Apple TVはなぜ「Appleっぽい」のか
お便り紹介の前に、話題はApple TVから始まります。青木さんはApple TVに加入し、ドラマシリーズ「窓際のスパイ」を全シーズン一気に見たといいます。
「窓際のスパイ」がちょっと良すぎて。もう一気に見た。
青木さんが「窓際のスパイ」で面白いと感じたのは、美術や演出の作り込みです。現代の話なのに、権威側ではない登場人物は敵も味方もほぼ全員、80〜90年代ぐらいまでの古い車に乗っているそうです。
なんかかなりその美術的に作り込まれてんなっていう印象はすごくあるんだよね。
登場人物のファッションも、おしゃれというより、それぞれのキャラクターの背景が伝わる装いになっていると青木さんは話します。ただし、それは瑣末なことで、本当の面白さは脚本や演出にあるのだろうとも付け加えています。
今井さんもApple TVのファンです。もともと「Apple TV+」と呼ばれていたサービスは、去年ごろに「+」が取れたそうです。以前はApple TVといえばハードウェアの名前でしたが、今はサブスクのことを指すようになり、Appleが力を入れている表れだと今井さんは見ています。
本数を絞ってクオリティを上げる、Appleのお家芸
青木さんが挙げるApple TVの特徴は、ほぼオリジナル作品で構成されていることです。他から買ってきたコンテンツがほとんどないため、作品全体の絵のクオリティやトーンがなんとなく揃っているといいます。
青木さんによれば、1話の長さもバラバラではなく、だいたい1時間以内、45分ぐらいに揃っています。サムネイルのトーンや全何話という構成も含めて、見やすいユーザー体験がコントロールされている感覚があるそうです。
今井さんは、Apple TVの翻訳の丁寧さを評価します。対比として挙げたのが、一時期のNetflixで翻訳が荒れていると感じた例です。
今井さんが例に出したのは、マイケル・ジョーダンのドキュメンタリーです。シカゴ・ブルズの試合前の円陣で、ジョーダンが「What time is it?」と叫び、全員が「It's game time」と返す場面がありました。
「ゲームの時間だ」って言って気合入れていくんですけど、これ(日本語字幕)が「今何時だ?」になってて。勝手にシンドバッドみたいになって。
青木さんは、こうしたApple TVの作り方を、Appleらしさとしてまとめます。今井さんも「プロダクトの作り方と一緒ですね」と応じています。
大学の課題をAIに任せるのはズルい?
ここから本題のお便り回に入ります。紹介されたのは、大学生のリスナーからの「AIとの付き合い方と表現」についての相談です。
私は大学生なのですが、最近よく聞く『AIを使うべきだ』という考え方に少しモヤモヤしてしまいます。もちろん何でもかんでもAIに任せるという話ではなく、自分の考えを添削したり整理する補助として使うことが推奨されているのは理解していますし、仕事を効率的に進める上ではAIはとても優秀な存在だと思います。
ただ、大学の課題に関しては、授業の感想やレポートをほとんどAIに任せてしまう学生も一定数いるのが現状です。そうしたいわばサボりに近い使われ方を見ていると、課題を通して問について考え、自分なりの言葉で表現する力を養うためには、大学生はやはりAIを使わない方がいいのではないかと思ってしまいます。
お二人はAIとご自身の仕事との棲み分けや、学生がAIとどう向き合っていくかについて、どのようにお考えになりますでしょうか。
お便りを受けて、今井さんはAIに任せることには「ズルしている感じ」がある気がすると話し、なぜそう思ってしまうのかを問いかけます。青木さんはまず、大学生がこうした問題意識を持っていることに感心します。
でもこの人がさ、大学生の方なんだよね。偉いね、なんかね。真面目だね。
二人とも、このお便りは大人が大学生に向けて言いそうな意見に聞こえると話します。青木さんは、社員の育成という観点で同じようなことを考えるかを今井さんに尋ねました。
「学習のためにAIを使うな」はもう無理かもしれない
今井さんの会社ツドイでは、AIが普及してから新入社員を迎えたことがまだないそうです。そのうえで今井さんは、お便りを読んで感じた前提を語ります。
学習とかトレーニングのために我慢して使うなっていうのは、ちょっとなんかもう無理な気がしてるんですよね。
今井さんは、AIと一緒にいながらどう考えていくかを考えるべきだとし、AIの利用を検索になぞらえます。かつては「資料は図書館で探すんだよ」と言われたはずですが、それも今ではナンセンスになっているという見立てです。
青木さんは、この問題には考えるべき論点がいくつかあると整理します。世界の変化にどう合理的に対応するかという話、何を美しい・正しいと思う気持ちが変化についていけないというギャップの話、そして人間としての優秀さをどう定義するかという話です。
青木さんの見立てでは、お便りの主は「磨くべき能力とは何か」という点で、AIを積極的に使うべきだという人たちと意見が違うのかもしれません。同時に、直感的に「ずるい」と感じる背景には、世界の変化と自分の価値観の変化スピードのギャップもありそうだといいます。
他人の子供なら褒められるのに、自分の子だとモヤモヤする
青木さんには大学生の息子がいます。もし息子がAIを使ってレポートを書いていたら手放しで認められるか、と青木さんは自問します。
他人の子供がバリバリAI使いこなしてやってたら「へーすごいね」って言うと思うのよ。
(息子が)やりたいゲームかなんかやりながら、左側でAIにさ、レポート書かせてのを、まあ目の当たりにした時に、もやもやしないはないな。
青木さんは、このモヤモヤの中に、お便りの主と同じく世界の変化についていけていない自分の価値観があるのかもしれないと話します。そして「人間は本来こういう力を養うべきだ」という信念と、それができなくなるという危機感もあるといいます。
今井さんは、炊飯器や洗濯機が登場したときにも「手抜きだ」「これでは本当のおいしいお米の炊き上がりがわからない」と言われたのではないかと問いかけます。青木さんも、おそらく言われただろうと同意しました。
原稿用紙からワープロへ、小説はどんどん長くなった
青木さんは、小説家の執筆道具の変化を例に挙げます。万年筆と原稿用紙からワープロへ移り、さらにネットにつながったことで、他人の文章を簡単にコピペできるようになったという流れです。
青木さんによれば、文章を書く技術はいくつもの「お前それでいいのか」という批判を乗り越えてきました。ベテラン作家に「ボタンをパチパチやって本当の文学がものにできるのか」と言われ、万年筆で書き続けることを選んだ若手もいただろうと想像します。
今井さんは余談として、小説はワープロやPCに移るにつれて長くなっているという統計があると紹介します。1文字を打つコストが下がり、昔は書くのに体力が必要だったからだという説明です。
青木さんは、欧米の小説がもともと長いのは、タイプライターの普及が早かったことや、アルファベットの書きやすさが関係するのかもしれないと推測します。日本語は手でたくさん書くのが大変だからです。
長くなったことが良かったのかどうかについて、青木さんは問いを投げかけます。長くも書ける選択肢が増えたとも、無駄に長くなったとも言えるという見方です。
ただし青木さんは、技術によって書き方が変わることはこれまでもあったものの、考えること自体を任せられるようになったのは近年のことだと区別しています。問いを投げるだけで、それらしい答えが出てくる時代になったからです。
AIで整えた応募書類は、評価を上げるのか
今井さんは青木さんに、採用の応募書類が昔より整ってきたと感じるかを尋ねます。青木さんの答えは、意外と昔より良くなったとは思わない、というものでした。
青木さんによれば、クラシコムの書類選考では、一般的に整った書類はむしろマイナスになりかねません。頭の良さそうな順で見ていないため、AIでつるっと整えられると、うちでなくてもよさそうだと感じてしまうのだそうです。
今井さんの会社でも、採用ではこれまで30人ほどの応募があり、文章の巧拙を見てきたといいます。今ならAI使用は下手な人ならわかってしまうが、それも半年ぐらいではないかと今井さんは予想します。
青木さんは、AIっぽさがわかるのはAIの使い方が下手なだけだと応じ、自分で試している長文執筆のやり方を紹介します。
AIを使いこなすと、むしろ「めちゃくちゃ考える」
青木さんが感じたAIっぽさの一つは、文体が自分らしくないことでした。そこで青木さんは、自分の文章を大量に読み込ませたうえで、文体の出し分けを試しています。
もう一つの肝は、問いの粒度です。青木さんによれば、AIは10万字でも把握・構想できますが、一度に適切に出力できるのは2000〜3000字ぐらいです。
百文字とかぐらいで言えることを二千字出そうとすると、なんかめちゃくちゃ膨らませてくるしっていうので。
青木さんは、冗長にならない粒度の問いにコントロールすることが肝心だと話します。そうするとAIが書いたとはかなりわかりにくくなるそうです。
今井さんは、大手の新卒採用では文章でIQや学習量を測っていたのではないかと指摘します。それができなくなるなら、応募資料は動画になるかもしれないとも話しますが、動画も加工できるため、青木さんは「もうどうにもならないのでは」と応じます。
AIは「楽をする道具」にも「高みに届く道具」にもなる
青木さんはここで話を一周させ、勉強でも応募書類でも「それは何のためにやっているのか」に焦点を当てることを提案します。楽にやるためにAIを使うなら、得損なうことがたくさんあるという見方です。
一方で、青木さんが試しているように、自分らしい長文をAIで真剣に書こうとすると、違う部分のことをめちゃくちゃ考えるようになるといいます。
手間を省けるが、楽にやったことで得損なうことが多い
楽ではないが、一人では書けなかったものに届く
まあ楽じゃないんだけど、AIを使わないといけない高みに届くみたいな感じ。
青木さんは、自分程度の文章力や構想力では、一人で長編を書けないと話します。それでもAIの手伝いで「こんな僕でも長編を書けた」という未来は起こりうるといいます。
青木さんは、もともと自力で長編を書けた人が「ずるい」と思う気持ちもわかるとします。そこにアイデンティティがあったならなおさらです。それでも、テクノロジーの力でできなかったことができるようになる未来は、そんなに悪くないと話しています。
考えない人は、AIにも指示できない
ただし青木さんは、考えないためにAIを使っていると、AIに指示ができなくなるだろうと指摘します。
青木さんによれば、何をどうしたいかを決めるディレクションは、デザイナーでもライターでも実は一番高度な仕事です。目的のあるクリエイティブである限り、目的を持つ本人がディレクションしないと、AIの出力にはズレが生じます。
まあまあ言うても高性能な仕事の早い、なんか雑な装置みたいなことになっちゃうよね、AI。
本人が差分に気づけないほど雑な目的設定や世界認識しか持てないと、AIはそうなってしまうという指摘です。だからこそ、ディレクションできる自分であるための訓練は必要だと青木さんは話します。ただ、その訓練がAIを使うとできないのかは、わからないともいいます。
AIを避けるのも、実は「楽をしている」?
青木さんは、原稿用紙で書かないと無理だと言われた時代があったとしても、実際にはそんなことはなかったと振り返ります。最初からAIを使っても力をつけるやり方はありそうだという見方です。
そのうえで青木さんは、AIから距離を取ることにも別の「楽」があると指摘します。自分のアドバンテージや安心できる世界観を守るためにAIを避けるなら、それは世界の変化に対応するストレスから身を守っているということでもあります。
手間を省くが、自分を磨く機会を失う
変化に対応するストレスを避けるが、別の磨くチャンスを失う
青木さんは、「AIを使わないようにすべきだ」という考えが共有されると、提唱する本人にとっては自分の信念を変えずに済む楽さがあると話します。どちらの立場でも、楽をしようとしたり守ろうとしたりするだけなら、世界が変わる中でどこかで割を食うだろうという見立てです。
だからこそ青木さんは、お便りの主のような認識を持つ人こそ強いと考えています。
どうAIと向き合うかを一生懸命葛藤しながら、でも結構触ってるっていう状態ができたら、この人最強じゃない?
先生は何を「いいレポート」とすればいいのか
今井さんは、大学の先生の立場からも考えます。何を褒めるのか、何をいいレポートとするのかが難しくなっているのではないかという視点です。
どう見ても一年生の前期にかける文章ではないと思ったとしても、でも天才の可能性もゼロではない。
青木さんは、すべてAIが作ったかもしれないと疑いながらレポートを精読する大変さを、オンラインセミナーで聞き手が全員画面オフの状態にたとえます。黒い画面に向かって話すようなもので、モチベーションの維持も大変だろうと想像しています。
今井さんは、教えること自体が根本的に変わっていると感じています。思考力は必要でも、どこでAIを使うとトレーニングにならないのかがわからないからです。
AIを使わない思考は「そろばん」になる
青木さんは、AIを使わずに考えることが、暗算やそろばんのような位置づけになるかもしれないと話します。実戦では使わない技術でも、その訓練で鍛えた思考力が役に立つという考え方が、一つの流派として残り続けるという見立てです。
青木さん自身、息子を1〜2年ほどそろばんに通わせていたそうです。理系にしたくて通わせたわけではないものの、息子は理系に進み、そうした経験も影響したかもしれないと振り返ります。
青木さんの予想では、仕事で文章を作るときはAIをゴリゴリ使う一方で、子ども時代に自分で文章を書いたり、AIに要約させず本を読んだりすることが大事だと、一周回って認められるようになります。
今井さんは「思考力のための文章教室」がすごく流行りそうだと応じます。青木さんも、たしなみではなく訓練としての読書や、読書感想文を手で書く公文のようなものが出てくるかもしれないと話します。
今井さんはさらに、統計の取りようはないかもしれないがと前置きしつつ、そろばん塾に子どもを通わせる家庭の世帯年収はずっと上がっているのではないかと推測します。昔はみんな通わせていたものを、今は目的を変えて選んで通わせているからです。
楽をするのは「前借り」、これからは趣味としての訓練へ
青木さんは、みんながAIに流れているなら、お便りの主にとっては逆張りのチャンスではないかと話します。そして「楽してずるい」という感覚について、こう語ります。
青木さんは、頑なに変化に対応しないことも楽をしているのと同じだと重ねます。そのうえで、楽をしないべきではと思えている時点で、お便りの主は長期的に得をするはずだと話します。迎合しなくてもよく、AIを使う場面では柔軟であればいいという考えです。
青木さんは、経済的な意味より、いろんなことがわかり、できることの多い人生が素敵だと語ります。DIYができなくても生きていけるが、大工仕事ができる人は豊かだという例えです。一方で「自分の家は絶対に自分で作るべきだ」と強く思いすぎると割を食うとも付け加えています。
なんか訓練を損得で考えないでできるようになると得するかもね、逆にね、これからはね。
青木さんが挙げたのは書道の例です。昔の書道は、武士が高い地位に就くための資格のような役割でしたが、今は情緒的な価値に変わってきています。自分の頭で考えて長い文章を書けることも、同じように趣味としての訓練になっていくかもしれないと青木さんは話します。
書道や文章力は、地位や仕事に就くための資格の一つ
できること自体が「かっこいい」「豊か」と感じられる趣味としての訓練
今井さんは、給料が上がるか、難しい会社に入れるかはわからないとしつつ、お便りの主の向き合い方は人間としてとても豊かな方向に向かっていると話します。青木さんも、得をするかはわからないが幸せにはなるのではないかと締めくくりました。
まとめ
大学のレポートをAIに任せることへのモヤモヤから、二人は「何のためにやっているのか」に立ち返る視点を示しました。楽をするためのAI利用も、変化を避けるためのAI拒否も、どちらも別の機会を失う「楽」になりうるという整理が、この回の核になっています。
- 「学習のためにAIを使うな」は、もはや現実的でないかもしれない
- AIは楽をする道具にも、一人では届かない高みに届く道具にもなる
- 考えないためにAIを使うと、AIへのディレクションもできなくなる
- 頑なに変化を避けることも、実は楽をしているのと同じ
- AIを使わない思考は、そろばんや書道のような「趣味としての訓練」になりうる





