吹奏楽部の部長から始まった「リーダーシップの原点」
番組はゲスト回として、蜂須賀さんの半生を幼少期からたどる構成で始まります。横浜生まれ横浜育ちで、両親と妹の4人暮らしの長男として育ったと話されています。
幼少期の蜂須賀さんは、幼稚園のお遊戯会で舌切り雀のおじいさん役を推薦で任されたり、当時始まったばかりのSMAP×SMAPの振り付けをクラスの前で1人で踊らされたりと、目立つ子どもだったといいます。
なんかそういう、道化師みたいな感じでしたよ。
小学校からはピアノを習い、その影響で中学では吹奏楽部に入部します。体が大きかったため希望のトランペットではなく、管楽器のベースにあたるチューバを担当することになったと振り返ります。
高校は滑り止めで入った東海大相模に進み、全国大会を狙うレベルの吹奏楽部に所属します。3年生のときには100〜150人規模の部の部長を務めたと話されています。
練習は過酷で、ほぼ毎日始発で登校して朝練、昼は弁当を数分でかき込んで昼練、夜9時まで練習という日々だったといいます。部長・副部長ら幹部のミーティングもあり、帰宅は10時過ぎになることも多かったと振り返ります。
365日中350日ぐらいが多分そんな感じ。
滑り止め入学時は学年2位だった成績も、卒業時には200位まで下がったと明かします。青春時代を吹奏楽一本に費やしたことがうかがえます。
AKBの推し活が育てた「コミュニティマネジメント力」
東海大相模からエスカレーターで東海大に進んだ蜂須賀さんは、休みが年に4〜5日しかなかった高校の反動で、大学時代は遊びたいという気持ちが強かったといいます。ちょうどAKB48が全盛期を迎えていた時期でした。
蜂須賀さんは握手会や地方遠征に足を運び、推しがマラソンをするというハワイや鳥取まで駆けつけるほど熱を入れます。やがてファンの中でファンに挨拶されるようなリーダー格の存在になっていったと話されています。
情報系の学部にいた蜂須賀さんは、その技術を推し活に注ぎ込みます。当時はまだAWSにWordPressのAMIすらなかった時期で、Azureでサーバーを立ててファンサイトを作り、Googleアナリティクスで流入元を分析してアフィリエイトを貼るといったことまでやっていたといいます。
総選挙では、ファン仲間から持て余した投票権のシリアルコードを集め、OCRで大量に読み取って投票していたといいます。推しの最終得票数約2万5000票のうち、1万5000票ほどを自分たちが把握していたと語ります。
この推し活コミュニティには、50代のNEC管理職やディズニーランドの施工を手がける人など、多様な強みを持つメンバーがいました。誰がどこで活躍するかを采配し、SNSを24時間交代制で監視して投票を呼びかけるといった運営も行っていたといいます。
一般的にはマネジメントを部活や大学で学ぶ人が多い中、蜂須賀さんは年齢も職業もバラバラな大人を含む推し活コミュニティで、それを実地で経験していたことになります。
映像を志した学生が、パソコンの電源で立ち止まる
大学の学部は情報通信学部で、情報系を広く浅く学ぶ環境でした。ただ1年目に取ったC++の授業が、解説もなくひたすら写経するだけの内容で、蜂須賀さんはプログラミングが大嫌いになったと話されています。
半角スペースと全角スペースの違いさえよくわかってないんですよ。
必修だったこの授業は2年、3年と単位を落とし続け、ようやく3年後期で取れたといいます。一方でゼミはCG系で、蜂須賀さんの関心は映像制作に向いていました。
高校時代の吹奏楽で、無名の高校生の演奏を満員立ち見にまでした経験から、映像が加わればさらに強いと考えていたといいます。就活はテレビ局とイマジカという映像系しか受けず、総合職としてイマジカに入社します。
蜂須賀さんは面接で「これからテレビは全部インターネットに繋がる」と話していたといいます。2011年当時としては先見の明があった発言で、その結果エンジニアに配属されることになります。
しかし配属初日、蜂須賀さんは自分のパソコンすら持っていない状態でした。渡されたデスクトップをどこに電源をさせばいいか、どうモニターを繋げばいいかすらわからなかったといいます。
(パソコンの)電源がどこにどうすればいいかすらわかんなかった。
AKBの推し活で技術を駆使してシステムを組み上げていた人物が、社会人初日にはパソコンのセットアップすらできなかったという対比が印象的だと、すずけんさんも面白がっています。
ハッタリと一次情報が生んだ「PMの始まり」
蜂須賀さんは、当時まだ日本リージョンにEC2とS3ほどしかなかったAWSを、社内で誰よりも早く使い始めます。オンプレからクラウドへの移行という、社内に前例のない仕事を担うようになりました。
映像編集が中心のイマジカでは、営業もITプロダクトの売り方がわからず、蜂須賀さんは同行して顧客に説明する役を任されます。そこで蜂須賀さんは、自社プロダクトが顧客の求めるものと大きくずれていることを一次情報として掴みます。
1〜2年目でそう主張すると、周囲からは「じゃあお前やれよ」「できんのかよ」と返されます。蜂須賀さんは金曜に「できます」と宣言し、土日に本を買って一夜漬けで学び、月曜に実装するというやり方を2〜3年続けたといいます。
その結果、蜂須賀さんは社内のプロダクト開発で一番の存在になります。それはエンジニアリングというより、顧客が欲しいものを作ることであり、そこが多分僕の中でプロダクトマネージャーの最初だと振り返ります。
基本的にめちゃくちゃハッタリをかましてできますって言って、一営業日後にできるようになってたんで、結構それが価値だったのかなと。
一次情報を掴む
営業同行で、自社プロダクトが顧客の求めるものとずれていると気づく
ハッタリで宣言
「できます」と先に言い切り、退路を断つ
一夜漬けで実装
土日に本で学び、翌営業日に形にする
顧客の欲しいものを作る
社内一のプロダクト開発者になり、PMの原点となる
コミュニティ登壇からフリーランスへ、そしてサイカ
推し活のシステム化を進めた社会人2〜3年目ごろから、蜂須賀さんは自分がやっていることが世間でプロダクトマネジメントと呼ばれ始めていると本で知ります。5年目ごろには外注体制に疑問を持ち、内製化を考え始めたといいます。
内製化にあたり、アジャイル開発とベトナムとのオフショア開発を経験します。そのとき出会ったのが、現在SmartHRでPMを務めるアサコさんで、ベンダー側のスクラムマスターとして2週間ほどベトナムで一緒に過ごしたと明かします。
デブサミで話題書『カイゼン・ジャーニー』の著者に「頑張ります」と伝えた翌日、蜂須賀さんはX(当時Twitter)を立ち上げ、毎日ブログを書き始めます。すると著者の1人から突然、コミュニティ運営の誘いのDMが届いたといいます。
コミュニティで運営から登壇へ、さらに呼ばれる側へと立場を変えるうち、蜂須賀さんにはヘッドハンティングが来るようになります。多くの会社と同時に仕事する方法を考えた末に取ったのが、野球のFA宣言のような一手でした。
YouTubeで僕はFA宣言します、残留するかもしれないし移籍するかもしれないけど、興味ある方はお声掛けくださいって言ったら。
2017年ごろのこの宣言に約50社からオファーが届きます。できるだけ多くの会社と同時に働くため、蜂須賀さんは所属ではなくフリーランスを選びます。イマジカには約9年在籍していました。
ちなみに、フリーランス時代の最初のクライアントはまだ15人ほどだったログラスで、蜂須賀さんはPMがゼロだった同社の最初のPMだったといいます。IT業界のつながりの狭さがうかがえるエピソードです。
ただしフリーランスは実質半年ほどで終わります。同時に5〜6社を担当したものの、求められる役割がプロダクトのグロースからPMの教育側へと変わっていったためです。プロダクトを伸ばすには企業に所属し直す必要があると考え、サイカに入社します。
7年に一度のメディアを逃さない、PIVOTという選択
サイカでは既存事業と新規事業でPMのリーダーが分かれる体制のもと、蜂須賀さんは新規事業側のヘッドオブプロダクトを担います。広告代理店業のDXに携わり、これまで経験の薄かったCM・広告業界を知る機会になったといいます。サイカも在籍は約1年でした。
次に選んだのがPIVOTでした。蜂須賀さんは、日本でメディアとして勝てる会社は7年に一度ほどしか生まれないと考えていたといいます。noteやABEMA、NewsPicksが生まれたサイクルを踏まえ、この勢いを逃せばまた7年後になると判断しました。
これを逃したら、この勢いがある会社を逃したらまた7年後だなと思ってて。
蜂須賀さんが入ったころのPIVOTは12〜13人ほどで、マンションの一室で活動し、チャンネル登録者数も3万人ほどでした。蜂須賀さんは組織の立ち上げも含めて担っていきます。
当時のPIVOTにはYouTubeより先にiOSアプリがあったものの、開発に精通した人がおらず外注で作られていました。配信基盤なのにCDNが入っておらず、格安SIMのユーザーが数コンテンツ見るとパケ死するような状態だったといいます。
蜂須賀さんが入って最初にやったのは、AWSとGoogle Cloudのコンペだったといいます。PIVOTのプロダクトを根本から作り直していったことになります。
PIVOTには約2年半在籍しました。蜂須賀さんは3万人で入り300万人で辞めたと表現しており、最も伸びる時期のど真ん中にいたと振り返ります。エンジニアリング組織も1人から業務委託を含め20人ほどに育て、テクノロジー系コンテンツの企画・キャスティング・演出まで自ら手がけたといいます。
上司を超えて独立、Newbeeで挑む「現役PMのメディア」
蜂須賀さんは、これまで会社を辞めるのは上司を超えたときだったと振り返ります。イマジカでは平社員の限界に達し、サイカやPIVOTでも自分の考える方針が会社の方針と異なったために離れてきたといいます。必然的に、上のいない状況に行かざるを得なかったと語ります。
独立の背景には、メディアへの問題意識もありました。テクノロジーと金融はプロがやらないと内容が深くならず、現場を知る人でないと務まらないと蜂須賀さんは考えています。
そのうえで、メディアを運営でき、テクノロジーがわかり、さらにMCまでできる人がいないと感じていたといいます。だからこそ自分がやることに参入障壁があり、現場の視点を持ち続けることが重要だと語ります。
現在の蜂須賀さんは、外部CPOとして複数の企業にプロダクト支援を行いながら、Newbeeでメディアを運営しています。PIVOTが切り開いたビジネス系YouTube市場は今後も伸びると見て、独立に踏み切ったといいます。
Newbeeは前年5月に公開され、収録時点で登録者数は1万1000人ほどに達していると話されています。等速直線運動のように伸び続けており、まだ伸びしろがありそうだと語られています。
書籍とカンファレンス、そして長い縁の告知
番組の最後は告知に移ります。蜂須賀さんは、この日話したプロダクト開発のノウハウをまとめた書籍を出したことを紹介します。書店に平積みされ、そのプレッシャーを感じていると笑いを交えて話されています。
さらに蜂須賀さんは、全国の大きな書店に自ら足を運び、手書きPOPを書いているといいます。手書きPOPがある書店は蜂須賀さんが訪れた店だと明かし、会えばサインももらえると話されています。
もう1つの告知として、9月にNewbeeとして初めてのカンファレンスを開催することが挙げられました。詳細は概要欄に掲載されます。
締めくくりでは、すずけんさんと蜂須賀さんの縁の長さが話題になります。2人はかつてAgile Japanで新井さんとともに登壇した仲で、すずけんさんにとっては初めての登壇だったと振り返ります。
なんかすげえ登壇慣れしてんなと思ったら、ガチガチだった、初めてだった。
蜂須賀さんは、以前の飲み会ですずけんさんに「面白い」と言われたことに触れます。すずけんさんは、お酒が入ると人の話に興味が湧き、蜂須賀さんのリアクションを面白がっていたのだと明かし、和やかに回を締めくくります。
まとめ
パソコンの電源すらわからなかった総合職の新人が、一次情報とハッタリを武器にプロダクトマネージャーへと成長し、やがて独立してメディアと外部CPOを両立するまでの半生が語られた回でした。蜂須賀さんのキャリアには、吹奏楽部の部長やAKBの推し活で培ったマネジメント力が一貫して流れています。
- 蜂須賀さんのリーダーシップの原点は、150人規模の吹奏楽部の部長と、多様な大人が集うAKB推し活コミュニティの運営にあった
- 社会人初日はパソコンのセットアップすらできなかったが、営業同行で得た一次情報とハッタリが「PMの始まり」になった
- 「できます」と先に宣言し、土日に一夜漬けで学んで翌営業日に実装するやり方を数年続け、社内一のプロダクト開発者になった
- コミュニティ登壇やYouTubeでのFA宣言を経てフリーランス、サイカ、PIVOTへとキャリアを広げた
- 現在は「7年に一度」の勢いを見極める視点と、現役PMでありメディアも運営するという参入障壁を武器にNewbeeを立ち上げている




