なぜ「ルーシーさん」と呼ばれているのか?
今回のゲストは、ナイル株式会社で広報・PRを担当する中村Lucy紘子さんです。普段はインタビューをする側の中村さんに、森下さんが話を聞くという、いつもと立場が逆の回になっています。
森下さんが最初に聞いたのは、中村さんがなぜ「ルーシーさん」と呼ばれているのかという素朴な疑問でした。中村さんは日本ではなく、親の仕事の都合でオーストラリアで生まれ、生まれた時点ではオーストラリア国籍も持っていたといいます。
20歳までオーストラリア国籍持ってたんですけど、その時までの名前ですね。
中村さんは1985年生まれで、当時は2つの国籍を持ち、20歳になった時点で自分でどちらかを選ぶ仕組みでした。中村さんの記憶では、その2〜3年後に法律が変わり、20歳の時点で長く過ごしている国の国籍に自動的に切り替わるようになったと聞いたそうです。
私が手動で選択できるの最後か、その、なんかもう1年かっていうところでした。
中村さんの両親はどちらも日本人で、もともと海外に縁があったわけではありません。父親の海外転勤先でたまたま出産と子育てをすることになり、いずれは日本に帰ることも見込んでいた家庭でした。
中村さんの父親は電機メーカーの人事畑で、1970年代から80年代にかけて、海外で日本支社を立ち上げ、うまくいったら次の国やエリアへ移るという仕事を長く続けていたそうです。母親も英語を学び、新卒で商社に入社したのち、結婚を機に退職しています。
森下さんは、ちょうど日本の電機メーカーが世界を席巻していた時代だと受け止めています。中村さんは、そうした父親の仕事のもとで、生まれてから12歳ごろまでメルボルンで暮らしました。
庭に野良カンガルーが来るメルボルンの暮らし
メルボルンやシドニー側にはなじみがないという森下さんに、中村さんは当時の街の様子を説明します。メルボルンはオーストラリアの南側の海沿いにあり、シドニーからもそこまで遠くない都市です。
ただ、中村さんが1980年代から90年代に住んでいたのはメルボルンの中でも田舎の地域でした。住宅地でも隣の家まで100メートル、200メートル離れているのが当たり前で、家は戸建ての平屋、学校へはスクールバスで通う暮らしだったといいます。
見てた風景でいうと、本当に田舎なんですよ。私なんか子供の頃の写真とか見ても何もないなっていう。
中村さんが話す田舎は、日本の田んぼのような風景ではなく、自然が多く平原が広がる土地です。森下さんは西海岸のパースで牧場に泊まった経験を思い出し、あんな感じかと納得していました。
庭に野良カンガルーとか普通に来ましたよ。
中村さんによれば、メルボルンの田舎では人よりカンガルーや羊のほうが多いほどでした。森下さんも、パースの牧場でドアを開けた瞬間にヤギが家に入り込み、娘さんが泣き叫ぶ騒ぎになった「ヤギ侵入事件」を披露し、オーストラリアの洗礼だったと笑います。
日本人が自分と妹だけの現地校で、日本語はどう身につけた?
森下さんは次に、そうした環境で日本人とどう関わり、日本文化をどう理解してきたのかを尋ねました。中村さんにとって一番身近な日本人は両親で、住んでいた地域には日本人がそもそもいなかったといいます。
中村さんが通ったのは現地の小学校でした。メルボルンにも日本人学校はあったものの、通える距離などを考え、父親の判断で現地校に入ったそうです。
全校生徒の中で日本人って私の記憶では、私と妹以外いなかったですね。
中村さんの現地校には、中国、タイ、カンボジアなどアジア圏の子どもはいたものの、日本人はいませんでした。父親の知り合いの駐在員家族とは、バーベキューやクリスマス会などのイベントで会う程度で、日常的に話せる日本人は両親だけだったといいます。
森下さんが確認すると、土日の日本語補習校にも通っていませんでした。それでも今は日本語ネイティブとして話している中村さんの経験を、森下さんは日本語の支えがほとんどない環境でも日本語ネイティブになれるという「希望」だと表現しています。
一方で、中村さんの英語は、日常会話や旅行では困らないものの、ビジネスの場となると不安もあるそうです。中学校からは日本で教育を受け、その後は海外に転勤することもなく日本で過ごしてきたためだと説明しています。
小学2年生から授業を選ぶ、オーストラリアの学校の日常
森下さんは、メルボルンでの小学校生活の中に、今の生き方やキャリアにつながる学びがあったかを尋ねました。中村さんが挙げたのは、大人になってから話すと驚かれることが多いという学校の仕組みです。
中村さんの学校は1年生から9年生までが同じ建物にいる形で、小学2〜3年生のころから自分で取りたい授業を選んでいました。たとえばインドネシア語など、英語以外の外国語のクラスがいくつかあり、教科書もなく先生とみんなで学ぶ時間があったそうです。
算数のような科目は必修で、自分で選ぶのは一部のカリキュラムだったといいます。中村さんは、外国語の学習はメルボルンだけでなく、オーストラリアでは小学校から英語以外の言語に触れていたのではないかと話しています。
中村さんの学校には給食がなく、みんなランチボックスを持ってきて外の原っぱに座って食べていました。運動会もなかった代わりに、フリーマーケットに近い「ガレージセール」という文化祭のような行事があったそうです。
「お前の国は?」と聞かれても日本を知らなかった
森下さんは、海外育ちの人からよく聞く「日本人なのに日本をわかっていない」というアイデンティティの問題があったかを尋ねます。自分は日本人すぎて、その感覚がわからないのだと前置きしていました。
中村さんは生まれたときから現地のコミュニティの中にいましたが、見た目は髪が真っ黒の「ザ日本人」で、本人いわく「こけしみたい」だったといいます。周囲からは「初めて会った日本人は君だよ」と言われる一方で、中村さん自身は日本に行ったことがありませんでした。
中村さんにとって日本は、親から聞いた話の中にしかない国でした。そのため、自分が日本人だという感覚はほとんどなかったと振り返ります。
(周りからは)ジャパニーズっていう風に見られるんですけど、なんかそこに自分がはまってるとは思えなかった。ミスマッチというか。
オーストラリアに住んでいたころの中村さんの自己認識は、「みんなと一緒だよ」というものでした。森下さんはそれをとても自然なことだと受け止め、シンガポールに4年半ほど住む自分の娘たちも、日本人でありながら自分をシンガポール人だと思っているのではないかと重ねています。
「これ何て読むの?」から始まった日本語の本
森下さんが幼少期に熱中していたことを聞くと、中村さんは、両親の方針でゲームや漫画には一切触れてこなかったと答えました。その代わりに、中村さんにとって本を読むことは「半分宿題、半分好きなこと」だったといいます。
中村さんの両親は、なるべく日本語に触れてほしいと考え、日本語の本を買ってきてくれました。最初は読めない字ばかりで、面倒だと感じていたそうです。
お母さんにこれ何て読むの?って聞いたら、次はこれどういう意味なの?っていう、もう本当にそこからスタートだったんで、時間かかったんですけど。
森下さんは、長女から漢字ドリルで習った「正しい」の意味を聞かれ、うまく答えられなかったという最近の体験を話します。中村さんの家でも、学校で友達との会話から覚えてきた英語を「日本語で言うと何なのか」と親に聞くことがよくあったそうです。
中村さんの両親は、日本で学校を出て日本企業に入り、たまたま海外に転勤しただけでした。子ども同士の生の英語をいきなり持ち帰って聞かれても、答えるのが難しいことが多々あったと話していたといいます。
本当に息をするように喋れてたのは当時は英語だったんで。
当時はインターネットもなく、テレビでは時間がずれて日本の紅白歌合戦やアニメが流れることもありました。それでも中村さんは、そうした番組にはあまり興味を持たず、本を読むほうが楽しかったと振り返っています。
小学校卒業で帰国、福岡の3ヶ月から東京の中高一貫校へ
中村さん一家が日本に戻ったのは、中村さんが小学6年生を終えるタイミングでした。帰国は父親の転勤が決まったためで、「いつか戻ると言っていたでしょう、それが今になった」と伝えられたそうです。
ただ、中村さんが大人になってから聞くと、両親は4年生や5年生ではなく6年生という、中学校に上がる区切りを気にしていたといいます。中村さんは、そこは親が合わせてくれたのだろうと受け止めています。
中村さんにとって初めての日本は福岡でした。東京本社に戻ると思っていたところ、父親が九州で支社の立ち上げを担うことになり、中村さんは福岡の私立中学校を受験して入学します。
一学期だけいたあいつ何だったんだろうっていう。
ところが中村さん一家は、福岡に来てわずか3ヶ月で東京への転勤が決まります。東京での学校選びは母親が中心になり、インターナショナルスクールではなく、日本の教育を受けられて帰国子女も一定割合受け入れる中高一貫校を選びました。
中村さんは国語と算数などの日本語の編入試験を受け、夏の2学期から入学しています。試験は大変だったものの、読書の積み重ねに加え、専業主婦だった母親が家で日本語を教えてくれたことが支えになったそうです。
ここまでの中村さんの歩みを時系列で整理すると、次のようになります。
森下さんが、日本の教育をと考えた両親の思いを尋ねると、中村さんは自分への意思確認はなかったとしたうえで、両親の意図をこう推し量ります。家族4人が日本を拠点にしていく以上、自分の生まれた国のことを学校や生活の中で学んでほしかったのだろうということです。
中村さんは「今は中身がないけれど、これから学ぶんだ」というつもりで学校に通い始めました。中村さんの学年には帰国子女が30〜40人ほどいて、同じように何十人もの中でたった1人の日本人として小学校を過ごしてきた子もざらにいたそうです。
(同じ学年に)割と自分に近いような境遇の子がいたっていうのが結構大きかったですね。
森下さんはこれを、急に環境が変わるのではなく、クッションになる環境があったと表現しています。母親もまた、現地校に通う中村さんが日本語に触れる機会は自分が作らないとない、と考えて家で漢字や読書を教えていたといいます。
制服と音読リレー、日本の教室で感じた違和感
森下さんは、中村さんにとって日本の学校生活はオーストラリアとの比較の連続だったのではないかと尋ねます。中村さんの答えは「全てが違いすぎて」というものでした。
毎日同じ服を着て、同じ席に座って、全員でこう同じ授業を受けてっていう、まずすごい基本的なところからですね。
森下さんも前日に、シンガポールで日本人学校に通う娘さんの授業参観に行っていました。教室の構成も黒板も椅子も、起立・礼・着席の流れも、30年前に自分が受けた授業と何も変わっていなかったといい、それを森下さんは「いい意味」で捉えています。
中村さんが特に違和感を覚えたのは、制服によって一人ひとりの個性やバックグラウンドが見えにくくなることでした。オーストラリアの学校では、隣の子の肌の色や宗教、背景が違うのは当たり前で、一緒に過ごす中で自然とわかるものだったからです。
一行ずつ本を読むって何なんだろうって、私ずっと思ってたんですけど、丸が来るまで読んで、次の人にみたいな。
句点まで読んだら次の人に回す音読リレーも、中村さんには謎でした。自分が当たる箇所にふりがなを振って順番を待つほどドキドキしていた一方で、これは一体何の勉強なのかと思っていたそうです。
中村さんが感じた日本とオーストラリアの教室の違いは、次のように整理できます。
肌の色や宗教、背景の違いが当たり前で、一緒に過ごす中で一人ひとりの違いが自然と見えてくる
制服を着て同じ席で同じ授業を受け、音読も順番に回す。一人ひとりのキャラクターが見えにくい
森下さんは、こうした疑問は違う教育を受けてきたからこそ持てるものだと指摘します。日本でしか教育を受けていない人は、それが当然のやり方だと考え、疑問すら浮かばないのではないかということです。
「書いてある正解」と「あなたはどう思う?」
中村さんは国語の授業にも大きな違いを感じていました。オーストラリアでは、物語の主人公について本文にないサブストーリーを作ってみよう、といった課題が授業で平気で出されていたといいます。
一方、日本に帰ってきてからの国語は、主人公の気持ちを本文の根拠から完璧に読み取り、漢字の読み方や送り仮名を正しく覚えるものでした。中村さんは、そこからはみ出すことがないと感じたそうです。
書いてるものを正しく受け取るって、その正しいっていうのも、正しいってなんだろう、それしかないのかみたいな。
で、全員が頭の中に同じものをインプットして終わりなんですよね。
森下さんは、授業参観で見た道徳の授業を例に挙げます。意地悪なオオカミと小さなウサギの話で、2箇所に出てくる「えへんえへん」がどんな心情かを子どもたちに考えさせ、先生は答えを与えずに委ねる、いい授業だったといいます。
そのうえで森下さんは、枠組みの中で答えを導く学びと、自由な問いに向き合う機会の両方が必要だと話しました。自由な問いだけに偏ると、ルールや規範のベースがないまま空中戦になりかねないからです。
国語の授業をめぐる2つのアプローチは、次のように対比できます。
物語の主人公について、本文にないサブストーリーを作ってみる
主人公の気持ちを本文の根拠から読み取り、漢字や送り仮名を正しく覚える
中村さんがオーストラリアの授業で一番多かったと振り返るのは、先生がランダムに生徒を指して「あなたはどう思う?」と聞くことでした。日本に帰ってからはそうした場面がほぼなくなり、考える機会が減ったように感じたそうです。
森下さんは、娘さんの道徳の授業では先生が「なぜ?」と何度も聞いていたことに驚いたといい、学校や先生によって違うのかもしれないと話します。中村さんも、オーストラリアでは同じ学校にしか通っていないので、他の学校のことはわからないと断っています。
それでも中村さんは、「なぜ」と聞かれ続けたことで、自分の考えを人に伝えることの大切さが身についたと話しています。
なぜって聞かれることに、だってこういうもんだもんっていうのを返すっていうことを繰り返してると、やっぱり人に対して自分の考えを伝えることって大事なんだっていうのが自ずと身についてきた気はしますね。
なぜ海外ではなく、日本の大学で政治学を選んだのか
中村さんは中高一貫校を卒業後、日本の4年制大学の法学部政治学科に進みました。親に言われたのではなく、自分の興味から選んだ進路です。
中村さんの周りでは、日本の大学に進むことを意外に思われたそうです。同じ帰国子女の友人には、大学でアメリカに戻るなど、かつて住んでいた国に戻る選択をする人も多かったといいます。
まだ(中高の)6年間じゃ足りなかったって言い方するとあれですけど。
中村さんは、自分の国のことを、日本語で理解する時間がまだ欲しいと感じていました。仮に海外へ出るにしても、大学までは日本でいいという軽い考えで、受験のときに留学は選択肢に浮かばなかったそうです。
中村さんがもう少し日本にいたいと思った理由には、東京での暮らしが楽しかったこともあります。オーストラリアの田舎で育った中村さんにとって、世田谷区の家から新宿まで20分ほどで出られ、カルチャーに触れながら一人でいろいろな場所に行ける東京は大きな魅力でした。
大学選びでは、高校時代に読んだ本で、1970年代の学生運動の時代にこんな大学があったのかと興味を持ったことがきっかけになりました。中村さんは、憲法やこの国のあり方を自分の国の言葉で学んでおきたいと考えていたといいます。
中村さんは、日本で生活しながら、歴史も含めて今の日本の成り立ちを自分で理解したかったと話します。日本の大学を選ぶまでの中村さんの考えは、次の流れで整理できます。
空っぽの自覚
オーストラリアで日本人と見られても、日本人と自覚できるものがなかった
中高の6年間
日本で暮らし始めたが、自分の国を理解するにはまだ足りないと感じた
東京の楽しさ
一人でいろいろな場所に行けるカルチャーの豊かさに惹かれた
政治学の選択
憲法や国のあり方を、日本語で学ぼうと決めた
森下さんは、ある程度成熟してから学んだ人のほうが、幼いころから日本にいる人より日本をわかっていそうだと話します。中村さんは、意識して学ぼうとしたという意味ではそうかもしれないと応じました。
森下さんも、シンガポールで「日本ってどんな国?」と聞かれて、説明できないかもしれないとドキッとすることがあるそうです。中村さんは、多くの人が退屈だったと語る修学旅行のお寺巡りが、自分にはとても楽しかったと振り返ります。
パンフレットをこう、ずっと最初から最後まできっちり読むみたいな。
森下さんは、日本とは何かと問われて答えられない自分への問題意識が、中村さんの中でかなり上位にあったのだろうと受け止めています。大学からキャリアまでの話は、後編で語られる予定です。
まとめ
中村さんは、メルボルンの現地校で「あなたはどう思う?」と問われ続けて育ち、日本人と見られながら日本を知らない自分とのずれを抱えていました。帰国後は日本の教室の同質性に戸惑いつつ、帰国子女の仲間や母親の支えを得て、日本語で自分の国を学ぶために日本の大学で政治学を選んでいます。
- 両親とも日本人ながら、中村さんはメルボルン郊外の田舎で、日本人が自分と妹だけの現地校に通って育った
- 「お前の国は?」と聞かれても日本を知らず、日本人だという自覚はほとんどなかった
- 日本の学校では、制服や音読リレー、正解を読み取る国語に違和感を覚え、考える機会が減ったと感じた
- 「なぜ」と問われ続けた経験から、自分の考えを人に伝える大切さが身についたと振り返っている
- 自分の中が空っぽだったという思いから、日本語で日本の成り立ちを学ぶため、日本の大学で政治学を選んだ





