「頑張らなくていい」は自分を諦めることなのか?
第263夜のお便りは、ラジオネーム迷子鴨さんからです。58歳になり、頑張ってもどうにもならないことが増えたと感じているという相談が読み上げられました。
最近、頑張らなくていいとか手放してみるという言葉が目に耳に入ってきます。なぜかといえば、58歳にして頑張ってもどうにもならないことがあると実感することが多くなったから。体力も思考や記憶力も処理能力も回復力も、と挙げたらキリがありません。
頑張ることや諦めないことを前提に生きてきた、と自覚しています。そして、幸運にも概ねどうにかなってきたのだと思います(ただラッキーだったのかもしれないけれど)。
いっそ頑張らなくていいというのはなんと楽じゃないかと思う一方で、自分を諦めることでもあり、すんなりとはいかない。頑張らないの加減がわからない。決して大した人間でもないのに、こんな今の私に何かストンと心に落ちる本はないでしょうか。
バタやんはまず、迷子鴨さんがこれまで頑張ってきた積み重ねこそが今の暮らしをつくってきたはずだと受け止めます。決してラッキーだっただけではない、というのがバタやんの見立てです。
そのうえでバタやんは、「頑張らなくていい」という言葉が自分を諦めるように聞こえてしまう戸惑いはよくわかると話します。ずっと走り続けてきた人ほど、急に減速を求められることに抵抗を感じるからです。
これまでずっと一生懸命走り続けて、辛くても歩みを止めずに走り続けてきたのに、急に「ここからはい、歩いてください」って言われても、どうやってスピードを落とせばいいのか。
あるいは「じゃあここからどうぞカートに乗ってください」とかって言われても、ちょっとなんかショックですよね。
LAからニューヨークへ向かうはずが、30分で安モーテルへ
このお便りに対してバタやんが選んだ勝手に貸出カードは、ミランダ・ジュライ ── アメリカの作家・映画監督・アーティスト。映画『君とボクの虹色の世界』の監督や短編集『いちばんここに似合う人』などで知られますさん著、岸本佐知子 ── 英米文学の翻訳家・エッセイスト。ミランダ・ジュライ作品の翻訳を数多く手がけ、独特のユーモアあるエッセイでも人気がありますさん訳の小説『はいつくばって』です。
『はいつくばって』の主人公は、アーティストとしてそれなりに成功している45歳の女性です。ハンサムな夫とかわいい子どもと、LAのすっきりと洒落た家で暮らしています。
主人公が過去に書いたフレーズがウイスキーブランドの広告コピーに使われることになり、思いがけず2万ドルの広告料が入ります。バタやんによれば、日本円で300万円ちょっとの、なかなかの金額です。
主人公は45歳の誕生日の記念に、新たな自分に出会うため、LAからニューヨークまで一人でドライブ旅行をする計画を立てます。ところが出発してわずか30分ほどで近所の安モーテルに立ち寄り、そのまま居座ってしまいます。
物語の流れを、バタやんの紹介に沿って整理すると次のようになります。
思わぬ収入
広告コピーの使用料として2万ドルを受け取る
旅の計画
45歳の記念に、LAからニューヨークまで一人で車で横断しようと決める
30分で停車
出発から30分ほどで近所の安モーテルに入り、居座る
出会いと改装
ガソリンスタンドで働くダンサー志望の若い男性と出会い、2万ドルで部屋を改装する
主人公は、モーテルの近くのガソリンスタンドで働くダンサー志望の若い男性と出会い、奇妙な交流を始めます。さらに、2万ドルを丸々使って借りた部屋を豪華に改装することを思いつきます。
バタやんは、高速で30分という距離を東京に置き換えて、箱根や熱海よりずっと手前の「川崎あたりで降りて安ホテルに入っちゃった感じ」とたとえています。
アメリカの女性たちが「ウィスパーネットワーク」で語り合う小説
バタやんによると、『はいつくばって』は日本語訳が2026年8月に新潮社から刊行されたばかりです。先に刊行されたアメリカでは全米図書賞のファイナリストにも選ばれ、「全ての女性のグループチャットで話題になっている」と評されているそうです。
45歳の女性が主人公であることから、『はいつくばって』は同世代や中年以上の女性たちに熱狂的な支持を集めています。その広がり方を指す言葉として、バタやんはウィスパーネットワークという言葉を紹介します。
ウィスパーネットワークとは、女性たちが公式の場では口にしにくい本音を、親しい友人同士やネット上のクローズドな場で密かに共有する情報ネットワークのことです。更年期、夫婦の問題、身体的なタブーなどが話題になります。
バタやんの説明では、ウィスパーネットワークはもともと、ハラスメントを行う危険な人物の情報や性被害の話を共有するMeToo ── 2017年頃から広がった、性暴力やセクハラの被害をSNSなどで告発・共有する運動。「#MeToo」のハッシュタグで世界的に知られるようになりましたの文脈で顕在化したものだそうです。
アメリカの書評では、『はいつくばって』をきっかけに、母や妻という役割からの逃れ方、閉経などの体の変化への葛藤、夫婦のセックスレス、家庭から逃避したい欲求などを、女性同士がLINEグループのような場でつぶやき合う現象まで起きていると評されています。
バタやんは、日本でいえばジェーン・スー ── コラムニスト・ラジオパーソナリティ。中年女性の本音を語るポッドキャスト「OVER THE SUN」を堀井美香さんと配信し、熱心なリスナーを集めていますさんたちの「オーバー・ザ・サン」への熱狂に近いのかもしれない、と話しています。
「苦手かも」の予想を覆した、最高の書き出し
バタやんは、ウィスパーネットワークのような前情報から入ったため、『はいつくばって』は自分には苦手な部類の小説かもしれないと思っていたそうです。年齢的にはドンピシャで気になってはいたものの、かっこつけで買って積読になる可能性も考えていました。
正直、ミランダ・ジュライを読む私、岸本佐知子界隈の私っていう、ファッション読書というか、かっこつけ的に買っただけに終わる(かもしれないと思ってた)。
ところが『はいつくばって』は、読み始めてすぐにバタやんの予想を覆します。決め手は冒頭の一文でした。
小説は、「お騒がせしてすみませんが」と始まるメモ書きの描写から始まります。主人公はそれを「最高の書き出しだ」と評し、こんなメモでお騒がせされるのを生まれてからずっと待っていた、と語ります。
「お騒がせされるのを生まれてからずっと待っていた」という主人公らしき人はやばそうですよね。やばいタイプだなと思って。これで一瞬で心を掴まれました。
メモの中身は、隣人からの親切な忠告でした。通りの向こうに停めた車から、主人公の家を盗撮か覗き見している人がいるらしい、ナンバーも控えてある、という内容です。バタやんは、この伏線がどうなるかはいったん忘れて読み進めてほしいと話しています。
若い男と「やれるのか、やれないのか」で頭がいっぱいの45歳
『はいつくばって』の表紙には、崖っぷちに立つミドルエイジ女性の絵が描かれています。バタやんによれば、その崖っぷちとは、女性ホルモンの急降下や体力・見た目の衰え、そしてアイデンティティの喪失といった切実な問題です。
ミドルエイジ女性の切実さを生々しく描いた作品は他にもあるはずだ、とバタやんは言います。そのうえで『はいつくばって』が特異なのは、主人公が若い男性と「やれるのかやれないのか」で頭がいっぱいになっている様子が、ほぼ延々と書かれている点だそうです。
バタやんは、若いダンサーとの関係がどうなるのか、夫との関係はどうなるのかというメインストーリーにも触れつつ、別の部分に強く惹かれたと続けます。
キングオブ無駄遣い、借りた部屋のリノベーションに込められた欲求
バタやんが『はいつくばって』で何とも言えない魅力を感じたのは、借りているだけのモーテルの部屋を改装してしまうという主人公の暴挙でした。2万ドルは労働の対価ではなく、ラッキーで転がり込んだあぶく銭です。
あぶく銭をパッと使ってしまいたいという気持ちには、バタやんも共感できるといいます。ただ、ありがちな使い道は高級なワインやシャンパンでの飲み食い、ブランド品やジュエリーの購入あたりです。
思いつきもしなかった無駄遣い、キングオブ無駄遣いが、自分の家でもないホテルの部屋を勝手にリノベして家具を入れ替えるっていう、最高に無駄なお金の使い方ですよね。
ただし、モーテルの改装には大事な背景があります。主人公のLAの家は、家具もインテリアも夫のセンスで洗練・統一されていて、主人公が自分で選んだのは「10本のスプーンだけ」という記述があるそうです。
一方で、主人公がモーテル321号室のために選ぶのは、デコラティブな花柄のカーテンやリネン、アンティークの家具、カラフルなタイルなど、さまざまなテイストを混ぜたスタイルです。
夫のセンスで統一されたスタイリッシュな空間。主人公が選んだのは10本のスプーンだけ
花柄、アンティーク家具、カラフルなタイルなど、テイストも時代もミックスした空間
バタやんは、こうしたカラフルでミックスされたビジュアルこそ、主人公が本当は好んでいたものかもしれないと読みます。若い男とやりたい、女として見られたいという欲求は顕在化していますが、部屋の改装はやってみて初めて気づいた欲求なのではないか、という解釈です。
自分だけの独立した聖域を作りたいっていうね。
バタやんは『はいつくばって』を「おばさんロードムービー冒険小説」と呼びつつ、30分しか移動していないのがおかしいところだと笑います。夫にはニューヨークへ向かっていると嘘をつき続けるので、シークレット大冒険の物語でもあるそうです。
「40代で人生のすべてを売っちゃって」という先輩女性の忠告
番組恒例の神フレーズとして、バタやんは『はいつくばって』の次のセリフを読み上げます。
「とにかくやり過ごすこと。40代で人生のすべてを売っちゃって、ある日気づくと生理もなくパートナーもなく、残るのはただ後悔だけっていう女を、女はいくらでもいるの」というセリフです。
このセリフが出てくるのは、改装されて人気の部屋になったモーテル321号室を主人公が再び借り、女性だらけのパーティーで先輩たちの意見を聞く場面だったと、バタやんは記憶しています。
バタやんの読みでは、「人生のすべてを売っちゃって」とは、焦燥感から急に方向転換したり、離婚したり、これまでの人生を否定したりする大胆な行動のことです。そうした行動の結果、後悔だけが残った人を大勢見てきた先輩からのアドバイスだといいます。
世の中には「何歳からでも遅くない」「一度きりの人生だから」と発破をかける自己啓発本や小説があふれています。それに対して『はいつくばって』の主人公は、ずっとジタバタしているだけで、最終的に大した行動は起こしていないとバタやんは読みました。
モーテルの部屋を改装しても、主人公の人生は変わらず、残るものもなく、お金を使っただけです。それでも主人公は、これまでの自分や生活、家族を完全には否定していません。
夫のセンスの家で暮らし、自分で選んだものは10本のスプーンだけ
人生を壊してはいないが、無駄遣いと冒険を経て確実に何かが変わっている
ビフォーアフターでいうと、もちろんすごく確実に変わっていると思いますし、そのくらいの脱線、冒険、無駄遣いがあっていいよねっていうことを思った。
あなたは「運転派」か「駐車派」か
バタやんがもう1つ印象に残ったと話すのが、『はいつくばって』の冒頭近くに出てくる「運転派か駐車派か」という会話です。これは主人公の夫による人のタイプ分けです。
安定志向。止めづらいスペースにきっちり駐車できたことを称賛してほしいタイプ
刺激追求型。褒められるかより、自分でハンドルを握って小さな楽しみを見つけることに喜びを見出すタイプ
作中では、夫と妻がそれぞれ自分はどちらのタイプかを議論する会話が、最初のほうに少しだけ出てきます。バタやんも読みながら、自分はどちらだろうと考えたそうです。
バタやんは、自分は奔放なドライバータイプだと思っている人が、実はきっちりやったことを褒めてほしい駐車派だった、ということもあり得ると話します。逆に、運転派の人が年を取って駐車派に変わることもあるかもしれません。
「自分の人生の楽しみを自家発電し続けるのは辛いな」って年を取って駐車派に変わることもあるかもしれなくて。
バタやんの見立てでは、『はいつくばって』の夫と主人公の印象は、物語の途中で入れ替わっているのではないかとのことです。
頑張るか、頑張らないか。その間にある「脱線」という横線
バタやんは、『はいつくばって』の主人公たちは経済的にも人間関係的にも恵まれていて、上流階級のファンタジーといえばファンタジーだと認めます。そのうえで、寓話っぽさやおばさんのラブコメ少年漫画っぽさも含めて、とても楽しい小説だと話します。
だからこそバタやんは、更年期やミドルエイジクライシス、フェミニズムといった謳い文句に引っ張られすぎず、完全なエンターテインメントとして読んでほしいと勧めます。説教臭い話ではないので、男性にも若い人にも楽しんでほしいそうです。
毎年恒例のベストブック選びを控えた10月の時点で、バタやんは『はいつくばって』を間違いなく今年のベストブック入りする一冊だと話しています。
迷子鴨さんへの答えとして、バタやんは、主人公より少し年上の迷子鴨さんにとってジタバタゾーンは過去の笑い話か、羨ましいと感じるものかもしれないと前置きします。それでも、予測不能な脱線はまだ起こり得るし、脱線して気づく欲求もあるかもしれないと続けます。
『はいつくばって』でいえば、無駄なものにお金と時間を使うことや新たな自由を得ることが、その脱線にあたります。バタやんは、小さくてもいいので愛おしい脱線を見つけるきっかけになれば、という思いでこの本を選んだと締めくくりました。
まとめ
「頑張らないの加減がわからない」という58歳のリスナーの悩みに、バタやんはミランダ・ジュライ『はいつくばって』を手渡しました。主人公のジタバタと無駄遣いは人生を大きく変えはしないものの、自分でも気づいていなかった欲求を浮かび上がらせます。頑張るか諦めるかの二択の外に、小さな脱線という道があることを示す回です。
- 『はいつくばって』は、45歳の主人公が2万ドルを手にLAからニューヨークへ向かうはずが、30分先のモーテルに居座る物語
- アメリカでは、女性たちが本音を共有するウィスパーネットワークで熱狂的に語られている
- 借りた部屋のリノベーションという「キングオブ無駄遣い」に、主人公自身の聖域を求める欲求が表れている
- 「運転派か駐車派か」というタイプは、年齢や状況で入れ替わるかもしれないとバタやんは読む
- 頑張るか頑張らないかの二択の他に、あみだくじの横線のような「脱線」という選択肢がある






