熊本の仕組みを城崎温泉へ。各地で会社をつくるやり方とは?
木下斉さんが社会人になった20代半ばからの10年間、最も熱中していたのは、熊本、札幌、盛岡、兵庫の温泉街など、各地から持ち込まれる地域の案件に一つずつ関わることでした。
木下さんの関わり方は、出資して取締役に入るパターンもあれば、法人の設立までを手伝って離れるパターンもあったといいます。ただし基本は、地域ごとに会社を一つずつ作っていくやり方です。
似てることもやってました。こっちでやってたことを違うところに持っていくみたいな形で事業化するっていうことは普通にやってて。
代表例が、兵庫県の城崎温泉 ── 兵庫県豊岡市にある温泉地。外湯めぐりで知られ、関西を中心に人気の高い温泉街ですです。豊岡市との合併で町の財産が市にまとめられることになり、地元では「うちの街にあったものはどうなるのか」という声が上がっていました。
熊本で物件の共同管理を手がけていた木下さんは、知り合いから城崎の取り組みに誘われます。そこで提案したのが、旅館やホテルが抱えるエレベーターや配膳用リフトなどのメンテナンスを共同化し、町営駐車場など役場が担っていた業務も新会社が引き受ける仕組みでした。
まったく同じではなくても、ある地域で成功した仕組みをアレンジして別の地域に持ち込む。木下さんは、そうした展開がかなり多かったと振り返ります。
「まちづくりは地主がやるかどうか」日米の決定的な違い
愛知県春日井市の河岸川商店街は、木下さんが高校時代から付き合いのある商店街です。10年以内に店を辞める人がどれだけいるか調べたところ、9割方が辞めると答えたといいます。
このままでは10年後に商店街が成り立たない。そこで木下さんが重視したのは、土地や建物を持つことでした。各地の研究を通じて、木下さんは「まちづくり」という言葉そのものに違和感を抱いていたといいます。
市民みんなが声を出してみんなで考えようみたいに言うんですけど、所詮は地主がやるかやらないかって話で。
土地も何の支配権も持ってないやつが、こうしろああしろとかって、Yahooファイナンスで文句書くのと一緒で、いらないんですよ。
その商店街のメンバーは最高齢93歳、最若手でも60歳前後で、地元で事業に成功した資金力のある人も多くいました。そこで「回りくどいことはやめて買おう」という話になり、まず並びの物件を借り上げてテナントを付けたといいます。
既存物件でも利回り ── 投資額に対して、家賃収入などで1年間にどれだけのリターンが得られるかを割合で示したものが20〜25%ほど出たことで、メンバーは納得します。その後は更地を買って小さな建物を建て、駅前再開発ビル1階からスーパーが撤退すると、その区画も自分たちで借り上げて運営しました。
木下さんによれば、不動産を持つ人たちが共同で会社をつくってまちを動かす形は、アメリカでもヨーロッパでも基本です。日本のように地主がほとんど出てこず、役所だけが旗を振る形は、アメリカでは「市長は訴えられないのか」と怪しまれたといいます。
まず地元の民間が計画を立てて投資額を示し、将来の固定資産税の上振れ分を根拠に、行政へ協調投資を持ちかける
地主がほとんど動かないまま、役所が特定の地区に税金で公共投資をする。アメリカなら利益供与として訴訟の対象にもなりうる
この比較について木下さんは、言われてみれば確かに変な話であり、しかもそれで成果が出ているならまだしも、リターンがまったく生まれていないと話します。川邊さんも「死屍累々」と応じ、日本の有権者が税金の使い道にうるさくない点を指摘しました。
木下さんが例に挙げたのは鹿児島県です。総合体育館とサッカースタジアムの建設には現時点で総額800億円ほどかかる見込みで、計画が2〜3年進めば2000億円になりかねないといいます。財政が厳しいなかで「ないよりはあった方がいい」という程度の理由で話が通っていくことに、木下さんは頭を抱えています。
国の委員をすべて断った30歳の決断
20代の木下さんは、現場で事業を動かしながら、その知見をレポートにまとめる政策研究も続けていました。国の委員も引き受け、20代後半には盛んに提言をしていたといいます。
しかし、どれだけ提言しても国の政策はまったく変わりませんでした。木下さんは、呼ばれて行っているうちは結局「お釈迦様の手のひら」の上だと感じ、委員は受けないと決めます。
重要なのはいい人が悪い人がじゃなくて、なんかこう、胆力があるかどうかというか、覚悟を持ってやってるかって話なんですよ。
普通2年で異動になったとしても、本当に覚悟があったら異動した先でもあがくじゃないですか。どうにかして。
木下さんが問題にしたのは、官僚が悪人かどうかではありません。2年ほどで異動し、異動後は担当していた案件をきれいに忘れてしまう姿勢です。生き様としてリスペクトできないと感じた木下さんは、30歳で国の仕事を一切やめました。
ただし、地域活性化伝道師など、若い頃に引き受けた肩書だけは、当時を忘れないためにあえて更新しているといいます。年に1度届く名簿を見ることを、木下さんは一種のベンチマーキングと表現しています。
提言が無理なら人を育てる。都市系プロフェッショナルスクールの中身
国の仕事をやめた後、木下さんは商店街やリノベーションなど不動産系の事業で仕事の幅を広げます。そして30代半ばに始めたのが、社会人向けの「都市系プロフェッショナルスクール」でした。
スクールを始めた背景には、審議会への強い不信がありました。最後は座長一人が報告書をまとめ、実際の文章は外注先のシンクタンクが書く。政治家が動かない限り官僚は変わらないと考えた木下さんは、残された手段を「現場でやる人の数を増やすこと」に定めます。
このスクールは民間と行政を分け隔てなく、年間50〜60人を受け入れています。教えるのは大学教員ではなく、いま現場を動かしている人たちです。何年も後に調査した研究を基に政策を作る従来の方法では、現場のスピードにまったく追いつかないからだといいます。
1年間のプログラムは、次のような流れで進みます。
木下さんが驚いたのは、自ら志願して来る、組織のなかでもとがった人たちでさえ「社会人になって初めてこんなに本を読んだ」と話すことでした。人の提案に「それはおかしくないか」と言わない生ぬるい環境が当たり前になっているため、互いに批判し合える場には大きな意味があるといいます。
アドバイスはなぜ無力なのか?共通のOSをつくる意味
スクールを始める前から、木下さんは各地でアドバイスを求められてきました。しかし、助言はほぼ実行されず、そもそも話が通じないことも多かったといいます。
小学生に急に高校三年生の授業やってるみたいな感じになっちゃうというので、やっぱりアドバイスは無理だなと。
川邊さんはこれを「OSを揃える必要がある」と言い換えました。木下さんも、アドバイスの前に最低限の共通言語を学んでもらうことが欠かせないと応じています。
最初は3年だけ試すつもりでしたが、1年のプログラムを3回終えた頃には、卒業生との話の噛み合い方が明らかに速くなっていました。受講生は1年で何十もの事例を学び、近くにある卒業生のプロジェクトを訪ねれば、後輩として親切に迎えてもらえます。木下さんは、成果が出る確率も上がってきた手応えがあると話します。
代表作は20年続く小さな会社。熊本で見た3代の時間軸
川邊さんが恒例の質問として自分の「トラックレコード」を尋ねると、木下さんは、各地に小さな会社をつくってきたことを挙げました。実際に事業をやって初めてわかるディテールこそが、自分の仕事の土台だといいます。
熊本の会社では、20年近く地元の人と共同代表を務めています。日々のオペレーションは現地のメンバーが担っていますが、新幹線の開通、政令市への移行、地震、半導体ブームといった環境の変化を、木下さんは長く見続けてきました。
おじいちゃんの代から知ってて、息子さんの代になり、今度は孫が帰ってきて継いでいくみたいな、三代ぐらいの時系列で街を見ていくことができる。
10代や20代の勢いで突破していく良さもある一方、長い時間軸でまちを見ることで、ほかの人とは違う見方ができるようになる。木下さんは、そこに今の自分の強みがあると考えています。
高校生に会社を任せた商店会長
これまでに出会った「すごい人」を尋ねられた木下さんは、しばらく考えたのち、高校時代に関わった早稲田の商店会の会長を挙げました。
当時40代後半だった会長は、あちこちから持ち込まれる企画をうまくさばき、メディアに取り上げられて全国から人が訪れる商店街をつくっていました。新しく会社をつくる際には、高校生だった木下さんに「とりあえず木下にやらせよう」と任せたといいます。
こいつだったらなんか面白くなるかもみたいなぐらいの感じで、パッと渡すみたいなところっていうのは、今となって考えても、いやなかなかすごいなとは思いますよね。
自分がその会長と同じくらいの年齢になった今、木下さんは、来たばかりの高校生にいきなり任せることの難しさを実感しているようです。
「稼ぐ」が当たり前になった先に目指すもの
人生の総括を問われた木下さんは、16歳から商店街に関わってもうすぐ30年になり、やってみてよかったと話します。辞めるチャンスはいくらでもあったものの、形を変えながら関わり続けてきたことが楽しかったといいます。
一方で、会社をつくって稼ぎながら地域を変えるという木下さんの姿勢は、2000年代には強く批判されました。活動家からは「金儲けだ」と言われ、役所からは「私たちは金儲けではないことをやっている」と返され、企業からは関心すら持たれなかったといいます。
2000年代は活動家や役所から金儲けだと批判され、民間企業も地方には無関心だった
約20年後には稼ぐことを隠さずに取り組む人が増え、企業も地方に関心を持つようになった
川邊さんは、補助金をもらうこと自体がゴールになっている人には都合が悪いのだろうと受け止めました。木下さんも、補助金をもらって儲かる事業にし、それ以上を返しているならまだしも、もらったまま状況が悪化している例を問題視しています。
稼ぐことが定着してきた今、木下さんが次に取り組みたいのは、地方の制度や政策と稼ぐインセンティブの設計を、より大きな枠組みで見直すことだといいます。
まとめ
木下斉さんの歩みは、各地で小さな会社をつくる現場の仕事から、国への提言に見切りをつけて人を育てる仕事へと広がり、いま再び制度設計へと向かっています。根底にあるのは、地域は自ら稼がなければ続かないという一貫した考え方です。
- 地域ごとに会社をつくり、成功した仕組みをアレンジしながら熊本から城崎温泉などへ広げてきた
- まちづくりはリスクを負う地主が動くかどうかで決まり、日本は役所主導の公共投資に偏っている
- 国の委員を30歳ですべて断り、現場の担い手を育てる社会人スクールに力を注いだ
- アドバイスの前に共通のOSを揃えることで、卒業生とは話が噛み合い、成果が出やすくなった
- 稼ぐことが定着した今、次は地方の制度と稼ぐインセンティブの設計に取り組みたいと考えている






