番組初のロケ、山の上から見た戦場
コテンラジオの3人は、元寇編の途中で福岡市西区の今津を訪れています。普段はスタジオで話す番組にとって、外でのロケは初めての試みです。
(ロケ地に)車で来れなかったんで、20分ぐらいかけてまあまあ険しい道を登ってきたんですけど。
一行が最初に登ったのは、西岸寺の奥の院として創建されたという毘沙門山です。深井さんは、西岸寺が栄西の創建とされながら真言宗であることに首をかしげていました。
文永の役と弘安の役の間にこのロケを入れて。実際にその戦場がね、僕たち本当地元だったんで。
山頂からは博多湾と能古島が見渡せます。深井さんによると、眼下の海岸線沿いの林の真ん中あたりに元寇防塁が築かれているといいます。
(モンゴル軍が)攻めてくるし、上がって攻めてこさせないように、あそこに元寇防塁を作ったってこと。
樋口さんは元寇編の本編をまだ聞いていない状態でロケに参加しており、3人の中では「歴史を知らない側」として質問役を担っています。
3万人は一気に上陸できなかった?
樋口さんが「何人ぐらいが攻めてきたのか」と尋ねると、深井さんは文永の役ではおよそ3万人だったと答えます。ただし前の回で触れたとおり、この数字にも諸説あります。
深井さんによれば、3万人がこの海岸に一度に押し寄せたわけではありません。上陸地点はここ以外にも複数あり、さらに福岡の海は浅瀬だったといいます。
いわゆる大きい船ってここまで来れないんだって、海岸まで。
そこからちっちゃい船に乗り換えて、ピストン運動でずっと送迎しないといけないんですよね、兵士を。それが大変なんですよ、モンゴルからしたら。
大型船を能古島のあたりに停泊させ、小舟で兵士を何度も往復させる必要があったため、モンゴル側の上陸は時間のかかる作業だったと考えられています。
大型船で接近
浅瀬のため海岸までは近づけない
沖に停泊
能古島のあたりにとどまったと考えられる
小舟に乗り換え
兵士をピストン輸送で少しずつ運ぶ
浜に上陸
着いた時点で日本側の攻撃を受ける
地中に埋まった防塁の頭
山を下り、車で5分ほどの海辺に今津の元寇防塁跡があります。地表に見えている石積みは、実は防塁の頭の一部にすぎません。
樋口さんが現地の担当者から聞いた話では、防塁は塀のような構造で、高さは2〜3メートルほどあったそうです。海が近いため、長い年月のあいだに飛んできた砂で埋まり、いまは上部だけが顔を出しています。
もう(築かれてから)長い年月だから、もう砂とか飛んできて埋まっちゃったんだろうね。
深井さんは案内板の地図を指しながら、防塁の配置を説明します。モンゴル軍に占領された志賀島の方向から攻め込まれる想定で、山がある場所には防塁を築かず、平地の海岸線に壁を作ったといいます。
基本的に大宰府を占領しようとしてくるんで、そこをこうやって壁作って防いでるってことですよね。
今津は防塁の西端にあたります。最大規模の区間は、深井さんと楊さんの母校があった箱崎のあたりで、楊さんによれば10年ほど前に箱崎キャンパスの跡地からも元寇防塁が見つかっています。
高さ2メートルの壁が馬を止めた
深井さんは、防塁の意味を「モンゴル兵の強さ」から説明します。モンゴル兵の強みは馬であり、この高さの壁があると馬では越えられないというのです。
だから馬飛び越えられないので、必然的に馬から降りないといけないので、それでこう突っ込めないじゃないですか。
案内板には、防塁の上に立つ武士の絵も描かれていました。樋口さんは馬上の人物をモンゴル兵だと思いましたが、深井さんは、描かれているのは竹崎季長 ── 肥後国(現在の熊本県)の御家人。元寇での自身の活躍を描かせた「蒙古襲来絵詞」で知られ、元寇を語るうえで欠かせない人物ですとその従者で、全員日本の武士だと訂正します。
深井さんによれば、防塁には幅もあり、日本側は高い位置から海岸に向かって弓を射ました。海岸は防塁よりさらに低いため、高低差を生かして戦ったといいます。
これぐらいの幅があるとその馬も飛び越えれない上、この人間が多分この高いところから弓とかで撃ってくるんで、そうすると余計馬が攻めづらいですよね。
九州各国の分担で築かれた20キロ
元寇防塁は、九州各国の武士たちが区間ごとに分担して築きました。深井さんは地図を見ながら、各区間の担当を読み上げていきます。
| 区間 | 担当した国 | 現在の地域 |
|---|---|---|
| 今津 | 大隅・日向 | 鹿児島・宮崎 |
| 生の松原 | 肥後 | 熊本 |
| 姪浜 | 肥前 | 佐賀 |
| 博多の前など | 筑前 | 福岡 |
| 箱崎 | 薩摩 | 鹿児島 |
深井さんは、竹崎季長も肥後の人なので、自分たちが築いた区間のあたりを守っていたのだろうと推測しています。
案内板には、石材は西が花こう岩、東が玄武岩で、中間では2種類の石が交互に使われていると書かれていました。交互にした理由について、樋口さんは「模様がおしゃれだったとか」、深井さんは「作業が単調すぎて交互にしたくなったとか」と冗談まじりに話し、結局わからないと締めくくります。
防塁の規模について、楊さんは百姓を動員して重労働をさせたのではないかと話します。深井さんも、肥後から労働者を連れてきたのか現地で雇ったのかはわからないとしつつ、今津だけでも約3キロ続く長さに驚いていました。
よれた石壁に見る「早く作らなきゃ」
深井さんが今津の防塁でいちばん気に入ったのは、壁がまっすぐではなく、よれていることでした。
なんかこうまっすぐな塀とかまだ作れなかった感じがしますけどね。
深井さんは、兵馬俑から埴輪へ、万里の長城から元寇防塁へという対比を挙げ、日本のこうしたところがかわいいと話します。ただし真似をしたわけではない、とも付け加えています。
階段で防塁の脇へ降りると、壁は人の身長より高く、2メートル弱ほどありました。深井さんは、福岡城の石垣と比べると、元寇防塁はとにかく来る前に早く作らなければという気概が感じられると話します。
一回目来て追い返せたけど、二回目来た時にもうめちゃくちゃやばいから早く石垣作んなきゃって言って、それで頑張って作ったんですよね。
楊さんは、城の石垣は戦国時代になって大きく進化したという話をどこかで読んだと補足し、技術力の差もあるのではないかと指摘しています。
許可を得て入った区域、上陸を阻んだ壁
ここから先は通常は立ち入りできない区域で、3人は福岡市から特別な許可を得て中に入りました。防塁は人間なら頑張れば越えられる高さですが、馬では無理だといいます。
マジでこれ(防塁)のおかげで全然上陸できなかった。
楊さんは、馬から降りたモンゴル兵にとっても登る手間が増えるため、それだけで防御の役割を果たしていると話します。深井さんは、小舟で少しずつしか上陸できず、浜に着いた時点で攻撃を受けるため、攻める側の苦労は大きかったと続けます。
本編でも言いますけど、来る方がむずいっすよ。
石の違いは「ディレクターのセンス」の違い?
防塁沿いに歩くと、ある地点から石の質感が変わります。それまではトゲトゲしたゴツゴツの石だったのが、そこから先はツルツルした石になっていました。
石が大きく武骨。樋口さんは「一回運ぶのはきついけど早く終わる」もののふ感があると表現
石が小さめで上部が平ら。楊さんは調和が取れている、樋口さんは繊細さを感じると表現
多分やっぱね、こう、ディレクターのセンスの違い。
同じ曲でも奏でる人が違うと違う曲に聴こえるみたいなのはやっぱある。
深井さんは、低い場所では馬がギリギリ越えられそうだと話し、樋口さんは日本の馬で実験したのかと想像を膨らませます。深井さんによると、このあたりの石は糸島の方から集められたといいます。
分担の長さと、褒美の出ない労働
さらに進むと、担当の区間は想像以上に短く区切られていました。深井さんは、熊本の御家人なら「誰がここからここまで」というように細かく分けていたのだろうと話します。
樋口さんが「貢献したら後で褒美が増えるのでは」と尋ねると、深井さんははっきり否定しました。
これ(防塁づくり)はだから今までのそのご恩に対する報恩なんですよ。
深井さんによると、防塁づくりは鎌倉幕府から受けてきた御恩 ── 鎌倉幕府が御家人に与える土地の保護や恩賞のこと。御家人は見返りに軍役などの「奉公」で応える、主従関係の基本的な仕組みですに報いるためのもので、九州の御家人はただ頑張るしかなかったといいます。
特に短い区間について、樋口さんや楊さんは、収入の少ない御家人が担当したのではないかと推測していました。担当の違いがどうしてわかったのかという疑問には、作り方が違うからだろう、防塁研究の分野もあるからと話しています。
万里の長城との違いは「焦り」
歩き終えた3人は、防塁全体の規模を振り返ります。今津の約3キロのような区間が何本も連なり、全体で20キロほどになるといいます。深井さんによれば、博多湾では海岸があって背後が山でない場所には、基本的にすべて防塁が築かれました。
やっぱりこう、万里の長城との違いは、すごいすぐ作んないといけないっていう、焦ってんなっていうのがすごい感じる。
高さも揃っていないのは、とりあえず馬の侵入を防げればよいという感覚だったからだと深井さんは考えています。綺麗に作るより早く全部作るために、細かく区切って各家に任せたというわけです。
楊さんは、最も危機感が強かったのは九州の御家人だったと指摘します。実際に攻められるのは九州で、鎌倉や京都にはまだ距離がありました。深井さんも、すでに一度攻められた後だからこそ、上陸を未然に防ぐ意識で築いたのだろうと話します。
だから現場体験してるのはまじ九州の御家人ぐらいだよね、多分。
深井さんによると、文永の役では900艘の船が来たと言われています。見たことのない髪型や格好の人たちが海から押し寄せる光景は、当時の武士にとって大きな脅威だったと考えられます。
海岸に立って見えた高低差と、次の弘安の役へ
最後に3人は、防塁から歩いて海岸へ出ました。正面の奥には、モンゴル軍に占領されていたという志賀島が見えます。深井さんがクラゲの死骸を見て「竹崎季長じゃない?」と冗談を言い、樋口さんが「化けて出るわ」と返す場面もありました。
浜から防塁側を見上げると、高低差がよくわかります。深井さんは、登りながら戦わなければならない状況を「鎌倉のノルマンディー上陸作戦」とたとえました。
本編はこの後、防塁を築いた武士たちが弘安の役をどう戦ったかへ続きます。深井さんによれば、弘安の役ではさらに大軍が押し寄せたといいます。
興味のある方はぜひ来ていただいて。ここ(元寇防塁)も見ていただいて、イメージしやすいかな。
まとめ
番組初のロケで訪れた今津の元寇防塁は、地中に埋もれながらも、馬を止めるための高さと、九州の御家人が分担して急いで積み上げた跡を今に残していました。石の違いやよれた壁から、文永の役を経験した鎌倉武士の危機感が見えてくる回です。
- 元寇防塁は高さ2〜3メートルほどの石壁で、モンゴル軍の強みである馬の突入を防ぐ目的があった
- 浅瀬の博多湾では大型船が岸に近づけず、モンゴル軍は小舟で少しずつ上陸するしかなかった
- 防塁は九州各国の御家人が区間ごとに分担して築き、石の種類や積み方に担当ごとの違いが表れている
- 防塁づくりは褒美の出ない「御恩への報恩」で、揃わない高さやよれた壁には急ぎの工事の焦りがにじむ
- 深井さんによれば防塁は上陸を大きく阻み、本編は防塁を使って戦った弘安の役へ続く


