「50歳で辞める」と決めた経営者の転機とは?
この回のゲストは、介護・医療の情報サービスを手がけるエス・エム・エスを創業し、現在はREAPRAの代表を務める諸藤周平さんです。MCの高木新平さんは、連絡を取った際に諸藤さんが「人生の転機」だと話したことから、収録に招いたといいます。
諸藤さんの説明によると、REAPRA ── Research and Practiceを略した社名。諸藤さんがシンガポールで創業し、東南アジアと日本で創業期の起業家への投資とハンズオン支援を行っていますは「研究実践者」を意味します。生活を良くする経済の塊を「産業」と定義し、新しい産業を作ることを研究・実践するのが会社のミッションです。
REAPRAは約10年の歴史のなかで、何度も形を変えてきました。シンガポールでの最初の3年ほどはアジアを知りながら試行錯誤し、その後4年ほどで投資先や仲間とのカルチャーを作り直したといいます。
REAPRAの仕事について、諸藤さんは「これから新しい産業を作る研究実践ができそうで、めっちゃワクワクしている」と話します。それでも諸藤さんは50歳で辞めると決めていて、次に何をするかに見えていない部分がある。これが諸藤さんの言う転機でした。
もう50で辞めるって決めてるので、今新しいことをどういうふうにしていこうかなということで、大方見えてきたんですけど、いくつかまだ見えてないこともあって。
高木さんがまず尋ねたのは、エス・エム・エスを上場させ、業績が伸び続けていた中で約11年で辞めた理由です。REAPRAも50歳で辞めると聞いて、高木さんは「またか」と感じたといいます。
8歳まで続いた「今を生きる」時間と、9歳から始まった将来への不安
諸藤さんはエス・エム・エスを辞めた理由に直接は答えず、幼少期から話し始めました。8歳ごろまでの諸藤さんには、怖いものがなく、未知のものがあれば冒険が許され、怖くなれば帰れるベースがあったといいます。
諸藤さんにとってのベースは、家族や、同じ年頃の子どもが多い団地でした。仲間外れにされることも、家の前の車が危ないこともない環境が、ほかの人より長く続いていたと振り返ります。
(8歳までは)時間の概念がほとんどなかったなっていうふうに思ってて。なぜならば、昨日も今日も明日も楽しいので。
諸藤さんの子ども時代が変わったのは9歳ごろです。兄は勉強ができ、弟は勉強しなくても頭がいい。そのなかで諸藤さんだけがADHD ── 注意欠如・多動症。不注意や多動性、衝動性などの特性がある発達障害の一つ。諸藤さんの子ども時代には、診断がまだ一般的ではありませんでしたのため成績が極端に悪く、小学3年生で問題が表に出ました。
心配した母親は、勉強ができないと工場労働者やシフトワーカーになり、定年まで欠品を拾うだけの人生になると繰り返し伝えたといいます。子どもに将来の選択肢を持たせたいという、強い愛情からの言葉でした。
母親の言葉を、諸藤さんは「新興宗教アルマゲドン」と表現します。今は楽しいけれど、成人するころには未来の社会から「キックアウト」されるらしい、という予言です。そのなかで唯一の救いが、学歴がなくても事業で成功した親戚のおじさんの存在でした。
大企業の倒産を見て選んだ「一か八か」の起業
大学に入った諸藤さんがまず目指したのは、サラリーマンでした。条件は「給料が良くて、サボってもクビにならなそうな会社」。家業を継がずに福利厚生のいい会社に入った父親の教えだったといいます。
ところが大学時代に大企業が1、2社倒産するのを見て、諸藤さんは「もう全部潰れる」と過剰に反応しました。8歳から数十年先の不幸を想像し続けてきた諸藤さんには、大企業に入っても逃げ切れない未来しか見えなかったのです。
大学入って大企業が潰れるのを見て、自分は幸せになれないと思った時に、あ、もう幸せになる権利はとことんないんだと思ったんですね。
自暴自棄になった諸藤さんは、それなら一発当てて起業し、ハワイに移住しようと考えます。とはいえ成功するとは思っておらず、35歳までの目標を3つのシナリオに分けていました。
| シナリオ | 中身 | 諸藤さんの見立て |
|---|---|---|
| ベスト | 間違って3億円になったらハワイへ移住 | 多分できない |
| セカンドベスト | 5000万円を貯めて山中湖でペンション経営 | それ以外は欲しがらずに生きる |
| デフォルト | 倒産し、中小企業で給料が下がり親会社にいじめられる | 大企業に行くのと精神的には大差ない |
題材に選んだのは、急速に進む高齢化に関わる情報提供でした。具体的には、まだ誰もやっていない老人ホームのマッチングです。社会人を2年経験したあとに起業すると、売上が1円も立っていない段階で、諸藤さんは強い幸せを感じたといいます。
昨日よりも今日、今日よりも明日、ちょっと道が開けると思い込めてたら幸せって感じちゃうのかなと思って。
起業の興奮はパチンコ中毒と同じだった?
エス・エム・エスはその後大きく成長し、時価総額は数千億円規模になります。高木さんは、不安の末にようやく見つけた楽しい道を、なぜ11年で手放せたのかと改めて尋ねました。
諸藤さんによると、起業してすぐに、サラリーマンの生涯賃金と同じ「3億円」という目標よりも、事業を作るプロセスのほうが楽しくなっていました。一方で、その幸せが将来まで続く保証はないという不安も、ずっと消えなかったといいます。
諸藤さんの見立てでは、多くの会社は楽しい時期を過ぎるとビジネスモデルの壁にぶつかり、ジリ貧になって社員の突き上げを受けます。そうして「祭りの後」のように元に戻ってしまうのではないか、と諸藤さんは考えていました。
さらに諸藤さんは、起業しているときの脳の状態が、大学時代にパチンコにのめり込んでいたときと同じだと気づきます。当時の諸藤さんは、パチンコ店がどう利益を上げているかを逆算してシミュレーションを立て、その構造を作ることに興奮していました。
店の仕組みを逆算し、超過収益を得る方法を数字で組み立てることに興奮。気づくと大学ではなくパチンコ店に足が向いていた
伸びる市場で生き延びる方法を数字で組み立てる感覚は同じ。違うのは、それが「いいこと」と評価される点だった
これパチンコやってる時と同じなのに、いいことやってるっていうのはすごいことだなと思って。
諸藤さんは、伸びる産業に夢中な人が入ると先端で勝ち続け、尊敬されるようになる構造が見えたといいます。自分はその構造の中で役を演じる「まあまあなピエロ」だと感じたそうです。
続ければ「ただのロボット」になるかもしれない。一方で、続けられない環境が来るかもしれない。辞めたくない気持ちが強かったからこそ、諸藤さんは26歳のころ、もともと決めていた35歳での退任を守ることにしました。辞めると決めて仕組みで経営を回すようにしたら、会社はさらに伸びたといいます。
退任の葛藤と、インパクト思考が鬱につながる理由
辞めると決めても、次にやることは決まっていません。葛藤はなかったのかという高木さんの問いに、諸藤さんは「めちゃめちゃあります」と答えました。
急に元の視座の低い自分が出てくる感じで。
エス・エム・エスで味わえる楽しみを手放して、何もなかったらどうするのか。諸藤さんはインパクトを追いかけ始めたら鬱になって終わると考え、やりたいことを探す道を選びます。英語が話せず、海外事業もうまくマネージできていなかったので、まず東南アジアに行くことにしました。
言葉やカルチャーを知るのに数年はかかるから、そのあいだは忘れられるだろう、という考えでした。いちばん避けたかったのは、何か理由をつけて会社に戻ることだったといいます。新社長に「海外担当の役員で残ろうか」と持ちかけ、「いりません」と断られたエピソードも語られました。
インパクト思考がなぜ鬱につながるのかについて、諸藤さんは「売れないミュージシャン」にたとえます。社会に関われていると思い込めるうちは幸せでも、その場所がなくなれば苦しくなるからです。
諸藤さんにとって幸せとは、将来も伸びそうな領域で、ゼロからビジネスを作って試行錯誤することでした。それに時間軸を加えると、事業は大きくならざるを得ません。前の会社以上にそれに当てはまる題材は見つからず、諸藤さんは悩んでいたといいます。
「株式会社で大きくすることが社会を良くする」という宗教
諸藤さんは35、36歳でシンガポールに渡り、40歳過ぎに福岡へ戻りました。諸藤さんによると、福岡に戻るまで、自分がある「宗教」に入っていたことに気づいていなかったといいます。
「株式会社教」に入っていた当時の諸藤さんにとって、アーティスト活動や政治、ボランティアは「サプリメント」のような補助的なものでした。8歳までは入っていなかったこの宗教に、諸藤さんは生き延びるために入っていったと語ります。
REAPRAを始めたのも、まだこの宗教の中にいた時期です。辞めてからの半年は不安定でしたが、アジアには日本以上の複雑さと成長があると気づきます。一方で、伸びるポジションはソフトバンクやアリババにつながるベンチャーか、政府・軍・銀行・不動産と組んだ企業グループにしかないようにも見えました。
そこで諸藤さんが考えたのが、伸びそうな産業に、若く志のある人が長期で取り組めば一定の確率で成功する、という仮説でした。エス・エム・エス時代に学んだ海外の経営メソッドが「静的でバックテストのよう」に見えていたこともあり、ゼロから産業を作ることを起業家と一緒に学ぶ場を作ろうと考えたのです。
これで結果が出なくて、ほとんどお金とかなくなっても全然幸せだなと思ったんで、やりたいことが見つかったっていう風に36の時に思って。
再現しなかった投資モデルと、学び続ける起業家の共通点
高木さんは、REAPRAの投資には再現性が見つかったので、諸藤さんは飽きたのだろうと思っていました。しかし実際には、若く優秀な起業家に多くの資金を長期で出すモデルは「全然うまくいかなかった」と諸藤さんは明かします。
いやもう全然見つかるか、再現しないことが見つかったっていう。
志があったはずの若く優秀な起業家の多くは、学びが止まるか、辞めるか、これまでの学びに固執していきました。一方で、学び続ける少数の起業家には共通点がありました。複雑な社会課題に長く取り組む人は、それをやること以上に生きがいを見出せない人だった、というのです。
例として諸藤さんが挙げたのは、答えのある世界で勝ち続け、外資系投資銀行やマッキンゼーでパートナーになった人たちです。こうした人ほど、答えのない環境ではうまくいっているかを確認できずにパニックになり、辞めていったといいます。
諸藤さんたちは、続ける人の条件を熟達研究やトラウマセラピーなど複数の方向から調べました。たどり着いたのは、「時間の概念を伴った執着心」とテーマが合っていて、迷ったら分析より先に行動する気質を持つ人に投資する、というモデルです。
当初の仮説
伸びる産業で、若く優秀な人に長期で資金を出せば成功する
検証の結果
多くの起業家が学びを止め、辞めていった。再現しないことがわかった
共通点の発見
学び続ける人は、そのテーマ以外に生きがいを見出せない人だった
現在のモデル
数十年を含んだ執着心と、先に行動する気質を持つ人に投資する
アカデミアの熟達研究は、スポーツなど勝ち負けがはっきりした領域に限られていました。株式会社にちょうどいい研究がなかったため、REAPRAは4、5年目に「社会と共に作る熟達」という考え方を中心に据えたといいます。
福岡で気づいた「超長期」の正体
高木さんは、諸藤さんがなぜそこまで熟達にこだわるのかを尋ねました。株式会社教の中にいたころの諸藤さんは、短期で伸びる会社には早く潰れてほしいと思い、会社以外の活動を「意味がない」と見ていたといいます。
変化のきっかけは、40歳過ぎに福岡へ戻ったことでした。諸藤さんは、幸せと資本主義の発展の関係は誰も証明していないと気づき、なぜ田舎のほうが幸せそうなのかと考え始めます。そこから宮司や政治家、街の人たちに会いに行くと、株式会社がむしろ軽蔑されていることを知りました。
決定的だったのは時間軸の違いです。「50年先のことを考えろ」と言われて育つ宮司から見れば、5年先を「超長期」と呼ぶ株式会社の感覚は短すぎました。
自分が超長期って思ってたのは、具体的には20年から50年っていう、ある特定のとこがめっちゃ気になってるってことに気づいてて。
諸藤さんが20〜50年先に強くこだわっていた理由は、8歳ごろから「成人後の残りの人生が幸せではないかもしれない」と不安に思い続けてきたことにありました。エス・エム・エス時代に「100年」を語っていたのに、本当は100年先など気にしていなかった。諸藤さんはその自分を「めちゃくちゃ痛い人」だったと振り返ります。
20〜50年を「超長期」と信じ、株式会社で大きくすることが社会を良くすると考えていた。それ以外の生き方を受け入れていなかった
20〜50年へのこだわりは生い立ちから来た気質にすぎないと気づき、多様な生き方が許される社会であってほしいと考えるようになった
9世代先の社会を見据える財団(運送財団)にも関わりましたが、9世代先には興味もノウハウも持てなかったといいます。ともに取り組んだ石川善樹 ── 予防医学研究者。ウェルビーイング(心身と社会的な良好さ)の研究で知られ、企業や自治体のプロジェクトにも多く関わっていますさんから「諸藤はお金だけでいいよ」と言われ、諸藤さんは「確かにその通り」と受け止めたそうです。
日本の地理と気質から見直した株式会社とREAPRAの役割
高木さんは、8歳までの「狭い庭で自由」だった感覚と、20〜50年に絞った視野は似ているのではないかと指摘します。視野が狭かったからこそ、株式会社で複雑な課題に取り組み、新しい市場をつかめたとも言えるからです。
諸藤さんは、人が育つ「半径8メートル」の環境によって気質は大きく変わると考えています。そこから、山と小さな平野と海に囲まれ、調和せざるを得なかった日本の地理や、国を追われながらアイデンティティを守ってきた人々の覚悟の違いまで、話を広げていきました。
福岡近郊のベッドタウンで育ち、成績が悪かった自分のエネルギーは「大したことない」。そう認めたうえで、諸藤さんは自分たちの特徴を生かせる領域を考えるようになります。
諸藤さんがたどり着いたのは、特定の領域では世代をまたぐ時間軸で事業を見たほうが、事業にも社会にもいいという考えです。そうした時間軸をとれば、人と自然の豊かさを企業価値や会計に組み込む必要が出てきます。日本や東アジアから、その考え方を一部でも示せるのではないか、というのです。
世代をまたぐような社会課題をゼロから作るメソッドのグローバルのパイオニアになるっていうのを、アジアから始めてやっていこうっていうのがビジョンになってる。
諸藤さんによると、以前との違いは「それが神聖だと思い込んでいたかどうか」です。今の諸藤さんはREAPRAの取り組みを「ただのわがまま」と位置づけ、いいか悪いかはわからないけれどやりたいからやる、と話しています。
なぜ再び辞めるのか?流域から釣りへ
高木さんは、経営者個人の根っこの価値観こそがブランドのコアになると考えています。そのうえで、ここからさらに掘り下げたいテーマを諸藤さんに尋ねました。
諸藤さんの悩みは、エス・エム・エスのときと同じ構造でした。REAPRAは楽しいので続けたい。けれど、自分がいると、自律分散型ではなく中央集権的な組織を作ってしまうといいます。
自分としてはそうしたくないって思ってるつもりでも、結局先を見るのに自分で統合したいってなっちゃうから。
2、3年前にも1年前にも改めて確認し、それでも諸藤さんは、自分が残るのはREAPRAにとって良くないと判断しました。そこで、続けることより楽しいテーマを探し始めます。最初に考えたのは、川や山からの水の流れを単位にして、生態系と経済のバランスを取る「流域」の事業でした。
しかし、ベッドタウン育ちの諸藤さんには、流域を壊された怒りのような原体験がありません。住民の間で分断を起こしてまで割って入る権利も度胸もないと感じ、流域のテーマは見送ったといいます。
代わりに浮かんだのが、5歳から続けてきた釣りでした。エス・エム・エス上場後、千葉県いすみ市の漁港に中古の家を買い、週末に釣りをしていた日々を、諸藤さんは「めっちゃ幸せ」だったと語ります。今も子どもと毎週釣りに行っているそうです。
そこで考えたのが、人と魚と自然の共生をテーマにしたライフスタイルの会社です。パタゴニア ── アウトドア用品メーカー。サーフィンや登山のカルチャーと環境保護の活動を結びつけたブランドとして知られていますのように事業で稼ぎ、その利益を研究所などに還流させる構想でした。REAPRAを辞めて、もう一度起業家になるということです。
「次の世代が気になる」という最後の悩み
方向性は見えたものの、諸藤さんには1つだけ悩みがありました。次の世代のことがずっと気になるのに、どう関われば本当に次の世代のためになるのかがわからないのです。
ほとんどの人がみんな気になって必要ないことをしちゃうじゃないですか。教育がおかしいとか、若者にいい機会をあげたいとかって言って、なんか自己満足みたいになるんで。
諸藤さんがそう感じる背景には、自分自身が周りの大人に救われてきたという感覚があります。今の大学生の多くは「社会に出たくない」と話していて、日本は絶望社会に近いとも感じているといいます。
高木さんは、20〜50年の不安はすでに人生のリアルな問題としては終わっているのではないか、と問いかけます。漠然とした不安が残っているから次の世代が気になるのではないか。そこがはっきりしないと、アプローチがふわっとしてしまうと考えたからです。
諸藤さんの答えは、社会とつながっていると感じられることが人の幸せにつながる、という仮説でした。自分は20〜50年先を株式会社で試行錯誤する生き方を選んだ。そのうえで、それ以外に何がしたいかと考えると、いつも子どものことが頭をよぎるといいます。
子どもが社会に接続するのは早すぎる?
高木さんは自身の経験を重ねます。富山の田舎で育った高木さんは、10歳ごろまで競争にさらされない「無双状態」で過ごし、それが自己肯定感をつくったと感じています。
今の若い子は僕は東京で子育てしてるんで、より思うんですけど、社会接続するの早すぎると思うんですよ。
高木さんは、諸藤さんの8歳までの時間も、市場や競争、偏差値とつながっていなかったからこそ、好奇心のままにいられたのではないかと考えます。その環境をどれだけ子どもに残せるかのほうが、いいテーマではないかと提案しました。
諸藤さんは同じ問題意識から、REAPRAより前に活育教育財団を作っていました。ミッションは「いきいきと生きる人を育む」です。一方で、日本では1つのモデル校を作るとエリート校化して広がらないため、公教育を変えるのがいちばん可能性が高いとも考えていました。
ただ、公教育を変えるには、文部科学省など多くの関係者を動かす必要があります。諸藤さんには自分のオーナーシップを持ちにくく、「誰のどこに介入すればいいのかわからない」状態だったといいます。
高木さんは、諸藤さんの8歳までの経験は公教育が支えていたものではない、と指摘します。大学受験から逆算して中学受験、小学校受験へと下りていき、「何者でもない時間」が失われている。教育でそれを変えようとすると、偏差値そのものをなくす話になってしまうからです。
諸藤さんは、子どもには親の影響が大きすぎるとも感じていました。魚の事業でさまざまな年齢層が自然に触れる機会を作ることを「育む」と捉えてきたものの、稼ごうとする事業と子どもを育むことは相反するのではないか、と迷いを打ち明けます。
大人より子どもが得意な場所としての自然
高木さんは、神山まるごと高専 ── 徳島県神山町に開校した私立の高等専門学校。テクノロジーやデザインと起業家精神を学ぶ学校として知られていますに講師として呼ばれた経験を話します。先生と生徒という関係になると、どうしても経験を渡そうとして、教える・教えられる構図になってしまったそうです。
やっぱすぐ大人のフィールドにしちゃうと思うんですよ。プログラムを作るって、多分そういうことになっちゃう気がしやすくて。
高木さんが勧めるのは、子どものほうが得意なことをする場です。狭い場所での鬼ごっこや森でのかくれんぼでは、大人は体が大きく、汚れも気にするので、むしろ子どもに負けます。自然の中で大人と子どもが一緒に過ごす時間には、何の授業かは説明できなくても意味がありそうだといいます。
高木さんは、Yahoo!の社長だった川邊さんから聞いた話も紹介します。外遊びは子どもの頃にやっていないと大人になってからできない、というものです。スキーのように、子どもの頃に覚えたことは大人になってからでは身につきにくいと高木さんも感じています。
諸藤さんは、山登りをさせるのではなく、基地を作る中で複雑な地形を足で感じ、役割分担を通じて社会性を身につける経験が大事だと応じました。答えが誰かから降ってこない環境が、自分の気質には合っていたといいます。
そういう環境を作ろうってなんで思わないんだろう。
ただし、子ども向けの体験を株式会社で提供すると、お金を払える富裕層向けにどんどん寄っていき、格差を広げてしまう。諸藤さんはそう考えていました。
稼ぐ事業と子どもの自然体験を分ける二重構造
諸藤さんの構想は、事業と財団を分けるものです。株式会社では、大人がライフスタイルに時間とお金を使いたい領域をブランド化し、生態系の保全と両立させながら収益を出します。その収益を、株主である財団を通じて子どもの自然体験に回すという考えです。
株式会社
大人向けに人・魚・自然の共生をテーマにしたライフスタイル事業を展開し、収益を出す
株主の財団
事業の収益を受け取る
非営利の活動
自然に触れる機会がない子どもに、魚を通じた体験を届ける
諸藤さんは、多様な価値観が育つ途中にある子どもから収益を取るのは、株式会社ではかなり危険だと考えています。そのため、子ども向けの活動は非営利で行うほうが相性がいいと判断したといいます。
ここで高木さんが紹介したのが、東京・世田谷区のプレイパーク ── 「自分の責任で自由に遊ぶ」を掲げる冒険遊び場。世田谷区の取り組みが日本での先駆けとされ、住民が運営に関わっていますです。公園の一角にノコギリや木材が置かれ、子どもたちが遊び道具を作ったり、焚き火をしたりしているそうです。
プレイパークは、地域の住民が始めた活動がNPOになり、区内のいくつかの大きな公園に入っているといいます。理念は、子どもは本当は危ないことをしたい、リスクを取りたい、というものです。安全な遊具しかなく遊び方も決められた公園とは対照的に、プレイリーダーは「何とかしなさい」とは言わず、やり方を教えるだけだそうです。
高木さんは、公園の池で魚に触れられるような場所があれば、地価が上がり、お金を払っても住みたい人が増えるのではないかとも考えます。マンション開発と開かれた公共の場をセットにする案です。
諸藤さんは、地元に「開放してあげる」と考えていた自分に気づきます。本当にやりたいことと、子どもの機会を「施し」のように扱う姿勢がつながっていなかった、と振り返りました。営利か非営利かを分ける前に、まず自分のエゴとして「そういう地域にする」と決めれば、自分ごととして取り組めそうだといいます。
ルールのない冒険が残した原体験
高木さんは改めて、諸藤さんの冒険の中身を尋ねます。諸藤さんの記憶にあるのは、社会と自然と人がひとつになって回っていた日々です。森で秘密基地を作り、工事現場で釘を盗んで怒られ、クワガタを捕って、夜遅くまで遊んでも怒られなかったといいます。
高木さんにも思い当たる経験がありました。夜中に光るコインランドリーに友達と抜け出してカップヌードルを食べたことや、どぶ川で小銭拾いをしたこと、柿を盗んだことです。怒られながらも、社会の許容度が高かったと高木さんは振り返ります。
諸藤さんは、ルールのない自然とは正反対の環境としてシンガポールを挙げます。人工的なルールが固定された環境で育つと、ルールを破ったことがないので、ルールを作ることもできないというのです。
超人工的なんで、ルールを破ったことがないから作ることもできないんですよ。
諸藤さんがシンガポールで見たのは、答えのあるものを高速で詰め込み、高校生が新興国の貧困問題をエッセイにしてアイビーリーグを目指す光景でした。諸藤さんはそれを「茶番感」と表現します。会社は残したまま、自然があってルールが破れる福岡を、子育ての場所に選んだといいます。
ルールが固定され、答えのあるものを高速で詰め込む。ルールを破れないので作ることもできない
自然があり、ルールを破れる。だからこそ、自分でルールを作る経験ができる
高木さんも、ルールを破ったり自分で作ったりして許された経験が、自由に生きられるという感覚につながったと話します。見立てで用途は変えられると子どもの頃に知ったことが、自分なりの世界を作る力になった、と高木さんは考えています。
スポーツの語源と、勝ち負けのない釣りの複雑さ
諸藤さんは、ルールのある競技で地方を再生する試みにも意味はあると認めます。それでも諸藤さん自身は、勝ち負けの代理戦争という構造がちらついてしまうといいます。一方で、自然全体を相手にすると気候変動のように話が大きくなり、原理主義に陥りやすいとも感じています。
魚まで絞れば、生態系にも商売にも競技にも広がり、しかも再現性がほとんどない。なぜ釣れる日と釣れない日があるのか、藻場がなくなるとなぜ魚が減るのか。勝ち負けでは決まらない複雑さがあるからこそ、パターン認識では勝てない自分の気質に合っていると諸藤さんは話します。
これを受けて高木さんは、元サッカー日本代表監督の岡田武史 ── サッカー日本代表の監督を2度務めた指導者。その後、愛媛県のFC今治のオーナーとしてクラブ運営に携わっていますさんから聞いたスポーツの語源の話を紹介しました。
18世紀ごろのイギリス
陸地にはヒエラルキーがあり、中流階級はそこから抜け出せない
海に出る船乗り
天気予報のない時代に、命の危険を冒してリスクを取る
ヒエラルキーの外へ
決められたルールの外に出る解放感と自由。これが「スポーツ」の本質
岡田さんは、ヨーロッパの選手がボールを持った瞬間にシュートから考えるのは、この喜びを本質的に理解しているからだと話していたそうです。高木さんは、小さくリスクを取って自由を自分で作る経験が、パターンの外に出る唯一の方法なのではないかと考えます。
諸藤さんは、八百万の神のように、自然は恵みにも脅威にもなるという東洋的な感覚を挙げます。心理的安全性が確保されるとプロセスにこだわれるという特性を生かせば、勝ち負けのない余暇を通じて人生とつながるライフスタイルを作れるのではないか、と整理しました。
水辺という冒険のフィールドと、立ち上がったビジョン
富山の海沿いで育った高木さんは、ルールで固められた学校や家から物理的に出られる場所として、釣りに価値を感じています。諸藤さんも、水は危険だからこそこれまで教育とセットになってこなかったと話します。必要な安全管理を徹底したうえで、そこに可能性があると考えています。
教育現場は管理が進み、ひとつの事故で保護者や社会から何を言われるかわからないので、余白を持つのが難しい。公園も街も許容度が下がっている。高木さんは、そう指摘したうえで、島国の日本にはどこにでもある水辺こそ、冒険のフィールドになりうると話しました。
話は「20〜50年」の時間軸から、8歳までの冒険経験をどう多くの子どもに残せるか、という問いへと移っていきました。高木さんも最近は子どもと釣りをしていると聞き、諸藤さんは「釣り学校の校長をやってください」と誘います。
諸藤さんは、水質保全や生態系のルール作りといった高尚なテーマばかり考えていたと振り返ります。子どものことが気になるのは、自分がそのときいちばん楽しかったからだと言い換えられる。諸藤さんはそう気づいたといいます。
高木さんは、諸藤さんが介護や高齢者の領域で培ってきた「思いを経済や社会と接続させる力」を、水辺の領域でも生かせると期待を寄せます。諸藤さんの釣りは、冒険のフィールドとしての釣りという新しい意味を持ち始めました。
冒険のフィールドとしての釣りなんですね。スポーツであり。
まとめ
諸藤周平さんは、9歳から抱えた将来への不安を原動力にエス・エム・エスとREAPRAを築き、やがて「株式会社教」と「20〜50年」へのこだわりが自分の気質にすぎないと気づきました。50歳で退任したあとに取り組む釣りの事業は、高木新平さんとの対話を通じて、子どもがルールの外で冒険できるフィールドを作るというビジョンにつながっていきました。
- 起業の興奮はパチンコ中毒と同じ感覚だったと気づき、続けるほど危ういと考えてエス・エム・エスを約11年で退任した
- REAPRAの投資では、長期で学び続けるのは、時間軸を伴った執着心がテーマと合っている人だとわかった
- 「超長期」だと思っていた20〜50年は、8歳から抱えた不安に由来する気質だったと福岡で気づいた
- 稼ぐ事業と子どもの自然体験を分ける二重構造で、人と魚と自然の共生に取り組む構想を描いている
- 子どもが大人より得意な水辺は、ルールの外に出る冒険の場、つまり語源どおりの「スポーツ」の場になりうる






