13回続いたカント編、まずは人生を振り返る
カント編もついに第13話、最終回です。長かったシリーズを終えて、2人には「やりきった」という空気がただよっています。
もうなんかやりきった。だいぶ哲学の大事なところは話し終えたんで、ちょっと気が楽です。
これまでの他の回では、その人の人生を何回かに分けて話してから思想へ入ることが多かったといいます。ですが、カントは1話目からいきなり思想を話し始めていました。
今日は今まで実は触れてこなかったカント自身の人生、どんな生涯を送ったのかも少しご紹介いただけるみたいで。
その理由は、思想の分量があまりに多かったからだと、しながわは振り返ります。人生を3、4話分やっていたら破綻してしまう。だからこそ最終回で、人格をイメージするのに大事なところだけを軽くさらう構成になりました。
貧しい馬具職人の家から、大学へ
カントの両親は、勤勉実直なルター派の敬虔なキリスト教徒でした。ルター派 ── マルティン・ルターの宗教改革に由来するプロテスタントの一派。信仰と勤勉を重んじる。家はそれほど豊かではなく、父は馬に乗るための道具をつくる馬具職人だったといいます。
貧しい家庭でしたが、教会の牧師で大学神学部の教授でもあったシュルツという人物が、カントの才能を認めて経済的に援助しました。哲学者にありがちな、才能を見出されて引き上げられるパターンです。
8歳でフリードリヒ学院に入り、16歳で地元のケーニヒスベルク大学へ入学します。ケーニヒスベルク ── 当時のプロイセンの港町。カントが生涯のほとんどを過ごした場所。現在はロシア領カリーニングラード。カントは生涯、ほぼこの街から出ませんでした。
大学では、ジョン・ロックの著作を読む先生に出会います。家系のルーツもイギリス方面にあったのではという話もあり、大陸系だけでなくイギリス経験論を取り入れる土壌があった点は、このシリーズを思い出すと意味のあるポイントだと、しながわは指摘します。
自然科学も好きで、彗星を観察して予言したこともありました。ただ13歳で母を、20歳前後で父を亡くし、長男として弟妹を養うため、住み込みの家庭教師をしながら苦学します。父の死で大学を一度離れ、数年後に復学したといいます。
講師から教授へ、就職活動に励むカント
カント以降、哲学者はしだいに大学教授になっていきます。在野の人だったデカルトやホッブズとの違いです。ただカント自身は、まず家庭教師や大学の講師から始めました。
当時の講師は大学から給料が出ず、学生から講義料を取る仕組みだったといいます。カントの講義は人気があり、話すのも好きで上手だったそうです。真面目一辺倒のイメージとは少し違う一面です。
話すのは結構好きだったし、上手だったらしいですね。
弟妹を養うためにも、カントは大学教授の座をとにかく欲しがりました。ポストの募集があれば、自分がいかにふさわしいかを綴った自己推薦文を提出する。今でいうエントリーシートのような文書が残っているといいます。
当時は大学の数も教授の数も今よりずっと少なく、そのレアさは今の比ではありませんでした。それでもカントは、最終選考まで残って落選することを何度もくり返します。
街を出たくないカント、非社交的社交性の体現者
喋りが上手だったのに、カントは生涯ほとんど移動しませんでした。自宅を持ったのも60歳を過ぎてからで、それまでは間借り暮らしだったといいます。
移動しない代わりに、毎晩のように友達を家に招きました。5、6人掛けのテーブルで数時間話すのが日課で、これはある程度社交的な人だったことを物語ります。
一方で、カントは生涯独身でした。社交的な側面と、一人がよかった側面の両方を持っていたことになります。しながわは、これを前回のキーワードで言い当てます。
だからまさに、非社交的社交性ですよ。本当に。体現者ですね。
名声は教授になる前から広まっていて、イェーナ大学やエアランゲン大学から「来てくれませんか」と打診も来ました。ですがカントは何度も断ります。
理由は、ケーニヒスベルクから出なければならないからでした。健康上の理由や、街に知り合いが多いことも挙げていますが、本音は街を離れたくなかったのだろう、と本人が書いているのが面白いところです。
数学教授のポストと、カントの意外な策略
1770年、カントが45歳の頃、ケーニヒスベルク大学の数学の正教授が亡くなります。ポストが空いた大チャンス。ですがカントは、数学の先生にはなりたくありませんでした。
純粋理性批判や実践理性批判を説き、永遠平和を論じたカントが、このとき何をしたか。しながわが問いかけます。
数学の教授にもう一回、自分を売りに出したんですか?
答えは違いました。カントは当局に手紙を書き、論理学・刑事法学の教授だったブックという人物を「数学がとても得意らしい」と推薦したのです。しかも亡くなった教授は、ブックの義理の父にあたる人物でした。
カントさん、それ道徳的なのかな、あなたが思い描いた。
そのうえでカントはこう続けます。ブックが数学へ移れば、論理学・刑事法学のポストが空く。そこには私が行きます、と。実践理性を説いた本人の、なんとも現実的な立ち回りです。
実践理性を実践してないじゃん。
手紙の15日後、それが認められ、カントは45歳で晴れて正教授になりました。理想は理想として、現実ではなかなかその通りにいかない。両方が同じカントなのだ、という話です。
教授になってからの活躍と、静かな最期
正教授になったのは、フランス革命の20年ほど前でした。その後10年ほどは大きな著作を出さず、思索を深める時期が続きます。
1781年、56歳のときに『純粋理性批判』を刊行し、そこから実践理性批判、判断力批判、論文「啓蒙とは何か」「永遠平和のために」などを次々と発表していきました。
もっとも、それ以前から論文はよく書いていました。大地震が起これば地震の研究を、霊が見える人をめぐる「視霊者の夢」といった論文を書き、論壇ではすでにある程度知られていたといいます。
哲学だけでなく地理も教えており、世界のありようを論じました。日本には梅雨があり、長崎には出島が、切腹という文化がある、といったことまで書いていたそうです。
一歩も街を出ないまま、港町に集まる人々の話を聞き、それを自分の頭で構成して発信する。しながわはこれを「自分メディア」だと表現します。図書館の司書のアルバイトもしていたといいます。
いろんなものを見て聞いて、それを自分の頭で構成して出していく、そういう人だったみたいですね。
晩年、フリードリヒ大王が没すると政府は保守化し、宗教について論じることへの検閲もありました。カント自身は老衰が数年前から進み、79歳で静かに世を去ります。
最後に甘いワインを一口含み、「It is good」と言って亡くなったと伝わります。いい人生だったという意味か、単にワインが美味しいという意味か、解釈は分かれるといいます。ソクラテスやアウグスティヌスとは違う、静かな最期でした。
一つの人格で人を裁く時代への問い
13回を終えて、タッシーがまず挙げたのは、カントの思考法のすごさでした。一つの事象を、一つの側面や価値観だけで結論づけない点です。
理想的な世界と、現実はこうだという世界。人類が持つ社交性と非社交性。あえて矛盾する二つを同時に捉えて考えを深めるところに、タッシーは強く納得したといいます。
そこから、タッシーは平野啓一郎の分人主義を重ねます。分人主義 ── 小説家・平野啓一郎が提唱する考え方。一人の人間は状況や相手ごとに異なる複数の人格(分人)の集合体だとする。一人の中にいろんな人格があり、どれも自分だ、という感覚です。
その視点で見れば、素晴らしい思想を説くカントも、教授になるために裏工作をするカントも、どちらも同じカントです。ルソーもまた、社会契約論を書きながら人間くさい面を持っていました。
どっちのカントもなんか愛せるというか、親しみを持てるっていう感じですね。
ところが今の世の中では、人を単一の人格で評価しがちだ、とタッシーは危うさを指摘します。芸能人が一度ミスをすれば袋叩きにあって退場、SNSで否定されれば人格ごと否定される、といった具合です。
しながわは、この「対立する二つを捉えて乗り越える」考え方を、用語でいえば弁証法だと補います。弁証法 ── 対立する二つの立場をぶつけ合い、より高い次元へ統合していく思考法。ヘーゲルで有名だが、西洋哲学に古くから流れる発想。西洋哲学がバトルの連続としてつないできた歴史そのものだといいます。
AIと民主主義の時代に、カントが問い直すもの
タッシーが2つ目に挙げたのは、もしカントが2025年の日本に舞い戻ったら何を考えるか、という視点でした。
カントは「啓蒙とは何か」で、自分の頭で考えよと説きました。人の意見を鵜呑みにするのも、聞かなすぎるのもダメ。メタ認知的な視点を持って思考を深めよ、という主張です。
ですが今の民主主義はどうか。とりわけSNSを駆使する選挙で、表面的なネットの盛り上がりだけで大事な一票が投じられているのではないか、とタッシーは問いかけます。
さらにAIが進めば、どこからが自分の考えで、どこからがAIに教わった考えか区別がつかなくなる。だからこそ、鵜呑みにせず自分で考えるカントの姿勢が今こそ問われる、というのです。
これを受けて、しながわは啓蒙思想への二つの見方を示します。一つは肯定的な見方です。理想を掲げて進歩を目指す姿勢は素晴らしい。ただし理想がある限り、今は常にまだまだだと感じてしまう構造から逃れられません。
理想を掲げた時点で現状維持は原理的にできなくなる。それは資本主義への疑問にもつながり、今ここを味わうほうが大事だという東洋的な考え方もありうる、としながわは言います。
もう一つは、彼らの理想が本当に人類の理想だったのか、という見方です。市民が理性を駆動し、一般意志を働かせて考える。そんなことが本当に可能なのか。今の社会を見ると、そう思ってしまうこともあると、しながわは率直に語ります。
これは民主主義がダメだって言ってるわけじゃなくて、そういう視点で、まさにカントが言う自分の頭で考える、吟味していくっていうのが大事なんじゃないかな。
全てはカントに流れ込み、カントから出ていく
最後に、しながわはこのシリーズの1回目に立てた問いへ戻ります。カントは思想史のターニングポイントだったこと、そしてカントのモチベーションは何だったのか、という2点です。
デカルトには知る喜び、発見する楽しさがあったのだろうと、しながわは見ます。ではカントは何がしたかったのか。地理も人類も歴史も理性も道徳も、論じまくった人です。
半年以上考えて、しながわがたどり着いた核心は「人類は必ず理想に到達する」という、根拠のない確信でした。企業の世界でいう、根拠なき確信に近いものです。
理想はここにあるのに、現実は戦争が起こり、人は欲望にまみれ、賢明な君主も思想統制をしてくる。この理想と現実のギャップへの憤りが、カントを動かしたのではないか、というのです。
一方でタッシーは、それも一側面だと重ねます。好奇心旺盛で、興味の赴くままに考え、それを脈絡なく学生に語るのが楽しかったカントもいたはずだ、と。
絶対世の中こう変えたいみたいなじゃなくて、いや、俺の考えてる理想なんだけど、書いちゃったらすげえ広まっちゃったみたいな。
そして最後の核心を、しながわはサンボマスターの歌詞になぞらえます。「出来っこないをやらなくちゃ」。当たり前に思えますが、これを明確に示した人はなかなかいなかった、というのです。
しながわは、これを哲学史の中に位置づけます。古代ギリシャから哲学は究極や極限を追い求めてきましたが、カント以前は主に万物の根源や始まりを探求していました。
カントはそこに、あり得るべき未来、究極の未来を描き加えました。個人としては道徳的で自由な存在、人類としてはみなが道徳的に生き、国家が連合して永遠平和が実現する未来です。
絶対に実現しないけれど、そちらへ向かうべきだという理念を示す。しながわは、こうなるべきだという「あり得るべき未来」を描いたことこそ、カントが哲学史の転換点である理由だと語ります。
以後、そうした理念を掲げる哲学者が増えていきました。「全てはカントに流れ込み、カントから出ていく」という言葉の意味が、ここで回収されます。
万物の根源や始まりなど、究極の「始原」を探求した
あり得るべき「究極の未来」「理念」を描くようになった
まとめ
カント編の最終回は、街を出ず生涯を過ごしながらもポスト争いに策略をめぐらせた人間くさいカントの姿と、令和の私たちにカント哲学が投げかける問いを重ねる回でした。理想と現実、社交性と非社交性という矛盾を抱えたまま、カントは「あり得るべき未来」を描いてみせた哲学者だったと語られます。
- 貧しい馬具職人の家に生まれ、援助を受けて学び、45歳で正教授になったカントの生涯は、偉人としては地味だが人間くさい
- 数学教授のポストを避けるため、他人を推薦して自分の狙うポストを空ける立ち回りも、素晴らしい思想を説くカントと同じ一人の人物だった
- 人を単一の人格で裁きがちな今の風潮に対し、一人の中の複数の人格を認め合う視点が問われている
- AIと民主主義の時代だからこそ、鵜呑みにせず自分の頭で考えるカントの姿勢が意味を持つ
- 究極の「始まり」を問う哲学に、「あり得るべき未来」という理念を描き加えた点に、カントが思想史の転換点である意義がある




