80・90年代を養分にしたクリエイター
今回のゲストは音楽クリエイターのヒャダインさん。川邊さんは3年ほど前からハロプロにハマり、なかでもモーニング娘。の「Leaders」を「一番エモい」と繰り返し聴いてきたと明かします。
川邊さんがヒャダインさんの経歴を「80年代後半から90年代の日本のサブカルを養分にしている」と評すると、ヒャダインさんも自身の感性のルーツをそこに見ていると応じます。
ものづくりする人は、自分の性育期に摂取したものが花開くと思うんです。僕はやっぱり80年代と90年代だったので、そこからインスパイアされることはとても多いですね。
文化的な記憶があるのは小学2、3年ごろから。松田聖子や中森明菜には当時それほどハマらず、「今の方がハマってるぐらい」だと笑います。
ベストテンとHey!Hey!Hey!──音楽番組で育った青春
川邊さんは1974年生まれ。「もうちょっと早く生まれていれば」と話すヒャダインさんは、アイドルにみんなが熱狂したベストテンや夜ヒットをクラスで話題にできた時代を羨ましいと語ります。
一番アイドルにみんなが熱狂したベストテンとか夜ヒットとか、そういうのをクラスで話題にできる時代が羨ましかったです。
青春の音楽番組はHey!Hey!Hey!とミュージックステーション。ダウンタウンが人気の絶頂だった時期に始まったHey!Hey!Hey!では、アーティストをどついたり容姿をいじったりする演出に夢中になったと振り返ります。
当時はTKブームの真っただ中。ヒャダインさんは番組を録画してまで見て、小室哲哉さんプロデュースのシンセサイザーを買い、その曲を打ち込みで真似していました。
運動ができない少年の居場所だったピアノ
出身は大阪市住吉区の下町。父はカメラマン、母は専業主婦で、バブル期は中級の暮らしができたものの、だんだん家計は苦しくなっていきます。それでも姉とともに私立の中高に通わせてもらったといいます。
ピアノを始めたのは3歳。運動神経がまったくなく、習い事はピアノしか選択肢がなかったと話します。当時、男の子がピアノを習うのは珍しく、それがアイデンティティになりました。
コンクールで優勝するタイプではなかったものの、耳コピしたものを弾けたり、絶対音感を身につけたり。習っていた教則本にも独自性の源がありました。
当時のピアノの先生が、ショパンやバッハじゃなくてバルトークっていう東ヨーロッパの現代音楽の教則本で練習させたんです。不協和音とか変拍子の連続だったので、自分の音楽性の出発点はそこにあるのかなと。
運動が苦手なコンプレックスもあり、みんなが外に遊びに行くとき、ヒャダインさんはピアノを弾き、勉強をしていました。どちらも「やればやるほどレベルが上がる感じ」が楽しかったといいます。
中学受験の挫折と、文化を大切にしない進学校
自信を持って臨んだ中学受験は、軒並み不合格。人生で初めての挫折でした。
自信満々に行ったんですけど全部落ちて。肩に力が入りすぎてたんだと思います。
後の人生でも、力の入ったものは落ち、「どうでもいいや」と思ったときの方が受かるという経験を繰り返したといいます。結局、授業料の高い進学校に、親に頭を下げて行かせてもらいました。
その学校は文化的なものを大切にしない完全な進学校で、勉強合宿では子どもにコーヒーが飲み放題で置かれていたほど。クラスメイトとも話が合わず、「楽しくはなかった」と振り返ります。
聖闘士星矢、ドラクエ、そして「ひとり遊び」の音楽
小学生の頃に好きだったのは聖闘士星矢やセーラームーン、ジャンプコミックス。ファミコンではドラゴンクエスト、ファイナルファンタジー、ロックマンを何周もしたといいます。
川邊さんもドラクエで初めて達成感を得たと語り、二人はほぼ同じ空気を吸って育った世代であることを確かめ合います。
中学では吹奏楽部に入るも、部員は3人だけ。他の2人がサックスだったため、成立させるにはピアノを弾くしかなく、吹奏楽部なのにピアノを弾いていたと笑います。
友達と放課後に遊ぶこともなく、家に帰ってシンセサイザーで打ち込みの練習をし、ピアノを弾き、ゲームをする。そんな6年間を過ごします。
作った音楽は、誰かに発表するためのものではありませんでした。
今だったら匿名でボカロPとしてアップして評判を得るってあるんですけど、そういうのが全くなかったので、自分で作って自分で聴いて満足っていう。
初めて打ち込んだのは小室哲哉さんやDREAMS COME TRUE、accessなどのTK系楽曲。売っていたスコアブックを買い、一つひとつシンセサイザーに打ち込んでいきました。
コピーで満足した少年──「解体して再構築する」だけの喜び
熱中していたのはあくまでコピーやカバー。オリジナル曲を作るという発想はほとんどなく、作ったのは2曲ほどだったといいます。
なんか解体して、それを組み立てて、こういうことなんだって知りたかっただけで、自分がオリジナル曲を作るとも思ってませんでした。
たわむれに作った曲もワンコーラスで力尽きたそう。曲を書かない人にありがちで、「疲れて、もういいや」となってしまったと振り返ります。
川邊さんが「下手でもラフに1曲作りきった方が良かったのでは」と問うと、ヒャダインさんも同意します。
質より量だと思って。本当にそうです。
メロディも歌詞も書く今の自分を、昔の自分が見たらきっと驚くだろうと語ります。
陰キャの高校時代と、渋谷系との出会い
受験勉強は高2から本格化。成績は「中の上」で、自己肯定感も強くなく、恋もなく、家にこもって音楽を愛する日々でした。当時を「陰キャと言われる部類」と表現します。
そんな高校時代の入り口になったのがラジオ。地元FMの802や851で洋楽や渋谷系を仕入れ、音楽を吸収していきます。
なかでもピチカート・ファイヴにのめり込み、自分の音楽性の一部はここに由来すると話します。生まれも育ちも渋谷の川邊さんは、チーマーの登場や大型店の出現とともに街が急におしゃれになっていった当時の空気を重ねます。
京都大学、燃え尽き、そしてTSUTAYAでのやりがい
進学校で「みんなが行くから」という感覚のまま京都大学の総合人間学部へ。やりたいことが特になかったため「ふわっとしたところ」を選び、入学後は燃え尽き症候群のようになったといいます。
自分はこういう進学校に入ったから京都大学に行くものだっていうことしか考えなかった。今考えたらいろんな選択肢があったと思うんですけど。
大阪から片道1時間40分かけて通っていたため友達とも遊びづらく、居場所になったのは地元のTSUTAYAでした。週5、6日働くほどのめり込みます。
川邊さんも大学時代にTSUTAYAでアルバイトし、商品知識のために深夜まで働いた後に映画を毎日2本見ていたと語り、二人は「借り放題」の環境の恩恵を語り合います。
実家の地元のTSUTAYAで働いてたら、そこでめちゃくちゃやりがいを感じて。週5、6ぐらい働いてました。
接客用語などの社会常識もここで学んだといいます。ただ、人と触れ合うのが苦手で、バイト仲間のコミュニティには入れなかったとも明かします。
同人誌としての「Leaders」──好きだったハロプロの曲を書く
TSUTAYAで借り放題の環境の中、モーニング娘。にも夢中に。デビュー曲「愛の種」の頃から今のプラチナ期まで、何期も全部聴き続けてきたといいます。
その大好きだったハロプロの楽曲を、後に自ら書くことになります。川邊さんが心を打たれたモーニング娘。の「Leaders」について、ヒャダインさんは意外な言葉で説明します。
リーダーズの曲は、もうほんと同人誌なんですよね。勝手に同人誌で歴代リーダーが集まって今のリーダーを励ますみたいな薄い本を書いてるつもりで。それをご本人たちが歌ってくれてる奇跡みたいな。
「大丈夫」という言葉が軸になったのは、プラチナ期の低迷やメンバーの離脱を経ても支え続けてくれた盤石の歴史があるから。不安を抱える現リーダーへの「大丈夫だよ」という思いを込めたといいます。
そこにはファイナルファンタジーやセーラームーンで、死んでいった仲間が魂となって現れ「大丈夫」と力を与える展開への愛着も重なっていました。制作にあたっては、事務所が各リーダーに取ったアンケートも反映したそうです。
川邊さん自身も、社長の代替わりの際に前任者から「大丈夫」と言われた経験を重ね、この曲に強く共感したと語ります。
ハロプロを結集させる「マイクリレー」への愛
ハロプロ全体を歌った「ハローヒストリー」も、ヒャダインさんにとっては同人誌。最初のパターンでは、各グループが色を出しつつハロプロの歴史を説明していく構成でした。
その発想の背景には、ジャンプアニメのように多彩な強者たちが結集して戦うイメージがあります。
ハンターハンターみたいな感じで、いろんな強者たちがいるグループがあって、その団体が戦っていくみたいな。
さらに、複数の歌い手が順番にマイクを渡していく「マイクリレー」への愛着も。ポンキッキーズのスチャダラパー、小室哲哉さんのCONNECT、「We Are the World」、夜のヒットスタジオなど、他人の曲を誰がどう歌うのかを楽しみにした体験が下敷きになっています。
他の人の曲を誰がどう歌うんだろうっていうのがエモいんで、そのマイクリレー感を出した曲にしましたね。
去年もリニューアルして披露され、川邊さんはその生の舞台を初めて目にしたといいます。
まとめ
運動が苦手だった少年が居場所にしたのは、ピアノとゲームと音楽番組。誰にも見せない「ひとり遊び」として音楽を解体し再構築していた日々が、やがてハロプロへの深い愛と結びつき、「同人誌」のような楽曲づくりへとつながっていきました。
- ヒャダインさんの音楽性のルーツは、80・90年代に摂取したゲーム音楽、TKブーム、渋谷系、そしてバルトークの教則本にある
- 運動が苦手だった少年にとって、ピアノと勉強は「やるほどレベルが上がる」達成の場だった
- 音楽は誰かに発表するものではなく、コピーを解体・再構築して自分で聴いて満足する「ひとり遊び」だった
- 大好きだったモーニング娘。の「Leaders」やハロプロの楽曲を、本人は「同人誌」を書く感覚で制作している
- マイクリレーやヒーローものへの愛着が、ハロプロ全体を結集させる楽曲の発想につながっている






