お金の知識が、挑戦の選択肢を広げる
私は普段、オンラインで「キングコング西野の親子で通うお金の学校」というものをやっています。
挑戦を重ねる中で痛感するのは、人生の挑戦の選択肢を広げるのも、夢の実現を後押しするのも、その多くがお金に対する理解に支えられているということなんです。
逆に言えば、お金に関する知識や感覚の不足が、可能性の芽を摘んでしまう場面も少なくないんですね。
お金は人生の目的ではありません。ただ、頭の中にある想像を社会の中で形にするための、重要な道具なんです。
だからこそ、子供たちにも、その子供たちを育てる親御さんにも、一般的な学校では教えてもらえない現場のお金の話を届けたいと思って、この活動をずっと続けています。
人が嫌いでも、手段まで嫌ってはいけない
その一方で、ちょっと気になっていることがあります。
日本ではときどき、人物への好き嫌いが先行して、その人物が使っている手段や仕組みそのものまで否定の対象になってしまうことがあるんです。
いわゆる、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というやつですね。
でも、知識や仕組みには、本来「その人が好き」「その人が嫌い」とは別の評価軸があるはずなんです。
具体例を挙げると、クラウドファンディングがそうでした。当時は詐欺という扱いを受けて、多くの挑戦者が潰されて、生まれていたはずの可能性や、救えていたはずの命を失ってしまった。
無料公開もそうでしたね。ダンピングだ、不当に安く売っている、という批判が殺到しましたが、実際はお金を生み出すポイントを後ろにずらしただけのマーケティングに過ぎないんです。
個人への感情と、次世代に残すべき知識や仕組みは、分けて考えられる社会であってほしいと思っています。
トニー賞は「西野の快挙」ではない
最近、私が気になったのが、ミュージカル『キャッツ ザ・ジェリクル・ボール』がトニー賞で冠を獲得したときの、日本国内でのニュースの受け取られ方でした。
誤解のないように先に言っておくと、私はこの出来事をもって、自分がすごいと言いたいわけではないんです。
プレスリリースでもコメントしましたが、正確に言えば、西野がトニー賞を獲ったのではなく、トニー賞を獲った作品に西野が参画させていただいていた、ということなんですね。
ところが一部では、それがあたかも西野の快挙であるかのように伝えられていました。これは明らかに拡大解釈です。
作品を生み出したクリエイターさんや現場の努力、ファンの皆さんのサポートを差し置いて、私個人の手柄として語るのは適切ではないと思います。
「一口馬主」という言葉が矮小化していること
その一方で、今度は逆に、西野の評価を打ち消そうとする人たちがいます。
共同プロデューサーなんてお金を出せば誰でもなれる、一口馬主のようなものだ、という言い方をされる方ですね。
でも、こちらはこちらで、事実を必要以上に矮小化しているんです。
ブロードウェイにおいて共同プロデューサーという立場は、単に資金を出せば誰でもなれる、という言い方はできるかもしれませんが、そもそも誰でも資金を出せるわけじゃないんですね。
注目作品や有力なプロジェクトになればなるほど、参加の機会そのものが限られている。資金力だけで扉が開く世界ではないんです。
信頼関係や実績、人脈を通じて、初めて声がかかる世界なんですね。
実際、CHIMNEY TOWNでもAI映画のティザーを発表して、長編の制作を匂わせましたが、その制作費を誰に出していただくかという議論をチーム内でしています。
作品を世界に売り込んでいくことを考えると、世界に接続している人に出していただいて、その方に回収してもらった方が合理的だからです。
だからエンドロールにはお金を出した方の名前が載る。載るんですけれど、一口馬主のように誰でもお金を出せるわけじゃないんです。
本当に議論すべきは、そこじゃない
つまり、西野がトニー賞を取ったという理解も、共同プロデューサーなんて誰でもなれる一口馬主だという理解も、どちらも間違っているんです。
どちらも実態からは距離があります。
本来議論すべきポイントは、そこじゃないんですね。
日本のエンタメ業界の人間が、一個人がなぜブロードウェイ作品に参画できたのか。もっと言えば、なぜ日本の大手カンパニーがそこに参画できていないのか。
ミュージカルを作っている大手カンパニーはいっぱいあるのに、です。本当に議論しなければいけないのは、ここなんです。
功績を過大評価することにも、過小評価することにも、意味はないんですよ。
事実を事実として捉えて、その先にどんな可能性が広がっているのかに目を向けた方が、未来にとってはずっと建設的だと思うんです。
まとめ
AKBの前田敦子さんふうに言うなら、西野のことが嫌いでも、西野の手段まで嫌っちゃいけないよ、というところでしょうか。事実をそのサイズで受け取ること。まずはそこからだと、いまは考えています。
- お金の知識の不足は、挑戦の選択肢や可能性の芽を摘んでしまう
- 人物への好き嫌いと、その人が使う手段や仕組みは分けて評価すべき
- 「西野の快挙」も「一口馬主」も、どちらも事実から距離がある拡大解釈と矮小化
- 本当に議論すべきは、なぜ日本の大手が参画できていないのかという問いのほう



