「電リク」が流行った理由と、二本指のエアチェック
木村さんはまず、100年以上あるラジオ史のうち、自分が知る70年代の話から切り出します。当時人気だったのが、音楽リクエスト番組でした。
一流の声を科学するラジオ。
今日はね、じゃあちょっとラジオの歴史を、私が語るのもおこがましいですけど、ラジオは101年の歴史がありますから。私が知ってるのはそのうちの数十年ですけど、ちょっと今どきない話をしたいなというんで。
1970年代、本当にこう隆盛を誇ったラジオ番組で、音楽のリクエスト番組っていうのがものすごく流行りまして。
リクエスト番組。
そうなんですよ。電話リクエスト、略して電リクっていうね、時間があって。なんでこういう番組が流行ったかっていうと、当時やっぱりレコードが高価だったんですよ。
高すぎた。
一枚2000円近くするLPをパッと買うのってちょっと厳しいじゃない。ラジオでリクエストして聴いてみて、この曲なら買ってみたいなっていう、サンプル的、ショーケース的な意味合いもあったのね。
後のFM局、FMは1970年ぐらいからスタートするんですけど、まるまる一枚LPかけてくれる番組とかあったのよ。
それを録音することをエアーチェックって昔言ってたんだけど。
これなんで二本指かっていうと、録音ボタンと再生ボタンをギュッて一緒に押すと、ラジカセの録音が始まるわけよ。私ぐらいの60前後の人間が二本指でギュッてやってる時は、赤いボタンと青いボタンを一緒に押すと録音っていう。
ラジオが強かった時代の人気アナウンサーたち
木村さんは、当時ラジオにはテレビに負けない力があり、人気アナウンサーの多くがラジオの人気番組から出てきたと語ります。
そういう音楽のショーケース的なものもあったし、当時そのラジオの力がまだまだあったんですよ。
テレビよりも。
テレビの方がもちろん商業的な効果はすごいんですけど、ラジオにはまだまだすごい力があって。人気アナウンサーは大体、その局の一番人気番組をやってる人だったわけ。
テレビ局はテレビ局とAMラジオ局を持つことは法律的にOKだったんですよ。でもFMは持てなかったんですよ。
持てなかった。
だからTBSの一番人気のあるアナウンサーが、TBSの一番人気のあるラジオをやってる人だったわけね。典型例が久米宏さんですよ。久米さんはそこから出てきてる人なんで。
久米さんはニュースステーションでテレビの黄金期を作り上げたんだけど、お亡くなりになる間、ずっとテレビ辞めちゃって、「ラジオなんですけど」っていう番組をやってらっしゃったでしょ。
うちの師匠、美濃門太、私、美濃門太の弟子なんですよ。美濃さんは文化放送というテレビ局がないところに、ラジオのアナウンサーとして入社したわけです。
美濃さんはその後、テレビの人気者として、本当にギネスブックに載るほどの大スターになりましたけど、という方とか。
福岡なら松井新一さん、名古屋では坪井規郎さん、北海道は北海道でいろいろいると思うんですよ。各局の人気者たちが、そのラジオ局の局アナだったりすると、一番人気の電リク番組を担当させられてたんですね。
松山千春もチューリップも、ラジオから火がついた
木村さんは、当時のラジオが持っていた「音楽を発信する力」について語ります。地方のラジオから全国へ広がったミュージシャンたちの例を挙げます。
音楽を発信する力って、チューリップっていうバンドがね、たまたま私と同じ福岡県の出身なんだけど、やっぱりラジオから火がついていくんですよ。
うん、確かに。
松山千春さんは北海道の人だけど、北海道のラジオ局から火がついてて。有名なラジオのディレクターの方が千春さんの歌に惚れ込んじゃって、「君は絶対デビューした方がいい」って言って、会社から給料前借りまでしてくれて。
へー。
名物ディレクターとか名物プロデューサーがいて、いろんな音楽をかけて、あるアーティストは名古屋の辺りで火がついて有名になっていくとか。フォークソングで有名な神田川なんて曲も、確か名古屋あたりから火がついたんじゃなかったかな。
もう私、すでに6歳か7歳から深夜放送を聞いてた。もうね、ませガキなのよ。
ちっちゃいトランジスターラジオを親からもらって、ずっと聞いてた記憶があって、小学校に上がる前ぐらいから深夜放送を聞いてたぐらいなんですよ。悪いガキでしょ。
クイーンとカルロス・サンタナ、洋楽が強かった福岡
木村さんは、小学校低学年でクイーンに衝撃を受けた記憶を語ります。地元・福岡が洋楽の一大拠点だったことも明かします。
ラジオを聞いてて驚いたのが、まだ小学校の低学年ですよ。なんだこれはと思うような曲が聞こえてきたのがクイーンです。
クイーン。
ボヘミアンラプソディを聞いた時。福岡ってね、洋楽のロックミュージシャンをものすごく地域のDJがバンバンオンエアするんで、日本縦断コンサートがなぜか福岡からスタートしたりしてたんですよ。
カルロス・サンタナってギタリストが、最初、福岡の板付空港に自家用飛行機でやってきたんだよ。みんな、いや、福岡ってそういうとこだよなって、勝手に誤解してたとこあるよね。
音楽好きだもんな、俺らと思って。
洋楽の拠点が福岡。
チープトリックっていうアメリカの4人組が福岡でライブがあった時、福岡のKBC九州朝日放送のスターアナウンサー、松井新一さんが、そのチープトリックの曲をいっぱいかけてたんで。
ボーカルのロビン・ザンダーからアンコールの時、松井上がってこいって言って、ラジオ局のアナウンサーとチープトリックがトリを取って歌ってたとか。それぐらい音楽を発信する力はラジオの方が強かったんですよ。
FM局が続々開局、憧れたのはミュージックステーション
木村さんは、90年代初頭にFM局が続々と開局した時代を振り返ります。アメリカ帰りだった木村さんは、日本のラジオが求めるものについて考えを深めていきます。
1990年代の初頭ぐらいに、東京にFM局がドバっと開局したんですよ。J-WAVEができたり、ナックファイブができたり、BAYFMができたり。都道府県に一局しかなかったFM局がものすごくできて、その時に一番求められたのがバイリンガルDJなの。
バイリンガルDJ。
たくさんの人が出てきて音楽を紹介していく、いわゆるミュージックプログラムがたくさん流行ったわけね。
私、アメリカから帰ってきたばっかりだったから、ついに日本にもこういう時代が来たかと。アメリカ人って朝起きたらすぐ音楽かけて、ずっと無音が耐えられないみたいな。
ドパガキじゃないですか。
アメリカではトークラジオがすごい嫌われてたわけよ。ミュージックステーションこそがかっこいいところで。向こうだったら「We're gonna bring you all music, no talk」とかさ。
ノートークがかっこいいね。
音楽の放送時代がやってくるかなと思ったんだけど、やっぱり日本人ってトークが好きなのね。ラジオに求めているのはやっぱりトークっていうか。
1970年代は深夜放送が始まって、セイ・ヤングやオールナイトニッポン、パック・イン・ミュージックがあって。大人には言えない、青春を謳歌してる若者たちの解放区が深夜のラジオにあったんだよね。
そうですね。今もあり続けてますけどね。
胸をときめかせた電リク番組と、初めてのリクエスト
木村さんは、深夜放送のパーソナリティたちの魅力を語ったあと、話題を電リク番組へ戻します。子供の頃、初めてリクエストした時の記憶を明かします。
土曜、日曜のお昼帯が一番人気で一番お金がかかってるワイド番組だとすると、深夜の枠は、まだ世間には出てないけど若い人の気持ちがよくわかる、少し年上のお兄さん、お姉さんみたいな人がすごいもてはやされたのね。
我々が直撃された深夜放送は、笑福亭鶴光さん。鶴光のオールナイトニッポンは本当に面白くて。テレビより面白いと思ったもん。
この年代独特の盛り上がりを見せてたのが、リクエスト番組、電リク番組ですね。今でも2時間番組の中で一曲、二曲かかったりするけど、違うのよ。2時間全部ずっとリクエスト。
鳴りっぱなし。
それが昔の、胸をときめかせたリクエスト番組でね。
私は子供だったから、リクエスト番組が始まったら電話を取ってね。オペレーターさんもなかなか届かないのに、一回だけ電話をかけたら「アナウンサーにつないでいいですか?」って言われて、もう胸がドキドキになっちゃって。
九州のリクエスト番組で、私が何をリクエストしたかはすごく覚えてて。樹里恵子さんっていう、パンチ力のあるボーカリストのジェット最終便っていう曲。
隣で私がドキドキしながら電話で喋ってる時、うちの兄とか母親が「他の曲にしなさいよ」とか、「お前、チューリップの銀の指輪に変えてもらえ」とか。
樹里恵子さんのジェット最終便をかけてもらったら、電話が終わった後にちょっとうちの中で険悪なムードが。
後に私が福岡でフリーのディスクジョッキーになった時、KBCラジオの一番人気があったリクエスト番組、今週のポップスベストテンの3代目のパーソナリティにしてもらったんですよ。
トップ中のトップの局アナしかなれなかったのに、私が部外者で初めてなって。すごい期待されてたのに、すぐ辞めて東京に行っちゃったから、「あの野郎」って思われてるのかもしれないなと。
山下達郎と、憧れの洋楽DJたち
木村さんは、日本のラジオがトークへ向かう一方で、みんなが憧れ続けたミュージックステーションについて語ります。その象徴として山下達郎さんの名前を挙げます。
山下達郎さんってなんであんなに売れてるかっていうと、まさにあの人は一人FM局みたいな感じのレコードを作ってるわけですよ。
もうありえない量のレコードを持っていらっしゃる。
日本語で歌ってるけど、これ英語だったらアメリカのFMでかかってそうなオシャレな曲じゃない?みたいな曲をいっぱい作ってるわけじゃん。
うんうん。確かに。
達郎さんのレコードで、小林克也さんが途中でDJを入れて、まさにFM局仕立てに作ったようなアルバムとか結構あったはずですよ。
当時、ハワイに海外旅行で行ったら、ハワイのFM局を録音してくる。長いテープに録音して帰ってきて、ブティックとかでかかってると、「うわぁオシャレ」と思ってさ。
ハワイのKIKIっていう放送局にカマサミ・コングさんっていう方がいて、「Hi, this is Kamasami Kong」っていうね。FM DJになったら「Hey, stay tuned」とか言いたいじゃない。
言いたいですね。
達郎さんは小さい頃からFENを聞いてたんでしょうから、あそこで聞いてたベストテン番組みたいな構成が絶対頭の中にあって。ああいうかっこいいものを日本文化に移し替えたものを作ろうとした努力の跡がよく見えますもんね。
小林克也さんにはめちゃくちゃ憧れましたね。シリア・ポールさんっていう女性DJの番組で、サントリーさんのサウンドマーケットっていう番組の間のジングルで、克也さんが「This program is brought to you by Suntory」って。これがかっこよくてさ。
私、聞いたことあります、それ。
だんだん小林克也さんが有名になって、テレビに出てきた時、「えー、こんな感じの人なの?」と思って。ごめんなさい、克也さん。
タモリさんが「英語しかできないですか?」って言ったら、「いや、ちょっとフランス語をやったことありますね」って。それも上手かったんです。
英語って頑張って勉強したら、小林克也さんまではいかないにしても、かかとぐらいまで行けるんだと思って、「よっしゃ、勉強しよう」と思ったもんね。
城達也の『ジェットストリーム』と、還暦での再会
木村さんは、渋い声で憧れたアナウンサーたちを挙げます。中でも城達也さんとの思い出は、後に自身の人生とつながる伏線になっていました。
オーソドックスな綺麗な日本語を喋るのは城達也さん。もう一方、TBSでよく声を出された若山弦蔵さん。声優でもいらっしゃって、若山弦蔵先生の声が本当に素晴らしくてですね。
このお三人は本当にいい声で、しかもラジオで憧れた方々だったかな。
城達也さんのジェットストリームっていう番組は、実はFM局の一番古い番組でもあるんですよ。現在は福山雅治さんがやってらっしゃる番組だけど、スタートしたのもFM放送と同時に始まってるんですよ。
これは最初、東京FMじゃなくて、FM東海。
東海。
名古屋にあった放送局の実験放送から続いている番組なんです。こんな長いことやってる番組って、あの番組だけです。
私自身は東京FM主催の全国のDJコンテストで優勝してデビューしたんで、番組を持たしてもらったのも東京FMが早いわけ。
東京FMに来たら、「今日、城達也先生の還暦祝いがあってるからご挨拶しに行こうか」って。新入社員と一緒にご挨拶に行って、「いやー、君たちは若くていいね」って言われた。
もうその声の良さに倒れそうになって。「とてもじゃないけどこんな風になれない」と。手術かなんか受けないとこんな声になれないと。
先生に会った時が60歳で。結構、還暦過ぎて経たれて、天国に行かれちゃったんで残念だったんですけど。当時22、3のガキだった私が今、還暦ですからね。
子供の頃すごい憧れてたものが、20年30年経って自分のもとにブーメランが返ってくるというか。だから70年代のラジオに少し育ててもらったかなという記憶はよくありますね。
電リクをもう一回。今は難しくなった理由
最後に二人は、話題を電リク番組の現在へ移します。木村さんは、今ではあの番組が成立しづらくなった理由を語ります。
70年代の、この電リクから始まった。
電リク、ちょっともう一回やってもらいたいですね。今は本当に厳しくなっちゃったんで。私がゲストで出る時、「かけたい曲ありますか?」って言われて曲を言うと、「それがかけられるかどうか確認を取ってきます」って言われるんですよ。
はいはい。ありますね。
こんなことは昔なかったです。ラジオ局がかけてくれるっていうんだったら、レコード会社とか芸能事務所は万々歳で「ぜひかけてくれ」って言ったけど。今は「この放送局でこのアーティストの曲かけちゃダメ」っていうのがいっぱいありますからね。
「この事務所の楽曲はうちの放送局では使えません」とかいっぱいありますからね。今は音楽の権利を持ってる人たちの方が強くなっちゃったということですね。
なるほど。
だから今となってはなかなか成立しづらいですね。懐かしい70年代の電リク番組。もう一回やってみたいな。
今回は木村さんのラジオ史を紐解くところから、70年代を主に掘り下げてもらいました。ありがとうございました。
まとめ
木村匡也さんが振り返る70年代のラジオは、高価なレコードを試聴する場であり、地方から音楽が全国へ広がる発信源でもありました。人気アナウンサーの多くがラジオの人気番組から生まれ、木村さん自身も憧れた声やDJに導かれてこの道へ進みます。憧れた城達也さんと還暦で再会するなど、当時のラジオが人生の伏線になっていたことも語られました。今は権利の事情で電リクが成立しづらくなったといいます。
- 70年代の電リク番組は、高価なレコードを試聴するショーケースの役割を担っていた
- FM局を持てなかった時代、人気アナウンサーはラジオの人気番組から生まれた
- チューリップや松山千春など、地方のラジオから火がついたミュージシャンが多かった
- 木村さんは憧れの城達也さんと東京FMで再会し、ラジオに育てられた実感を語った
- 今は楽曲の権利事情が強くなり、かつての電リク番組は成立しづらくなっている






