石の壁は本当に効いたのか?東路軍を阻んだ元寇防塁
モンゴル帝国襲来編の第9話は、前回のロケで実際に見てきた元寇防塁の話から始まります。防塁は御家人の家ごとに担当区間を分けて築かれており、その防塁でモンゴル軍を迎え撃つ場面が今回の舞台です。
1281年、文永の役から7年後に、モンゴル軍は再び日本へ出撃しました。高麗兵とモンゴル兵を中心とする東路軍4万が、朝鮮半島の合浦 ── 朝鮮半島南東部の港。文永の役・弘安の役で、高麗から日本へ向かう元軍の出撃拠点となりましたを5月3日に出発します。
通説では、東路軍は5月21日に対馬、26日に壱岐を襲撃したとされます。深井さんは、文永の役と同じルートをたどりながら、出発から2週間以上かけて対馬に着いた点を指摘しています。
東路軍が6月初めに博多湾へ入ると、海岸線に沿って高さ1丈3尺の石の壁が延々と続いていました。壁の上には何千本もの旗が翻り、盾が隙間なく並び、波打ち際には乱杭と呼ばれるバリケードが打ち込まれていたといいます。
(乱杭の)バリケードが張り巡らされてるんで、馬が走りづらいですね。
元寇防塁と乱杭を前にした東路軍は上陸をあきらめ、志賀島に停泊したとされます。深井さんは、博多湾そのものの地形もモンゴル軍に不利だったと補足します。
博多湾は浅瀬のため、大きな船団は海岸線近くまで入れません。沖に停泊した船から小舟で兵士を何往復も運ぶ必要があり、一気に上陸することが難しかったのです。
文永の役では上陸後にこの難しさに気づいた形でしたが、弘安の役では防塁と乱杭があったため、元軍は段階的にしか来られませんでした。
いやー、で、ちゃんと防塁が効いてるっていうのもすごいですよね。
ね。ちゃんと意味のあることしてた。
博多湾の海上戦と、モンゴル軍が抱えた海の弱点
東路軍が博多湾に到着すると、ここから2か月にわたる断続的な戦いが始まります。一方で、中国南部から来る江南軍はまだ到着しておらず、両軍は壱岐で合流する予定だったとされます。
鎌倉武士団は軍船に分乗し、博多湾の入り口に浮かぶ元の船団へ攻撃を仕掛けました。特に、現在の愛媛県にあたる伊予の水軍を率いた河野通有が目立った活躍をしたと言われます。
元の船団は船同士を鎖でつなぎ、近づく小舟に石弓 ── 弦を機械的に引いて矢を放つ弓。クロスボウとも呼ばれ、通常の弓より強い力で矢を飛ばせますで矢を浴びせました。その矢の中へ小舟で突っ込んでいった武士たちの戦い方に、樋口さんは「すげえ戦い方だ」と驚きます。
志賀島に上陸した元軍には、豊後の大友氏が率いる武士団が攻撃を仕掛けました。こうして日本側は元軍を博多湾の中で食い止め、九州本土への上陸を許さないことに成功します。
通説では、この後に東路軍は壱岐まで全軍を後退させ、江南軍の到着を待ったとされます。ところが江南軍は、寧波から出発しており、到着が大幅に遅れていました。
江南軍の航路について、深井さんは、朝鮮半島からなら対馬や壱岐を伝って来られるのに対し、南宋側から来ると途中に島がなく、遭難しかねないと説明します。
楊さんは、海を隔てて大軍を送ること自体の難しさを強調します。当時の船にはエンジンがなく、海流や風任せのため、船団は徐々にばらけ、着岸地点もずれていきました。
思った以上に海上遠征っていうのはめちゃくちゃ実はハードルが高いんですよ。これが実はモンゴル軍の構造的な弱点なんです。
深井さんも、モンゴル軍は南宋の海軍や高麗の船に頼って攻めており、モンゴル自体は海軍が強くなかったと話します。ユーラシア大陸で強かったのは、馬で連絡を取り合い、兵站を築ける陸上だったからだというのが二人の見立てです。
不仲の将軍と台風。通説が描く「奇跡の勝利」とは
服部英雄先生から聞いた話として、深井さんは、海上では船同士が見えないほど離れてしまうことがあったと紹介します。対馬、平戸、壱岐とばらばらに着いた船団を、多民族の軍がどう統率し、どこまで待つのかは、モンゴルにとって初めての経験でした。
通説では、元軍の中で疫病が発生し、将軍たちの対立も起きたとされます。忻都や洪茶丘 ── 高麗出身の元の将軍。モンゴル側に仕え、日本遠征では東路軍を率いた一人ですが撤退を主張したのに対し、高麗の大将軍である金方慶は戦うと言い、意見が割れました。
深井さんによれば、洪茶丘は高麗出身でありながらモンゴル人の格好で振る舞い、高麗の将兵から嫌われていました。金方慶は洪茶丘の告げ口によって、国王の面前で拷問を受けた経験もあったといいます。
江南軍を率いた范文虎も、宋の人々からの評判が悪かったそうです。もともと范文虎が負けたことで南宋が敗れたのに、今はモンゴルの家臣になっているという見方をされていました。
なんかカリスマ的な人を上に置けてなかったっていうのもやっぱあるよね。
通説では、7月初旬にようやく江南軍が平戸から五島にかけての海域に到着し、鷹島付近に集結したあと、なぜか1か月ほど滞留します。この滞留の理由はよくわかっていないと、深井さんも楊さんも話しています。
そこへ7月30日、太陽暦で8月23日ごろに台風がやってきました。暴風は船団を直撃し、多くの船が沈み、范文虎らは我先に逃げ帰ったとされます。
鷹島に取り残された2〜3万人の兵は船を作って逃げようとしましたが間に合わず、日本軍の捕虜になりました。モンゴル人と高麗人は殺され、南宋人は捕虜とされたといい、戦死と溺死は10万人以上にのぼったと伝えられています。
通説では、この台風こそが「神風」です。負けそうだった日本に台風が吹いて、奇跡的に勝利したという物語になります。
東路軍は志賀島に居座っていた?服部英雄先生らの新説
この通説に対し、服部英雄先生や、その説に同調する研究者は別の見方を示しています。東路軍は5月3日に合浦を出発したその日のうちに対馬へ着いたはずだ、というのが出発点です。
一晩でしか着かないし、一晩で着ける時しか出発しないと先生おっしゃってましたね。
新説では、東路軍は3日ほどで対馬を掌握し、その1週間後ほどで壱岐を、さらに10日後ほどで志賀島を占領したとされます。最大のポイントは、東路軍が志賀島を拠点にし続けたという点です。
志賀島は博多湾の目の前にあり、そこから移動しやすく戦いやすい場所です。一度押さえた志賀島を手放す理由はないため、東路軍の本隊は江南軍を待ちながら志賀島に駐留していたと考えられています。
新説では、日本軍が博多周辺の防衛で手一杯だったため、志賀島の守りが薄く、5月26日ごろには上陸を許したとみています。モンゴル兵にとって志賀島は、馬に欠かせない水や草を確保できる好都合な場所でした。
日本側は6月6日に前哨戦、8日に総力戦を挑みました。楊さんによると、6日の前哨戦は武士側の夜襲で、深井さんは少人数のゲリラ戦だったと補足しています。
総力戦では日本兵300人が捕らえられて斬首され、海戦でも日本軍は惨敗したといいます。翌日も戦いは続き、洪茶丘の軍は敗走しましたが、日本軍は志賀島の奪還までは至りませんでした。
そこで日本軍は、6月29日から7月2日にかけて後方拠点の壱岐を攻撃します。対馬と志賀島をつなぐ補給路を断てば、数千人の食料を自給できない志賀島の東路軍は追い詰められる、という狙いでした。
江南軍は新説でも遅れています。6月18日に出発し、済州島、五島北端、平戸を経て、7月半ばごろ鷹島に到着したとされます。五島の御家人は博多湾に動員されていたため、そのあたりに防備はなかっただろうと考えられています。
鷹島に船を集めていた段階で、江南軍は暴風雨に遭いました。新説でも台風は実際に起きており、日本の記録、海底の遺物にも痕跡が残っています。ただし江南軍10万のすべてがこの時点で到着していたわけではなく、航海の難しさからばらばらに着いていたとみられます。
| 論点 | 通説 | 新説 |
|---|---|---|
| 対馬・壱岐の襲撃 | 5月21日に対馬、26日に壱岐 | 出発当日に対馬へ着き、早い段階で掌握 |
| 東路軍の動き | 博多湾で阻まれ、壱岐へ全軍後退 | 志賀島を拠点にして駐留し続ける |
| 台風の影響 | 元軍全体が壊滅し、戦いが終わる | 江南軍は大打撃、東路軍は温存される |
| 台風の後 | 残敵掃討で終わる | 東路軍と2度の激戦を経て勝利 |
表のとおり、両説の大きな違いは、台風のあとに温存された東路軍と戦い続けたかどうかにあります。
「神様の思し召し」と浮かれた京都の貴族たち
台風の知らせを受けた京都の貴族の日記も残っています。九州からの飛脚が届き、異国船が大風に遭ってほとんど沈んだと知った貴族は、「上も下も大喜びで謳歌している」と書き残しています。
続報で「蒙古の賊は全滅した」「残った2000人余りは捕虜になった」と知ると、日記は「神様の思し召しだ。嬉しや嬉しや」と喜びます。別の日記にも、神の力がはっきりと示されたという言葉が並びます。
現場にいない人は気楽ですよ。
仏教界からも反応がありました。真言律宗の叡尊 ── 鎌倉時代の律宗の僧。西大寺を拠点に戒律の復興に努め、蒙古襲来の際には異国降伏の祈祷を行ったことで知られますは、幕府の要請で、仏に祈って敵を退ける異国調伏を行っていました。
叡尊の熱心な信者だった六波羅探題の評定衆、三善政康は、勝利の知らせを叡尊のもとへ届け、祈祷のおかげだと感謝したといいます。楊さんは、当時の人々がこの戦いを神と仏の戦いとして捉えていたと説明します。
一方で日蓮は、もう少し否定的に見ていて、日本は負けるのではないかと考えていたようだと深井さんは触れています。
台風後にも続いた2度の激戦
新説に従えば、元軍は台風で全滅したわけではありませんでした。江南軍の作戦そのものが無謀で、台風によって追い払われた形ですが、志賀島の東路軍はまだ残っていました。
日本側は暴風から4日後の閏7月5日に博多湾から総攻撃をかけ、7日には残党がいた鷹島を総攻撃します。この2つの戦いを経て、弘安の役は日本の勝利で終わりました。
台風のおかげだけでもないっていう、現代人からすると中途半端な感じですね。
台風がなければこれほどの勝ち方はしていないかもしれない一方で、台風だけで勝ったわけでもなく、激戦も戦っています。樋口さんが「要因は複数なんですよね」とまとめると、深井さんもうなずきます。
船がない!竹崎季長、嘘と頼み込みのヒッチハイク追撃
台風後の戦いを詳しく伝えるのは、肥後の御家人である竹崎季長が自分の活躍を描かせた蒙古襲来絵詞 ── 竹崎季長が文永・弘安の役での自らの戦いぶりを描かせた絵巻。元寇の様子を伝える貴重な史料ですです。番組では親しみを込めて「竹ちゃん」と呼ばれています。
閏7月5日の明け方、関東から派遣された使者の武士2人が、生の松原の本陣へやってきます。竹崎季長はおそらくその報告をそばで聞いていたのだろうと、深井さんは推測しています。
使者の報告は、鷹島ではモンゴル軍がすでに退却を始め、しかも大将格から逃げ出しているというものでした。実際、范文虎は大風のあと真っ先に逃げ帰ったようです。
竹崎季長は「船に乗っている者こそ大将格だ。一人でも討ち取りたい」と言い、使者から、追撃したいなら司令官の少弐殿へ早く申し出るよう促されます。少弐殿は本陣から8キロほど東の警固所にいました。
竹崎季長が申し出ると、引き潮の今すぐ出るべきだという話になり、すぐに出撃が決まります。ところが竹崎季長は、自分の船を生の松原ではなく博多湾に置いていたため、自分だけ間に合わない事態に陥りました。
竹崎季長はほかの船に乗せてほしいと頼み回りますが、どこも満員で乗船を断られます。そこへ主君である安達泰盛の大きな船が通りかかり、「守護の手の者です」と嘘をついて小舟に乗せてもらい、大船へ乗り移りました。
ところが安達泰盛の船は速度がとても遅く、別の武士の船が次々と追い抜いていきます。竹崎季長はまた「守護の命令で呼ばれている」と嘘をつきますが、今度はすぐ見破られ、最後は拝み倒して一人だけ乗せてもらいました。
乗せてもらうヒッチハイクやん、もうほぼ。
この追撃劇で竹崎季長は、弓矢の武士の誉れは先駆けにあると語っていたといいます。深井さんは、とにかく早く戦場に行くことしか考えていない姿を「先駆け原理主義者」と呼びます。
脛当を頭に突入。兜を断った竹崎季長の律儀さ
竹崎季長は慌てて船を乗り移ったため、兜を安達泰盛の船に置き忘れていました。代わりに頭につけたのは、すねを守る防具の脛当です。
見かねた同じ船の武士が若武者の兜を貸そうとしますが、竹崎季長は「兜なしであなたが討たれたら、妻子に申し訳ない」と断り、脛当のまま突入していきました。
でもですね、樋口さん、この脛当が彼の命を救うんです。
楊さんによると、絵詞にはモンゴル兵の矢が当たって脛当が落ちる場面が描かれています。竹崎季長は脛当のおかげで命拾いし、そのままモンゴル兵の船へ乗り込んで首を2つ取りました。
一方で、竹崎季長に従っていた7人の部下は大船に置き去りにされていました。樋口さんは、大将が頭に何かをつけて一人で行ってしまい、兜だけが残された部下たちの困惑を想像して笑います。
竹崎季長自身も右腕に矢を受けており、服部先生によれば矢じりが10センチほど肉に食い込んでいたのではないかといいます。絵詞には、鼻をつまみ、目を開けられないモンゴル兵の姿も描かれ、糞尿などが投げ入れられた可能性も指摘されています。
どのような手を使っても、たとえ一人になっても、ひたすら前進することが正義っていう、これがタケちゃんが考えてたことだっていうことだよね。
楊さんは、竹崎季長のような動きをした武士は当時ほかにも多くいたのではないかと想像しています。また、本人が描かせた絵詞なのに、脛当をつけた姿そのものは描かれず、落ちる場面だけが描かれている点も面白いと話します。
樋口さんは、嘘をついて船に乗ることまで武勇伝として残している竹崎季長に、なぜかかっこよさを感じてしまうと語ります。深井さんも、成果より気持ちの部分を評価してしまう感性が日本人にはあるのだろうと応じつつ、それだけではだめだとも付け加えています。
「神の戦い」と言ったのは誰だったのか?
新説と通説の違いについて、深井さんは改めて整理します。通説は東路軍が途中で鷹島に全員引き上げたとしますが、新説は戦況から考えてそんなことはしていないはずだとし、志賀島に居続けた東路軍と2度の戦闘があったとみています。
服部英雄先生らの見方では、台風で戦いが終わったのではなく、日本の武士が苦戦の末にようやく元軍を追い返したことになります。
なので、その戦った武士は誰一人として神の戦いとは言ってないんだ。
神の力で勝った、1日で決着がついたと言っているのは、貴族など戦っていない人たちだけでした。樋口さんは野球にたとえて、チームが頑張って勝ったのに神様のおかげと言われたら選手は嫌だろう、と話します。
誰も神の戦いとは言っていない。苦戦の末に追い返した
神仏の力で勝った、1日で決着がついたと喜ぶ
悲壮感なき武士と、海を越えられなかった帝国
樋口さんは、元寇を学んだときの「一歩間違えば征服される危機の中、奇跡で追い返した」というイメージと、竹崎季長たちの「よっしゃ勝ったろ」という雰囲気が全然違うと感じたと話します。
深井さんは、幕府中枢の北条時宗らは危機感を持っていたと思うとしたうえで、現場の武士は大局観がないぶん、とにかく突っ込んで褒美をもらおうとしていたと説明します。朝廷や宗教界はむしろ絶望的な気持ちだったようです。
システムが負けるっちゅう話やもん、これ。
楊さんは、神風で勝てたというより、海という壁で勝てたのが大きいと指摘します。深井さんも、近代の黒船のような船がない時代の日本は、大軍を送りづらく、シンプルに攻めにくい土地だったと応じます。
楊さんによると、海を越えて大軍団を他国へ送り込むのは人類史上初ではないかと書く本もあるそうです。深井さんは、それだけ新しい試みを行ったクビライのすごさと、モンゴル軍の限界の両方がそこに表れていると話します。
深井さんは、朝鮮に14万人を集めて一気に送っていれば危なかったとも言います。ただ、高麗に船を作らせても数が足りず、南宋から船を出したのも船不足が一因でした。準備が整う前に動く感覚は、スタートアップにも通じると深井さんは重ねています。
番組は、台風の季節に攻めにくい土地を攻めたためにこうなった、という見立てで締めくくられ、次回は弘安の役後の幕府の動きを扱う最終回になると予告されます。
まとめ
弘安の役の勝利は、台風という運だけでなく、元寇防塁や地形、元軍の構造的な弱点、そして竹崎季長に象徴される鎌倉武士の奮戦が重なった結果として語られています。
- 元寇防塁と博多湾の浅瀬が、東路軍の九州本土上陸をほぼ阻んだ
- 新説では、東路軍は志賀島に居座り、台風後も2度の激戦があったとされる
- 台風は江南軍に大打撃を与えたが、海上遠征の難しさや将軍の不和も元軍を弱らせた
- 竹崎季長の追撃劇は、先駆けを何より重んじる武士の価値観を伝えている
- 「神風で勝った」と言ったのは戦っていない貴族たちで、戦った武士は神の戦いとは言っていない



