エルメスの回が響いた、3代目ゲストの自己紹介
「家業兄弟」は、ファミリービジネスの研究者を目指してマレーシアで博士課程に進んだ兄の大上博行さんと、和紙の卸問屋オオウエの4代目社長である弟の大上陽平さんが、理論と実践を行き来しながら家業を語る番組です。今回から、白神商事の白神康一郎さんをゲストに迎えたシリーズが始まりました。
白神さんは番組をほとんど聴いているといい、印象に残った回としてエルメスの回を挙げます。
(エルメスの回は)何をもって家業なのかっていうところであったりとか、いろんなものも含んでるけど、家業っぽいっていうところってすごく面白い視点だなって思いました。
白神さんの家業である白神商事は、岡山県で屋根瓦を仕入れて販売する卸業の会社です。祖父が創業し、父が継ぎ、その後何人かの社長を経て、白神さんが3代目として継ぎました。
白神さんは家業に戻ってから、職人さんの環境をもっと良くしたいという思いで新規事業を立ち上げ、いえいろは株式会社 ── 白神さんが家業とは別に立ち上げた会社。瓦などの職人の仕事をより良くすることを目指した新規事業として始まりましたを設立しました。2、3年前にはJ-Startup ── 経済産業省が有望なスタートアップを選定・支援する取り組み。地域ごとの版があり、WESTは関西・中国・四国などの西日本地域を対象としていますのWESTにも選ばれ、現在は家業とスタートアップの両方で社長を務めています。
和紙問屋の陽平さんは、家業の卸業という共通点から悩みの克服の仕方を聞きたいと話し、博行さんは家業の内と外の両方でベンチャー的に動く白神さんのあり方に関心を寄せます。今回のテーマは、白神さんが家業に入るまでです。
瓦のパレットで鬼ごっこをした、会社の2階での幼少期
白神さんの実家は、白神商事の建物の2階にありました。3歳から祖父母、両親、白神さん、妹の6人で暮らし、仕事場の真上で育ちました。
博行さんによると、研究でも職住一致 ── 住まいと職場が同じ場所、またはすぐ近くにある暮らし方。家族経営の商店や町工場によく見られる形態ですの生活は家業に触れやすく、継ぐ可能性を高めるとされているといいます。白神さんにとっても、家業はまさに身近な存在でした。
白神さんが小学生のころ、会社の敷地には瓦が3、4段積まれたパレットが並んでいました。白神さんは友達を呼んで、その間で鬼ごっこをしていたといいます。
今(瓦を)仕入れる代になると、これ1個多分数千円とか1万円ぐらいしたよなみたいなもの落としてたんで、ほんと申し訳ない気持ち、今はよくわかります。
運動神経は悪かったものの外で遊ぶのが好きで、白神さん自身は「鼻水垂らしてるような」子どもだったと振り返ります。妹はそれほど活発ではなく、白神さんと友達の遊びについてくることが多かったそうです。
瓦の黄金時代と、セメント瓦から卸業への転換
瓦の市場の浮き沈みについて、白神さんは歴史から説明します。瓦そのものは数千年前からあり、今の形の瓦は江戸時代にできたと一般に言われています。
白神さんによると、1980年ごろから機械による大量生産が可能になり、安くなった瓦が一般家庭に一気に広がりました。人口が増える時代と重なり、ほとんどの家に瓦が載るほどだったといいます。
しかしその後、瓦を使う家そのものが減り、人口減少も重なって市場は縮小していきました。陽平さんは、和紙もまさに同じような経過をたどったと話します。
江戸時代
今の形の瓦ができたと一般に言われている
1980年ごろ
機械で大量生産が可能になり、安くなって一般家庭に普及
人口増加期
ほとんどの家に瓦が載る、市場全体が伸びた時代
現在
瓦を使う家の減少と人口減で市場が縮小
当時の瓦は大量生産されていても精度が今ほど高くなく、1枚ごとに反りなどの違いがありました。職人は似たものを合わせ、下から見たときにきれいな曲線になるよう仕上げていたといいます。
大工さんよりも瓦職人さんの方が発言力があるっていうぐらい、一時の瓦職人さんっていうのは(地位が)高かったというふうに私は聞いてます。
白神家の会社はもともと、セメント瓦 ── セメントと砂を型に入れて成形した瓦。粘土を焼いて作る瓦に比べて安価で、かつては広く使われましたが、現在はあまり作られていませんをきれいに仕上げるための材料を作る町工場でした。セメント瓦が減っていくなかで、父と祖父が話し合い、瓦を仕入れて売る業態に切り替えたと白神さんは聞いています。
セメント瓦を仕上げる材料を作る町工場
瓦を仕入れて販売する卸業
名前に込められた祖父の期待と、スーツへの憧れ
小さいころに家業を継ぐと思っていたかという問いに、白神さんは父と祖父の違いを語ります。父は最前線で戦う静かで賢い人で、継げとは言わなかった一方、祖父は「イケイケドンドン」で「お前が継ぐんだ」という姿勢でした。
白神さんの名前も、祖父の名前「金一郎」をベースに、父「康弘」の「康」を組み合わせたものです。白神さんは、父よりも祖父のほうが強く期待していたのかもしれないと話します。
何も考えてなかったんで。(家業を)継ぐのかな(という感じでした)。
瓦は土からできているため、割れると粉塵が舞います。子どもだった白神さんは、きれいなスーツで働く友達の父親を見て、そちらのほうがいいと思うこともあったそうです。
勉強が好きで、マラソンだけは得意だった少年時代
白神さんは昔から勉強が好きで、お金を数えたり問題を解いたりするのが好きな子どもでした。親に言われなくても自分で勉強し、終わるとすぐ遊びに行くタイプだったといいます。
母は読み聞かせをしっかりしていたそうですが、自身も親になった白神さんは、それだけでそうなるのかとも感じています。何かにぐっと集中する内向的な特性が多少あったのかもしれない、と白神さんは振り返ります。
算数が好きで国語は苦手でした。白神さんは小さいころから「何かを成したい」と思っていた一方、運動神経が悪いことに早くから気づき、勉強をやろうと考えたといいます。
マラソンって運動神経なくても、走るだけで一応体力ついていくんで。
マラソンだけは40人ほどのクラスで2、3番目に速く、ほかの種目は30番目くらいだったそうです。白神さんは、当時から自分には期待していなかったと笑います。
「仕事は真剣勝負だ」と語った父の背中
影響を受けた人を聞かれ、白神さんは父の名を挙げます。祖父は当時すでに50歳を超えており、新しい瓦の事業を実際に運営していたのは父でした。
白神さんがよく覚えているのは、5歳ごろに1階の仕事場へ降りてお金を数えていたときのことです。穏やかな父に、ぴしっと注意されたといいます。
仕事場の父ってやっぱ怖いんですよね。
仕事っていうのは、ほんと真剣勝負だみたいなことを(父が)ポロっと言ってたのが、穏やかな父なんですけど、印象的で。
当時の父の給料は、母と二人で実家に暮らしてなんとか生活できる程度だったそうです。白神さんは今になって、本当に大変な時期だったのだろうと感じています。
幼なじみを追って入った塾と、母が後押しした中学受験
白神さんは地元の小学校に通っていましたが、幼なじみが進学塾に入ったのをきっかけに、自分も入りたいと言い出しました。入ってみると「とんでもない塾」で、当時は珍しかった中学受験を目指すことになります。
進学先は、当時岡山で最も難しいと言われた中高一貫の私立校でした。白神さんによると、岡山から通う子には兵庫の子より加点される配分があったそうです。
仕事が大変な時期だった父は、教育熱心な家庭でもないのに中高一貫に入れるべきではないと考えていたようです。それでも母が「せっかく受かって行きたいなら行かせてあげよう」と後押しし、進学が実現しました。
中高ではテニス部に所属しましたが、試合に出られるかどうかの位置でした。白神さんは、何も考えずにずっと素振りをしていたと振り返ります。
16歳で父が他界、「継いでほしくない」と言い残した理由
白神さんが高校2年生、16歳ごろのときに、父が亡くなりました。父は生前、瓦業界の先行きが厳しいことを見抜いていたといいます。
1997年ごろの瓦業界は頂点に向かう途中でしたが、成長率は鈍っていました。白神さんは株にたとえて、「そろそろ株価が下がるかなって時」だったと話します。
白神商事は5、6人ほどの小さな会社で、方向性を決め営業も担う社長がいなくなるのは厳しい状況でした。市場も縮むと見た父は、息子に家業を継いでほしくないという思いを、最期に白神さんへ伝えて亡くなりました。
市場の先行き
売上は伸びていても成長率が鈍り、やがて下がると見ていた
会社の規模
5、6人の小さな会社で、社長が抜ける影響が大きい
父の結論
息子には家業を継いでほしくない
一方、当時の社員は会社をきちんと続けてほしいと考えていました。売上が上がっている最中にやめる理由は、社員には理解できなかったといいます。
白神さんは今、父が20〜30年前に打っていた布石に気づくそうです。インターネット、全国組織づくり、異業種への進出と、父は白神さんが今やろうとしていることをすでに試みていましたが、すべて頓挫してしまいました。
相談できる大人がいないなか、「力をつけなければ」と考えた高校時代
父を亡くした後、白神さんは自分一人で生きていかなければならないのかと感じたといいます。周りの大人は白神さんを思って、早く家業を継いだほうがいい、大学に行かず高校から働いたほうがいいと助言しました。
それが本当にその自分にとっていいことかっていうところだったりとか、そういうのはやっぱり見極めなきゃいけないなっていうのは、当時から(思っていて)。
相談できる大人がほぼいないなかで、白神さんは自分なりに考え、自分が力をつけられる場所へ行かなければと思うようになります。会社がなくなっても家族や周りの人を助けたいが、今の自分には力がなさすぎる、という危機感でした。
生前の父からは、大学に入ったらITで起業しろと言われていました。当時の白神さんは、父よりITに詳しくないのに何を言っているのかと思い、リスクの高いことはしたくないと感じていたそうです。
自分は普通にこう生きていきたいのにと思ってました。
博行さんは、その後の白神さんの歩みを予言するような言葉だったと驚き、白神さんも「不思議なもんだな」と応じました。
都会に憧れて早稲田へ、理工学部で毎日岩を見た日々
白神さんは現役で受験に失敗し、浪人後に合格したのが早稲田大学でした。地図で見て東京の真ん中にあり、一度訪れて都会に驚いたことから、「都会に行きたい」という気持ちで進学したといいます。
理工学部を選んだのは、2000年代に京都議定書 ── 1997年に京都で採択された、温室効果ガスの削減目標を先進国に課した国際的な取り決め。排出量取引などの仕組みも盛り込まれましたなどで環境問題が盛り上がっていたからでした。「環境資源」という名前の学科に入ったものの、実際は花崗岩や玄武岩などの岩を見分ける毎日だったそうです。
全然地元の方がいいなと思って。(岩を見るなら)岡山の(ほうが)。
それでも白神さんは、東京でやる気のある人々に出会い、街が広がっていく様子を若いうちに感じられたことがとても良かったと振り返ります。
留年の半年で飛び込んだアラバマ留学
大学時代、白神さんはアルバイトに励みすぎて留年しました。卒業までに半年空いたため、その期間で留学しようと思い立ちます。
「一番安くてすぐ行けるところ」を探して見つかったのが、英語力が低くても入れるアメリカの田舎の学校でした。紙の試験時代のTOEFLを勉強し、英語がほぼできない状態で半年間留学します。博行さんも同じく半年をバックパッカーとして過ごしたそうで、「この半年をどう使うか」は共通の話題になりました。
留学先のアラバマは黒人が多い地域で、白神さんは一番安い寮に入りました。挨拶の「How are you?」に「そんなの使わねえよ」と怒られ、ヒスパニックのルームメイトには「なんで来てんのお前」といじられたといいます。
差別される側のこう感覚みたいなものがすごく身について、日本人って本当にこう、アメリカにおいては本当に差別される側の方、人間なんだなっていうのはすごくよくわかって。
英語が話せなくても「B+」、アメリカで見た公平な評価
留学先の授業ではプレゼンやフィールドワークがあり、AIもなく電子辞書が出たばかりの時代で、白神さんは文章を書くのにも苦労しました。一番難しい授業ではCかC+くらいを覚悟していたところ、教授がB+をつけてくれたといいます。
理由を聞きに行った白神さんに、教授は努力する姿勢を評価したと答えました。
君のその姿勢だったりとか、頑張ろうとしてるところだったりとか、何も英語を話せないってわかってるけど、めちゃくちゃ努力してる姿勢とかはすごく良かったと思うし、周りにいい影響を与えたからあのB+だよみたいなことを言われて。
白神さんにとってアメリカは、差別の厳しさと、頑張る人を公平に評価する文化の両方を知った場所でした。
倍率0.99倍の東大大学院と、瓦のリサイクル研究
帰国後、白神さんは再び海外留学を考えましたがうまくいかず、就職活動も不調でした。研究のつながりがあった東京大学の大学院を受けたところ、その年は受験者が少なく倍率0.99倍で、受験者全員が合格したといいます。
白神さんは学部時代から瓦のリサイクルを研究しており、大学院ではリサイクルに使うコンクリートの研究を中心に進めました。研究テーマは、家業の人から「瓦のリサイクルが流行っているらしい」と聞いて決めたものでした。
やっぱり意識してて、自分の時間を無駄にしたくないって思ってたので、研究するからには、一応自分に関係するもの(家業)っていうのをやった方がいいかなと思って。
当時の白神さんは、家業に帰りたいというより、帰らなければならないと感じていました。直系の男性はほかにおらず、父の後を引き継いだ社長も父と同年代で年を重ねていたからです。
瓦職人の学校ではなく証券会社を選んだ理由
大学院修了後、白神さんは家業ではなく外の会社に就職します。今思えばそのまま家業に帰る道もあったかもしれないとしつつ、相談できる大人がいないなかで、もっと力をつけなければという思いが強かったといいます。
母からは瓦職人の専門学校に行くよう勧められましたが、白神さんはそれを断り、証券会社に入社しました。証券会社での経験と、そこから家業へどう戻ったのかは次回に語られます。
まとめ
白神康一郎さんは、瓦卸の会社の2階で育ち、16歳で父を亡くしたことをきっかけに「家業の外で力をつける」道を選びました。家業を継いでほしくないと願った父、継ぐべきだと感じた息子、その間で揺れながら歩んだ学生時代が、今の家業とスタートアップの両立につながっていきます。
- 白神商事は、セメント瓦の材料を作る町工場から瓦の卸業へ業態を変えてきた
- 市場の縮小を見抜いた父は、息子に家業を継いでほしくないという思いを残して亡くなった
- 相談できる大人がいないなか、白神さんは自分の力不足を自覚し、力をつける道を選んだ
- アメリカ留学では、差別される側の感覚と、努力を公平に評価する文化の両方を経験した
- 大学・大学院で瓦のリサイクルを研究しつつ、卒業後は証券会社に就職した





