映画『オデュッセイア』が突きつける人類の業
速水さんはまず、9月11日から公開されている映画『オデュッセイア』の感想を語ります。一言でいえば「人類ってもうダメかもね」と思わせる、業の深さを感じさせる映画だと話します。
この映画では、人はこの世界で神を軽んじて生きている、それも軽んじすぎだと速水さんは言います。戦争や裏切り、嘘が重なり、人間が自らの文明を滅亡へ向かわせているかのように描かれるといいます。
速水さんは、こうした文明批評の感触は、同じくクリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』にもつながるテーマだと指摘します。
出演者についても触れ、ゼンデイヤは神話に出てくるキャラクターのような女優なのに、この映画での登場は十数秒しかなく、気づくと消えていると速水さんは残念がります。
今、今ゼンデイヤいた?みたいな感じで、もう気づくと消えているっていうね。
一方、妻ペネロペを演じるアン・ハサウェイは日常生活の似合う女優なので、たっぷり見られるのはいいけれど、少し違和感もあると速水さんは付け加えます。
速水さんは、この回では中盤以降のストーリーにたっぷり触れると断り、これから映画を見る人は耳を塞いでから聞いてほしいと呼びかけます。
帰宅に10年 オデュッセウスの旅が困難なわけ
速水さんは物語の骨格を説明します。戦地から故郷へ戻る話で、主人公オデュッセウスは戦争が10年続いたうえ、帰宅にもさらに10年近くかかっているといいます。
帰宅がこれほど困難な理由は2つあると速水さんは整理します。1つは途中で次々と災難に遭うこと。その災難が化け物なのか神々なのか魔女なのか、あるいは本人の妄想なのかもはっきりしないまま、いろいろな敵が襲ってくると話します。
速水さんは、それらの災難はある種すべて自業自得なところがあるとしつつ、一応は王様なので部下はたまらないだろう、と旅の犠牲者に同情します。
もう1つの理由は、故郷に着けば安心というわけでもなさそうだという点です。20年近い留守の間に、王位を狙う者たちが現れ、帰ってくる本人も息子の命も常に脅かされていると速水さんは説明します。
オデュッセウスはギリシャ連合軍の中の一部隊長のような、小さな王国の王でした。その総司令官格だったアガメムノンは、帰国後に妻とその間男に殺されてしまっていると速水さんは付け加えます。
嘘を見抜くペネロペ、嘘をつくオデュッセウス
速水さんは、物語の間ずっと夫の帰りを待つ妻ペネロペに注目します。遠方の出来事は、商人や吟遊詩人、戦場から帰った兵士たちの口から伝わってくるといいます。
ただし、彼らの話をそのまま信じるわけにはいかないと速水さんは言います。戦争に勝ったことや、オデュッセウスがその立役者であることは概ね確からしい。しかしその後どこで何をしているのかとなると、また聞きや作り話が混ざってくると説明します。
そこでペネロペは、夫が大事にしているアテナ像のブローチの話に着目します。これは彼女自身が贈ったもので、その話を抜きに夫を語る者は眉唾だと見抜く手がかりを持っていると速水さんは話します。
つまりペネロペは、情報伝達が口コミしかない時代における、高度な情報戦の強者だと速水さんは評します。
(ペネロペは)情報に関してはしっかりしている。
速水さんは、この映画は情報リテラシーの話であり、物語を伝えるとは何か、嘘を見抜くとはどういうことかを問う映画でもあると位置づけます。
トロイの木馬と、騙し通したバカ正直な兵士
速水さんが特に印象的だったのは、トロイの木馬の話です。作戦を考えたのはオデュッセウス自身で、木馬の中に兵士を隠し、神への供え物だと敵に信じさせて城壁の中へ運び込ませる作戦だといいます。
速水さんは、この作戦だけでは単純すぎて心もとないと感じたと話します。そこで重要な役割を果たすのが、供え物の説明役として残されるシノンという、一番弱そうな兵士だと紹介します。
シノンは、木馬の中に実は兵士が隠れているという本当の作戦を知らされていません。だから敵に捕まっても、木馬はあくまで神への供え物だとしか説明できず、心底そう信じていると速水さんは説明します。
シノンはすぐに殺されてしまいますが、それでも敵は木馬を怪しみます。今すぐ燃やすべきだといった意見も出るなか、最後には木馬を城内へ運び込んでしまうと速水さんは語ります。
速水さんは、ここで騙し通せたのはシノンのバカ正直さが役に立ったからだと見ます。本人が騙されているからこそ、味方を犠牲にしてまで変なことはしないだろうという信頼感が生まれたのかもしれないと話します。
なぜ俺に嘘をついた 死者となったシノンの怒り
作戦は成功しますが、速水さんはそれが善し悪しの話でもあると言います。後にオデュッセウスは、おまじないや魔女の言葉に従って死者たちと通信し、その声を耳にする場面があり、そこでシノンが再び登場します。
シノンは「なぜ俺に嘘をついたんだ」と怒ります。自分の犠牲が味方に勝利をもたらした功労者でありながら、仲間から騙されていたのだから、もっともな怒りだと速水さんは受け止めます。
なんで俺に嘘をついたんだっていうさ。
これに対しオデュッセウスは言い訳をします。「敵を騙すには味方から」だから仕方なかった、と。自分だって木馬の中に潜んでおり、作戦がバレていたら殺されるのは自分だった、どちらもリスクがあったのだ、という言い分だと速水さんは紹介します。
速水さんは、嘘を見抜くペネロペの話と、嘘をつくオデュッセウスの話が響いたと語ります。嘘を信じさせるには細部の感情やディテールが重要で、それが本当らしさを生む。この構造は、映画そのものを作る話とも重なってくると話します。
口コミしかない時代に、贈ったブローチの話などディテールを手がかりに嘘を見抜く情報戦の強者
味方のシノンすら騙し、細部のリアリティで敵に嘘を信じさせる、嘘をつく側の立役者
マクルーハンが読み解いた「文字文明」への批判
ここで速水さんは話を変え、最近マーシャル・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を読み直したと切り出します。1962年に刊行された、メディア論で最も有名な評論家による本だといいます。
速水さんによれば、マクルーハンが活躍したのはちょうどテレビの時代でした。テレビがどういう意味を持つかを論じ、電気を使った新しいメディアの時代を語ったといいます。
マクルーハンは、長く続いた西洋のアルファベット中心の文明が、テレビやラジオの時代に終わっていくと論じました。速水さんは、その『グーテンベルクの銀河系』の序文が、ホメロスの叙事詩を巡る話から始まる点に注目します。
速水さんは、僕らが普通に受け止めている物語は、誰かが文字で残した小説などを読むものだという前提があると言います。しかしホメロスの英雄譚は、吟遊詩人の歌の中で作られた、文字ではない物語だと指摘します。
マクルーハンが注目するのは、文字で書く物語と、声で語られる物語では、伝える側のテクニックも伝わり方も全然違うという点だと速水さんは説明します。
速水さんによれば、マクルーハンは西洋の文字社会をかなり批判的に捉えていました。文字が定着する以前は、耳で聞くことや触感、匂いなど、いろいろな感覚が研ぎ澄まされていたというのです。
それが文字文化と印刷文化によって視覚偏重の社会になり、西洋社会ではかなり能力が制限されている。テレビやラジオの時代になって、再び五感が研ぎ澄まされる時代を取り戻しつつある、というのがマクルーハンの大前提だと速水さんは話します。
キューブリックとHAL9000に宿るマクルーハンの影
速水さんは、ノーランの『オデュッセイア』の最後に出てくる「文字は滅び、歌は残る」というメッセージが、マクルーハンと重なる部分が多いと指摘します。
そして、マクルーハンが活躍した1960年代、日本でいう70年代と重ねて見られる映画作家の一人がスタンリー・キューブリックだといいます。1968年に『2001年宇宙の旅』が公開されました。
速水さんは、この映画の冒頭の類人猿の場面や、終盤のスターゲートをくぐった先のサイケデリックな謎映像に、最初に見た人は面食らうと言います。普通のドラマパートが、序盤も後半もなさすぎるからです。
キューブリック自身が公開当時の『プレイボーイ』のインタビューで、映像を通じて観客の内面に直接届く作品を目指したと説明していると速水さんは紹介します。
そのインタビューの中でキューブリックはマクルーハンにも触れ、文字中心ではなく脱セリフで、映像と音楽が主体になる映画が撮れないかという実験をやったと語っていたといいます。
速水さんは、その象徴として人工知能HAL9000を挙げます。HALはキーボードに直結しておらず、話しかける会話入力型で、合成音声で答える会話式の人工知能だといいます。
コンピューターのキーボードは60年代前半から存在しましたが、標準装備になるのは70年代からでした。速水さんは、脱文字というマクルーハン的な未来のメディア像と重ねてHAL9000を見ることもできると話します。
ノーラン『オデュッセイア』
「文字は滅び、歌は残る」というメッセージ。物語は吟遊詩人が歌で伝えるもの
マクルーハン
文字文明は終わり、テレビ・ラジオで五感が研ぎ澄まされる脱文字の時代が来ると論じた
キューブリック『2001年宇宙の旅』
マクルーハンを意識し脱セリフを実験。会話入力のHAL9000に脱文字の未来像が宿る
マクルーハンの予言は当たったのか
速水さんは、60年代70年代に持てはやされたマクルーハンの予言がどのくらい当たったのかが気になると言います。マクルーハンは、人はテレビ時代に部族化していくと語っていました。
速水さんは、YouTubeにある77年のテレビインタビュー動画に触れます。文字で読むマクルーハンは脱文字化を割といいことと捉えているように感じるが、喋るマクルーハンを見ると全然そんなことはなかったといいます。
そのマクルーハンは、部族化とは人と人の対立が激しくなり、部族間の戦争のようなものが続いていくことだと予言していました。速水さんは、書き文字と喋りは全然違うと改めて感じたと話します。
ただし、その予言は当たらなかったと速水さんは検証します。コンピューターがパソコンに変わって普及するなかで、キーボードという入力装置が標準装備になったからです。
ワープロや電子メール、掲示板、チャット、ウェブ自体、Googleのワード検索まで、人が文字を扱う場面は増えていきました。速水さんは、電子化はむしろ文字への回帰をもたらしたと指摘します。
動画と音声メディアがもたらす「脱文字時代」
一方で速水さんは、この5年10年のインターネット文化に目を向けます。YouTubeの動画や配信、そしてポッドキャストのような音声メディアの広がりを見ると、テキスト中心のウェブ時代に行き詰まりを感じるようになったといいます。
速水さんは、動画・音声メディアが中心になりつつある現状を、インターネットでも脱文字時代が始まっている可能性があると読み解きます。
マクルーハンの予言はそのまま直接は当たらなかったものの、50年60年経った今、あのとき言っていたことは確かだったのではないか、という変化が生じていると速水さんは話します。
速水さんは、ノーランの話にマクルーハンを挟んでキューブリックを接続させただけとはいえ、共通するものが少しでも見えていれば今日の話はうまくいっているのかもしれない、とここまでの流れを振り返ります。
HALの赤いランプの正体はサイクロプスだった
速水さんは、蛇足にならない程度のオチとして、HAL9000の見た目を持ち出します。覚えているかと問いかけながら、空間に赤いランプが一つあるだけのデザインだと説明します。
そのデザインには紆余曲折があったものの、結局サイクロプスが元ネタになっていると速水さんは明かします。『オデュッセイア』に出てくる一つ目の巨人、あの怪物がサイクロプスです。
結局サイクロプスっていう元ネタから取ってるんですよ。
そもそも『2001年宇宙の旅』の原題は『2001: A Space Odyssey』で、オデュッセイアが語源のタイトルでもあると速水さんは指摘します。
速水さんは、最初から『2001年宇宙の旅』とオデュッセイアの話ですと言ってしまえば、なんてことはない話だと認めます。それでも間にマクルーハンのメディア論を挟むことで、ポッドキャストらしくちゃんと落ちたのではないかと語ります。
なんか語り口というか、吟遊詩人能力、それがなんか試されてるなっていう感じです。
物書きの仕事と、現代の吟遊詩人ポッドキャスター
最後に速水さんは、文字が滅びていくのは全く他人事ではないと言います。生活費を稼いでいるのが物書きの仕事なので、本当に滅びては困るからです。
ただ、基本的に文字は滅びはせず縮小するだけだと速水さんは言い直します。それでも長い視点で見れば、文字が滅びて歌だけが残るというのは、現代の今この時点での問題意識だと話します。
速水さんは、物書きや評論家、小説家、映画監督まで、物語を作る仕事はみなこの問題と無縁ではいられないと言います。何かを伝える方式はいつか滅びるが、物語の中身自体は残る。そのとき自分たちは何の役割を果たせばいいのか、自覚が必要だと語ります。
そのうえで速水さんは、吟遊詩人という職業をもう一度立ち上げる必要があるのではないかと提案します。それを担うのは自分たちポッドキャスターたちだと、話の途中で急に複数形になります。
だから本当にポッドキャストって2人でやってる場合じゃないんだよ。俺たちは吟遊詩人なんだから。
もっとも、吟遊詩人についてはドラゴンクエスト以上の知識はないと速水さんは正直に認めます。吟遊詩人は2人で掛け合いをする文化はなく、一人で喋る、というより歌うものだろうと推測します。
そこから速水さんは、現代にもう一度吟遊詩人を立ち上げるなら、一人喋りポッドキャストなのではないかという結論を導き、この回を締めくくります。
まとめ
速水さんは映画『オデュッセイア』を入り口に、マクルーハンのメディア論とキューブリックの『2001年宇宙の旅』を接続し、「文字は滅び、歌は残る」というテーマを物書き自身の問題として語りました。
- 『オデュッセイア』は、嘘を見抜くペネロペと嘘をつくオデュッセウスを軸に、情報リテラシーや物語を伝えることを問う映画として語られた
- マクルーハンは文字文明を批判し、テレビ・ラジオで五感が取り戻される脱文字の時代を予言した
- キューブリックはマクルーハンを意識し、会話入力のHAL9000など脱セリフの実験として『2001年宇宙の旅』を作った
- 予言どおりの脱文字化はいったん文字への回帰に裏切られたが、動画・音声メディアの広がりで再び現実味を帯びている
- 速水さんは、現代に吟遊詩人を立ち上げるなら一人喋りポッドキャストではないか、と結論づけた







