ローマ帝国でキリスト教はなぜ迫害されたのか
コテンラジオ宗教改革編の2回目は、宗教改革の舞台となるローマ教皇の歴史をたどる回です。楊さんはまず、イエス以降のキリスト教がどのような流れで宗教改革の時代に至ったのかを、ざっくり説明するところから始めます。
楊さんによれば、イエスはローマ帝国の時代に、エルサレムで政治犯として磔にされ処刑されました。その後、弟子やイエスの教えに従う人たちがローマ帝国の中で布教を続け、キリスト教は次第に組織化していきます。
楊さんは、この時期の教会が信徒に仕事を斡旋するなどの機能も持っていたという説を紹介します。宗教だけでは生きていけない信徒にとって、教会は精神面だけでなく生活面でのセーフティネットの側面もあったのではないか、と話されています。
宗教って、宗教だけで生きていけないので、お金とかご飯が食べれるかどうかって、実際に信じてる人たちにとってはすごくクリティカルな問題だったんで。
一方で、ローマ帝国内のキリスト教は何度も迫害を受けました。楊さんは、ずっと迫害されていたというより、時々大きな迫害があったと説明します。
迫害の理由の一つは、多神教のローマ社会で、キリスト教徒がヤハウェ ── ユダヤ教・キリスト教で信仰される唯一神の名。旧約聖書に由来し、キリスト教ではイエスの父なる神とされますだけを敬い、他の神の宗教行事に参加しなかったことです。それが社会の秩序を乱すと見なされました。
もう一つの理由は、キリスト教が奴隷など社会的身分の低い人たちも信者に迎え入れ、一緒に行事をしていたことです。楊さんは、ローマの支配層や富裕層にとってそれはありえないことだった、と話します。
迫害は苛烈で、コロシアムでキリスト教徒が生きたままライオンに食べさせられたり、牛の角で突かれたり、鉄の椅子で焼かれたりしたといいます。樋口さんは「見せしめの意味もあったんでしょうね」と受け止めています。
一神教の徹底
ヤハウェ以外の神の行事に参加しない
身分を超えた信者
奴隷など身分の低い人とも行事を行う
秩序を乱すと見なされる
多神教社会の支配層が排除に動く
国教化と「5つの大司教」の時代
迫害を経て、キリスト教は西暦392年にローマ帝国の国教として認められます。楊さんは、国教になったことで、キリスト教を信じても罰せられず、安心して信仰できる状態になったと説明します。
マイノリティを自分の社会の中にできたら、社会の秩序を乱すものとして排除していくっていう力学は、どうしても働いてしまいますよね。それは今も変わんないと思います。
深井さんは、国教化の時点でキリスト教はもう無視できない勢力になっていたと補足します。そして当時、ローマの大司教、つまり後のローマ教皇だけが偉いわけではなかった時代があったと指摘します。
深井さんによれば、ローマ、アンティオキア、エルサレム、コンスタンティノープル、アレクサンドリアの5つの都市に、それぞれ大司教のような人がいました。楊さんはこれを、各地域を統括する「エリアマネージャー」のような立ち位置だと例えています。
この5人の中で、ローマの大司教がもっとも権力を獲得していき、実質的に西のキリスト教のトップのような存在になっていった、と深井さんは話します。
東西分裂でカトリックと正教会はどう分かれたのか
深井さんの説明では、ローマ帝国が東西に分裂したことで、キリスト教も西方教会と東方教会に分かれていきます。西方教会の中心は帝国の首都ローマ、東方はビザンツ帝国 ── 東ローマ帝国の別称。首都はコンスタンティノープルで、1453年にオスマン帝国のメフメト2世に滅ぼされるまで続きましたの首都コンスタンティノープルが本拠地になりました。
深井さんは、宗教は根付いた場所の影響を受けてスタイルが変わっていくと話します。これはキリスト教に限らず、すべての宗教に言えることだといいます。
その結果、キリスト教は大きく2つの宗派に分かれ、西がカトリック教会、東が正教会になりました。深井さんによれば、西のカトリックは、プロテスタントが出てくるまでずっと1つしかなかったといいます。
中心はローマ。早くに西ローマ帝国を失い、後ろ盾を探す
中心はコンスタンティノープル。東ローマ帝国の庇護下で長く存続
ここで深井さんは、番組で言う「教会」は建物ではなく組織のことだと補足します。鐘が鳴る建物ではなく、国を横断して存在する「ローマ・カトリック教会」という組織を指しているということです。
後ろ盾を失ったカトリックはゲルマン人に近づいた
深井さんは、東の教会が長く続く東ローマ帝国の庇護下にいたのに対し、西では476年に西ローマ帝国がゲルマン人に滅ぼされたと説明します。カトリック教会は守ってくれる存在を失いました。
保護者がいなくなって、仮に(カトリック教会を)潰そうみたいな人が出てきた時に対抗できないの。守ってくんないから。
そこでカトリック教会は、ローマを滅ぼしたゲルマン人の側に布教を広げていきます。樋口さんは、ゲルマン人を後ろ盾の代わりにしたということだと整理しています。
深井さんは、その例としてクリスマスのモミの木を挙げます。モミの木は地中海沿岸にはあまりなく、北ヨーロッパによくある木なのだといいます。
深井さんによれば、現代の私たちがよく知っているキリスト教は、ゲルマン化されたキリスト教だと言えます。楊さんも、イエスの時代のキリスト教とはかなり変わってきていると応じています。
「どっちが元祖か」問題とカール大帝の戴冠
楊さんは、東西の教会が違ってくると、どちらが元祖かという主導権争いが生まれたと話します。樋口さんはこれを「長浜ラーメンみたいな問題」と例え、楊さんも「うちのスープが本場なんだよ」という感覚だと笑います。
楊さんによれば、当時はローマ皇帝がコンスタンティノープルに移っていたため、東の教会のほうが圧倒的に力が強く、当時の感覚では総本山でした。後ろ盾を失った西の教会は、力をつけたゲルマン人と手を結ぼうとしたといいます。
東の方がめちゃくちゃライジングしてて、すごく強くなってるのに、いや、うち(西の教会)はちょっともっと頑張りたいなみたいな。
深井さんは、具体的にはフランク王国 ── 西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン系のフランク人が築いた王国。現在のフランス・ドイツ・イタリア北部にあたる地域を支配しましたの国王、カール大帝に、ローマ教皇が歩み寄っていったと説明します。教皇はカール大帝に冠をかぶせる戴冠を行い、「あなたはローマ帝国の後継者だ」と担保したのです。
深井さんによれば、当時のローマ帝国は圧倒的な権威で、その後継者であることは世界帝国の後継者であることを意味しました。カール大帝は権力はあるものの権威が少し足りず、一方のローマ教皇は権力はないが権威はある状態でした。
軍事的な権力は強いが、宗教的・世俗的な権威が足りない
権力はないが、ローマ帝国の後継を認める権威を持つ
ただし深井さんは、よく調べるとカール大帝は戴冠をそれほど望んでおらず、半ば無理やり授けられたようだ、とも補足しています。
この戴冠は前例となり、その後、ローマ教皇が皇帝や王に戴冠して権力を確定する文化ができあがっていきます。樋口さんは、教皇が「お墨付きを発行できるようになった」と表現しています。
深井さんは同時に、民衆の間でもゲルマン化されたキリスト教が広がっていたと話します。ボトムアップとトップダウンの両方で同時に攻めていた、というのが深井さんの見立てです。
東西の相互破門と神聖ローマ帝国
深井さんによれば、ローマとコンスタンティノープルの司教は5世紀ごろからずっと疎遠で、1054年ごろにはお互いを破門し合うほど関係が悪化します。互いに「お前は正統ではない、キリスト教徒でさえない」と言い合い、両者は決裂しました。
決裂しながらも、西のカトリック教会は世俗権力との結びつきを深めます。神聖ローマ帝国の創始者とされるオットー1世にも戴冠し、後ろ盾を得ながら力を蓄えていきました。
深井さんは「神聖ローマ帝国」の「神聖」はホーリーの意味で、ローマ帝国の権威とローマ教会の宗教的権威を借りて成り立たせたからこの名前なのだと説明します。ローマ帝国とは別の国で、主に今のドイツの辺りにあった中世ヨーロッパの国です。
深井さんは、カトリック教会が世俗権力にうまく接近したのは、布教のための組織を維持するためだったと考えています。楊さんも「お金もいるしね」と応じています。
死が身近な社会で、なぜカトリックは広まったのか
深井さんは、王を認定する世俗の力を手にした教会が、やがて王や皇帝と衝突すると話を進めかけたところで、言い忘れていた大きな推進力があると切り出します。それが、中世ヨーロッパでは人がすぐ死ぬという事情でした。
深井さんによれば、新生児の5割か6割ほどが亡くなり、周りの人も病気で次々に死んでいきました。ペストの初期もそうした状況を生みましたが、ペストの中期・後期は逆にカトリック教会の権力を削いでいったといいます。
隣の友達も死んだ、親戚も死んだし、自分の子供も死んだみたいな時に、じゃあ彼らは死んだ後どうなってるんだろうって、自然に人間って思うわけですよね。
深井さんは、その問いにもっとも綺麗に説明を与えたのがカトリック教会だったから広がった、と話します。楊さんも、死後の世界にロジカルに、しかもビジュアルで1つの答えを民衆に与えたことが大きかったと補います。
深井さんは、教会に天国や地獄の絵が描かれているのは、識字率の低い民衆に死後の世界を伝えるためだと説明します。キリストの名のもとに祈れば救われて天国に行ける、という教えがヒットしたのです。
この事情は王や皇帝も同じでした。深井さんは、医学が発達していない時代には権力者も病気から守られず、戦争で死ぬかもしれないため、死後に世俗の権力を手放したあとどうなるのかという不安を抱えていたと話します。
叙任権闘争とカノッサの屈辱
広がり、権力者ともつながったカトリック教会は強くなりますが、今度は王たちと衝突します。深井さんはこれを叙任権闘争 ── 聖職者を任命する権利をめぐる、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝ら世俗君主の争い。11〜12世紀に激しくなりましたとして紹介します。
深井さんによれば、教会は細分化した地域に司教や司祭を派遣しており、その仕組みは官僚組織そのものでした。知事や市長を派遣している感覚と同じだといいます。
自分たちの官僚組織の配下なので、自分で任命したい
自分の国の中にいる人なのに、なぜ自分で任命できないのか
この対立の象徴として、深井さんはカノッサの屈辱 ── 1077年、教皇グレゴリウス7世に破門された神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、北イタリアのカノッサ城で赦しを請うた事件を挙げます。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が教皇に破門され、教皇の前で土下座するような事態が起きました。
キリスト教徒じゃなくなったら、もうその人の言うこと聞かなくていいんですよ、配下の人たちが。
深井さんの説明では、当時の封建制は、領土を与える代わりに軍隊を出すといった皇帝と配下の契約で成り立っていました。破門されるとキリスト教徒ではなくなり、その契約が無効になってしまうのです。
教皇が皇帝を破門
皇帝はキリスト教徒ではなくなる
封建契約が無効に
配下は皇帝の言うことを聞かなくてよくなる
権力が瓦解
皇帝は教皇に赦しを請うしかなくなる
人権剥奪レベルや。
人権っていう概念が生まれる前に人権っぽい立ち位置だったのって、キリスト教徒かどうかだったんです。キリスト教世界で。
楊さんも、あらゆる社会関係や契約はキリスト教の共同体が前提だったと補足します。乱暴に言えば、キリスト教徒でなくなれば借金を踏み倒されても殺されても、誰も責任を取らなくてよい状態になったといいます。
「上の人が上にいる理由」を信仰で説明した社会
深井さんは、現代の私たちは所有権を守るために社会や政府があるという考え方が根底にある社会に生きていると話します。中世ヨーロッパはその概念が生まれる前の世界で、政府が何のためにあるのかからして違っていたといいます。
深井さんによれば、中世では信仰するメンバーである限りにおいて権利が与えられ、信仰の中で序列がついていました。後のフランス絶対王政の王権神授説 ── 王の権力は神から授けられたものであり、王は神に対してのみ責任を負うとする考え方。17世紀ごろのヨーロッパの絶対王政を支えましたも、王は神に任命されたから治める権利がある、という信仰をもとにした考え方だといいます。
樋口さんは、日本の天皇が天孫降臨からの血のつながりを権威のよりどころにしたことに似ていると話し、楊さんも中国皇帝の天命を挙げます。深井さんは、ヒエラルキーがすでにある社会で上下の理由を納得させるのは難しく、納得しない人は反乱するのでコストが高いのだと説明します。
深井さんは、信仰をもとにしていなかったローマ帝国と対比します。ローマでは交代制のコンスルや元老院があり、カエサル以降に皇帝制になりましたが、それが瓦解した後の世界で、信仰をもとに社会が作り直されたといいます。
ローマ帝国: コンスルや元老院、のちに皇帝制。信仰をもとにしていない
中世ヨーロッパ: 王が上にいる理由も、人の権利も信仰で説明する
樋口さんが「論理的な文化レベルでいうと少し下がっている感じもする」と言うと、深井さんはそれを否定します。
下がってるって思うのは、僕たちの社会が今そのタイプを取ってないからだけだと思うんですよ。
深井さんによれば、現代社会はまさに中世キリスト教社会へのアンチテーゼとして出てきた社会です。王権神授説に「んなわけねえだろ」と言ったのがフランス革命で、その前段階がこの時代だったといいます。
十字軍、そして教皇至上権の確立へ
深井さんは、信仰が秩序の説明だった時代でも、軍隊を持つ王が逆に教皇を捕らえることもあったと話します。そのうえで、十字軍も信仰をもとにした社会だから起きたことだと指摘します。
十字軍は、勢いを増したイスラム勢力に対抗し、聖地エルサレムを取り戻すために教皇が軍隊を集めたものです。深井さんは、当時土地が足りなくなっていたなど他の理由もあるとしつつ、すべての秩序が信仰で組成されていたことが根底にあったと説明します。樋口さんは「行ったら救われるもんね」と応じています。
第1回十字軍が成功したことで教皇権力はさらに高まります。上がったり下がったりを繰り返しながら、教皇権力はついに教皇至上権 ── ローマ教皇が世俗の君主を含むキリスト教世界全体の上に立つとする権力。13世紀のインノケンティウス3世の時代に頂点を迎えたとされますと呼ばれる段階に達しました。
深井さんは、これが世俗権力とは質の違う権力だと述べ、中世ヨーロッパは王と教皇の二重権力で治められていた、というざっくりしたイメージを持てればよいとまとめます。
宗教改革が崩した「信仰による秩序」とは
深井さんは、信仰をもとにした社会形成が始まった理由をあらためて整理します。ローマ帝国がなくなった後の西ヨーロッパは王権が弱く、統べる人が権威を借りる必要があったのです。
樋口さんは、聞けば聞くほど今の日本の社会と全然違って面白いと話します。深井さんは「教会のことを聞いとけば天国に行けますから」と当時の感覚を言い表し、この秩序こそが次に揺らぐものだと示します。
歴史を見るうえでは、今と感覚がまったく違うという前提が欠かせない、というのが樋口さんの受け止めです。続きは次回に持ち越されます。
まとめ
この回では、迫害されていた少数派のキリスト教が、国教化、東西分裂、ゲルマン人やフランク王国との結びつきを経て、ローマ教皇が王をも従わせる教皇至上権を確立するまでがたどられました。その背景には、死が身近な社会で救いを示した教えと、権威を必要とした世俗権力の思惑がありました。
- キリスト教はローマで迫害されたのち392年に国教化され、ローマ帝国の分裂とともにカトリックと正教会に分かれた
- 後ろ盾を失った西の教会はゲルマン人に布教し、カール大帝への戴冠を通じて世俗権力と結びついた
- 人がすぐ死ぬ中世では、死後の救いを示したカトリックが民衆にも権力者にも広がった
- 破門で封建契約が無効になるほど、中世ヨーロッパの権利と秩序は信仰を前提にしていた
- この信仰による社会秩序を崩し始めるのが宗教改革だと、深井さんは位置づけている





