高校生でも入れる?早稲田商店会「学生部」との出会い
まちづくり専門家の木下斉さんの原点は、高校時代に見つけた早稲田商店会のホームページでした。そこには「学生部創設」の文字と、「高校生でも可」という一文が書かれていたといいます。
そこに(ホームページに)高校生でもかと書いてあったんです。いまだに忘れない。
木下さんは「いける」と思い、その日のうちにメールフォームから問い合わせを送りました。当時の学生部に関わっていたのは大学生ばかりで、その中には乙武さんもいたそうです。
返信をくれたのは、当時代表をしていた理工学部の伊藤さんでした。一度会って話すと、伊藤さんはすぐに木下さんを商店会長のもとへ連れて行きます。川邊さんは、自身が小澤さんと出会ったときと重なると話しています。
商店会長は、木下さんが通う早稲田大学高等学院の名前を聞くなり「暇だな」と言ったそうです。大学受験がなく、大学と同じ暦で休みが長い学院は、界隈では「暇な学校」と見られていました。
(商店会長に)学院か。って暇だなって言われて。
ちょうど電話番をしていた乙武さんが忙しくなったタイミングで、木下さんは「飛んで火にいる夏の虫」のように仕事を任されます。電話番に加え、ホームページの維持管理や、プロジェクトごとのメーリングリストとメールサーバーの管理まで担うようになりました。
木下さんによれば、当時の商店会は、会長と乙武さんが互いの体のことを冗談で言い合うような、遠慮のない空気の場所だったそうです。
ゴミの有料化から生まれた「空き缶を集めてハワイへ行こう」
早稲田商店会は法人化していない任意団体で、目的は商店街の活性化でした。ただし木下さんは、客に「商店街が困っているから盛り上げて」と頼んでも通じないため、街全体を盛り上げる発想だったと説明します。
早稲田の街の課題は、学生がいる時期といない時期の落差でした。長い夏休みには学生相手の店が2か月ほど閉まり、街は衰退しているように見えたといいます。
背景には東京のドーナツ化現象 ── 都心部の地価高騰などで住民が郊外へ移り、中心部の人口が減って空洞化する現象。日本では高度成長期以降に大都市で目立ちましたもありました。木下さんによれば、当時の東京は開発規制が厳しく土地が高すぎたため、人が郊外へ出ていき、早稲田でも小中学校の廃校が相次いでいたそうです。
商店会が夏のイベントを始めたきっかけは、事業系ゴミの有料化でした。政経学部の先生から「分別すれば有料になる範囲は小さくなる」と言われ、最初は反発した商店主たちも方針を変えていきます。
そこで商店会は、売り先に困っていた環境機器メーカーに声をかけ、夏のイベントで早稲田のゴミが何パーセント再資源化できるかを試す社会実験を行いました。商店街の旅行代理店が格安のハワイ旅行チケットを用意し、景品にしたそうです。
事業系ゴミの有料化
商店主たちが負担増に反発する
分別の提案
大学の先生が分別で有料範囲を減らせると指摘
社会実験
全国の環境機器メーカーが機材を持ち込み再資源化率を検証
景品で参加を促す
「空き缶を集めてハワイへ行こう」で街中から資源が集まる
空き缶を集めてハワイへ行こうっていうスローガンを掲げたらですね、人間の浅ましさというのがすごくてですね。
木下さんは、ちょっといいことと、ちょっとの欲目を共存させる設計が高く評価されたと振り返ります。このイベントは当時「ECOSUMMERFESTIVAL」と呼ばれ、形を変えて今も8月下旬に続いているそうです。
放課後は商店街へ。官民ごちゃ混ぜの大人に囲まれた高校時代
木下さんはサマーフェスの手伝いから入り、空き店舗に置いた機材のメンテナンスも担当するようになります。上石神井の学校が終わると、電車で高田馬場まで出て商店街へ通いました。
最初は週1回だった商店街通いは、週2回になり、やがてほぼ毎日になっていきます。川邊さんに理由を聞かれた木下さんの答えは、「純粋に楽しかった」でした。
何が楽しかったかっていうと、やっぱり一番はこう、まさに学校とかに行ってると絶対に会えないようなかなりの幅の広い人たちと(会えたこと)。
商店会には事務員がいなかったため、高校生の木下さんも会議に参加しました。そこには省庁の職員、東京都や新宿区の担当者、大学の先生、新聞記者まで、官民入り混じった人たちが集まっていたといいます。
記者に「なぜ高校生がいるのか」と聞かれると、商店会長は冗談半分に「こいつは学校に友達がいないので商店街の面倒を見ている」と答えていたそうです。部活の代わりに、70代・80代の大人たちと付き合う日々が続きました。
川邊さんはこの頃、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで鈴木先生のゼミのTAのような立場にいました。学生から「早稲田に高校生の社長がいる」と聞き、一緒にエコステーションを訪ねたそうです。
当時高校生でしたけど、まあなんかちょっとおっさんっぽい雰囲気だったから、おっさん、おっさん、高校生と。
木下さんによれば、慶應からは金子幸生先生が何度も調査に訪れていました。アルファロメオで乗り付ける姿に、「早稲田は軽トラ、慶應はアルファロメオ」と皆で笑っていたそうです。
ノリで作った会社の社長に、なぜ高校生がなったのか
木下さんが社長になった会社は、商店街の取り組みが注目されたことから生まれました。全国から視察が相次ぎ、当時の通産省からも「全国のモデル」と言われ、予算も降りてきたといいます。
今振り返ると、木下さんは「あんなにやらなくてよかった」と感じているそうです。予算を使って各地が同じことを真似し、またネタ探しの視察に来るという循環が生まれていました。
広がりの中で開かれたのが、全国リサイクル商店街サミットです。メーリングリストや掲示板でつながっていた人たちのオフ会は大いに盛り上がり、「みんなで会社を作ろう」という話になりました。
もう酔ったおじさんたちなんで、ノリで作る会社、ろくなものはないとかよく言われますね。
設立準備を手伝っていた木下さんは、約10か月後の熊本でのサミットに間に合わせる段階で、社長を任されます。大人たちは自分の会社で忙しく、「新しいことは新しいやつがやった方がいい」という話になったそうです。
なかなかない機会だしなと。で、まあ僕が好きにやっていいんだったら引き受けてもいいですけど。
両親は「人様に迷惑をかけないように」と言うだけで、反対しませんでした。むしろ止めたのは、街づくりに関わる大学の先生だったといいます。大人たちの危うさも見えていた先生は、普通に進学・就職できるのだから余計なことはしない方がいいと助言しました。
中小企業の親父の金で事業をやる「エグさ」
川邊さんは、社長としての経験が木下さんの地に足をつけたのではないかと尋ねます。木下さんは「めちゃくちゃ地に足がついた」と答え、人のお金で事業をする怖さを語りました。
町のこの1円2円をカウントし続ける中小企業の親父の金を集めてやるっていうことの恐ろしさはね。
社長を務めた4年間は、2000年からのデフレや貸し渋り・貸し剥がしの時代と重なりました。出資者の会社が潰れ、夜逃げする人まで出たそうです。
木下さんは、夜逃げした出資者から電話で「俺の株を買い取ってくれ」と頼まれたこともあったといいます。木下さんは、税金なども追いかけてくるから、きちんと整理した方がいいと伝えたそうです。
ほかにも、商店街の組織の金を親子で横領し、店を閉めて姿を消した出資者もいたといいます。木下さんは、普通のキャリアなら生涯付き合わなくていいような出来事を、数年で山ほど経験したと振り返っています。
草野球とメジャーリーグ。海外のエリアマネジメントとの差
木下さんは早稲田大学では政治学科に進み、地方政治や規制が街の仕組みを変える影響を学びました。一方で大学時代も、海外のエリアマネジメント ── 特定の地区で、地権者や事業者などが主体となって街の価値を高めるための運営・管理を行う取り組みを継続的に見に行っていたそうです。
海外の街の中心部で事業を担うのは、政治よりもマネジメントや計画の専門家が多かったといいます。木下さんは、制度や分配だけを見ていても無理で、経営的な資源をどう見るかが重要だと考えるようになりました。
木下さんが注目したのは、制度の有無よりも運営の厳しさでした。アメリカでは地権者がお金を出し合ってエリアを管理する制度がありますが、マネージャーは宿泊単価や満室率などで厳しく業績評価されるそうです。
治安対策でも、民間警備会社を上場させたベテランがニューヨークのタイムズスクエアアライアンス ── ニューヨークのタイムズスクエア周辺で清掃・治安・プロモーションなどを担う地区管理団体で治安担当となり、警察と共同無線でつなぐ例が紹介されました。凶悪犯罪を何パーセント減らすといった目標まで掲げているといいます。
流行っている事例を視察し、補助金で真似る
業績目標を掲げ、警備や管理をエリアで共同化して運営する
でもなんかもう草野球とメジャーリーグぐらい違いがあるのを。体感して。
この学びは後に熊本の事業で生きます。約80棟のビルが並ぶ飲み屋街ではゴミ回収の仕組みが崩れていたため、賛同するビルオーナーとゴミ収集やエレベーター管理などを統合化し、18年続く事業になったそうです。
最初の会社で木下さんが痛感したのは、頼まれたことをやっても儲からず、お金のない人から取る商売は成り立たないということでした。そこで、コストを圧縮したり外からお金を取ってきたりと、全体を見てから事業を設計する方向へ切り替えたといいます。
株主との大喧嘩で社長を辞め、大学院で2年間のケーススタディへ
木下さんが大学院へ進んだのは、偶然の流れでした。大学4年の7月、事業に口を出す株主と大喧嘩し、8月の株主総会で社長を辞めると宣言したのです。
それやりたいのあなたたちでやったらいいんじゃないですかってやって、大喧嘩をして。
木下さんによれば、最初の損失をようやく取り戻し、次をやろうという時期でした。それなのに利益を自分たちに寄せろという話になり、話しても埒が明かないと感じたそうです。
辞めた直後、仲間から一橋大学の大学院の受験があると聞きます。中卒の父からは「大学までは行かせてやる」と言われていたため、大学院は自分のお金で行く必要があり、学費の安さも決め手になりました。
大学院の2年間、木下さんは商店街の人たちとは距離を置き、どんなモデルが必要かを純粋に調べることに没頭します。経済産業研究所のリサーチアシスタントや東京財団のアソシエイト研究員として、イギリスやドイツなどを共同研究で回りました。
型だから、事業って。その型をいっぱいまず知って、その型の組み合わせをいろいろ工夫すると、基本的にはどんな事業でもできる。
木下さんは型に加えて、街では時系列が大切だと話します。ヨーロッパは工業化後の人口減や覇権の喪失を何周も前に経験しており、地方運営がうまくいっている例も多いといいます。それを見たことで、日本の過剰な悲観を冷静に見られるようになったそうです。
大学院の後半には各地で連続勉強会を開いていました。調査レポートを送っていた熊本の知人から「一緒にやろう」と声がかかり、ローカルで事業を作る次の仕事につながっていきます。
「やめるから新しいことができる」ソフトバンクと街の共通点
木下さんは自身の歩みを「捨てる神あれば拾う神あり」と表現します。高校で偶然社長になったものの、決算書も最初は読めず、言われたことをやっても利ざやが出ない状態だったといいます。
最初の会社を辞めたときには「期待していたのに」と言う人も多かったそうです。一方で、新しい方向に集中すると言ったら手伝ってくれる人もいて、そちらは成果が出始めました。
そういう人の期待してたのにとか勝手に言う人はやっぱガン無視が大切だなと。
川邊さんは、電脳隊がPCインターネットをやめてモバイルインターネットへ移ったときも失望の声があったが、結果的にモバイルの方がはるかに大きくなったと重ねます。
最初の会社を辞める
商店街の人たちとの仕事を離れる
時間が生まれる
大学院で海外調査に打ち込む
事業を組み立てる
見てきたことを基にした事業が良くなる
また辞める
利益をめぐる要求から離れ、新しい誘いを受ける
川邊さんはソフトバンクについて、何千億円損していてもサンクコストを忘れて次々にやめるからこそ、新しいことを始められると話します。木下さんも、ソフトバンクやリクルートは冷徹な基準を持っていると応じました。
木下さんによれば、街がうまくいかない理由はその逆で、全部をそのまま続けようとすることにあります。秋田県がインフラの整備をやめる方針を出したことを評価し、橋を10本残せと言い続ければ全部がダメになる可能性すらあると指摘しました。
木下さんはさらに、「田舎は感情、都会は理屈」という二項対立は田舎を馬鹿にしていると批判します。極端な結論に走って一歩も踏み出せないことこそが衰退の原因で、変わっている地域はそこをきちんとやっているといいます。
まとめ
木下斉さんの歩みは、高校生で偶然飛び込んだ早稲田商店会から始まり、失敗と喧嘩別れ、大学院での調査を経て、自分なりの事業の作り方へとつながっていきました。その節目にはいつも、何かを「やめる」決断がありました。
- 「高校生でも可」の一文から早稲田商店会に入り、官民入り混じる大人たちの中で街づくりを学んだ
- ノリで作られた会社の社長として、中小企業の出資金で事業をする厳しさを身をもって経験した
- 海外のエリアマネジメントを見て、制度よりも目標と運営の厳しさが違うと気づいた
- 株主との大喧嘩で社長を辞めたことが、大学院での調査と次の事業につながった
- 全部を残そうとせず、やめることで新しいことが始められると、木下さんと川邊さんは語った





