聞かれてないけど、続けるのはなぜ?
番組冒頭で二人が話題にしたのは、集計時代(シューケージダイ)の再生数でした。シュウが旅の前に偶然見た数字では、第1話が67再生だったのに対し、第2話は10ほどまで落ちていたといいます。
第1話に比べて第2話の再生数が急激に10分の1ぐらいになってるのを偶然見て、なかなかだなと思って。
シュウの推測では、LISTENでプレイリストに入った第1話だけが多く聞かれ、そこで離脱した人が多かったのではないかとのことです。数字が気になったわけではなく、たまたま目に入ったので話題にしただけだと断っています。
まあいいんじゃないですかね。楽しく喋れたら。
ケージくんも、聞き手が減っても構わないというスタンスでした。シュウにとっては、ケージくんに自分の考えを深掘りしてもらい、解像度が上がること自体が目的だといいます。
「オーバー」ルールで会話は成立するか
ケージくんが、以前シュウが話していた「オーバー」という会話ルールを試してみたいと提案します。これは、話し終えた人が「オーバー」と言うまで相手は割り込まない、というやり方です。
もとになっているのは、シュウが参加した哲学対話のイベントでした。ぬいぐるみを持っている人だけが話せるというルールで進めたところ、最後まで話を終えられて満足度が高かったといいます。
(哲学対話に)参加したらめちゃくちゃ最後まで話が終えられて満足度高かったっていうのがあって。
オンラインではぬいぐるみを持てないため、話し終わりの合図として「オーバー」と言う方式にしたのだと、シュウは改めて説明しました。二人はこのルールで感想回を始めてみます。
なぜ龍源さん回を、5回分もねっとり語るのか
この回の本題は、コテンラジオのコテンラジオ ── 歴史を面白く学ぶポッドキャスト番組。COTEN RADIO。この回では、松波龍源さんがゲストの仏教全5回を扱っています龍源さんゲスト回の感想です。ゲストは実験寺院で活動する松波龍源さんで、仏教について全5回にわたって語っています。
ケージくんは、この感想回の目的をはっきりさせます。単なるコテンラジオのファンとしてではなく、シュウがこの回に影響を受けているからだといいます。
(シュウさんの)言葉の中にも多分溶け込んでいってるような気がするので。
つまり、龍源さんの言葉や概念がシュウの語りに染み込んでいるなら、まずその元をしっかり味わうことで、この先シュウ哲学の理解がしやすくなる。それがこの感想回の狙いだとケージくんは整理しました。
シュウ自身も、龍源さんの言うことを絶対的に正しいと思って上塗りしているわけではない、と最初に断っています。
自分の輪郭をくっきりさせるために、自分が採用したい部分はこの部分みたいな、そういうところを(龍源さんから)取らせてもらおうというか。
シュウは、龍源さんとは違うスタンスになる部分もあると予告します。シュウが通う瞑想合宿 ── ヴィパッサナー協会が主催する10日間の合宿。ここでは上座部仏教系とされ、日々の瞑想実践を中心に置いていますはどちらかといえば上座部仏教系で、密教の立場に立つ龍源さんとは前提が異なるためです。
仏教は「ルールブック」なのか
龍源さんは仏教を4種類に分けて説明していました。ケージくんはそのわかりやすさを認めつつ、逆にわかりやすすぎると感じたといいます。
ケージくんが受けた印象は独特でした。悟り・解脱・涅槃・成仏の違いを崖登りにたとえる説明を聞いて、ロールプレイングゲームのルール解説みたいだと感じたのです。
めっちゃルールの解説をされてるような気がしたんですよ。
ケージくんは、ダンジョンズアンドドラゴンズ ── テーブルトークRPGの代表作。世界観やルールを詳しく記したプレイヤーズハンドブックがあります。D&Dと略されますのルールブックにたとえます。読んだだけでは遊び方がわからず、実際に遊んで初めて意味がわかる、という感覚です。
そこからケージくんは、仏教も同じで、教えを実際に人生に活かして生きる感覚を得ないと、知識として知っているだけで終わってしまうだろうと話しました。
一方でケージくんは、苦しみの「苦」にフォーカスして説明していく組み立ては非常にわかりやすかったと評価しています。
ケージくんが世界観の設定好きになった背景も語られました。小学生の頃にギリシャ神話や聖闘士星矢に夢中になり、オリンポス十二神の名前をノートにまとめていたといいます。そのため仏教の話も、そういう「設定」として捉えてしまったのだと振り返ります。
知的好奇心はめっちゃ刺激される。面白いのはめっちゃ面白いんですよ。ただ自分の生き方とか考え方で参考になるとか、そういうのはあんまないな。
シュウにとっては予想もしない視点でした。同じ回を聞いても、人によってここまで受け取り方が違うのかと驚いています。
「絶望が足りない」と「手放しが足りない」
話題は「絶望」に移ります。龍源さんは、苦が完成すると絶望を生み、絶望が暴力につながると語っていました。ケージくんはこれをすごい話だと受け止めます。
ただしケージくんは、戦争を単純に絶望だけで説明するのは違うだろうと慎重に留保しつつ、それでも苦が一人の中に積み重なって絶望になり、テロや恐怖につながるのは確かにそうだと感じたといいます。
その上でケージくんは、宗教への見方が変わったと話しました。もともと特定の宗教は信じておらず、なくていいと思っていたそうです。
(仏教が)苦を取り除くという意味があるものであれば、やっぱり人類にとって必要なものなんだなっていうのはめちゃくちゃ思いましたね。
シュウは、ここで二つの論点を切り出します。一つはケージくんがかつて別の収録で語っていた「絶望」という言葉の定義、もう一つは宗教が必要かどうかという点でした。
シュウは、瞑想合宿では宗教色が薄く、どんな宗教の人でも受けられると説明されると話します。ただし合宿中は決まった祈りや儀式を一旦やめるよう言われるといいます。瞑想の効果か祈りの効果かがわからなくなるためです。
シュウが重視するのは、自分の体の感覚にいつも気づき続けるという集中の仕方です。神様の名前を唱える集中と違い、日常生活を送りながらも続けられる点が肝だと解釈しています。
何かの宗教に所属することにも効果があるのかもしれないですけど、そうしなくても瞑想的な感覚を身につけていくことで、戦争を回避したりとか、苦しみから逃れるっていう手法があると思っている。
シュウは宗教を否定するつもりはないと断りつつ、ビビり(不安を感じやすい性質)が発動するのは宗教の違いによる争いだと明かします。効果が大きいほど、他の宗教とぶつかる確率が上がると感じているのです。
こっちの方が効果あるよっていうよりは、(瞑想の方が)争う確率低くない?っていう話でした。
ケージくんの言う「絶望」の意味も明かされます。地球温暖化を例に、まだいけると思っている人たちを指して「絶望が足りない」と言っているのだそうです。
考えなくちゃいけないことから逃げてる人が多いんじゃないかなって思ってるというか。
ケージくんから見ると、シュウは温暖化について完全に絶望していて、その上で今の生き方をしている人だといいます。一方で「まだいけるっしょ」と思っている人が絶望が足りない、という整理です。
二人は、龍源さんの言う絶望と、ケージくんの言う絶望は、単語は同じでも指している概念がほぼ違うと確認しました。
「笑いの量」と「枯れ木の境涯」
ケージくんは、集団として動くときの指針として「世の中の幸せの総量を増やしたい」という思いを昔から持っていると語ります。個人としては後悔しない選択をする、という基準を置いているそうです。
シュウはここで、AIによって加速する問題を持ち出します。ITの仕事をするケージくんは、AIを使ったサーバー攻撃が増えていることを実感しているといいます。
ケージくんが問題視するのは、その背景にある貧富の差でした。貧しい人が世の中を不公平だと感じ、悪いことをしてでも世界に復讐してやる、という気持ちを持つとしたら、それは確かにと思えてしまう、というのです。
格差とか貧富の差が広がってるこの世の中の仕組みというか、構造自体に問題があるから、そこを是正していかないことには。
一方でシュウは、この状況に意外と絶望していないと話します。ビビりだが、ビビっていない瞬間はむしろ他人より楽天的で、性善説寄りだからだといいます。
シュウが使う言葉は「手放しが足りない」でした。瞑想合宿で教わった、感覚と反応の話が土台になっています。
いい感覚には渇望や執着が、悪い感覚には嫌悪や憎悪が生まれ、どちらも苦になる。だから、やれることをどんどん進めるほど苦も増す、というのがシュウの見方です。
欲望を出せば出すほど苦につながるから、それはAIとかで加速させればもっと大きいしっぺ返しが来るの当たり前だよね。
シュウは、この考え方を大乗仏教や密教の人たちは「枯れ木の境涯」と呼ぶが、自分は枯れ木とは思っていないと話します。枯れ木は死のイメージがあり、笑えない気がするというのです。
ケージくんにとって枯れ木は死のイメージが薄く、むしろミイラのように死を乗り越えた次の段階のイメージだといいます。ここでも同じ言葉の受け取り方が二人で違いました。
シュウが目指すのは「ちょうどいいところ」でした。ケージくんの言葉を借りれば、笑いの量を増やしたい。そのために欲望を減らす、という発想です。
もっと笑うためには欲望を減らす。でも(枯れ木は)笑えない気がしちゃって。
シュウは、ブッダの言う「中道」こそ自分が目指すものだと感じています。難しく解釈しなくても、ちょうどいいところを目指そうというシンプルな教えにしか見えない、という受け止めです。
「ちょうどいい」は量では測れない
ケージくんは、シュウの「ちょうどいい」があまりに漠然としていると指摘します。人類全体のちょうどいいなのか、個々人のちょうどいいなのかが見えない、というのです。
シュウは、それはそもそもぼんやりしているものだと答えます。だからこそ感覚が一番大事で、定量化やお金で測れるものに違和感を持っている、と続けました。
ここで、シュウが発信している「アウトプットが先」という考えとつながります。インプットが先とは、何かをもらえないと渡さないという交換条件が最初にある状態を指すそうです。
交換条件は、これとこれは等価だと数値化して成り立たせるもので、感覚とは本来別物だ。シュウはそう考えていると語ります。
ちょうどいいって感覚でしかないと僕思ってるんですよね。量で示せるものではないと思っていて。
シュウが注目しているのは、みんながどれだけちょうどよく笑えているかでした。それは量では測れず、それぞれが無理せず感覚を出し合ってバランスを取り合うしかない、というのです。
ここでケージくんの言葉を受けて、シュウ自身の理解が動きます。3年ほどシュウの発信を聞いてきて、「自分の感覚を大事にする」の意味が今やっとわかった、というのです。
シュウは、自分も中学生の頃から近いことを考えていたと明かします。入試のように、テストの点数だけで人生が決まってしまうことへの違和感でした。
人を測る物差しの種類が少なすぎるなと思ったんですよ。
つまりケージくんの「感覚を大事にする」は、少ない物差しで決められた価値観に縛られるべきではない、という考えなのだとシュウは気づいた、と語りました。
AIで物差しは増やせるのか
シュウは、この物差しの話に希望も感じています。大学で情報知能工学を学んだ経験から、AIの発達で扱えるパラメータ ── 計算に使う変数のこと。日本語では変数。数が増えるほど、複雑なものを細かく表現・演算できるようになりますの数が桁違いに増えていることに注目します。
たとえば10人の部下を3つのグループに分けるとき、人間が同時に考えられる要素はせいぜい20ほどでも大変な仕事量になる。しかしAIは膨大なパラメータを同時に演算できる、とシュウは説明します。
その本当にもう人間が処理できないレベルでの、いわゆる物差しというか、人の評価という演算処理がAIだったらできるんじゃないかな。
シュウが中学・高校の頃に描いていたのは、それぞれの人の長所や才能を細かく判定できる世の中でした。今のレコメンド技術は、その一部が現実化していると見ています。
ただしシュウは、寄り道なく最適なものがすぐ渡される世の中が本当にいいかどうかは別の話だと留保します。それでも、お金だけで価値が決まる状況から、多様な物差しで価値が見出される世の中に近づくのではという希望を語りました。
ケージくんも、感覚が近いかもしれないと応じます。数値化が100%でなくても圧倒的に増えれば、人間にとってそれは数値ではなく感覚として感じられるものになる、というのです。
パラメータが多すぎて、一個一個の物差しが意識できないってなるんですよね。
一方でケージくんは、測れれば解決するとは思っていないと釘を刺します。自分でも自分の気持ちに気づけない、という問題があるからです。
ここでケージくんは、龍源さん回の3回目で出てきた末那識 ── 唯識で説かれる深層の自我意識。マナ識。自分でも気づかないうちに自我にとらわれ、苦を生み出す働きとされますを持ち出します。自分で自分の苦しみを生み出しているところまでAIがわかるのか、という疑問です。
シュウはこれに、渡す側はできても受け取る側の問題だと答えます。人類が言語化できていることはAIも理解できるが、受け取る側のセンサーが鈍っていれば意味がない、という整理です。
受け取る側が結局それを正しく受け取れなかったら、そういう意味ではショートカットは結局できないですよね。
シュウはさらに、仏教という優れたフレームワークが2500年前からあるのに広がっていないことに絶望する、と話します。しかしIT技術の発達で、それを求める人に届きやすくなる世の中になるのでは、とも考えています。
ケージくんも、地球全体の年月からすれば人類はまだよちよち歩きかもしれない、と応じます。だから絶望するには早く、その意味で楽観的でいるのだといいます。
シュウは、自分の中にも絶望と楽観が両方あり、その間のちょうどいいところに自分がいると受け止めていました。二人の言葉は、ここで静かに重なります。
やって良かった感想回と、次回への予告
ケージくんは、この日ネットカフェにわざわざ入って収録した価値があったと満足していました。旅の間はほぼやってこなかったことだといいます。
マジで入って良かったって思いました。
シュウも、普通の感想会では面白くないと思っていたところ、仏教や空の話から始めてここまで話が広がったことを良かったと振り返ります。
次回は龍源さん回の第2回、空と中道の話が中心になる見込みです。ちょうどシュウが2度目の瞑想合宿を終えた後の収録になる予定だといいます。
最後に二人は、コメントやハッシュタグ「シュケダ」での投稿を呼びかけました。届いたものは、いずれお便り紹介回で拾っていきたいと話しています。
まとめ
コテンラジオの龍源さん回の感想から始まった対話は、仏教の「苦」を軸に、二人の異なる言葉づかいが少しずつ重なっていく回になりました。最後には、シュウ哲学の核である「感覚を大事にする」の意味が言語化されます。
- 龍源さん回を扱う目的は、シュウの語りに染み込んだ言葉や概念を共有し、シュウ哲学を理解しやすくすること
- ケージくんは仏教を「ルールの解説」として面白がる一方、自分の生き方への直接の参考にはあまりならないと受け止めている
- 同じ「絶望」「枯れ木」という言葉でも、龍源さん・ケージくん・シュウで指している概念や印象が異なる
- シュウは苦の原因を欲望と反応に見て、「絶望が足りない」ではなく「手放しが足りない」と捉えている
- 「感覚を大事にする」とは、少ない物差しで測る価値観から離れることであり、AIで物差しが増えればむしろ実現に近づくという希望が語られた







