予定を詰め込む人を見て、すごいなと思う自分
毎日のように誰かと会って、予定を作って遊んでいる人がいます。ああいう人を見ると、純粋にすごいなと思うんですよね。
私は人と会うのは結構好きなんです。刺激もあるし、楽しい。
でも一方で、結構疲れちゃう質でもあります。
これは相手が気を使う相手だから、という話ではありません。すごくいい人で、気が合う楽しい人でも、こっちが勝手に気を回して疲れてしまう。そういう性質なんです。
だから、いろんな予定を詰め込める人を見ると、心も体も体力があるなと感心してしまいます。
埋めること自体が目的になっていないか
ただ、ちょっとだけ思うことがあるんです。それは、充実させることに必死になりすぎてないかなということ。
手帳やカレンダーを予定で埋め尽くしてないと、なんだか不安になる。空いてる日があると落ち着かなくて、とりあえず何か入れる。
これは、スマホの通知バッジみたいなものかなと思っています。あの赤いバッジが0になってないと気持ち悪い。
正直、私も結構それがあるんですけど、中身が大事な通知かどうかは関係ないんですよね。とにかく0にしたい。
手帳の空白もそれと同じで、何もないという状態そのものが耐えられない。だから予定を埋めて、刺激的なものを入れ続ける。
私自身にも身に覚えがあるので、人のことはあまり言えないんですけど、埋めること自体が目的になっているとしたら、ちょっと危ういんじゃないかと思うんです。
「熱狂」という字に、狂うが入っている
熱狂という言葉、よく使いますよね。熱狂できるイベントを求めて、半年前、1年前から予定を詰め込んでいく。
いい仕事には熱狂が必要とも言いますし、夢中になれるものがあるのは確かに大事なことだと思います。
楽しい人と楽しいことをする。まさに熱狂です。それで毎日充実しているなら、いいことじゃないかとも思うんです。
ただ、気をつけたいのは、熱狂という字には「狂う」が入っているということ。熱に浮かされて我を忘れていないか、という話なんです。
なぜこんなことを考えるようになったかというと、家族に一人、私とは本当に対極的な人がいるからです。
根っから明るくて、毎日誰かと会って、毎日飲み会。いつも充実しているような人でした。
ところが、その人がメンタルを崩してしまったことがあったんです。私からしたら信じられませんでした。一番そういうことと縁がなさそうな人だったので。
きっかけはコロナ禍でした。強制的に家から出られない、人にも会えない。予定が丸ごと空白になったんです。
そうなると、今まで経験したことのなかったような寂しさ、虚しさに、グッと押しつぶされてしまったんですね。
熱狂は、弱さに蓋をしているだけかもしれない
このとき私は思ったんです。熱狂しているとき、人は強く見えるけれど、本質的には弱さを何とか隠そうとしているだけなのかもしれない、と。
もしそういう熱狂がなかったら、人は言葉にできない、ぼんやりした虚しさや満たされなさに、常に直面しなければならない。
それが常にあるから、次の予定、次の刺激で、なんとかその穴を埋め続けているだけなんじゃないか。
人生の本質は、熱狂そのものではなく、その熱狂でごまかそうとしている何かの方にあるんじゃないか。そんな風に思ったんです。
仏教でも渇愛という話をよくします。喉が渇いて渇いて、次から次へと欲しがってしまう心のことです。
飲んでも飲んでも渇きが止まらない。いくら予定を入れても、充実させても、まだ足りない。「これでいい」というところにたどり着けないんですよね。
不要不急って、なんだったんだろう
ここでさらに、仏教の言葉を一つ紹介させてください。『大無量寿経』というお経に、こういう一節があります。
「世人薄俗にして共に不急のことを諍う」。
意味としては、世の中の人は薄っぺらい生き方をしていて、全く急がなくてもいいことを、奪い合うように求めて生きている、という警告のような言葉です。
これ、1800年どころか2600年ぐらい前の言葉なんですよね。それでも「不急のこと」という一節に、思い出すことがありませんか。
コロナのとき、不要不急の外出は控えてください、と毎日のように流れていました。
不要不急って何だったんだろう、と考えてみると面白いんです。友達と遊びに行くのは楽しいことだし、大事なことでもある。
でも、本当に必要か、本当に急ぐべきことかと言われると、悩んじゃいますよね。自分がやっていることの、どこまでが本当に急ぐことなのか。はっきり分けられる人はいるでしょうか。
仏教では、本当に急ぐべきことはこれだ、という答えをちゃんと出しています。それはまた別の日にゆっくり話せればと思います。
今日言いたいのは、その答えを受け取るにも、まず一度熱狂から離れて静かにならないといけない、ということなんです。
熱狂しているとき、静かな見方ができなくなる。次々次々で頭がいっぱいで、自分が本当は何を求めているのか考える隙間がない。
だからこそ、たまに立ち止まる瞬間がいるんじゃないか。自分と人生を静かに見つめる時間が必要なわけです。
そう考えると、手帳に空白があるというのは、そんなに焦ることではありません。むしろ、予定で埋まっていたら手に入らなかった貴重な時間かもしれない。
もちろん、毎日予定を入れている人がダメという話ではありません。熱狂は大事ですし、私もアクティブにならなきゃと思っているぐらいなので。
ただ、空白が怖くて埋めているというときは、ちょっと立ち止まって、今自分は何から目をそらしているんだろう、と見つめてみる。それだけで空白の意味が変わってきます。
予定でパンパンの自分も、スカスカで焦っている自分も、どっちも同じ人間です。その上で空白の日を少しだけ大事にして、生き方を見直していただけたらなと思います。
急がなくていいことに、今日も追われて生きている私たち。その手がふっと止まったときは、怖がらず自分を見つめてみてください。本当に求めているものは、静かなところにしか流れないと思うんです。
文字で読みたいという方は、noteもチェックしていただけると嬉しいです。それでは煩悩まみれの私たちですが、今日も人生を味わって生きていきましょう。合掌。
まとめ
予定がないと不安、多すぎると疲れる。その往復を繰り返す私たちにとって、手帳の空白は焦る対象ではなく、本当に求めているものを静かに見つめられる貴重な時間かもしれません。
- 予定を埋めないと落ち着かない心は、通知バッジを0にしたい心とよく似ている
- 熱狂して充実している人は強く見えるが、言葉にできない虚しさに蓋をしているだけかもしれない
- 『大無量寿経』の「世人薄俗にして共に不急のことを諍う」は、コロナの「不要不急」を思い起こさせる
- 空白が怖くて埋めているときこそ、何から目をそらしているのか立ち止まって見つめてみる



