テレビが「ホーム」になりきれない理由
最初のテーマは、放送作家である澤井さんにとってテレビが「ホーム」なのかという問いでした。澤井さんはテレビが大好きだと前置きしつつ、どこまでいっても構造的な限界があると話します。
そこのお手伝いしてる、外部の人っていうのが放送作家。どんだけその放送作家の考えた企画から番組が始まったとしても、そういう立ち位置を超えていくことはもう不可能なんですよ。
澤井さんはゼロから企画を立ち上げるのが得意な作家だといいます。決まったものを構成する作家、ナレーションが得意な作家など、放送作家にもいろいろなタイプがいる中で、自身は企画を考えるのが一番楽しかったと振り返ります。
ただ、自分の企画が番組になっても、丸C(マルシー)が自分にないという感覚がどこに行っても残ると話します。丸C(マルシー) ── 著作権表示のこと。ⓒの記号で示される。テレビ番組では通常、制作著作としてテレビ局が権利を持つ。
企画、演出で局員の名前が流れて、その後に構成、澤井直人みたいな。企画が僕やねんけどな。
だからといって吠えるわけではないけれど、若干の違和感はある。そう話しつつ、澤井さんは「気にしたら切りがない」と割り切ってきたとも言います。
数字ベースの企画で、自分の色が消えていく
話は、澤井さんが本当にやりたいことと、テレビの相性へと移ります。実家や家族のホームとは別に、仕事として「自分が座れてる空間」が欲しいという感覚です。
できるだけ少人数で同じ方向を向いてるところで、「自分がこれやりたい」って言ったら、「それいいね、じゃあそのままやろう」っていう、そのスピード感をやれる場所が欲しいよね。
一方で、テレビに企画を出すと「それ数字取らなさそう」で片付けられることが多いといいます。配信の再生数を含め、結局は数字を出さないと続かない世界だからです。
数字ベースにやっぱ企画出してるとね、やっぱり自分の色がどんどん消されていくよね。そっちで数字取ろうと思って出すこともできるんやけど、なんかそうなってくとどんどん自分じゃなくなる気はする。
そこで浮かび上がってくるのが、テレビ以外の書く仕事、とりわけエッセイでした。
作家なのに書いていない、という違和感
澤井さんは、放送作家と名乗りながら書いていないことに違和感があると話します。意外なことに、放送作家には書かない番組もあるといいます。
ディレクターが台本を叩き、作家は会議で案や宿題を出す。そういう番組も多く、そこでは実質的にライターではなく企画者の役割になるのだと説明します。
だからね、意外となんかね、その書くって仕事はやっぱやっていかないとあかんなっていうのはすごくありますね。
書くことは、周りをあまり考えずにペンを走らせられる作業です。だからこそ、自分の濃度がすごく高いと澤井さんは感じています。
これまでの書き仕事として、幻冬舎での「今日も書く」という放送作家の日常エッセイの連載や、リアルサウンドブックスでの「伊集院静さんが好きすぎて」という連載を挙げます。
あんなに書くの楽しいんやってのは思えた仕事やったかもしれない。
伊集院静の席に座る「聖地巡礼」の作法
「伊集院静さんが好きすぎて」の連載は、単なる調べ物ではありませんでした。澤井さんは、伊集院さんが行った店に足を運び、当時会った人に会いに行き、その話を文字にしていったといいます。
伊集院さんが当時会った人に会いに行って、その人の話聞いて、それを文字にするとか。なんか生きてる気がする感じがして。
キーワードになるのが「匂い」です。澤井さんは池波正太郎が大事にしていた「街の匂い」を引き合いに出しながら、その場所に行くとその人のことを考える匂いがある気がすると話します。
澤井さんにとっての聖地巡礼は、明確な作法を持ったワンパッケージです。まずその場所が書かれた本を読み、体に入れてから現地へ行きます。
伊集院さんが座った席を聞いて同じ席に座り、一杯やりながら店主に当時の話を聞く。そしてホクホクした気持ちのまま家に帰り、もう一度その本を読み返します。
読んだ状態で体に入れてから現地に行って、伊集院さんが座った席を聞いて、その席に座って一杯やる。話でホクホクになりながら家に帰って、もう一回読む。ここまでが聖地巡礼なんですよ。
匂いと記憶、そして「生」への執着
なぜここまで匂いにこだわるのか。澤井さんは自身を「匂いフェチ」と表現し、記憶と匂いの近さについて語ります。
その一例として、自分が生まれ育った京都・神宮丸太町のルーツを一人でたどった体験を挙げます。0歳から4、5歳まで住んだ住所を親に聞き、跡形もなく別の家になった場所の前を通ったといいます。
通ったらなんかね、当時の感じがめっちゃ思い出された。記憶ってすげえなと思って。
木造建築の木の匂いや、庭で焚かれた線香の匂いに触れると、覚えているぞという感覚がよみがえる。匂いを感じることで、その空間に入り込むような体験だと澤井さんは話します。
この「生」への執着は、放送作家になる前からのものでした。学生時代にお笑いから入り、10代の頃はわざわざ電車に乗って大阪の劇場へ通ったといいます。
その芸人さんがどんな空気感で手売りしてんのかなとか、そこに行かないと分からない感覚があるじゃん。なんか匂い、それも匂いっていうんやけど、僕は。
リモートが普及し、放送作家はあまり現場に行かない職業になったといいます。それでも澤井さんは現場に行く方だと話し、行かないと何も残らない気がすると言い添えます。
一番解像度高く残せるのはテキストではないか
話題は「残す」ことへと移ります。澤井さんは、自分が感じた匂いや空気を残せるのは実は文字なのではないか、それはテレビではやれないことかもしれないと話します。
テレビにもアーカイブはあるものの、視聴者が過去の映像をすぐに引っ張り出すのは難しく、収録が終われば台本はゴミ箱に捨てられていく現実もあると指摘します。
これを受けてパーソナリティは、ここ数日で考えたという仮説を持ち出します。人間のハイコンテクストな思考や思想を、一番解像度高く残せる出力はテキストなのではないか、という説です。
AI時代になり、映像の時代と言われた流れが一巡してテキストに戻ってきた感覚もある。そう話すパーソナリティに対し、澤井さんはAIが作った文章には匂いがしないと応じます。
AIとかが作った文字とかに一切匂いがしないのもすぐわかる俺は。血が通ってない感がすごくわかる。それって多分現地に匂い嗅ぎに行ってるからこそわかる。
関連して、開高健の小説がベトナムの匂いをそのまま閉じ込めていると言われることや、汗がシャツにへばりつくような感覚が伝わることも話題に上りました。
昔のものに宿る新しさと「原液感」
新しいものが好まれる世の中で、澤井さんは自身を懐古主義者だと語ります。ただし、それは単なる昔への憧れではありません。
昔に行ったら実はそれめっちゃ新しかったりするから。僕はそこの方が逆に新しい。
新作のグッズなども広く見ればシンプルで、意外と古いのではと感じることがあるといいます。だからこそ休日に時間ができると、澤井さんはNETFLIXなどより本を選び、本屋に行くと話します。
読書について澤井さんは、自分だけの世界に入り、他人を介入させずに自分に降ろす感覚が好きだと語ります。パーソナリティは、本には能動性が必要で、流れ込んでくる音や映像とは違うと応じます。
一方でパーソナリティは、本を「人」に紐づけて読んでいたといいます。とりわけ立川談志のように、人自体がコンセプトになっている存在に強く惹かれると話します。
立川談志が落語を定義した後の高弟であるみたいな、談志がなんかやってたら、それ自体がもうコンテンツになるみたいな。
その密度を、パーソナリティは「カルピスの原液」に例えます。昔の人にはコンセプトとしての原液が詰まっているから、そこにアクセスしたくなるのは自然だという整理です。
そこから澤井さんは、経営学者の楠木建が言う「ズルズル読書」を紹介します。一人の作家にハマると、そこに紐づく人の本をどんどん読んでいくやり方です。
澤井さん自身も、伊集院さんのエッセイに出てきた本を読み、伊集院さんと縁のあった色川武大や吉行淳之介へと読書が派生していったといいます。
文脈が積もる街・銀座に「ホーム」をつくる
話は、こうしたつながりが生まれる「場所」へと向かいます。澤井さんは、この年になって街や場所の価値を強く感じ始めたといいます。
平成の時代、仕事の場としてはテレビ局が、プライベートの場としては西麻布のキャンティのような店が、スターたちの集まる場所として機能していたと2人は振り返ります。
そして澤井さんは、その最たる場所が銀座だと、書籍を読む中で感じたと話します。今の世代がご飯で銀座を指定することは少なく、その意味は失われつつあると2人は言います。
伊集院さんの聖地巡礼というか、当時あの人がここの席に座ってこんな会話をしたみたいなのが、銀座にはとんでもない分母があると思う。だからこそ掘りがいがある。
銀座は世界で見てもバーが密集する街であり、バーしか入っていないビルもあると澤井さんは語ります。クラシカルで伝統的な街をあえて面白がる、その角度自体に可能性があるとパーソナリティは応じます。
銀座は駅が多く使えるという利便性で選ばれ、街への意味は薄れている
昔の人が意味を持って集った歴史があり、掘り起こす価値がある
2人が共有しているのは、過去から引き継いだものを今の自分たちが捉え直し、記録して次の世代に渡していきたいという思いです。
その延長線上に、2人は自分たちの拠点となるバーのような空間を妄想します。パーソナリティは、六本木の文喫のようなパブリックな手前のスペースと、知った顔だけで集まれるプライベートな空間を合わせた場を思い描きます。
人間ライブラリーと、足を使う仕事
銀座を掘るうえで欠かせないのが「人」だと2人は話します。見積もりを勝手に低くしているだけで、実際には誇りを持って営んでいる人がたくさんいるはずだといいます。
そうした人はGoogle検索では出てこない。だからこそ足を使って会いに行く旅がしたいと澤井さんは語ります。
澤井さんは、伊集院さんの書籍をほぼ全て読み、そこに出てきた銀座の店にチェックマークをつけているといいます。行ってみたい店として、氷の入っていないハイボールで知られるロックフィッシュの名も挙がりました。
話は、澤井さんの人間への関心へと深まります。テレビの企画でも、人というテーマがない番組には気持ちが乗らないといいます。
これは綺麗事の人間賛美ではなく、泥臭さも含めてどんな人にも人生があるという確信です。澤井さんは、それを描ける人間になることが生まれてきた意味かもしれないと話します。
この感覚を、澤井さんは『ザ・ノンフィクション』のチーフプロデューサー・西村陽次郎さんの仕事や、伊集院静さんの私小説と重ねます。市井の人に光を当てるという点で同じだといいます。
どんな人にでもすごい濃密な人生があんなと思うから。それって伊集院静さんがやってたことと、実はすごい同義というか。
最後に2人は、机の上の仕事は仕上げや加工のタイミングに限り、動いて走っている時間を増やしていこうと確認し合います。合言葉は「足を使い、街に繰り出せ」でした。
足を使い、街に繰り出せ。その目で感じろ。匂いを嗅げ。
まとめ
この回は、テレビに「ホーム」を持ちきれない放送作家が、匂い・記録・銀座という街を手がかりに、自分たちの居場所を構想していく対話でした。数字では測れないものをどう残すかという問いが、2人の共通のテーマとして通底しています。
- 澤井さんはテレビを愛しつつ、著作権や数字ベースの構造に「自分の色が消える」限界を感じ、自分のホームを求めている
- 「匂い」は記憶や生々しさの象徴であり、澤井さんは本を読んでから現地へ行き読み返す聖地巡礼を実践している
- 人間の思考や文脈を一番解像度高く残せるのはテキストではないか、という仮説が2人を結びつけている
- 文脈が積もる街・銀座を面白がり、過去を捉え直して次世代へ渡す拠点をつくる、という妄想が語られた
- 結論は「足を使い、街に繰り出せ」。人に会い、その場の匂いを嗅ぐことが2人の共通の指針になっている







