帰国途中のリチャードはなぜ幽閉された?
前回までの第3回十字軍では、サラディンがリチャードの進撃を受けながらもエルサレムを守り切りました。今回はまず、守り切られた側のリチャードのその後から話が始まります。
イングランドへ帰る途中、リチャードの船はバルカン半島沖で難破します。リチャードはなぜか身分を隠して陸路の旅を続けましたが、その途中でオーストリア公レオポルド5世に見つかってしまいます。
レオポルド5世は、アッコンの戦いの後に利益分配への不満から怒って帰った人物です。リチャードは身柄を拘束され、バルバロッサの後に神聖ローマ皇帝となったハインリヒ6世のもとへ連行されて、1年以上も幽閉されました。
リチャードは莫大な身代金を払って、ようやく解放されます。王が牢に入れられるという異例の事態に、深井さんと樋口さんは罪状が何なのか首をかしげます。
人の恨みは買うもんじゃないね。
ムカつくからとかじゃない?
マジでムカつくからとかなんでしょうけどね。
和平後のサラディンは聖地をどう運用したか
リチャードとの和平協定が成立すると、サラディンは一度エルサレムに戻ります。楊さんによれば、サラディンはエルサレムで学院や修道場、病院などを建設し、戦後復興に力を入れました。
キリスト教徒の中には、戦いではなく純粋に巡礼を望む人も少なくありませんでした。サラディンは巡礼者にも門戸を開き、参詣を終えたキリスト教徒には護衛までつけたといいます。
参詣を終えたキリスト教徒に対してはですね、護衛までつけるんですよね。っていう風な、こう、聖地の運用を彼はやっていくんですよ。
サラディンはリチャードの帰国を見届けてから、ダマスカスへ向かいました。その途中、十字軍国家の一つであるアンティオキア公国の君主と会い、かつての敵に土地を与えて人々を驚かせたと伝わっています。
この土地の授与について、出演者たちは理由をはっきりとは断定していません。気前のよさなのか、今後の関係を穏やかにするための懐柔策や外交政策だったのかもしれない、と推測するにとどめています。
サラディンは海岸地帯の都市や城塞を回ってムスリムの騎士や兵士をねぎらい、3年半ぶりにダマスカスへ帰還しました。家族や街の人々は街路を美しく飾って帰還を祝い、翌日の宴では詩人たちがサラディンの功績を称える詩を朗読したそうです。
ダマスカスでのサラディンの日常も記録に残っています。ときには郊外で冬の狩りを楽しみつつ、仕事ではムスリム君主の習慣に従って法廷を開き、民の声に直接耳を傾けていたといいます。
55歳のサラディン、信仰告白とともに迎えた最期
サラディンは、リチャードとの協定締結の翌年に、ダマスカスで55歳で亡くなります。楊さんによれば、黄熱病のような症状だったそうです。
まあ昔の人はいきなり亡くなるよね。なんかその徐々に弱って死ぬみたいなのは、やっぱりその医療が発達してないとなかなか起こんないんだよね。
ダマスカスはサラディンが育った街で、本人も強い愛着を持っていたようです。息子のアフダルら側近に看取られた、穏やかな死だったと語られます。
深井さんが印象的だと語るのは、臨終の場面に表れたサラディンの信仰心です。1193年3月4日の夜明け、説教者のアブジャウハルが病床でコーランの一節を読むと、サラディンは一瞬意識を取り戻し、その通りであると応えたといいます。
アブジャウハルが「その他に神はない。彼こそはわしの唯一の頼りである」と唱えると、サラディンは微笑んでそのまま息を引き取りました。深井さんは、これがムスリムにとって重要な信仰告白 ── イスラームの信仰の柱の一つで、「アッラーの他に神はなし、ムハンマドは神の使徒なり」と唱えること。ムスリムであることを表明する最も基本的な行為とされますをしながらの最期だったと説明します。
戦争に明け暮れたことには結果的になると思うんですけど、彼の人生はですね、戦国時代に生まれたから。枕の上で死ぬっていう。
樋口さんが「しかも故郷で」と応じると、深井さんは生まれたのはティクリートで、育ったのがダマスカスだと補足しています。戦乱の人生を送ったサラディンが、育った街で穏やかに亡くなったことが、この場面の余韻になっています。
サラディンの業績と「できなかったこと」
深井さんは、サラディンの業績をいくつかにまとめます。まず、聖地エルサレムを奪還してジハードの象徴となったことは、キリスト教側にとってもイスラム側にとっても非常に大きな出来事でした。
次に、エジプトからファーティマ朝 ── 10世紀に北アフリカで興り、のちにエジプトを支配したシーア派(イスマーイール派)の王朝。スンナ派のアッバース朝カリフとは別のカリフを立てていましたのシーア派勢力を一掃してスンナ派を回復させ、アッバース朝カリフの支配権を広げたことも大きな功績とされます。樋口さんは、スンナ派の文脈から見れば「スンナ派を取り戻した」と評価すべきポイントだと受け止めます。
さらに、現在のエジプトの首都カイロの基礎を築いたこともサラディンの功績に数えられます。カイロはアラビア語で「勝利」を意味するカーヒラが訛った名前で、他のエジプトの都市に比べると新しい都市だといいます。
一方で、サラディンができなかったことも指摘されています。深井さんが本の記述として挙げたのは、国家体制・財政・十字軍勢力の扱いの3点です。
エルサレム奪還とジハードの象徴化、エジプトのスンナ派回復とアッバース朝カリフの支配権拡大、カイロの基礎づくり
本格的な国家建設ができずアイユーブ朝は約100年で終わる、戦争続きの財政危機で民衆に負担、キリスト教勢力のアッコンなどを残した
アイユーブ朝はサラディン個人の支配で成り立っていたため、後が続かず分裂していきました。樋口さんは「属人的になるとそうなるよね」と応じています。
ただし深井さんは、これらの指摘はやや厳しすぎると感じています。特に、キリスト教勢力を残したことへの批判については、サラディンの戦争の性格そのものから反論しています。
深井さんによれば、サラディンにとっての十字軍との戦いは、支配領域をめぐる現実の政治でした。キリスト教徒を徹底排除する動機で動いていたわけではなく、政治的な妥協は最初から選択肢の中にあったと考えられます。
目標にないことをやってないからといって、別にね、何も言われる筋合いないっていう感じなんですかね。
サラディン没後、エルサレムは「第三の聖地」へ
1193年のサラディンの死後、アイユーブ朝は後継者たちに分割されていきます。その中でエルサレムやパレスチナ地方は、大きな帝国の端にある重要な聖地の一つ、という位置づけに戻っていきます。
樋口さんが補足するように、イスラームにとって第一の聖地はメッカで、エルサレムは第三の聖地ぐらいにあたります。十字軍との攻防で最前線だったエルサレムは、本来の立ち位置へ戻っていったわけです。
その後いくつかの王朝を経て、エルサレムはオスマン帝国に支配されます。深井さんは、サラディンから19世紀末まで、かなり長い間ムスリムがエルサレムを統治していたことになると説明します。
第4回十字軍はなぜコンスタンティノープルを攻めた?
サラディンの話はここで一区切りとなり、深井さんは第4回以降の十字軍を概観していきます。第4回十字軍は1202年から1204年頃と、第3回の直後に起こりました。
第4回十字軍が攻撃したのは、同じキリスト教国であるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルでした。十字軍はコンスタンティノープルを占拠して略奪し、ビザンツ皇帝を追い出して、自分たちで帝国まで作ってしまいます。
背景には、ヴェネツィアなどイタリア諸都市の商人の存在がありました。深井さんの説明を流れとして整理すると、次のようになります。
貿易特権
ビザンツ帝国がヴェネツィアなどイタリア諸都市に大きな貿易特権を与える
住民の反発
怒ったコンスタンティノープルの住民が、イタリア諸都市の商人を虐殺する
報復の十字軍
その報復のような形で十字軍が発せられる
占領と略奪
十字軍がコンスタンティノープルを占拠・略奪し、帝国を作る
深井さんは、第1回十字軍のときにビザンツ側が「あいつらはこれをするに違いない」と警戒していたことを、4回目で本当にやってしまったと語ります。ビザンツ帝国はこの打撃から立ち直れないまま、のちにメフメト2世に滅ぼされることになります。
同じキリスト教徒を攻撃する軍事行動でも、十字軍と呼ばれる理由はあります。深井さんは、十字軍とはそもそも贖罪と結びついた軍事活動だと説明します。
十字軍っていうのは全部贖罪が関係してないと十字軍にならない。
第5回十字軍、エジプト攻撃と退けた和平案
第5回十字軍は1217年から1221年頃に起こり、この頃から十字軍はエルサレムではなくエジプトへ直接派兵されるようになります。エジプトはアイユーブ朝の心臓部なので、そこを突いてエルサレムを取り戻そうという狙いがあったと考えられます。
一方で、十字軍国家が持つアッコンなどは貿易で大きく儲けており、あの周辺では戦いたくないという思惑もあったようです。深井さんは、さまざまな思惑が重なった結果だと話しています。
第5回十字軍は、実はうまくいきかけていました。心臓部を包囲されたアイユーブ朝は、包囲軍の撤退を条件に旧エルサレム王国の領土を返すと提案したのです。
ところが、随行していた十字軍側の教皇代理がこの提案を退けます。深井さんは、領土返還だけでは足りず、もっと打ち負かそうとしたのだろうと推測しています。
開始秒
その後、十字軍は惨敗し、「あのとき条件を飲んでおけばよかった」という形で第5回は終わります。当時のアイユーブ朝にはまとまってジハードを仕掛ける力がなく、戦いより安定した関係と商業の利益を重んじていたために、あの提案が出てきたと説明されます。
ただし深井さんは、条件を飲んでいたらどうなったかは結局結果論だとも付け加えています。
破門皇帝フリードリヒ2世の「無血十字軍」
第6回十字軍では、フリードリヒ2世が登場します。深井さんは、以前シリーズで扱ったプロイセンのフリードリヒ2世とは別人だと念を押し、この人物もそれだけでシリーズができるほど有名だと紹介します。
このフリードリヒ2世は、ローマ教皇グレゴリウス9世と対立して破門されながら、十字軍を起こしました。破門された人物が十字軍を率いるという状況に、深井さんは「何かが変わってきている」と語ります。
当時のアイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルは十字軍と戦いたくありませんでした。そこでエルサレムやベツレヘムなどの重要都市を、講和条約によって十字軍側に渡してしまいます。
血を流さずにエルサレムが引き渡されたことから、第6回は「無血十字軍」と呼ばれます。しかしアル・カーミルが亡くなると、エルサレムはホラズム軍に占領され、すぐにイスラーム側の手に戻ってしまいました。
ホラズムを追い立てる東の脅威、モンゴル軍
エルサレムを占領したホラズム軍の背後には、東で勃興したモンゴル軍の存在がありました。楊さんによれば、ホラズムシャー朝はモンゴル軍に征服され、その一部が西のシリア方面へ逃れてきていたのです。
楊さんは、それまではセルジューク朝のようなトルコ系の人々の時代だったと整理します。セルジューク朝はカリフさえ従わせようとするほど強い勢力でしたが、そこへ東から新時代の勢力が現れます。
東の方から新時代のやばい奴らが勃興してくるっていう感じですね。
サイヤ人クラスの奴らが。
ガチで強いんで、本当に世界中の誰も基本的に勝てないんですよ、彼ら(モンゴル軍)に。
深井さんは、チンギス・カンのシリーズでも語ったモンゴル軍の強さをあらためて強調します。逃げてきたホラズム軍でさえ十字軍より強いのに、それを追い立てたモンゴル軍は異次元で、キリスト教徒もイスラム教徒も本気でおびえたはずだと語ります。
第7回十字軍と聖王ルイ9世、マムルーク朝の誕生
第7回十字軍は1248年頃に起こり、フランス王ルイ9世がエジプトへ向かいます。しかしルイ9世は大敗して捕虜になり、莫大な身代金を払って釈放されました。
釈放後のルイ9世は、その地に残って十字軍国家を助ける活動を続けます。深井さんによれば、こうした行動から「聖王」と呼ばれるようになったといいます。
同じ頃、エジプトのカイロでは大きな政変が起きていました。トルコ人の奴隷戦士であるマムルーク ── アラビア語で「所有された者」を意味する奴隷身分出身の軍人。イスラーム世界の君主が軍の中核として重用し、やがて自ら政権を握るまでになりましたがクーデターに成功し、マムルーク朝が成立して、アイユーブ朝は終わりを迎えます。
深井さんは、これをローマ帝国の話と重ねます。外敵から守るために雇ったゲルマン人の傭兵隊長に政権を奪われたのと同じことが、ここでも起こったというのです。
楊さんは、同じトルコ系でもセルジューク朝とマムルーク朝では出自が違うと補足します。
王朝を作ったセルジューク家は、もともとトルコ人の遊牧民
もともとトルコ人の奴隷戦士がクーデターで建てた王朝
バイバルスはなぜモンゴル第1軍に勝てたのか
モンゴル軍が世界を席巻する中、細々と続いていた十字軍国家にもモンゴルの手が伸びてきます。チンギス・カンの孫フレグは、バグダッドのアッバース朝を滅ぼし、シリアへ侵攻しました。
ここでイスラム側にもう一人の英雄、マムルーク朝のバイバルスが現れます。深井さんによれば、モンゴル軍の第1軍は基本的に負けず、戦闘で負けても必ず後で復讐して勝ちますが、そのモンゴル第1軍に勝ったのがバイバルスでした。
深井さんは、日本の元寇 ── 13世紀後半、モンゴル帝国(元)が2度にわたり日本の九州北部に攻め寄せた出来事。文永の役と弘安の役と呼ばれますと比べてその意味を説明します。日本に来たのはモンゴル人の少ない3軍ぐらいの部隊で、モンゴル本来の強さを持つ軍ではなかったというのです。
このバイバルスが戦って勝ったのはモンゴル第1軍なんですよ。この人ね、世界史上でモンゴル第1軍に勝った人なんですよね。
楊さんが「一番強いんじゃない?」と言うと、深井さんは一度勝っただけで当時のモンゴルの状態もあったはずだと留保します。そのうえで、バイバルスがトルコ系の騎馬民族の出身で、戦争が強かったのは間違いないと語ります。
だからこれは視点を変えると、騎馬遊牧民同士の頂上決戦みたいな。
深井さんのモンゴル軍の話は止まりません。楊さんに「モンゴル好きですね」と言われると、好きなのではなくファクトだと返し、その強さを具体的に挙げていきます。
好きで言ってんじゃなくて、ファクトとしてやばいんですよ。あの人たちだって口笛とかで軍隊動かすんで。
深井さんが挙げたモンゴル軍の強みは、機動力、情報戦、戦略、戦術、個々の戦士としての強さが一体になっていることです。3頭の馬を連れて移動するため、都市の滅亡を次の都市に知らせに走る使者よりも速く、家に帰る必要もない軍隊だったと語ります。
十字軍国家の最後、アッコン陥落と200年の終幕
十字軍の話に戻ると、モンゴル軍を追い返したバイバルスは、そのまま十字軍国家をほぼ骨抜きにします。樋口さんは、モンゴル軍を撃退したほどなら十字軍が勝てるわけがないと受け止めます。
バイバルスは二日酔いで亡くなったと伝わり、樋口さんは「豪快やな」と反応しています。十字軍国家にとどめを刺したのは、その後のマムルーク朝のスルタン、カラーウーンの時代で、カラーウーンもモンゴル軍に勝っているといいます。
最後まで残った十字軍国家の拠点は、かつてサラディンが持ちながらリチャードに奪われたアッコンでした。マムルーク軍に包囲されたアッコンは、贈り物でスルタンをなだめようと使者を送りますが、聞き入れられません。
アッコンは24時間4交代の投石攻撃にさらされ、ついに破城槌で城壁を破られます。テンプル騎士団が守っていたアッコンは陥落し、生き残りはリチャードが押さえていたキプロス島へ逃れました。
こうして、西ヨーロッパの人々がこの地域から一人もいなくなります。深井さんは、十字軍が「200年間の夢幻」のような終わり方をしたと表現しています。
はぁ、なるほどね。諸行無常いなぁ。
樋口さんは、今回いちばん印象に残ったのはモンゴル軍の強さだと笑い、深井さんは「全然主題じゃないけどね」と返します。約200年という十字軍国家の歴史について、樋口さんは長いとも短いとも言えると語り、次回がシリーズ最終回であることを告げて締めくくりました。
まとめ
サラディンは和平後に聖地を巡礼者にも開き、故郷ダマスカスで信仰告白とともに穏やかな最期を迎えました。その後の十字軍は第4回のコンスタンティノープル攻撃、エジプトへの派兵、破門皇帝の無血十字軍と性格を変えていき、最後はモンゴル軍に勝ったマムルーク朝のバイバルスらによって、十字軍国家は約200年で姿を消します。
- サラディンはエルサレムで復興を進め、キリスト教徒の巡礼者に護衛までつけた
- サラディンの十字軍との戦いは宗教的情熱以上に安全保障であり、妥協は選択肢の中にあった
- 第4回十字軍は同じキリスト教国のコンスタンティノープルを占領・略奪し、ビザンツ帝国に深い打撃を与えた
- 第5回以降、十字軍はアイユーブ朝の心臓部エジプトを狙うようになった
- モンゴル第1軍に勝ったマムルーク朝のバイバルスが十字軍国家を骨抜きにし、アッコン陥落で十字軍国家は終わった





