました。裁判をすることが幕府の主な仕事なので、訴訟制度を整える、御成敗式目 ── 1232年に北条泰時が定めた鎌倉幕府の基本法。武家の慣習や道理をもとに、裁判の基準を示しましたを作る、言うことを聞かない御家人を統制する、といった形をとります。
さらに、戦わなかった貴族や寺社は、モンゴルに勝てたのは御家人のおかげではなく、自分たちの祈りで台風が起きたおかげだと考えていました。神々を戦わせる仲介をしたのは自分たちだとして、幕府に恩賞を求めてきます。
楊さんは、神社側の論理を補足します。神の土地に穢れが入れば災いが起きるため、他人の手に渡った神領を取り戻し、お祓いで穢れを除くことが新たな災いを防ぐことになる、という考え方が神社側にあったといいます。
弘安の徳政は誰のための改革だったのか
安達泰盛が主導した弘安の徳政は、北条時宗が構想していたものではないかと指摘されています。北条時宗が早くに亡くなり、得宗の権力基盤は揺らいでいました。そこで安達泰盛は、将軍に権力が集まるように法令を整えようとします。
弘安の徳政は、関係法も含めると90か条以上にのぼる大規模な政治改革でした。深井さんによれば、対象は主に、モンゴルとの戦いで働いたのに恩賞をもらえていない御家人たちです。
弘安の徳政の主な内容を、深井さんの説明から整理します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 君徳の涵養・豪奢の抑制 | 将軍と北条貞時が贅沢をせず、生活を引き締める |
| 将軍の経済基盤の確立 | 将軍家直轄の領地を整備する |
| 主従関係の拡充 | 九州で戦った御家人でない武士を御家人にする |
| 悪党・博徒の禁圧 | 治安を乱す人々を取り締まる |
| 役人の派遣 | 六波羅探題だけでなく関東から役人を送って政務を補強する |
| 寺社領の回復 | 売却された寺社や神領の土地を元に戻せるようにする |
深井さんは、政治家に清貧を求める価値観は今もあると話します。楊さんは、トップが自らを律すると宣言することで、聞く側が公平な政治を期待でき、納得感が生まれるのではないかと見ています。
深井さんが特に大きいと見るのは、御家人でない武士の御家人化です。御家人になれば、幕府と御恩と奉公の関係を結べます。持っている領地を悪党に奪われても、幕府に訴えられるようになります。
寺社領を元に戻す法は、各地の神社にとって、失われた所領を取り戻せる法として受け止められました。
天皇、将軍、執権、身内人。何重にも入れ子になった権力
弘安の徳政は、幕府の内部で反発を招きました。弘安の徳政は、安達泰盛が将軍の権力と経済基盤を回復させようとする試みです。北条貞時と安達泰盛はこれを進め、そこには北条時宗の意思も入っていたと深井さんは見ています。
反発したのは、北条得宗家に仕える側近たちでした。一応は御家人ですが、将軍よりも得宗家に仕えることを選んだ人々で、身内人 ── 北条得宗家に仕える家臣。御内人とも呼ばれ、鎌倉時代後期には幕政で大きな力を持ちましたと呼ばれます。
深井さんは、身内人が力を持つ状況も日本の特徴だと話します。権力を握る者が骨抜きにされ、その下の者に実権が移る、ということが何重にも繰り返されていたからです。
この御家人の権力が骨抜きになって身内人に移ってる状態。つまり権力の二重構造、三重構造、四重構造までいってるんだよ、ここで。
朝廷では朝議が形だけになって評定衆が実質を決めるようになり、今度は身内人が評定衆ではなく寄合 ── 北条得宗家の私邸で開かれた会議。正式な評定に代わって、幕政の重要事項を決める場になりましたで物事を決めるようになりました。楊さんは「秘密会議」とたとえます。
本来外国であれば、そういう人たちは滅ぼされるんで、ポジションとして残らないんですけど、だからこんなややこしいことなんないんですけど。
深井さんによれば、日本では上の地位が滅ぼされずに残るため、地位はあっても何もしていない人がいる入れ子の構造ができあがりました。
霜月騒動で、名門・安達家が滅びた
身内人が弘安の徳政に反発したのは、自分たちの力が発揮できなくなるからでした。将軍が力を持って新しい御家人と結べば、それまで御家人でない武士に対して持っていた優越感が失われ、既得権益が脅かされると見えたのです。
身内人はついに反乱を起こし、日本各地で大規模な内戦になりました。これが霜月騒動 ── 1285年に起きた鎌倉幕府の内紛。身内人の平頼綱が安達泰盛とその一族・与党を滅ぼしましたです。深井さんは「騒動」という名前に疑問を示し、多くの人が死んだ大規模な内乱だと話します。
霜月騒動の標的は安達泰盛でした。身内人にとっての主君は北条貞時なので、北条貞時を殺すことはできません。一方、安達泰盛は将軍に忠誠を誓う外戚の御家人でした。
樋口さんは「相当ややこしい」と混乱しながら、北条貞時は将軍ではなく執権で、将軍は惟康親王だと確認していきます。深井さんは、身内人は得宗家の一族ではなく、得宗家に仕える別の家の人々で、名字も平氏などと違うと説明します。
ちなみに身内人の筆頭が管領っていう役割やってるから、マジで執権の入れ子構造のマトリョーシカが管領って言うんですよ。
身内人の筆頭だったのは平頼綱です。平頼綱らは「将軍になろうとしただろう」として安達泰盛と子の安達宗景を攻めました。安達泰盛父子は敗れて自害し、その後も安達泰盛派の武士への攻撃が各地で続きました。九州でも岩門合戦が起きています。
安達氏が追われた結果、まだ若い北条貞時のもとで、平頼綱が実権を握る政権が生まれました。深井さんは、皮肉にも、幕府でナンバー2だった安達氏の所領を恩賞地として配れるようになったと指摘します。
安達家ってあれですよ、源頼朝の時からついていった、もう名門中の名門ですからね。
平禅門の乱と、ひっくり返された約束
平頼綱が台頭すると、今度は北条貞時が乱を起こします。成長した北条貞時が自分の好きに政治をしたいと考え、調子に乗りすぎた家臣の平頼綱を攻めて倒しました。これが平禅門の乱です。
楊さんは、竹崎季長の動きにも触れます。竹崎季長にとって本当の上司は安達泰盛でしたが、霜月騒動のときは肥後にいて参戦せず、無事にやり過ごしたといいます。平禅門の乱の後、幕府は再び得宗の専制へ戻っていきます。
深井さんが強調するのは、平頼綱が安達泰盛を倒した後、弘安の徳政を大きく変えたことです。悪党の取り締まり、異国警護、訴訟の公正化・迅速化は残りましたが、寺社に土地を戻す法と、御家人でない武士を御家人にする法は取り消されました。
寺社は失った土地を取り戻してよい。九州で戦った御家人でない武士は御家人になれる
土地の返還も御家人化も取り消し。悪党の取り締まり、異国警護、訴訟の整備は残る
神社側から見ると、2年ほど前に「土地を取り戻してよい」と言われて取り戻したのに、また使者が来て「やはり絶対にだめだ」と言われたことになります。楊さんは「最悪やん」と反応します。
こんなことしてたら、そりゃ鎌倉幕府滅びるよね。誰も支持しないでしょ。こんなのコロコロ変わってさ。
やっぱ政治を通底する1つの哲学とかポリシーがないよね。
一方で深井さんは、学者による別の見方も紹介します。得宗が幕府の権力を奪ったというより、内紛で御家人が殺されすぎて、儀式や役務などの幕府運営のコストを負担できる勢力が得宗くらいしか残らなかった、という見方です。
生き残った御家人も「もう北条氏が勝手に幕府をやってくれ」と考えた可能性があると深井さんは話します。武士にとっては自分の所領さえあればよく、幕府の求心力は下がっていったと考えられます。
分割相続が、家父長制を生んだ
深井さんは、鎌倉幕府がシステムとして「詰んでいた」ことを詳しく見ていきます。この時代の武士は分割相続 ── 親の財産を複数の子に分けて相続させる方式。鎌倉時代の武士は、男子だけでなく女子にも所領を分けていましたをしていました。何代も続けると、財産はどんどん細かくなります。
分割相続が続いた結果、竹崎季長のように、ほとんど何ももらえない御家人が生まれました。深井さんによれば、まず女子の相続分が横領されるようになります。女子から奪っても攻めてこないが、男子から奪うと一族でも殺し合いになるからだといいます。
分割相続
兄弟姉妹で所領を分け、代を重ねるごとに細かくなる
女子の相続分の横領
反撃されにくい女子の取り分から奪われる
長男への偏重
まとめて持つほうが奪われにくく、争いも起きにくい
家父長制
鎌倉後期から加速していく
だからまず女子から奪われるんだよね。実は家父長制ってこういうふうに育っていくんだよ。
深井さんは、分割相続で財産が細かくなると家父長制になるのは世界的な動きだと話します。土地をこれ以上増やせない時代には、長男に固定すれば奪われにくく、家の強さも保て、能力で決めるときのような争いも起きにくいからです。
フロンティアがない時代、土地をこれ以上増やせない時の合理性が家父長制だったということです。
所領をめぐる紛争も増え、幕府は裁ききれなくなりました。一族の内部で合議して解決するようになると、幕府は何のためにあるのかという話になります。樋口さんは、幕府の存在意義は紛争を裁くことと、土地の所有にお墨付きを与えることだったと整理します。
さらに、所領を持たない「無足」の御家人が大量に生まれました。軍事動員をかけても、土地を奪われたり売ったりして兵を連れてこられません。主従関係を結ぶ御家人が弱くなることは、幕府にとって深刻な政治課題でした。
御恩と奉公は、フロンティアがあって初めて回る仕組みだった
深井さんは、御家人が弱っていくことは避けられなかったと話します。鎌倉幕府は、たまたま成り立っていた状況を前提にした制度にすぎなかったのに、それが幕府の基盤だと自ら宣言し、御恩と奉公を倫理にしてしまいました。
上級の乱が最後のフロンティアだったんだから、日本にとって。
ここでいう「上級の乱」は承久の乱 ── 1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵した戦い。幕府が勝ち、上皇方の所領を没収して御家人に分け与えましたを指すと考えられます。深井さんは、新たに配れる土地がない以上、幕府がいつか滅ぶことは承久の乱の時点で決まっていたと見ています。
幕府の対処策は徳政令でしたが、内容は基本的に奪われた所領を取り戻してよいというものでした。深井さんは、借金を帳消しにすれば経済が崩壊すると指摘し、樋口さんも「誰も貸さんくなる」と応じます。
だからこの御恩と奉公というシステムがフロンティアがある前提でしか駆動しないシステムだったっていうことなんですね。
深井さんによれば、北条時宗も北条貞時も、この状況をメタ的に認識していた人は一人もいませんでした。経済の仕組みもわかっていなかったからこそ、徳政令を出せたのだといいます。
永仁の徳政令は、なぜ「超対症療法」なのか
平頼綱を倒して実権を握った北条貞時は、有名な永仁の徳政令 ── 1297年に鎌倉幕府が出した法令。御家人が手放した所領の取り戻しなどを定め、日本史で最もよく知られる徳政令ですを出します。深井さんは、その内容を大きく3つに分けて紹介します。
| 内容 | 狙い | 深井さんの評価 |
|---|---|---|
| 越訴(敗訴後の訴え直し)の禁止 | 裁判の数を減らす | 原因に触れない超対症療法 |
| 売却した所領を元の御家人に返還させる | 困窮した御家人を救う | 経済が大崩壊する |
| 借金の取り立ての訴えを受け付けない | 揉め事を裁判に持ち込ませない | 詰んでいる状況を解決できていない |
超対症療法じゃん。全然原因にアプローチしてないんだよね。
樋口さんは裁判コストの削減という面もあったのではないかと言いますが、深井さんは「もう詰んでんのよ」と答えます。そして、こうした状況は企業でもよくあると続けます。
で、たかだか数十年しか続いてない伝統に死ぬほどこだわりすぎてて、状況の変化についていけない。
深井さんは、過去のシステムには前提条件があり、前提条件が変わったかどうかを見ていないことはよくあると指摘します。樋口さんが価値観を大きく変えるのは難しいと言うと、深井さんは合意ができないからだと答えます。
深井さんによれば、女子に相続させないといった新しい論理も、事前に持ち出せば反発されます。モンゴル襲来のときに得宗が専制化できたのも、背に腹は代えられない外部環境があったからです。それでも合意を取りにいくべきだった、というのが深井さんの考えです。
楊さんは、だからこそ歴史学は当時、政治学と同じように扱われ、ケーススタディとして因果関係を学ぶものだったと話します。
得宗の主導で行われた徳政は、対症療法にもならず社会と経済を混乱させました。その不満は幕府、さらに得宗へと集まり、鎌倉幕府滅亡への大きな勢いになっていきます。深井さんによれば、この50年ほど後に鎌倉幕府は滅び、足利家が返り咲いて室町幕府ができます。
争いすぎると、払うべき報酬が払えなくなる
深井さんはもう1つの学びとして、内紛を続けると、一緒に戦った味方に報酬を払わなければならなくなる点を挙げます。鎌倉幕府は争いすぎて、その報酬を払えなくなっていました。
樋口さんは、人はミクロで見るとその時に勝って利益がある方を選ぶと受け止めます。深井さんは、長期で見られなければ同じことを繰り返すと話します。
当時の人がバカだとは思いませんけど、彼らにとって初めての現象だからね。でも僕たちにとっては初めてじゃないからね。
樋口さんは、家庭、会社、業界、国、地球と、あらゆるスケールで同じ構造がありそうだと話を広げます。
クビライの死と、12回の使者
話はモンゴル側に戻ります。楊さんによれば、クビライは自分が亡くなる前に、皇后のチャブイ ── クビライの皇后。政治にも影響力を持ち、クビライを支えた人物として知られますを亡くしました。衝動的に怒りを爆発させることもあったクビライを抑えていたのがチャブイだったといいます。
チャブイの死後、クビライは酒色に溺れ、馬に乗れないほど太り、痛風やリウマチを患い、大勢の前で話すこともできなくなったと楊さんは紹介します。皇太子に指名していた息子のチンキムも先に亡くなりました。
クビライが亡くなったのは1294年ごろで、永仁の徳政令より前のことです。弘安の役から十数年後まで生きたことになり、当時のモンゴルの人としてはかなりの長生きでした。深井さんによれば、クビライは日本に計12回にわたって使者を送り、すべて無視されるか、殺されるか、届かないかで終わりました。
クビライの死で、モンゴルの脅威は去りました。それでも日本は異国の襲来に怯え続けます。1301年には薩摩の甑島に異国船が現れ、1艘が着岸し、ほかにも200艘ほどが見えたとして騒ぎになりました。
甑島の異国船がどこの国の船だったかはわかっていないと深井さんは話します。当時の貴族は、また台風が吹いて賊の船を追い払ってくれるだろうと語っていました。深井さんは、自分たちは神の国にいると自己暗示をかけて平和を保とうとしていたと見ています。
最終的にモンゴルは日本を諦めます。楊さんによれば、クビライの孫のテムルは、冊封体制 ── 中国の皇帝が周辺国の君主に称号を与えて臣下とし、形式的な主従関係を結ぶ国際秩序にもとづく服属を形式だけでよいとして東南アジア諸国に使者を送りましたが、日本はそれでも断りました。
楊さんが読んだ本によれば、日本は元の時代が終わるまで、元の臣下にならないことを貫いた唯一の近隣国でした。結局テムルも諦め、服属のないまま日本との貿易が復活したといいます。
神風信仰は、盲信か、独立性か
楊さんは、日本の粘り勝ちとも言えると話します。深井さんは「なんとも言えない」としたうえで、神風信仰は根拠のない盲信でもあると指摘します。大正時代の教科書にも、亀山上皇や北条時宗をめぐって事実と違う記述があったといいます。
深井さんによれば、神風信仰は戦前、根拠なく戦争に向かう方向へつながりました。一方で、使者に迎合せず、形式的な服属すら拒む強固な独立性にもなり、明治期に黒船が来たときにもその感覚は生きていたといいます。
神聖な土地だって思ってる人が別にいてもいいと思うんですけどね。なんか状況判断とか根拠とかに使わないのがやっぱ大事じゃないかなっていう。
福岡で見た防塁が、歴史を「自分ごと」にした
本編を終えた3人は、モンゴル帝国襲来編のシリーズ全体を振り返ります。楊さんは、元、高麗、モンゴル、ベトナム、日本と多くの国にまたがるシリーズだったと話します。神風信仰やクビライが残した運河のように、大昔の出来事が今に残っていると実感できたことを、歴史を学ぶときめきの1つに挙げます。
樋口さんにとって大きかったのは、元寇防塁 ── 文永の役の後、鎌倉幕府が博多湾沿岸に築かせた石の防壁。弘安の役でモンゴル軍の上陸を阻みましたを見に行ったことでした。大濠公園、中洲、赤坂など、知っている場所で元寇が起きたとイメージできるかどうかで、リアリティが違うといいます。
これ作った人たちが何百年前にいたんだ。で、これもし作ってなかったら、これワンチャン征服されてるやんっていう感覚。
楊さんは、福岡にモンゴル料理屋が増えていたかもしれないと冗談を言います。深井さんは、日本は東西に長く、山がちで、自分の土地は自分で守る武士が多いため、仮に九州が征服されても維持は難しかっただろうと見ています。楊さんは、そもそも日本列島を治めるメリットがどれほどあったのかという問いもあると話します。
深井さんは、占領はされなくても、一時的に何かされていれば日本人のアイデンティティは変わっていただろうと話します。楊さんは、宋の商人が博多に住んで帰化し、それが地名などに残っているように、モンゴルが定着していれば同じような痕跡が福岡にあったかもしれないと、歴史の分岐点の味わいを語ります。
竹崎季長の「ご褒美が欲しい」は、現代の承認欲求とは違う
樋口さんがこのシリーズで特に面白かったのは、竹崎季長 ── 肥後の御家人。元寇での自らの戦功と恩賞獲得の経緯を『蒙古襲来絵詞』に描かせたことで知られます、通称「タケちゃん」でした。国の危機の最中でも、現場の竹崎季長はご褒美をもらうために前向きに戦っていたように見えるからです。楊さんも、自分の得たいものに素直に執着して行動する姿に憧れると話します。
深井さんは、竹崎季長の動機を現代の感覚で解釈しないよう注意を促します。当時の人には個人という感覚があまりなく、自分が偉くなりたい、褒められたいという感覚とは違うといいます。
なんで、その、自分が偉くなりたいとか、褒めてほしいとかっていう感覚と、またちょっと僕たちが抱く、その、SNSとかで自己顕示欲MAXの人とかとはまた違うと思いますよ。
樋口さんは、自分の会社を守りたいという感覚に近いのかもしれないと受け止めます。楊さんは子孫のために土地を残すという観点を挙げますが、深井さんは、それも信仰の感覚の中での「子孫のため」で、現代の「未来のため」とはまったく違うと話します。
深井さんは、命をかけている武士の判断の速さからずっと学んでいるといいます。竹崎季長は、兜がないまま部下を置いて出陣し、隣の武士が兜を貸すと言っても、矢が当たって相手が死んだら申し訳ないと断りました。
とにかくね、神仏の感覚とかも全然違ったじゃん。徳政令の感覚も全然違うからね。土地の所有の感覚とかも我々と全然違うから。
楊さんは、神と人間の領域が分けられていて、神の土地は神のものにしておかなければ災いが起きると考えられていたと補足します。深井さんも、元の血筋の土地はいずれ戻ってくるという感覚があったからこそ、徳政令で「戻せ」と簡単に言えたのだと話します。
楊さんによれば、竹崎季長はその後も肥後の領主として寺社の後援者になり、無事に生涯を過ごしました。
求められるのは「健全な愛国心」とメタ認識
最後に深井さんは、鎌倉幕府はガバナンスが効いておらず、政権運営能力もなかったと振り返ります。それでも幕府の人々は、見たことのない現象を自分たちなりに処理し、命をかけ、朝廷と比べて驚くほど速く判断していたと評価します。
一方で、当時の日本は外国への解像度が低く、兵力差も、相手がなぜ強いのかも理解していませんでした。地の利でたまたま勝てたことを「神風」と呼んでしまう姿を見て、深井さんは健全な愛国心について考えたといいます。
深井さんが望むのは、コンプレックスから来る愛国心ではなく、できていることとできていないことを見たうえで、日本だけが持つ特徴を大事にする姿勢です。メタ認識が大事で、それは鎌倉時代からも学べると話します。
楊さんは、当時の人々のメタ認知の限界は仕方がなく、現代人は歴史を知識として学べる点で違う振る舞い方ができるはずだと話します。深井さんは、本来はそうだが、情報をたくさん取れる立場にいながら活用できていないと応じ、自分も含めた自戒になったと締めくくります。
樋口さんは、モンゴルから日本へ行く使者にだけは絶対になりたくないと笑い、檻の中に送り込まれるようなものだと話します。最後に深井さんは参考文献として、服部英雄氏の『蒙古襲来と神風』、田中大喜氏の『図説 鎌倉幕府』、モンゴル側の事情を描いた『元寇 蒙古帝国の内部事情』の3冊を挙げました。
まとめ
2度の元寇の後もクビライは日本侵攻を諦めず、使者と遠征計画を繰り返しましたが、各地の反乱や地の利の壁に阻まれ、亡くなるまで実現しませんでした。一方の鎌倉幕府は、恩賞として配る土地がない構造のまま、北条時宗の死、弘安の徳政、霜月騒動、永仁の徳政令と内紛と対症療法を重ね、滅亡へ向かっていきます。
- クビライは日本へ計12回使者を送り、出兵計画も何度も立てたが、反乱や諫言で中止が続いた
- モンゴル軍は海の壁や密林で馬と兵站を生かせず、日本や東南アジアで負け始めた
- 霜月騒動で安達泰盛が滅び、弘安の徳政で約束した土地の返還や御家人化は取り消された
- 御恩と奉公はフロンティアがあって初めて成り立つ仕組みで、永仁の徳政令は原因に届かない対症療法だった
- 竹崎季長の動機や神仏・土地の感覚は現代とまったく違い、その違いを知ることとメタ認識が大切だと語られた



