ビデオポッドキャストを始めてみます
今回は少しお知らせっぽい話から始まります。「ぼんやりおきもち」を、ビデオポッドキャストとしても配信してみることにしたそうです。
ただ、動画を頑張るという話ではありません。顔を出すわけでも、Vlogのように映像編集を前面に出すわけでもないと話されています。
あくまで音声として成立するものにしたい。その気持ちは変わらないままだといいます。
それでも今回、届けるための工夫として、イラストレーターのユウコチカさんにアニメーションの素材を作ってもらったそうです。この協力なしには始められなかったと語られています。
これはですね、本当にユウコチカさんの協力なしにはできなかったことなので。
そして今回話したいのは、形式の説明ではなく、始めようとしたときに自分の中に出てきた、少しめんどくさい気持ちのほうだといいます。
ビデオとして扱われるための「アリバイ」
ビデオポッドキャスト化といっても、動画を頑張りたいというより、音声を中心にしたまま届け方を少し整えたい。そんな感覚に近いそうです。
特にSpotifyではビデオポッドキャストという形式が推されているように感じていて、見つけてもらう入り口が少し増えるかもしれない。そういう期待が正直あると話されています。
とはいえ、自分の姿をドーンと映したりVlog風の編集を加えたりするのは、自分にとってコストが大きい。そこでアニメーションとテロップをつけて試してみようと思ったといいます。
もっと言えば、それはSpotify上でビデオポッドキャストとして扱われるための「アリバイ」でもあるかもしれない。そう表現されています。
ただし、雑なアリバイにはしたくない。アリバイのために話す中身まで変えたいわけではない。ここですでに矛盾を抱えていると話されています。
この矛盾を抱えたまま始めようとしているという感じが、本当のところなんですね。
見つかりたいから、届けたいへ
そもそも自分には、見つけてもらいたいという気持ちがずっとあったといいます。でも同時に、見つけてもらいたがっているようには見えたくなかったそうです。
だから「見つけてもらいたい」というより「見つかりたい」に近い。偶然誰かに見つかりたいと期待しつつ、自分から見つかろうとするのは恥ずかしい。そんな感覚だと語られています。
ところが最近、その感覚が少し変わってきているといいます。見つかりたいだけでなく、届けたいという気持ちが濃くなってきているそうです。
それでも、届けようとしている自分を見られるのは、やっぱり恥ずかしい。ここでも矛盾が顔を出します。
「これはログなんで」という逃げ道
その恥ずかしさは、配信の告知をするときにも表れるといいます。Xでのポストや、参加しているオンラインコミュニティ「コルクラボ」のSlackへの投稿、記事への書き直しなど。
いずれも告知なのに、どこかで「これはログなんで」「発信というより記録なんで」と自分に言い聞かせながらやっているのが実態だそうです。
ログだと言っておけば、あまり聴かれなくても反応がなくても、ログだからと言える。そんな逃げ道になっているといいます。
けれど本音のどこかでは、というよりかなり確かなところでは、聴いてほしいと思っている。思っているのに、それと向き合えない感じがあると話されています。
でも本音のどこかでは、というか、結構確かなところでは、聴いてほしいと思ってるんですよね。思ってるのに、それと向き合えない感じがあるというか。
ポッドキャストは自分にとって発信というより、SNSに近いといいます。「昼メシNow」ぐらいの懐かしいSNS感だと表現されています。
ノウハウがあるわけでも、明日から役立つ話があるわけでもない。あるのは、見たこと聞いたこと、感じたこと考えたことだけ。それを声にして外に置いていく感覚だといいます。
だからそれは「こういう人間です」と差し出しているようなもの。自分は「こんなもんです」のつもりでも、外からは「見てください」「聴いてください」と映っているかもしれない。それが恥ずかしいそうです。
届けたい気持ちはありながら、それが恥ずかしい。でも、誰にも届かないのも寂しい。この堂々巡りの矛盾をどう意味づければいいのか、と語られています。
自分では思っていなかった届き方
一方で、自分では思っていなかった届き方を知る出来事もあったといいます。
コルクラボのメンバー何人かに、雑談の中で「声がいいよね」「雰囲気がいいよね」とポロッと言ってもらったそうです。自分ではそんなこと思っていなかったといいます。
その場では恥ずかしくて「え、そうかな」と受け取りきれない。驚きも照れもある。でも後から考えると、そう伝えてくれた人のことを思うと、そこに嘘はないんじゃないかと思ったそうです。
少なくともその人にはそう届いていたというか。だから、それは一回素直に受け取ってみてもいいんじゃないかと。信じてみてもいいのかもと。
自分のことは、やっぱりわからない。わからないからこそ、ぼんやりした気持ちをいろんな角度で見たり触ったりしているとも言えると話されています。
それを外に出すと、思っていたのとは違う形で返ってくることがある。違いを知ることは、共通点を確認するよりも、もしかしたら相互理解に近いのかもしれないといいます。
縦書きテロップと、物語としてのログ
今回のビデオポッドキャスト化でも、それに近いことがあったそうです。アニメーション素材を作ってくれたユウコチカさんから、テロップを縦書きにするという提案があったといいます。
自分ではそこまで考えていなかったのですが、ユウコチカさんには「物語みたいにしたかった」「縦読みだと物語感が出る気がする」という思いがあったそうです。
自分としては出来事があって、そこから思ったことを話していて、あるいは息子との会話をそのままエピソードにしていたりとか、セルフドキュメンタリーとして、その時その時のログを残していると、そういったことだったんですけれども。
自分がログとして置いたものを、ユウコチカさんは物語として見立ててくれた。これは思っていた届き方とは少し違う。でも、その違いがすごく嬉しかったといいます。
自分が置いたものが、いい意味で一人歩きしてくれた感じ。受け取った相手が、縦書きテロップという提案の形で返してくれた。連歌的というと言い過ぎかもしれないけれど、自分の句に次の句をつけてくれたような感じがあったそうです。
自分がやったことが、誰かの中で表現としての何かを少し動かしたのだとしたら。大げさかもしれないけれど、それはかなり嬉しいことだと語られています。
整理できない矛盾のまま、しばらく続けてみる
今回のアニメーションやテロップは、正直に言えばビデオポッドキャストとして扱われるためのアリバイがきっかけでした。でも、もはやそれだけではないといいます。
ログとして置いたものを、思いがけず別の角度から受け取ってもらって形にしてもらった。そう思うと、これは単なる工夫だけではないのかもしれないと話されています。
見つけてもらいやすくしたい気持ちも、インプレッションを増やせたらという気持ちも否定しない。でも、それだけの意味づけでなくてもいいのかもしれないといいます。
基本となるやること、やりたいことは、そんなに変わらなそう。かっこつけてもたぶんバレる。その上で、少しだけ見つけてもらいやすく、少しだけ届きやすくする。そんな試みだそうです。
抱えてる矛盾はまだうまく整理できたとは言えないんですけれども、まあそういう試みとしてビデオポッドキャストを始めてみようと、しばらく続けてみようと、そう思っている感じですね。
まとめ
音声を中心にしたまま、ビデオポッドキャストとしても配信を始める。その裏には「見つかりたい」と「届けたい」、そして「届けたい自分が恥ずかしい」という整理しきれない矛盾がありました。それでも、思いがけない届き方や、縦書きテロップという返答に背中を押されながら、矛盾を抱えたまま続けてみようという回でした。
- ビデオポッドキャスト化は動画を頑張る話ではなく、音声を中心にしたまま届け方を少し整える試み
- 「見つかりたい」から「届けたい」へと気持ちが変わりつつも、届けようとする自分が恥ずかしいという矛盾を抱えている
- 「これはログなんで」という言い方は、反応がなくても平気でいられる逃げ道になっていた
- 違いを知ることは、共通点の確認よりも相互理解に近いかもしれないという気づき
- 矛盾は整理できないまま、それでもしばらくビデオポッドキャストを続けてみようとしている






