アインシュタインは何がすごいのか?
天才科学者と聞いて誰を思い浮かべるか、というレンさんの問いに、エマさんは迷わず「アインシュタイン」と答えます。ただ、アインシュタインの何がすごいのかと聞かれると、エマさんが挙げられたのは「相対性理論のイメージ」くらいでした。
レンさんによると、アインシュタインの仕事は相対性理論だけではありません。原子の発見に深く関わり、意外なところでは冷蔵庫の発明にも関わっていたといいます。
あのベロ出してるさ、ちょっとおちゃめな写真とか思い浮かぶじゃないですか。だからなんか面白天才おじさんなのかなみたいな。
世間のアインシュタイン像は、舌を出した写真に象徴される「ふわっとすごい人」にとどまりがちです。そこで今回は、科学の深掘りよりも、何をした人なのかを簡単に押さえつつ人生を追いかける「人生史」として語られます。
やっぱね、どんな天才でもやっぱ人間なんでね。人生を見ることで見えることあると思って。
レンさんは、アインシュタインについての情報は逸話が多すぎて、真偽の怪しいものや誤解も多かったと話します。たとえば、映画『オッペンハイマー』にも登場したことから「原子爆弾の理論を発見した人」と誤解されることがありますが、実際はそうではないといいます。
しゃべらない少年と方位磁石
アインシュタインはユダヤ人で、1879年にドイツ南部のウルムで生まれました。親は電気機器の製造会社を営んでいたそうです。
幼少期のアインシュタインは、5歳ぐらいまであまりしゃべらず、話し方もとてもゆっくりだったため、知的障害を心配されたとも言われています。内向的で体を動かすのも嫌い、一人で本を読んでいたいタイプだったといいます。
大人になってからも、アインシュタインは服装に無頓着でした。裸足で靴を履いていた、肉を買ったときに「包み紙のほうが立派だったらわびしくない?」と返した、といったエピソードが残っています。1日10時間ほど寝たいロングスリーパーとしても知られています。
まあだからね、ある意味すごい人間的だなーっていうのはあると思うんだよね。
そんなアインシュタインの好奇心の源泉と言われるのが、5歳ぐらいのときに父親からもらった方位磁石です。なぜ針は北を向くのか、という不思議に強く惹かれたといいます。
これはまあもしも子供ができたら、じゃあ5歳の時にあげましょうか。
数学とバイオリンが得意、大学受験には失敗
学校でのアインシュタインは先生とうまくなじめず、単語のスペルミスが多く暗記も苦手で、成績は振るわなかったと言われています。一方で数学と物理は得意で、9歳でピタゴラスの定理を自力で証明し、12歳ぐらいから微分積分に取り組んでいたという逸話もあります。
アインシュタインは音楽も得意でした。母親はピアニストで、本人は6歳からバイオリンを始めて生涯弾き続け、モーツァルトやバッハを好み、のちにはチャリティーコンサートも開いています。
大学は、スイスのチューリッヒ連邦工科大学 ── スイス・チューリッヒにある国立の工科大学。現在のETHチューリッヒで、多くのノーベル賞受賞者を輩出していますを受験しましたが、総合点が足りずに不合格でした。ただ数学と物理の点数は最高ランクだったため、他の科目もきちんと学ぶことを条件に、翌年の入学を認める特別許可が出たそうです。
大学生になったアインシュタインは、講義にあまり出ず、興味のある分野だけを勉強し続けていたといいます。大学の裏の丘で寝てしまい、光の速さで光を追いかける夢を見たことが相対性理論のきっかけになった、という逸話もありますが、レンさんは「真偽はわからん」と断っています。
物理の実験の成績は最低で、化学の実験中に爆発事故を起こして学校中がパニックになったという話もあるそうです。理論が好きなタイプだったようで、レンさん自身も研究室で火を出しかけた経験を明かし、二人で「あるある」と笑い合います。
下宿先の恋、同級生ミレバとの出会い
大学時代のアインシュタインは、教師の家に住まわせてもらっていたそうで、その家の娘で1歳年上のマリーに恋をします。エマさんは「一つ屋根の下」の少女漫画みたいだと反応し、レンさんは『アオのハコ』を挙げます。
しかしマリーは教員の資格を得て遠くへ移り、二人は離れ離れになりました。まだ10代のころの話だといいます。
アインシュタインは学部長と仲が悪く、大学の助手にもなれませんでした。卒業後は代理の教員や家庭教師のアルバイトで生計を立てるなど、苦労の時期が続きます。
その後、大学の同級生だったミレバという女性と恋人になり、一緒に物理の文献を読んだりしていたそうです。このミレバとの関係が、のちにノーベル賞を巻き込んだ「事件」につながっていきます。
今日はね、もうこういう科学に関係ないとこも全部拾っていくから。
特許庁で働きながら研究する「副業」時代
ドイツからスイスに移っていたアインシュタインは、スイス国籍を取得したあと、友人の父親の口利きでスイスの特許庁に三級技術専門職として就職します。レンさんは「公務員に近い」と説明しています。
本当は研究職に就きたかったものの、ポジションが得られなかったため、特許庁では日中に特許の審査をし、夜や休日に理論の研究を進めていました。エマさんはこれを「今で言う副業」と表現します。
特許審査でさまざまな発明の理論や数式に触れたことは研究に役立ったと、アインシュタイン自身が語っているそうです。1902年ごろには、仲良し3人で「アカデミーオリンピア」という議論のグループも結成しました。その後ミレバと正式に結婚し、長男も生まれ、普通のアパートで暮らしていたといいます。
1905年「奇跡の年」に何が起きたのか
1905年、26歳のアインシュタインは、のちに物理学の奇跡の年 ── アインシュタインが1905年に、物理学の基礎を変える重要な論文を立て続けに発表したことから付いた呼び名ですと呼ばれる年を迎えます。まだ博士号を持っていなかったアインシュタインは、特許庁で働きながら博士号を取るための論文を大学に提出しました。
最初に提出したのは相対性理論の論文でした。エマさんが大学の研究室にいなくても研究できるのかと尋ねると、レンさんは、理論物理なので実験設備はいらず、文献を読んだうえで紙とペンで書き上げられると答えます。
ところが相対性理論の論文は博士論文として受理されず、代わりに出した分子の大きさの決定法の論文で博士号を取得します。理由ははっきり書かれていなかったそうですが、レンさんは「新しすぎたのかもしれない」と推測しています。
意外なことに、この分子の論文はアインシュタインの全論文のうち最も引用されている論文だといいます。相対性理論の論文も出版はされましたが、無名の特許庁職員の論文として当初は理解されず、のちにマックス・プランク ── 量子論の創始者として知られるドイツの物理学者。1918年にノーベル物理学賞を受賞しましたが「これはすごい」と評価したことで受け入れられていきました。
この年に発表された主な論文を整理すると、次のようになります。
エマさんは、さっきまで共感できる男の子だったのに、一気に遠い世界に行ってしまったと驚きます。
相対性理論は「時間と空間が伸び縮みする」理論
レンさんは相対性理論を「時間と空間は伸び縮みする」理論だと一言でまとめます。ものすごく速く動く宇宙船の中では時間がゆっくり進み、さらに外から見ると長さが縮んで見えるといいます。
エマさんが「帰ってきたら身長が5センチ減っている?」と尋ねると、レンさんは、動いているもの自体が変化するのではなく、外から見ると縮んでいるということだと説明します。
身近な応用がGPSです。衛星も高速で動いているため時間がずれ、相対性理論で補正しないと少しずつずれていってしまいます。GPSの正確さは、相対性理論による補正に支えられているわけです。
アインシュタイン自身は時間の相対性を、熱いストーブと女の子のたとえで説明したといいます。
「一時間ぐらいに感じられる、熱すぎて。じゃあ可愛い女の子と一緒に一時間座っていると、まるで一分ぐらいに感じるでしょう。それが相対性です」って言って。
レンさんは、あくまでたとえだと断ったうえで、時間は絶対的なものではないという点が相対性理論の核心だと話します。
「1秒」とは何か?特殊と一般の違い
時間が伸び縮みするなら1秒とは何なのか、というエマさんの疑問から話が広がります。正確に測ると、地上と東京スカイツリーの上では1秒が微妙に違うそうです。
1秒の定義は、かつては地球の自転を24時間とし、それを60で割り、さらに60で割るものでした。しかしそれではブレるため、現在はセシウム ── アルカリ金属の一種。原子時計に使われ、特定の電磁波の周期をもとに1秒が定義されています原子が状態を行き来する際の振動が約92億回繰り返される時間で決められているといいます。
宇宙にセシウムを持っていっても振動の数そのものは変わりません。それぞれの場所では1秒は1秒ですが、地球から見ると宇宙の時計はゆっくり進み、地球で1秒経っても宇宙ではまだ1秒経っていない、ということが起きます。
だから同時じゃないっていう。だから絶対的なものじゃないよっていう感じですかね。どこでも1秒は一緒っていうわけじゃないって感じ。
では静止しているスカイツリーの上で時間が違うのはなぜか。ここで登場するのが一般相対性理論です。重力が違う場所では時間や空間が歪み、地上より重力が弱い高い場所では時間が少し速く進むといいます。
1905年。重力がない特殊な状況で、速く動くものの時間や長さを扱う
約10年後。重力も含めて扱う、より普遍的な理論。重力が違えば時間の進み方も変わる
遅れてきた評価と、いとこへの恋が招いた別居
奇跡の年の論文を発表したあとも、アインシュタインは数年間、特許庁の職員のままでした。物理学会から見れば「謎の新人」で、発表当初はほとんど注目されず、あとから評価されていったといいます。
1909年、30歳でアインシュタインは特許庁に辞表を出し、大学の助教授になります。ジュネーブ大学から名誉博士号も授与されましたが、理論が実験で確かめられていなかったため、懐疑的な人も多かったそうです。
翌年にはプラハ大学の教授となり、一般相対性理論に挑み始めます。その2年後には母校のチューリッヒに教授として戻り、さらにドイツの学会の会員となってベルリンへ移住しました。
ところがベルリン移住の数か月後、アインシュタインがいとこのエルザに恋愛感情を抱いていることが妻ミレバに知られます。数か月後にミレバと子どもは家を出て、別居状態になりました。
ノーベル賞の賞金を元妻へ、という離婚契約
別居生活は5年ほど続き、1919年に離婚が正式に成立します。ミレバは養育費などのお金を求めましたが、教授になっていたアインシュタインにも当時は十分なお金がなかったと言われています。
これでできた条件があって、ノーベル賞を取ったらその賞金を全部ミレバに譲りますっていう契約をさせられる。
レンさんによると、アインシュタインのノーベル賞受賞は世の中的にほぼ確定的と見られていたため、ミレバもこの条件で離婚に合意したそうです。エマさんは、不倫されて腹は立つのに、活躍するほど賞金が近づくという元妻の複雑な立場に思いを巡らせます。
一般相対性理論が完成したのは、離婚の前、別居中のことでした。そして離婚と同じ1919年、皆既日食の観測で太陽の重力によって光が曲がっていることが確かめられ、アインシュタインは世界中のマスコミに取り上げられて一躍有名になります。
同じ1919年の数か月後、アインシュタインはいとこのエルザと再婚しました。その2年後、講演で日本へ向かう途中にノーベル賞受賞の知らせが届き、賞金は約束どおり元妻に渡りました。
日本には43日ほど滞在し、大正天皇とも会っています。なお、ノーベル賞の受賞理由は相対性理論ではなく、光の研究のほうでした。
ナチスからの亡命と、核兵器への葛藤
その後、アインシュタインは共同で家庭用冷蔵庫の特許を申請するなど研究を続けますが、ドイツではナチスが台頭し、ユダヤ人迫害が激しくなります。ユダヤ人であるアインシュタインはアメリカへ亡命し、ドイツからは国家反逆者とみなされ、帰国できなくなりました。
E=mc²は核エネルギーの可能性を示す式ですが、この式があれば原子爆弾を作れるというわけではなく、他の多くの物理学者が関わっています。それでもアインシュタインは、ウランを使えば核爆弾が技術的に作れそうで危険だと理解しており、ルーズベルト大統領に手紙を送っています。
1945年に原子爆弾が広島に投下されると、アインシュタインは大きなショックを受けました。レンさんは、アインシュタインは平和を望んでいた人で、こうなると知っていたら奇跡の年の公式を破棄していた、という趣旨のコメントも残していると話します。
第3次世界大戦の兵器を問われ「第4次なら石と棍棒でしょう」と答えた、という有名な逸話もありますが、ファクトチェックでは直接の証拠が見つかっていないそうです。当時の軍人の間に核を使えば世界が終わるという共通認識があり、それが逸話として広まったのではないかと言われています。
戦後の来日時には人力車を非人道的な労働だとして乗車を断った、湯川秀樹 ── 日本人で初めてノーベル賞を受賞した物理学者。中間子理論で1949年にノーベル物理学賞を受賞しましたと会った際に原爆について泣いて謝った、という逸話も残っているといいます。
「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった」って。「私を許してください」と激しく泣き出したと。
最期まで挑んだ統一場理論と、ベロ出し写真の真相
1955年、アインシュタインは心臓の痛みで倒れ、手術を拒否したと言われています。病院でも研究のための道具を持ってくるよう電話していましたが、まもなく76歳で亡くなりました。最期の枕元には計算式の並んだ紙があったそうです。
晩年に取り組んでいたのは、重力・電磁気力・強い力・弱い力という自然界のすべての力を1つの原理で説明しようとする統一場理論 ── 自然界の基本的な力を1つの枠組みで統一しようとする理論の総称。現在も完成していませんです。重力以外はかなり説明できているものの、重力だけがまだ結びついておらず、今も達成されていないといいます。
こうした理論の1つが超ひも理論で、レンさんによると言い始めたのは日本人の南部陽一郎さんです。1968年ごろの話だそうです。
アインシュタインの脳は承諾なしに持ち去られ、切片がさまざまな場所にあります。ただレンさんの記憶では、脳が特に特殊だったわけではなく、むしろ小さかったと言われているそうです。
舌を出した有名な写真は72歳のときのもので、写真嫌いのアインシュタインがしつこいマスコミへの悪態としてやった、ふざけた、などの説があります。笑ってと言われてあの表情をしたものの、本人も気に入って9枚の焼き増しを頼んだといいます。
自分大好きよね。
普通の公務員から生まれた発見がくれる勇気
振り返りでレンさんは、相対性理論がゴリゴリの研究畑ではなく、普通の公務員的なところから生まれたことに面白さを感じたと語ります。エマさんは、裁判官だったフェルマーも挙げます。
エマさんは、この話を聞いたリスナーがいつか何かを見つけてくれるかもしれないと期待を寄せます。話題は旅行にも及び、奇跡の年を過ごしたベルンには当時の家具を再現したアインシュタインミュージアムがあるそうです。
レンさんはオックスフォードでアインシュタインが講義した黒板を見に行ったものの、閉館30分前に駆け込んだ博物館が別の場所だったという失敗談も明かしています。編集後記では、200回記念の質問コーナーとねるねるねるねコラボの質問を8月8日まで募集していることが告知されました。
まとめ
アインシュタインは、しゃべらない内向的な少年から、特許庁で働きながら物理学を塗り替えた天才へと歩み、恋と離婚、亡命、核兵器への葛藤を経て最期まで研究を続けた人物でした。業績のすごさと人間くささの両方を知ると、遠い天才が少し身近に感じられるかもしれません。
- 1905年の「奇跡の年」に、特殊相対性理論・ブラウン運動・光電効果・E=mc²を立て続けに発表した
- 相対性理論は「時間と空間は伸び縮みする」理論で、GPSの補正にも使われている
- 離婚の条件は「ノーベル賞の賞金を全部元妻に渡す」という異例の契約だった
- 核兵器の危険を認識し、原爆投下にショックを受け、戦後は平和を訴えた
- 特許庁勤めの「副業」的な研究から歴史的な成果が生まれたことは、多くの人に勇気をくれる




