「仏教は科学である」が入り口だった?
「AI時代に読むべき宗教本」をテーマにした回の2冊目として、しゅうへいさんはスマナサーラ長老の『無我の見方』を持ってきました。スマナサーラ長老とイケダハヤトさんは、10年以上前に対談本を出しています。
しゅうへいさんが仏教に興味を持ったきっかけは、そのイケダさんとスマナサーラ長老の対談本でした。それまで仏教を「こうしたら成仏する」という宗教だと思っていたしゅうへいさんは、「仏教は科学である」という一文に驚いたといいます。
(その本に)お釈迦様は科学を説いたのであるって書いてて、マジで?みたいな。なんかそういうところからすごいのめり込んでいって。
しゅうへいさんは仏教の知恵に触れると心が楽になる効果を感じ、多くの仏教本を読んできました。その中でもスマナサーラ長老の本は特に分かりやすく、「たとえ話の神」だと評しています。
その例として挙げたのが一切皆苦 ── 仏教の基本的な教えの一つで、この世のすべては思い通りにならず、苦しみを伴うという考え方ですの説明です。すべてが苦しみだと言われても納得しにくいところを、スマナサーラ長老はピアノの音で説明しているそうです。
ピアノでも同じドの音をずっとドだけやってたらきついやろと。
しゅうへいさんによると、スマナサーラ長老は、同じ音がずっと続くことが苦であり、その苦が変わっていくから音楽を楽しめるのだと例えています。
宗教本なのに「宗教はあかん」と書く一冊
意外なことに、『無我の見方』の中では「宗教はあかん」と書かれているとしゅうへいさんは紹介します。本のテーマは無我、つまり私らしさやアイデンティティを仏教の立場から考えることです。
しゅうへいさんの説明では、この本は、宗教が自我を生み出し、その自我によって人は苦しめられているという話をしています。宗教本でありながら、宗教そのものに批判的な視点を持っている点が特徴です。
スマナサーラ長老は上座部仏教 ── 東南アジアなどに広まった仏教の流れで、テーラワーダ仏教とも呼ばれます。ブッダの初期の教えを重視する伝統を持ちますの僧侶です。しゅうへいさんは、ブッダの教えを脈々と継ぐ宗派なので、ブッダが言ったことを現代に比較的そのまま伝えていると話しています。
しゅうへいさんは、この本はブッダが何を言い、それを現代版でどう解釈するかという一冊でもあるとして、3つのポイントで話を進めます。
「私はいない」は脳科学とも一致する?
1つ目のポイントは無我です。私という感覚は確かにあるのに「いない」と言われても納得しにくい、としゅうへいさんは問いかけます。
荒川さんいないんですよって言ったらどうですか?
あ、いや、いますよ。
しゅうへいさんは本の内容から少し外れると断ったうえで、脳科学的にも無我は割と正しいと明らかにされていると話します。以前番組で紹介したアニル・セスさんの「なぜ私は私であるのか」をめぐる本の話です。
その本によれば、視覚や嗅覚、聴覚などの感覚器官から入ってくるものの束があり、脳は常に予測誤差を最小にする見積もりを続けています。その感覚の束が私である、という考え方です。
この二十一世紀に入って、いろんなその神経とかの調べたり、電子的な検査をしてわかってきたことを、2600年前にもうバシッと結論出してくれてるわけですよ。
ブッダはこれを五蘊無我 ── 人間を色・受・想・行・識の5つの集まりとして捉え、そのどれにも固定した実体としての自分はないとする仏教の考え方ですという形で残している、としゅうへいさんは説明します。
体
感覚
イメージ、概念
エネルギー、衝動
認識
しゅうへいさんの説明では、5つはどれも生成から消滅までを繰り返しています。体も細胞が入れ替わり続けていて、生まれたての赤ちゃんと30年、40年経った大人を同じ人と言えるのか、としゅうへいさんは問います。
聞いてたけど同じ人ではない。
それでも名前は同じままです。感覚も同様で、肘をぶつけて痛くても5分ほどで治ります。5つのどれを見ても「これが本当の自分だ」という実体はない、というのが仏教の無我であり、それは最新の脳科学とも合っているとしゅうへいさんは話します。
場所が変われば自分も変わる「分人」との共通点
しゅうへいさんは、実社会でも固定の自分はいないという感覚は正しいと考えています。そこで挙げたのが、平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』で語られる分人主義 ── 作家の平野啓一郎さんが提唱した考え方で、人は対人関係や場面ごとに異なる「分人」を持ち、その集合が個人だと捉えますです。
例えば、幸あれこさんは番組では司会ですが、家に帰れば本名の自分に戻ります。イケダさんもみんなの前ではイケハヤでも、娘さんの前では父親です。
池谷さんが多分インドネシアとか行ったら、多分ね、あんまり池谷って知らないから、ただの日本人とか、または中国人。
しゅうへいさん自身もニューヨークではよく中国人だと思われたそうです。場所を変えた瞬間に自分がどんどん変わって流転していくという点で、分人は無我に近い概念だとしゅうへいさんは考えています。
自我は宗教家が作り出した「商品」なのか?
2つ目のポイントは、無我がデフォルトなのに、なぜ自我という感覚があるのかという問いです。今は個性を出せ、私らしさが大事だと強く求められる時代でもあります。
ここからスマナサーラ長老は宗教家を辛辣に批判している、としゅうへいさんは紹介します。その核心が、自我は宗教家が作り出した商品だという主張です。
結構長老、そういういい感じの切り口。
切れ味鋭い。
しゅうへいさんは、畑を耕すのに自我はいらないと話します。「私が耕すんだ」と思わなくても作物は作れます。ところが雨が降らない、飢饉が起きるといった場面では人は困ります。
じゃあそんな時に僕がわーっと現れて、雨降らしたいですか?雨降らないの怖いでしょ。雨降らしてあげますよ。こういう風に祈ってくださいって言ったらどう?
お願いします。
しゅうへいさんは、死の恐怖を煽ることで宗教家は作物を作る人々から崇められてきたと説明します。ここで紹介されたのが、アフリカの雨乞いをする民族を調べた研究の話です。
理由は降るまで雨乞いするからですって。
死後の世界と王権が自我を強めた?
しゅうへいさんは、死ぬと自我がなくなってしまえば宗教家の商品が使えなくなる、と話を進めます。だから死後の世界や死後の幸福、永遠の不幸といった概念が語られるようになったという説明です。
宗教家が存在するための概念が自我なんですよ。
さらに、多くの人は作物を作ったり子どもを育てたりで忙しく、魂があるかを考える余裕がありません。代わりに宗教家が考え、答えを与えることで、人は教会に頼らざるを得なくなった、としゅうへいさんは説明します。
天災・飢饉
雨が降らず食べ物が作れないという死の恐怖が生まれる
宗教家の登場
祈れば解決すると説き、崇められる
死後の世界
自我が死後も続くと語り、宗教家の存在理由になる
権力との結びつき
教会が権力を持ち、王権神授説のように王が神格化される
現代
自分は何のために生まれたのか、使命は何かと考える
その結果、教会が権力を持ち、王権神授説 ── 王の権力は神から授けられたものであり、人民は王に逆らえないとする考え方。近世ヨーロッパの絶対王政を支えましたのように王が神に近い存在になっていきました。人を支配するには自我が存在したほうが楽だった、としゅうへいさんは読み解きます。
考えること自体は悪くないものの、考えすぎて執着するのが問題だといいます。スマナサーラ長老は、自我という概念に執着しているうちは精神的に弱いままだとバッサリ切っているそうです。
「永遠不滅の魂」が汚れるという矛盾
しゅうへいさんは本の中から、スマナサーラ長老がキリスト教の方とやり取りした場面を読み上げます。神はなぜ人々をひどい目に遭わせるのかと尋ねると、それは人が罪人だからだと言われたそうです。
しかし魂が永遠不滅で変わらないものなら、なぜ罪で汚れるのか。相手は、魂は汚れるので清らかにしなければならないと答えます。本の中のスマナサーラ長老は、汚れたり清らかになったりするものを永遠不滅と言えるのかと問いかけています。
結構詰めていくと矛盾してるよねと。
しゅうへいさんは、その矛盾が生まれるのは、自我があったほうが民を支配し、コントロールしやすかったからだと説明します。すごく魅力的な商品が自我だった、という整理です。
イケダさんは、前回自身が紹介した神話の話につなげ、もともと人は自然の中にいて、動物も植物もみんな一緒だという感覚だったと話します。そこに宗教や神話が入り、権力構造ができていったという流れです。
なんか僕、長老会ったことあるからすごいわかるけど、あの人めっちゃべらんめえ口調なんで。
すげえね、江戸っ子っぽいんだよね。めっちゃスリランカの人なのに。
AI時代に求められる「個性」はきつくないか?
3つ目のポイントは、個性やアイデンティティ、自分らしさを出せと言われる世界についてです。しゅうへいさんは、AI時代にはその要求がさらに強まると話します。
汎用的なことはみんな言えるんだから、お前の個性、強みは何かっていわれてるけど、結構これって割ときつくないですか?
そんななんか従順に従えって言って、なんかいろいろ教育受けてきたのに、急に社会に出た時に個性出せ。
では仏教が無我を説くなら、自分らしさはどうなるのか。本では、自我がない生き方は自由自在であり、むしろ無我から始める生き方は最高の生き方だと書かれている、としゅうへいさんは紹介します。
自分は「川の流れ」のようなもの
無我と自分らしさが相反しない理由を説明するため、本は川のたとえを使っています。しゅうへいさんが川を思い浮かべるよう促すと、イケダさんは信濃川を挙げました。
しゅうへいさんは、高知の仁淀川を例に出します。10秒、20秒眺めると水はどんどん流れていき、20秒前の川とまったく同じではありません。
ああ、20秒前の水じゃない水が来てましたね。
コップで仁淀川の水をすくっても、それは川ではありません。水は川にも、ダムにも、噴水にも、海にもなり、存在そのものが流転していきます。
スマナサーラ長老は、自分という存在も川みたいなものだと説いているそうです。固定の私がいるのではなく因縁の流れであり、それを面倒だから「自分」という概念として置いているだけだ、という考え方です。
しゅうへいさんが面白いと感じたのは、部屋に入ってきたスマナサーラ長老は1号で、話すうちに2号、3号と変わり、出ていくときには302号になっているというたとえです。
でもそれをいちいち、あ、スマナサーラ1号が出て行って、スマナサーラ302号が来てきたよってめんどくさいやんと。
流れのパターンこそが自分らしさ
しゅうへいさんの説明では、川には曲がり方などの流れのパターンがあり、それが自分らしさに似ていると本は書いています。そして、この流れのパターンは変えることが可能です。
大事なのは、自分という小さな川をどう管理し、改善していくかです。しゅうへいさんは、これをどう生きるかという倫理学の話だと捉えています。
川に黒いインクを落とすと、きれいになるまで時間がかかります。自分にも悪い言葉や悪い人がつくと、きれいになるにも、パターンが変わるにも時間がかかる、としゅうへいさんは説明します。
僕もね、昼まで寝てしまうっていう、その自分らしい川の流れがあるんですけど、これ良くないですよね。
明日から5時起きするって言ったところで急に川の流れが変わってくれないわけですね。
しゅうへいさんは、ゆっくり護岸工事をするように変えていく必要があると話します。ところがイケダさんに早起きが続いていないことを突っ込まれ、自分で自分に言い聞かせる形になりました。
固定の「自分」が存在し、その個性を出さなければならないと考える
自分は流れであり、その流れのパターンを少しずつ改善していく
しゅうへいさんは、無我だからといって適当に生きていいわけではないと強調します。自分の流れをしっかり管理し、自分にも他人にも役立つ人間になることが、本当の自分探しであり自分らしさだという考え方です。
スピノザ哲学とも響き合う?
しゅうへいさんは最近ハマっているスピノザ ── 17世紀オランダの哲学者。主著『エチカ』で、神を唯一の実体とし、万物をその現れとして捉える汎神論的な哲学を展開しましたの倫理学と仏教に共通点を感じています。スピノザは実体は神のみで、個物は神が変容した様態だと述べています。
しゅうへいさんは、これを仏教の諸行無常に似ていると感じています。また自由意志はないというスピノザの考えも、仏教の縁起と重なると話します。ポッドキャストをやろうとしているのも、イケダさんのブログを読んだことなど、見えていない出発点があるからだという例えです。
さらに、川の流れのパターンという自分らしさは、スピノザのコナトゥス ── スピノザ哲学の概念で、あらゆるものが自分の存在を維持し続けようとする力や傾向を指しますに似ているのではないか、としゅうへいさんは考えています。
早く早起きはできるようになった方がいいんじゃないか。
三部作とサンガ新社の再出発
『無我の見方』はサンガ新社から献本されたもので、『無我の見方』『無常の見方』『苦の見方』の3冊セットになっています。しゅうへいさんは『無常の見方』はまだ読めていないものの、『苦の見方』もとても読みやすかったと話します。
サンガ新社は、もともとの株式会社サンガが破産申し立てをしたあと、元社員の方々がクラウドファンディングで立ち上げた会社だそうです。スマナサーラ長老の考え方をわかりやすく書籍にまとめ続けています。
しゅうへいさんは、仏教を面白いと思った人やもっと知りたい人に、3冊でもどれか1冊でも読んでほしいと勧めています。日常の身近な例えが多く、すっと入ってくる本だといいます。
なぜ人生は「川」に例えられるのか
紹介を受けて幸あれこさんは、川の流れというたとえはよく出てくると感じたそうです。老子も川のたとえを使い、美空ひばりさんの「川の流れのように」もあります。
なんで川なんだろうって思うけど、川以外にそういうものがないんですよね。移り変わっていくというか。
しゅうへいさんは、川がある土地には蛇や龍神信仰の神話が多いと話し、『千と千尋の神隠し』にも触れます。幸あれこさんは桃太郎も川から流れてくると続け、人生がよく川に例えられることに改めて気づいたと語りました。
次回は幸あれこさんが、またちょっと違った切り口の宗教論になるという一冊を紹介する予定です。
まとめ
スマナサーラ長老の『無我の見方』は、固定の自分はないという無我を出発点に、自我が宗教によって作られてきた背景を批判しつつ、川の流れのパターンとしての自分らしさを改善していく生き方を示す一冊として紹介されました。
- 仏教の五蘊無我は、自分を感覚の束とみる脳科学の知見とも重なるとしゅうへいさんは話す
- スマナサーラ長老は、自我は死の恐怖を背景に宗教家が作り出した商品だと批判している
- 自分は川のように流れ続ける存在で、その流れのパターンが自分らしさになる
- 流れのパターンはすぐには変わらないが、少しずつ管理し改善していくことが本当の自分探しだとされる
- しゅうへいさんは、スピノザ哲学の神やコナトゥスとも共通点を感じている




