病になったとき、人はまず「誰のせいか」を探す
メッセージはまず、世の中で病に苦しむ人がどれほど多いかという話から始まります。黄牧師は、一つ二つの病はみんな持っていて、健康なうちは「大丈夫」と思っていても、いざ病気になると大事にしていた仕事を手放さなければならないこともある、と語ります。
さらに、油断していて発病した後に後悔しながら治療を始めても、うまくいかないことが多いと話されました。だからこそ国は早期発見のために健康診断を勧めていて、そうした環境がある日本はいい国だ、とも触れられています。
そのうえで黄牧師が問題にするのは、誰かが病気になったり事故にあったりしたときの、人々の反応です。
なんとか罪を犯してそんなことになったの?また何か間違いをしてたからこんなことになったんでしょう?(と)怪しい目で見ます。
この「怪しい目で見る」反応こそ、このメッセージが取り上げる中心テーマです。病や不幸の原因を、本人や身内の罪に結びつけて考えてしまう見方が、まず提示されます。
弟子たちの問い「誰が罪を犯したからですか」
続いて、聖書のヨハネ9章の場面が紹介されます。イエスと弟子たちが道を歩いていたとき、生まれつき目の見えない人を見かけ、弟子たちがイエスに質問しました。
先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。両親ですか。
黄牧師は、当時の人々が苦難や障害を「罪を犯した代価」ととらえる因果応報的な思考を持っていた、と説明します。
そして、これは昔のユダヤ社会だけの話ではないと指摘します。家族の誰かが病気になったとき、「神様、私が何の罪を犯したからこんなことがあるのか」と原因を罪や過ちに探そうとするのは、今の私たちも同じではないか、というわけです。
黄牧師は、この「誰の罪か」という問いが、堕落した人間の本性に合ったものだと言います。そして聖書自体にも、そう読めそうな記述があることを続けて挙げていきます。
聖書にも「呪い」の記事はある、しかし
黄牧師は、罪と罰を結びつける記述が聖書にあることを、いくつか具体的に挙げます。創世記3章で善悪の知識の木の実を食べたことで人間に呪いが来たこと、出エジプト20章の十戒を守らなかったから呪いが来るとされたことです。
特に出エジプト20章5節では、先祖の偶像崇拝の罰が子孫3代4代まで問われるとされている、と紹介されます。
ここで黄牧師は、自分自身の説教のあり方にも触れます。牧師がこの箇所を持ち出して「家系に流れる呪い」を語ってきたことがあったと振り返り、私たちは因果応報の論理で全世界を見て評価しているような気がする、と述べます。
私たちは因果応報の論理で全世界を見ている、そして評価しているような気がします。
イエスの答えが否定したもの
そのうえで黄牧師は、イエスの観点が世の中の見方とはまったく違ったと語ります。ヨハネ9章3節で、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と答えました。
黄牧師は、これはイエスが世の中の人々の価値観を強く否定した言葉だと説明します。病気や事故は、人間の論理や「何が原因なのか」という問いだけでは簡単に説明できないことがたくさんある、というわけです。
もちろん、世の中の罪や痛みが最初の人アダムから始まったことは前提として認めたうえで、黄牧師はその先を語ります。運命論や因果応報的な思考を無くすためにイエスが来て、身代わりとして十字架を背負ってくださった、という点です。
その根拠として、イザヤ書53章5節が引かれます。
彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。
さらに黄牧師は、使徒パウロがこれを律法の言葉で説明したとして、ローマ書8章1節2節を挙げます。キリストに結ばれている者は罪に定められることがなく、命をもたらす霊の法則が罪と死の法則から解放した、という箇所です。
つまり、身の回りに起こる問題を「誰の罪のせいか」と考えるのではなく、神の御旨があったからこんなことがあったと受け止め、その御旨を知るほうへ考えを転換すべきだ、というのがこのメッセージの核心です。
「誰のせいか」は喧嘩しか生まない
黄牧師は、価値観の転換がなぜ大切なのかを、実際の場面から説明します。「誰のせいか」「誰の問題か」と言えば、その人を責めるか戦うことにしかならない、と言います。
反対に、「神様の御業をこの人を通して表すためだ」と考えるなら、「では神の御旨は何か」と神に尋ね、神からの答えをいただくことになる。黄牧師は、これが問題解決のために非常に大事だとイエスは教えている、と語ります。
ここで黄牧師は、自分たち夫婦の経験も打ち明けます。子供が病気になったり家に問題があったりすると、夫婦で「あなたの家に何かあったからこんなことになったのでは」と言い合ってしまう、という話です。
黄牧師は、原因を誰かのせいにすることは喧嘩しか生まず、それがきっかけでもっと大きな問題が起こると指摘します。そのうえで、キリスト者は「誰の罪の故」という言い方をやめて、すべてを神様に持っていって解決をいただく考え方にしなさい、と勧めます。
「神の業が現れるため」とはどういう意味か
続いて黄牧師は、イエスが言った「神の業がこの人に現れるため」という言葉の意味を掘り下げます。それは、神がこの人を通して行おうとする計画があったから、この人が目の見えない状態で生まれた、ということだと説明します。
ここで強調されるのが、神は主権者であり、人間は造られた者だという点です。黄牧師は、誰のせいか・誰の罪かと非難することに焦点を合わせるより、神がこの人を通して何を行おうとするのかに心を留めて神に聞きなさい、と語ります。
黄牧師によると、自己中心的な人間はこの主権者である神を一番嫌う、と言います。なぜ他の人は立派な家庭に生まれたのに、自分は目の見えない者として生まれさせられたのか、という思いが出てくるからです。
そのうえで黄牧師は、造られた者が創造主に用いられること以上に素晴らしいことはない、という見方を示します。100年しか生きないこの世で神の計画のために不便な状態にいる人に、神は大きな報いを与えてくださるに違いない、というのがその論拠です。
一人息子を失ったやもめの話
黄牧師は、金曜祈祷会で語った「環境の中の真理」という言葉に触れながら、理解できない環境が与えられたとき、その中にある真理を知りたい、という思いを紹介します。その例として、ルカ7章11節からのナインの町のやもめの話が語られます。
この話では、やもめの一人息子が死んでしまいます。黄牧師は、女性一人を最も弱い存在とみなすイスラエル社会において、夫を失った女性がどう生きるかは切実な問題だった、と背景を説明します。
その女性にとって、息子はすべての希望でした。息子が生きているから生きる意義があると思って頼っていたのに、その一人息子まで死んでしまった。黄牧師は、彼女は罪が多いのか、呪われた女なのか、と問いかけます。
彼女は罪が多いからですか。彼女は呪われた女ですか。なぜこんなことが起こったのか。
黄牧師は、この状況の中にある真理はイエス・キリストだと語ります。葬儀の行列にイエスが現れ、死んだ息子に「若者よ、起きなさい」と言うと、息子は生き返り、やもめは感謝と喜びに満たされました。
そして黄牧師は、なぜ神がこの死を許したのかを説明します。それは、イエス・キリストが死んだ人も生かす命の主権者であることを、世の人々が知るようにするためだった、という受け止めです。
黄牧師は、私たちの人生に起きていることの真理は、イエスに出会うまでは知ることができないと言います。だからこそ、悩みや苦しみを持ってイエスの前に出て「なぜですか、主よ」と聞かなければならない、と勧めます。
神の御業その1 人生の本当の意味を発見させる
ここから黄牧師は、苦難を通して現れる神の御業を2つに整理して語ります。1つ目は、人生の真の意味と目的を発見させるため、というものです。
その例として、癌と診断されたある若者の話が挙げられます。もう亡くなるかもしれないと聞いて驚き、悔い改め、出世やお金のために精一杯頑張ってきた自分の人生が意味のないものだったと悟った、という話です。
黄牧師は、この若者が「人生の中で何が一番大事なのか」を初めて考え始めた点に注目します。この世で生きる目的、そして救いと天国、永遠の命に関心を持てること、それが人生の真の意味だと語ります。
その裏づけとして、詩篇90篇10節が引かれます。人生は瞬く間に過ぎ、この後の天国と地獄は永遠だという内容です。黄牧師は、私たちが大事にすべきは天国に行くことであり、そのために悩み始めることこそ祝福だと言います。
黄牧師は、律法の目的が私たちをイエス・キリストに導くためであったのと同じように、人生の苦しみもイエス・キリストに導くためだ、と語ります。
ここで黄牧師は、自分の息子の経験も打ち明けます。大きな病の疑いがあると聞いてショックを受け、病室で一人、夜通し考えて「自分は人生を無駄にした」と悔い改めたと話してくれた、というものです。
黄牧師は、若者はふだん自分が死ぬかもしれないと考えることがほとんどない、と指摘します。だからこそ、それを考えるチャンスがあったことは本当に幸いだと語り、コヘレトの言葉7章2節を引きます。
神の御業その2 苦難は恵みのチャンス
2つ目の神の御業として、黄牧師は「苦難は恵みのチャンス」だと語ります。苦難は私たちをイエス・キリストに導くきっかけになり、神の栄光や救いの御業が行われる機会にもなる、という説明です。
その例として再び、生まれつき目の見えない人を癒したイエスの話に戻ります。イエスがその人を癒したことで、世の人々はイエスが世の光であることを知るようになった、というわけです。
黄牧師は、この世は100年でも天国と地獄は永遠であり、比べものにならないほど短いと強調します。この短い人生で主と福音のために苦労しても、天国での報いを考えれば何でもない、というのがその見方です。
そのうえで黄牧師は、私たちが本当に悩むべきことは、この世でどう生きるかより、天国か地獄かのどちらで永遠を過ごすかだと語ります。そして、その準備のために苦難よりいい勉強はない、と続けます。
最後に黄牧師は、苦しみの根本原因がアダムの罪や先祖の罪、自分の罪や過ちにあるかもしれないことは認めつつ、その罪は徹底的に悔い改めるべきだとしたうえで、イエスがこの働きを新たな観点から見なさいと言っている、と締めくくります。
まとめ
このメッセージは、病や苦難を「誰の罪か」と問う見方から、「神はこのことを通して何をしようとされているのか」を問う見方へ、価値観を転換するよう呼びかける内容でした。黄牧師は、ヨハネ9章のイエスの答えを軸に、苦難を神と出会い天国を準備する機会として受け止めることを勧めています。
- 病や不幸の原因を本人や身内の罪に結びつける因果応報の見方を、イエスは否定したと語られた
- 「誰のせいか」を問うことは喧嘩しか生まず、「神の御旨は何か」を神に尋ねる価値観への転換が勧められた
- 一人息子を失ったやもめの話などから、苦難の中にある真理はイエス・キリストだと説明された
- 苦難には、人生の本当の意味を発見させ、救い主イエスに出会わせるという神の御業がある、という見方が示された
- この世は短く天国と地獄は永遠であり、悩むべきは永遠をどこで過ごすかだと締めくくられた





