新創造論、始まります
番組のオープニング。背景に飾られたしゅんちゃんの絵から話が始まります。
始まりました。新創造論。イエーイ。
イエーイ。
誰だろうね、こんな素晴らしい絵を描いたの一体。しゅんちゃん顔、見たことない顔してる。
一応背景としてね。
これちょっとビデオポッドキャストでお送りしておりますけれども、こちら背景に中村俊介様の絵を飾らせていただいております。非常にパワフルな、なんかここだけおしゃれなスタジオみたいになってるね。
でもそういうの、絵のある、絵の力を感じるよね。
パーソナリティは私、なりりんと。
とうかと。
しゅんすけと。
まりこです。
4人でお送りしております。僕以外はですね、アート合宿プログラムっていうのをやっておりますので、もしよろしかったら概要欄の方もご覧ください。
そもそも創造とは何か
今日のテーマは「創造とは何か」。なりさんは、創造という言葉の意味が時代によって変わってきたと切り出します。
今日はですね、「創造とは何か」というテーマで、皆さんにいろいろ聞いていきたいと思います。そもそも創造とは一体どういうイメージでいるのか、言葉のすり合わせをした方がいいなと思いまして。
「創造」っていう言葉に対して持っているイメージとか意味って、めちゃめちゃ時代によって違うと思うんですよね。一番最初の人類の創造って、アニミズム的な、言葉を覚える前の状況説明だったりとか、壁画とかね。
近代の特徴って、「個人の表現は自由である」っていうことなんですよ。信仰も自由で、言論の自由みたいなものが現れてきてから、ルネッサンスって感じで、いろんな芸術が爆発して、今の現代アートに至るみたいな感じだと思うんですよね。
翻ってみるに、この3人にとって、創造ってどういうイメージでその言葉を使っているのか、どんな意味を持って使っているのかっていうのをちょっと聞いていきたいなと思います。
なんか創造については話せないんだけど、まだ。でも創造的に生きるとか、創造的人生とか、「的」っていうことをつけた方が、私たちは話しやすいかもしれないなとちょっと思ったりはした。
もしかしてこういう糸口になるかもしれないなと思ったのが、しゅんちゃんが普通の、いわゆる美大じゃないところに通っていた時に、ずっと音楽をたくさん聴いていて。自分はいつまでも消費者でいるのか、生み出す側に回らなくていいのかって思ったところとかもきっかけになって、美大を志したっていう。
消費者から、作る側へ
しゅんちゃんが、アーティストを志した転換点を語り始めます。ツタヤでCDを掘っていた学生時代の話です。
その話から始めてみてでもいいですか?
遡ること数年前の話になるんですけども、美大に入るまで僕は一つ私立の大学に入ってるんですけど、その大学に入った時に、僕は毎月ツタヤでCDを借りてた。ツタヤで5枚で1000円みたいなのがあって。
あった。俺ツタヤの店員してた、なんなら。
いろんなジャンル、ロックから激しい音楽からクラシックまで、いろんな棚から毎月100枚ぐらい。カゴ2つとかに入れるわけ。で、視聴コーナーがあって、CDを入れて、1秒とかで「あ、これ違う」みたいな。
え、待って、同じことやってるじゃん。なんか気になるジャケットのやつをいろんなジャンルをカゴにいっぱい入れて、1秒聞いても針で「違う」みたいな。ペッペッみたいな。
それが続いている中で、ある英語の授業で、雑談の中で教授が「あなたは何のためにここにいるんですか?」みたいな話をした。俺は一人、雷に打たれるわけですよ。何言ってんのこいつと。
隣を見たら寝てたりとか、携帯を見てたりとか、この人たちと同じレールに僕の人生があるって思った時に、ものすごく怖くなったの。自分の人生を生きてみたいっていう思いが芽生えたんだよね。
その時に芽生えたのが、僕も何かを発信する側になりたいとか、ある種CDだったから、イメージとしては歌手なんだけども、僕も自分の人生のステージに立ちたいと思った。自分の声を表現する人になりたいってその時に強く思って。
ピクルスに挟まれたハンバーガー理論
好きなことと嫌なことの関係を、しゅんちゃんはハンバーガーにたとえて語ります。
ステージまで距離があると思った。当たり前じゃない。けど、好きなことなら、そのプロセスも進めると思ったんだよね。嫌なことだと無理だと思ったの。嫌なことをしながらそこに行くのは無理だと思ったの。
好きなことをやりながら、そこに嫌なことがあっても受け入れられるって、その時思ったんだよね。よく大学とかでこの話する時は、ハンバーガーのバンズと肉の間にちょっとのピクルスなら食べれると。
でもピクルスに挟まれたバーガー、嫌いなことに挟まれたものはやっぱ何でも嫌だし。でも好きなことだって、美味しいことの中にある苦味だったら、僕は多分人生の中で受け入れて進めれると思って。
そこを避けては本当に通れないチャンネルでもあると思うしね。逆に日曜の真っ昼間に話す豊かさがあるよね。
予備校と美大で感じた違和感
しゅんちゃんが進んだ美術予備校と美大。そこで感じた教育プロセスとの合わなさが語られます。
そこから美術の予備校、美大に行きたいと思った。次は新宿美術学院っていうとこに通って、今はブルーピリオドで有名な。漫画を見るとお腹痛くなるんだけど。
自分と創造の価値観が違う人から、すごい言われるのきつくない?
いえ、もう本当にきつい。だからこそ、こういうアート合宿とか、自分が感じた、創造的でありたい、創造性を膨らませたい、自分を止めてきたものがない環境を作りたいっていうのも多分すごくあった。
しゅんちゃんにとって何が創造的で何が創造的じゃないなっていう感じだったの?
教育はさ、ゴールがあるから。この美大に入るための対策、傾向と対策と、テスト科目。自分が何であるか、何が好きか、どう表現したいかの前に、試験対策に対して自分をどう合わせていくか、アジャストしていくかっていうことでもあるから。
美大も美大で、ほんとこの教授何言ってるかわかんねえなみたいな。自分の創造性を後押しするような、この言葉があったから前に進んだとか、この知見をもらえたからっていう体験はほぼなかったから。
でも一人いたんだよね。助手の方で。すごい感性が鋭い人で。「俊介きっとこうなんじゃない」って言われて。「一旦俊介、四国一周歩いてきたらいいと思うよ」とか。
「中村俊介っていうのを表現するといいんじゃない」って言ってくれたりとか。「俊介は風に乗って飛んでいくことは好きだけど、どこに飛んでいくかはちょっと苦手だよね」みたいな。
もう占い師やん。
そう、占い師でありすごい人だった。
なんか溢れ出るものがどんどん形になっていく。ある種それでもってお祭りになってるような空間だと思ったの、美大は。でも自分もそうはなれなかったし、そういう空気感を感じなかった。
結構本質的だったかも。先生たちは割と。在野でそうやって教えようって人たちだったから、結構人にフォーカスしたフィードバックが多かったかもしれない。
例えば油絵の先生とかが、私って描くのが早かったりしたのね。そしたら油絵って遅いんだよね、乾くのが。だから君は早いことは得意かもしれないけど、だからこそその油絵の重さっていうのが大事になってくるかもしれないよとか。
人のことをどう見れるかってまた一つの才能だったりするから。なんかそれってコミット、人の人生に対するコミットだから。
作品は「人拓」——内側がそのまま出る
話題は、創造されたものをどう捉えているかに移ります。しゅんちゃんとまりこさんは、内側にあるものがそのまま出ると語ります。
内側にあるものが、良き悪きはあれど、その人のその時の技術で、そのまま出る、何かだと思ってる。
めちゃめちゃセンシティブなものだよね。それだけ聞くと、もう恥ずかしい。バレちゃうみたいな。
だからアート合宿しかり、そういった絵がプログラムの中で出来上がってくる時に、その人がどこの位置にいるかとかすごくわかるし、何を言うかもそうだけど、何を言わないかのほうがやっぱ大事だったし。
結構しゅんちゃんと似てるかな。その人の内なるものがすごく出てきているって見ていて。ある意味それがちゃんと出てきてないと気持ち悪い。私の体が振動するかしないかだから。絵を見た時に。
振動しないものは、綺麗に描こうとか、自分が好きなアーティストのを真似て描こうだとか、思考で描いた絵はすごく気持ち悪く見える。その人じゃないから。
感動する絵と上手いなって思う絵はやっぱ違うんだなって思ったよね。上手い絵はアカデミックを通れば技術がそこに入ってきて描けるようになるけども、感動する絵は、上手いかどうかとはまた別なんだなと思う。
前回、アートっていうのはその人の命に触れる技術なんだっていう話もあったよね。その人の内側から湧いて出ている、センシティブで柔らかい部分も含めてのものに触れられた時に、体が振動するというか。
その人固有の感動が出ると、自分が出会ったことない感動だからさ。だから新しい感動になるのは必然的だなって思うし。
一人一人がオリジナルな創造物
灯華さんは、人間そのものが最高の創造物だと語ります。フィルターを取り、純度を上げていくプロセスについて話が広がります。
私ね、こう見えて面接うまいんです。落ちている子は、インターネットで調べた情報とか、思考で喋っている感じがすごく聞いてて気持ち悪いなっていう感覚があって。あなた自身の話を聞きたいんですよっていうことで、その人だけの人生の体験を聞いてて、めちゃめちゃいいじゃんみたいな。
それをもっと出していきなよとかって。いいよ、行きなよっつったら全員受かるわけ。なんかブランディングとかマーケティング、セールスの話をする時にも、少し創造的な部分がにじみ出ることによってコミュニケーションが変わるんだろうなって。
創造といえば、創造主って言い方があるじゃない。何を作ったかっていうと、万物を作ってるんだけど、その一つである人間も創造物なわけじゃない。私たちが本当は一人一人オリジナルな創造物だと思うんだよね。
一人一人がもはやすでに作品として創造され、創造的な作品として生きるってことだね。
私は私で人のニーズに応えるのがうますぎたっていうのもあるから、いっぱいフィルターがかかってるイメージなんだよね。こうしたら価値があるとか、受けるとか、貢献だっていうフィルターがたくさんあったなと思っていて。
絵を描くたびに、そのフィルターを一枚ずつ取っていくような。シュンちゃんが「それなんじゃない?」みたいなことをいろんな形で言ってくれるから、どんどんフィルターが取れていって、自分の深部にアクセスしやすくなったなと思っていて。
私は作品というのは、魚拓ってあるじゃない。やっぱ人拓であるべきかなと思っていて。本来人間は最高の創造物であると思っていて。それをフィルターを取っていくことが、純度を上げていくことだと思っているんだけど。
人ってやっぱ見たことないものって考えた時に、何十億人生まれてきても、やっぱりオリジナルなはずなわけじゃん。それが出さえすれば、見たことないもののはずだから、結果感動させてしまうんじゃないかなって思っている。
自分を感動させる技術
なりさんは「ニーズに貢献しないことが最大の貢献」という言葉を口にします。しゅんちゃんは、創造を「自分を感動させる技術」と表現します。
その創造的な作品たちによってパワーを受け取って、それが今も創造の源になっているっていうのは、ただ単純に真似をしているってことじゃないと思うんだよね。
ニーズに貢献しないことが最大の貢献なのかもしれないと思って。ニーズに貢献しない創造が、その人の人生に計り知れない影響を与えて、創造的なパワーの源泉になるんだとしたら、それ以上の貢献あるみたいだ。
自分を感動させる技術を行使するっていう事実を創造っていうのかもしれないね。
例えば俺だったら絵描いてる時、マジで幸せなの。こんなに美しい絵画とか、こんなん出てきてしまったもそうだし、逆に「なんでうまくいかねえんだよ」とか。昔のあの人に言われて嫌だったこととか、それを含めてグッってなる。そういう技術を自分に行使する一連のプロセスを創造っていうのかもなと思う。
私もなぜ創造したいかっていうと、非常に美しいものをこの目で見たいって思っているし、人が自分自身に感動する瞬間ほど美しいものはないと思ってて。それを見せやすくしてくれるものが絵だと思っていて、ツールとしてとても優秀。
郵便局のおじさんが積み続けた城
しゅんちゃんは、ひたすら城を作り続けた郵便局のおじさんの話から、創造の狂気と純粋さについて語ります。
最近ね、すごい感じるんだよね。昨日も絵を描いたんだけど、自分で描いてて、じんわりして泣きそうになるの。振動するの。自分の体が反応する絵を描いていけばいいんだみたいな。昨日その感覚を結構掴んでいて。
さっきの話、郵便局のおじさん。ヨーロッパの人で、ずっとその城を作り続けてたおっちゃんがいるの。その土地の粘土なのか石なのかを並べて、その人だけの城を作る衝動に駆られて。
砂場で大人が作るようなレベル感の城とか建物をずっと作り続けてたおじさんがいるの。それとかは強烈だなと思うよね。衝動とか没頭とか、もうどうしても突き動かされてしまう。で、そこから逃げないとか。
単なる郵便局のおっちゃんって最初に聞いたイメージで聞くのと、その人が表現した作品を聞いてからイメージするのとでは、なんか違う人のように聞こえる。
本当にすごいものはやっぱり狂気だなと思う。本当に美しいものは、本当に純粋なものは、やっぱ切り裂いてくるよね。ここまでかって思ってたラインを引くことで安心する、その本能を凌駕してる人の純粋さは、はぁ、みたいな。
私はその、いわゆる作品を作ることよりも、自分の人生を作品として造形することに執着があるなと思ってて。この人生が作品なわけじゃん。自分のあり方とか存在することによって、結果的に人が感動したらいいなっていう。
意図しないのに、起きてしまう
没頭して制作している時、誰かにぶつけようと意図しているのか。意図せず感動を起こしてしまうことの面白さが語られます。
本当に創造的な制作をしている時って、これを誰かにぶつけてやろうと思うもんなのかな。それともそんなことは全く思わずに創造してるんだろうか。
俺は思わないね。次のに出会いたいみたいな。次の扉に行きたいみたいな。
結果として体が振動する。感動や影響を与えていくパワーを持っているのは、没頭している時は意図してないけども、それが起きるんだなって。意図してないのに起こせるっていうのがすごいいいなって思った。
意図しちゃうと、ちょっと押し付けっぽいというか。僕それ、なんか苦手なんだよ。
意図するとほら、出発点が違うよって言われる。なんか違うくない?いつもと。って言われるから。だからもうシュンちゃんには何も嘘がつけないって思ったよね。
昨日シュンちゃんが、バレバレであることが安心ってあるよねって言ってて。バレないようにと思うけど、もうバレちゃってたら、逆にバレてるんだっていう安心があるよねって。
いや、ほんとそう。秘密がバレちゃった時、逆にホッとしちゃうみたいな。あるよね。
アート合宿はさ、いかにバレバレであるかが評価されるじゃん。溢れ出ちゃうとか、ちゃんと出せてるかだから、いかに精神のヌード、意識のヌード、魂のヌードであるか。
それを続けてた時に、結果的に技術は修練されていく。
漫画家の漫画でそういうの見たぞ。週間連載やってれば絵は上手くなりますみたいな。一話目と最近見ると全然絵の技術が違う。
狂気の積み重ねによって修練された技術にも普通に感動するよね。ジャズミュージシャンとかすごいと思う。指どうなってんの?みたいな。積み重ねの日々を感じるし、狂気を感じるし。
創造性を育む、他者の関わり
創造には他者の存在が欠かせないと語られます。ただし、その関わり方には深い信頼と設計が必要だと3人は言います。
創造って一人でやるもんだみたいな。でも読んでくれてリアクションくれる人がいたから、一人じゃなかったと思うんだよね。創造する時の他者の存在って結構大きいなって思うんだけど。
他者は必要だよね。なしには難しいけども、どんな関わりであれるか。その人をちゃんと見てくれているか。そのインパクトまで見た上で関われるかっていう関係性はすごく大事だと思う。
美大とかでいうと、教授の講評で絵が描けなくなっちゃう子もいるから。怖くなって。第一線でやってる人からの意見っていう意味では正しいんだけども、じゃあその子の創造性や意欲につながるかどうかはまた別だなって思って。
適切な孤独ってやっぱり必要だとは思いつつ、アート合宿って創作の時間と対話の時間を一対一で取ってるんだよね。自分の創造物は創造するに値するんだっていう、自己高揚感って大事だと思ってて。
私は私であることに価値があるんだっていうことが、自分がオリジナルであるっていう認識ってすごい大事な気がしているから、それを促すような対話の設計にしてるんじゃないかなと思う。
自分で行かなくちゃいけない時っていうところでは絶対に声はかけないし、近くにも寄らないかな。でも一言が背中押しになるなって思った時に、近くに行って声をかけることはあるけれども。
何にせよ、その人がその人を進めるような関わりってことだよね。かけないのもそれを邪魔しないためだし、かける時はそれが進む関わりをするって感覚だよね。
非言語を出す技術としての絵
しゅんちゃんは、絵を「非言語な部分を表に出す技術」と説明します。言語化しないことが構造として大事だと語ります。
その人の中にある非言語な部分を表に出す技術として絵の具を使っています。言語や論理や思考は普段ずっと回してるものだから、俺はあんまりそこに興味ないし、お前の論理はいらんみたいな。ただ感動は知りたいみたいな。
非言語が出た時に、その人が自分の思考や論理で理解しようとすると、ループが終わらないというか変わらない。だから非言語が出た時には必ず自分で言語化しないっていうのは一つの構造として使っている。
自分を感動させる技術を行使しないと、僕の感覚だけど、なんか生きてる意味なくない?みたいな。すごい自分が痩せ細っていくというか、精神的な意味で。決定的に寂しいなって思った。
俺さ、美大終わった後にITの会社に入って、そこで鬱になって辞めてさ、一年半で。社会革命家のスコヤカイ君っていう方が言ってた言葉ですごい印象に残ってるのが、人は自分を機械化してしまうっていう。
ある意味ロボットみたいに、AをインプットすればBが出てくるみたいな。思考的にはそうなんだけれども、人間的にはそうではないし。創造的な行為とか創造っていうものは、気づかせてくれる装置でもあると思うんですよね。
機械化って聞くとすごく感覚がないようなイメージがある。感覚を麻痺させるとか。アート合宿でもマリコはよく体感って話をするんだけど、そうすると帰るポイントみたいな感じになって、後戻りできない。
その人のありのままが絵に表れてきてしまう時って、その人自身が一番、体感として覚えているんだよね。日常に戻った時も、あの時の体感に意識を持っていくと、見えていた世界が全く違うものとして受け取れるようになる。
承認し合い、創造が完成する
しゅんちゃんは、ネイティブアメリカンのビジョンクエストの体験を引きながら、目撃者や承認し合うことの意味を語ります。
この僕個人から見たアート合宿のプログラムの根底的な体験は、ネイティブアメリカンのビジョンクエストと、ペルーに行った時のシャーマンのセレモニー。ビジョンクエストの時って、森にこもるんだよね。半径30メートルぐらいが与えられて、テント一つで生活しなさいってことなんだよね。
これから何をする人として自分は立つかっていうことを宣言して、その境界線をまたぐのね。その時に目撃者がいるの。目撃者がいることはやっぱ大事だった。
参加してるみんながみんなを承認する人であり、それをカバーする3人が外で大ぐるぐる回ってるみたいな感じなのが、なんか異質だったり、違うことなのかなって気がするよね。
個人の内側から湧き出るもの、それによって自分が感動する。それが他の人の体を震わせる。一方で、体が震わせられたかどうかっていう他者の目撃とか承認もあって、創造って完成するのかな。
どうしても作者が作るものっていう主語だけで完結しちゃうと、僕、美術館に行って一番疲れるのは作者の意図当てゲームがすごく疲れるんでね。誰かに受け取られて目撃されて、どんな反応が返ってきたのかっていうところまで受け取って創造が完結するのかなってすごく感じた。
作ったものに対して一番最初の社会と接続する接点が参加者さんであり、私たちだって話だから、そこをうまく、完全に外ではないけど最初の他者であるっていうのを、どう滑らかに設計して日常につながる体験にするのかってことは結構真剣にずっと考え続けているなと思っている。
個人の内側から溢れ出ていく、そして自分を感動させる技術を行使していくっていうことが、創造的なプロセスとしてあるよね。他者に受け取られて承認されて、自分の日常に近い人にも伝わって、体が震え合う。その認め合いが起こるようなことが、創造だよねっていう話でした。
それが半永続的に続くためには、その行為自体に喜びがないと難しいと思う。やってて楽しいとか、やってて好きっていう事実は半永久的なエネルギーだなっていうのは見てて思うかな。
創造が続くための環境
収録後の雑談。灯華さんの幸せだった創作の瞬間から、才能が発動する環境の話へと広がります。
2個前の個展でめっちゃ長い巻物みたいなやつ作ったじゃない。バカ広い部屋に10メートルの巻物を敷いて、4日間通ったのね。描く時間って30分とか1時間だけだったの。全てを自分のタイミングでハンドリングしながら描けた、あの時間は本当に幸せだった、毎日。
なんか泣いちゃった。その倍増を感じてくださってるんだよね。体感として覚えているから、その時の喜びとか嬉しさみたいなのが伝わって、こういうの泣いちゃうの。
いつも創造的であるって、自己決定権がすごく裁量が広いってことは結構大事な話かなと思ってるのね。他者から規定されてるとかじゃなくて、全てを自分で選んでいけるってことがとっても創造的なことだなっていうのは、あの時間とても感じたかな。
この世界、社会においても、芸術が成り立つためには芸術以外のことが必要だと思うのね。同じように、制作が成り立つためには制作以外をどうするか。そこへのクリエイティビティが結構大事だなと思うんだよね。
ソフトと、その内面的環境、どういう条件なのかっていうのと、外面的な物理的なハードの環境をどう設計するかっていうのは、めちゃくちゃ大事だよね。個人においても。
才能って思うと、聞いた話だけど、土の中に雑草の種の数って本当にすごい量入ってるんだって。全部が全部いきなり生えないじゃん。やっぱりその密度に合わせて雑草が生えてくる。
種が才能だとするならば、その種が発動する環境条件が整った時にただ出るだけだから、その出るための環境をどう作れるかはすごく大事な要素だし、環境が整えば出るから。努力じゃなくて。才能は努力じゃなく出てくるものだなって。
努力できる環境とか、努力している人を応援してくれる両親だったりとか、スポンサーがいて、初めて努力し続けられる。土壌みたいな、すごい感じがしていて。
全編を通して、他者の目と内発性っていうのはいつもとてもバランスだなと思うよね。他者の言葉ってすごい嬉しかったりするけど、それが下手したら依存になったりとか、とても諸刃の剣だなっていうのは常に気をつけているとこかなと思うね。
まとめ
この回では、4人が「創造とは何か」を、それぞれの体験から丁寧にすり合わせました。創造とは、自分を感動させる技術を行使し、内側にあるものがそのまま表に出てしまうプロセスだと語られます。そこには「バレてしまう」怖さと安心が同居し、他者に目撃され承認されることで創造が完成すると考えられます。そして、その営みが続くためには、喜びと、才能が発動する環境の設計が欠かせないと話されました。
- 創造は、自分を感動させる技術を行使し、内側がそのまま出てしまうプロセス
- 上手い絵と感動する絵は違い、体が振動するかどうかがひとつの基準になる
- 他者の目撃と承認、そして日常に近い人との震え合いが創造を完成させる
- 創造が続くには、行為自体の喜びと、才能が発動する環境の設計が欠かせない





