高校生のころから続く細く長い縁
ゲストの木下斉さんは、一般社団法人エリアイノベーションアライアンスの代表理事で、内閣府の地域活性化伝道師という肩書きも持っています。この伝道師という肩書きについて、木下さんは小泉内閣のころからあるもので、「本当にあるの?」と言われるだけだと笑います。
川邊健太郎さんと木下さんの付き合いは、木下さんが高校生だった時代にさかのぼります。川邊さんは10年ほど前に、自身の勉強会「木曜飲み会」でも木下さんに話をしてもらったといいます。
(木下さんの話は)いちいち面白いんですよね、毎回その話が。かなり毒舌キャラで。
川邊さんは高校生のころの木下さんは毒舌ではなかったとしつつ、もまれて毒舌キャラに育ったと紹介します。
今回の出演には、川邊さん側の関心もありました。川邊さんはこの夏キャンピングカーで全国を回り、地域や地方に再び注目しています。自分は地方を「点」でしか見ていないので、「面」で見たときにどうなっているのかを木下さんに聞きたいと考えていたそうです。
ちょうどそのころ、木下さんの側からも連絡がありました。川邊さんがソロプレナーを推していることが仲間内で話題になり、Voicyで音声配信をしている木下さんが声をかけたのがきっかけです。
空き物件だらけの通りを、どう再生しているのか?
木下さんの仕事の1つ目の柱は、商店街や地方都市での事業です。地元の不動産を持つ人たちと合弁で会社をつくり、あまりにぎわっていない通りに新しいテナントを連れてきて、家賃がきちんと回る状態に変えていきます。
最近はこの仕事がさらに進んでいるといいます。戦後から不動産を持っていた商店街の「おじさん」が「おじいさん」になって手放す段階に入り、その物件を買いたいという若い人たちが出てきているそうです。
若い人たちが買いたがってるんですか。
木下さんが挙げる理由は2つです。1つは、地方の不動産が劇的に安くなったこと。木下さんが商店街に関わり始めた1998年と比べると、活用しやすい物件がたくさんあるといいます。
もう1つは価値観の変化です。新築にこだわらず、既存の物件を好きに使うほうが格好いいというリノベーション ── 既存の建物に改修を加え、用途や性能、デザインを新しくすること。建て替えに比べて費用を抑えやすいのが特徴ですブームが広がりました。一方で、ゼロから建てるとなると建築費は東京と変わらず高い、と木下さんは指摘します。
変わんないですよ、別に東京と。土地は安い、今まである物件も安くなった。
木下さんは、新しく物件を買うオーナーたちをさらに「けしかけて」買い進めてもらい、一緒に会社をつくります。そのうえで、通り沿いの道路や公園の管理まで役所から引き受ける、エリア単位の仕事に広げています。
物件を買う人が増える
地方の不動産が安くなり、既存物件を活用したい若い買い手が出てくる
5〜10件を束ねる
個々の店ではなく、取り組む人たちをまとめて合弁会社をつくる
通りに人を呼ぶ
新しいテナントを入れ、家賃が回る状態にする
公共空間も担う
道路や公園の管理も役所から引き受ける
木下さんは、取り組む人を5件から10件ほど束ねて会社をつくるやり方を前々から続けてきました。役所の側も持っている施設を維持できなくなり、「やってくれるならやってほしい」という話ができるようになったといいます。
600人の卒業生を生んだスクールと、物を書く仕事
木下さんの仕事の2つ目の柱は、社会人向けの「都市経営プロフェッショナルスクール」です。エリア開発に取り組みたい人からアドバイスを求められることが多いものの、すべてに応じる余裕はなく、そもそも人に頼るのは良くないと考えてスクールを始めました。
木下さんは、頼む側にも問題があると話します。建築家が批判されることがあっても、実際に依頼しているのは地方の人たちだというのが木下さんの見方です。
勉強できるやつに金を渡すだから代わりに受験してくれみたいなことをみんなが悪気なくみんなやっちゃう。
そのため木下さんは、いきなりコンサルティングはせず、まず自分で来るか部下を派遣して、人材育成に投資してほしいと伝えています。スクールは年間10か月ほどで、オンラインに加えて、木下さんたちが関わる地域で2泊3日や3泊4日の合宿をする実地型です。
卒業生は10年で600人にのぼります。木下さんは、やる気のある600人が全国でつながり、地元を越えて助け合えることが大きいと話します。
3つ目の柱は、昔から好きだったという「物を書く」仕事です。書籍のほか、業界の人に読んでもらうジャーナルやnoteも書いており、川邊さんもそのサブスクの会員だといいます。
木下さんは、この3つを自分でぐるぐる回しているといいます。仕事の相談に来た人がスクールに来て、そこでわかったことや自分の実践をまた文章にまとめる、という循環です。
地方都市と温泉街で起きているパラダイムシフト
川邊さんが「地方にこだわっているのか」と尋ねると、木下さんは「地方」は大きすぎる言葉だとして、自分の専門は地方都市、つまり地方の都市部の再生だと説明します。
ただ最近は、温泉街や農村エリアでもエリアマネジメントをしようという話が出てきています。木下さんはソロプレーヤーやAIが出てきた時代と重ねて、ここに大きなパラダイムシフトを感じているそうです。
かつての温泉地の旅館は、自分のホテルだけが栄えればいいという発想で、増改築を繰り返して巨大化していました。館内に飲み屋やラーメン屋、カラオケまでそろえ、客を外に出さないつくりだったといいます。
なんか昔の旅館って巨大旅館化して、増改築繰り返して、無限城みたいになって。
ところが代替わりが進み、外資系ホテルも参入してくると、単独の館では勝てなくなりました。川邊さんも「人も雇えないしね」と応じます。
巨大化と増改築を重ね、館内で客を囲い込む
「あの街に行きたい」と思われる街をつくるため、旅館・ホテルがまちづくりに取り組む
木下さんによれば、付加価値を狙うには「あの街に行きたい」と思われる街で商売する必要があり、旅館やホテルがまちづくりをするようになってきたといいます。
全国で1つの会社をつくって、なぜ揉めたのか?
木下さんが地域ごとに合弁会社をつくるやり方には、原点となる失敗があります。高校生のときに早稲田商店街に関わった木下さんは、最初に全国の商店街でみんなで1つの会社をつくりました。
その会社は、話が盛り上がった勢いでつくられ、厳しい話を最初に詰めないまま始まったといいます。早稲田のような小さな商店街と、新宿や北海道の大きな商店街、片田舎の商店街とでは事情がまったく違い、揉めに揉めたそうです。
結婚とかと一緒で、夢見心地なことをやってると後々大変なことになるんで。
そこで木下さんは、難しいところから始めるのはやめると割り切りました。二宮尊徳 ── 江戸時代後期の農政家。荒れた農村の財政立て直しに数多く携わり、二宮金次郎の名でも知られていますも、一番難しい村から再生してはいけないと言っていたといいます。時間とお金がかかりすぎ、成果が出る前に資金が引き上げられてしまうからです。
木下さんは民間の財団から予算を得て、アメリカやヨーロッパの都市中心部の再生事例を調査しました。大都市では道路利用の規制緩和を受け、映画のプレミアやレッドカーペットのようなイベントを、まちづくり会社がビジネスとして手がけていたといいます。
その手法を日本の大都市で試そうと、木下さんは仲間とともに新宿のモア4番街などでジャパンプレミアのレッドカーペットを実施し、国に規制緩和を求めてモデル事業にしました。この取り組みはビジネスとして成り立ってきたそうです。
しかし、他地域の商店街からは「あそこでやってもうちに関係ない」という声が上がり、株主と大揉めになりました。木下さんは最初の会社を辞めることになります。
利害や事情の違う商店街がまとめて出資し、足並みがそろわず対立した
やると手を挙げた地域と組み、自分も出資して利害を一致させる
一方で、都市の中心部から始めるモデルには手応えがありました。大学院時代に海外の事例を見て、ビルメンテナンスなどの管理をエリアで統合する手法を知った木下さんに、熊本の商店街の昔の仲間が「うちでやろう」と手を挙げます。こうして18年前に熊本城東マネジメントを設立し、その後は札幌などにも広げていきました。
コンサルではなく、お金を入れて関わる理由
川邊さんは、木下さんがケースを語るだけのコンサルタントではなく、一緒に事業をするために1つずつ会社をつくっていると整理します。木下さんは利害の一致に加えて、もう1つ大きな理由を挙げます。
木下さんはコンサルを医者にたとえます。医者には試験があるものの、コンサルは自称できるのでピンキリだといいます。そのうえで、良い医者でも「痛いですか」と聞かれて「痛いです」と答えると、患者に「嫌です」と言われてしまうのと似ていると話します。
めんどくさいけど、ここはもう調整してやりましょうって言葉が出てくるんですけど、まあ資本的に関与してないと、発言権、発言権がない。
嫌でもやらなければならない決断を通すには、資本を入れて発言権を持つ必要がある。木下さんはこれを最初の会社で学んだといいます。
板橋区で育った一人っ子と、父の店じまい
ここから話は木下さんの子ども時代に移ります。木下さんは東京都板橋区の生まれです。東京というと港区や千代田区をイメージされがちですが、板橋区は地方都市より田舎で、子どものころは畑もたくさんあったといいます。
木下さんの父親は、板橋から橋を渡った先の埼玉県戸田市で、兄弟と一緒に肉屋や魚屋を営んでいました。祖父を中心とした家族経営の生鮮品の店です。
木下さんが小学2年生のとき、祖父が病気で亡くなり、家族経営の大黒柱を失った店は畳まれました。父親は板橋の建材関係の会社に転職し、70代後半になった今も週2回ほど勤めているそうです。
(父親には)死ぬまで辞めんなって言ってるんですよ。
引っ込み思案の少年を変えた「気づいた者の責任」
一人っ子の木下さんは、低学年のころは引っ込み思案だったといいます。友達の家に「遊ぼう」と言いに行くのは、断られるのが怖くてできなかったそうです。
だからそういうメンタルとしてはだいぶ豆腐のメンタルで。
転機は小学校の先生との出会いでした。中学年と高学年の担任はどちらも男性で、木下さんは少しずつ「けしかけられて」いきます。学級会では手を挙げないのに、終わったあとで先生に「ちょっと違うと思うんですよ」と言いに行く子どもだったそうです。
高学年の担任の先生は、そんな木下さんに「気づいた者の責任」があると伝えました。
木下君が気づいてても周りが気づいてないってことがあるから、(学級会で)言わなかったら、君がそうだと思うことは誰もそうだとは思ってない。
それ以来、木下さんは授業で集中的に当てられるようになりました。うまく答えられずに悔しい思いをし、家で「もっとどう言えばよかったか」と自主練習を重ねたといいます。
そのうち、自分の発言でクラスメイトが「そういう考えもあるんだ」と気づいてくれることに、木下さんは快感と達成感を覚えるようになります。褒められることも増え、だんだん調子に乗るようになったと振り返ります。
先生に切り込む給食番組が「禁止」されたら?
5年生の学芸会で大きな役を任されたことをきっかけに、木下さんは人前に立つことが得意になり、放送委員になります。そこで提案したのが、朝会と連動させた給食時間の番組でした。
木下さんは定型的な内容では面白くないと考え、学校の授業のあり方などをテーマに、先生を招いて切り込むトーク番組を始めます。番組は給食中に各教室のテレビで流れていました。
(番組は)禁止になった。
先生に切り込む番組は良くないとされ、「有害番組」扱いになったのです。それでも放送室前の目安箱には「大好きだった番組がもうやらない」という生徒の声が届き、視聴者である生徒たちには好評でした。
頭にきた木下さんは、テレビは使えなくても、火事などの非常時用の音声回線なら全校に流せることに目をつけます。番組は音声で続き、朝会はフェスのように盛り上がったといいます。5年生の後半の出来事です。
川邊さんが「一つの原体験ですね」と言うと、木下さんもうなずきます。今の執筆や発信のように、何かを起こすと反発もあるけれど賛成する人も必ずいて、その人たちと盛り上がれば勢いでどうにかなる。その感覚の元は小学校の放送番組にあると木下さんは話します。
帰宅部の中学生が「何でもあり」の高校を選ぶまで
地元の中学に進んだ木下さんは、部活には入らず「全校帰宅部部長」を名乗り、好きな本を読んだり勉強したりして過ごしました。
小学校の後半から自分でやりたいという気持ちが強くなっていた木下さんにとって、規範の強い中学校は合わなかったといいます。そこで、高校はもっと自由にいろいろなことができる学校に行きたいと考えます。
思い出したのは、小学6年生のときに友達から聞いた早稲田大学高等学院の噂でした。ネットのない時代の噂話として、犯罪以外は何でもあり、髪を染めてもピアスをしても自由だと聞いていたそうです。
(髪を染めたいとかは)どうでもいいんだけど、何でもありだと。そういう放任主義みたいな学校があるんだっていうので記憶に残ってて。
木下さんはこの早稲田大学高等学院に進学します。大学受験がなく、高校と大学の7年間を自由に使えることになりました。それでも学校の中で認められることには関心がなかったといいます。
いいだ悪いだっていうのはクソだと。だからやっぱり実社会にこう出ていきたい。
1995年、大人の言葉が当たらなかった
木下さんが学校の外へ目を向けた大きな転換点は、中学時代に起きた出来事でした。小学6年生の冬に阪神・淡路大震災 ── 1995年1月17日に兵庫県南部を襲った大地震。高速道路の倒壊など都市インフラに大きな被害が出ましたが起き、同じ年の3月には地下鉄サリン事件が起きます。中学2年生のときには神戸児童殺傷事件がありました。
震災については、日本の土木は世界一だと言われていたのに、予測できないことが起きると高速道路が折れてしまった、と木下さんは話します。地下鉄サリン事件では、日本は安全でテロとは無縁だと他人事のように言われていたのに、とんでもないことが起きました。
木下さんは、オウム真理教の麻原彰晃がかつてバラエティ番組に出ていたことにも触れ、メディアもよくわからないまま持ち上げていたと振り返ります。川邊さんも「信じられてたものが崩れた年でしたよね」と応じます。
決定打になったのが神戸児童殺傷事件でした。犯人像について、30代以上の知能犯だといったプロファイリングがテレビで盛んに語られましたが、実際の犯人は木下さんと同い年でした。
こうした出来事を経て、木下さんは学校で部活などに打ち込むことに虚無感を覚えるようになります。一番自由な学校に行けば、大人からあれこれ言われる必要もないと考えたことが、進路選択につながりました。
テレホーダイと『五体不満足』が開いた学校の外の扉
1998年に高校受験を終えた木下さんが始めたのは、インターネットでした。パソコンは中学時代から買ってもらっていたものの、接続はお金がかかるため受験が終わるまで待っていたそうです。
ダイヤルアップで接続し、テレホーダイ ── NTTが提供していた定額通話サービス。深夜から早朝の時間帯に指定番号へかけ放題となり、インターネット接続によく使われましたに入って深夜を待つ、当時の典型的なネットの使い方です。木下さんは最初から、学校の外で活動できる場所を探していました。
しかし1998年当時は、高校生が社会に出て活動できる場はほとんどありませんでした。インターンといえば医学生のものというイメージで、検索も今ほど優れていなかったといいます。
そんなとき木下さんが手に取ったのが、テレビで話題になっていた乙武洋匡さんの『五体不満足』です。学校の図書室にあったこの本を、高校1年の夏に借りて読みました。
木下さんが注目したのは、多くの人が覚えていない後半部分でした。大学に入った乙武さんが、大隈講堂の前で楽しそうにイベントをしている商店会長に「僕も関われますか」と尋ね、「おうよ」と迎えられたというくだりです。
こんなに重度の障害持ってる人でも関われる、なんかこう、なんか町の取り組みみたいなのがあるんだったら、これは高校生の僕でもいけるんじゃないかっていうね、思いに。
本には、その取り組みのホームページのURLが縦書きで載っていました。木下さんは本を読んだその日の夜、テレホーダイでそのサイトにアクセスしたといいます。
川邊さんは、それが運命の変わる一瞬だったのだろうと語り、この回は締めくくられます。早稲田商店街での活動の詳細は、次回に続きます。
まとめ
木下斉さんは、地元の不動産保有者と合弁会社をつくってエリアを再生する仕事、実践者を育てるスクール、執筆・発信の3つを循環させています。その原点には、小学校の放送番組で「運動を起こす」手応えを知った体験と、中学時代の震災や事件で大人の言葉を疑うようになった経験がありました。
- 木下さんのエリア開発は、5〜10件の物件オーナーを束ねた合弁会社で通りを再生し、道路や公園の管理まで担う
- 全国で1つの会社をつくって揉めた経験から、地域ごとに出資して意思決定に関与するやり方に変えた
- 小学校の先生の「気づいた者の責任」という言葉が、引っ込み思案の少年を人前で話す側に変えた
- 1995年の震災やサリン事件、神戸児童殺傷事件で、大人の言葉が当たらないと感じたことが、学校の外へ向かうきっかけになった
- 高校1年の夏に『五体不満足』で早稲田の商店街の取り組みを知り、その夜にネットでアクセスした






