120万石から36.9万石へ。毛利家に刻まれた関ヶ原の屈辱とは?
高杉晋作は、300年以上も毛利家に仕えてきた高杉家の出身です。深井さんによれば、高杉家の先祖や親戚には毛利家で活躍した人が多く、晋作の父も位の高い役職に就いていました。
晋作を理解するには、まず仕え先の毛利家を知る必要があると深井さんは話します。毛利元就 ── 戦国時代の武将。安芸の小さな領主から一代で中国地方の大半を支配する大名に成長しましたは、尼子氏や大内氏といったライバルを倒し、一代で中国地方一帯の覇者になりました。
元就の後を継いだ毛利輝元は、豊臣秀吉と対立したのち傘下に入り、五大老 ── 豊臣政権の末期に置かれた有力大名5人の合議職。徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家が務めましたの一人になります。深井さんはこれを「トップファイブ」と表現し、樋口さんは「SMAPの一人」とたとえて笑いを誘いました。
毛利輝元は当時120万石を持つ大大名でした。しかし同じ五大老の徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いに突入します。深井さんは、構図としては徳川家康対毛利輝元だったと説明しています。
負けた結果どうなるかっていうと、それまで10カ国分治めさせてもらってたやつが、2カ国分まで減らされてしまう。
関ヶ原での敗北によって、毛利家の領地と収入は大きく削られました。
10カ国を治め、石高は120万石。五大老の一人
2カ国に減らされ、石高は36.9万石。収入は3分の1以下に
深井さんは、この減収を「月収が120万から37万ぐらいになった」とたとえます。一番の問題は、大名として抱えていた大勢の家臣に給料を払えなくなったことでした。
さらに毛利家は、瀬戸内海側の交通の便がよい場所に城を築くことも許されず、交通の便が悪い萩に本拠地を移されました。そこから長州藩、毛利家は徳川家をずっと嫌い続けたといいます。
萩に移ってから毎年年始になると家臣が殿様に聞くんだって。今年やりますか?って。
要は徳川家をぶっ潰しますかって毎年聞くんだって。そしたら殿様が、いやまだ早いみたいな話を260年間毎年してたらしい。
深井さん自身も、この逸話はどこまで本当かわからないと断っています。それでも、そうした話が残るほどの反骨心が代々受け継がれ、幕末の長州藩が簡単に倒幕思想へ傾いていく背景になったと説明しています。
収入激減が育てた、長州藩の「人」と「裏金」
深井さんが面白いと感じたのは、関ヶ原の減封がデメリットだけで終わらなかった点です。収入が激減したことで、長州藩は人をとても大事にする藩になっていきます。
お金が一気に減ったにもかかわらず、毛利家から離れる家臣は少なかったといいます。深井さんは殿様に人徳があったのだろうと推測し、給料が出なくても働く家臣がいたと紹介しています。
(毛利家は)最終的にちなみに100万石以上の収入にまた戻せる、戻すんですよ、この人たち。
その立て直しで活躍した人の中には、晋作の先祖もいました。深井さんは、立て直しの過程で殿様たちが「一番大事だったのは人だった」と学んだのだろうと考えています。
楊さんは、長州藩の人材育成の仕組みとして「育み」を紹介します。当時は武士は一生武士、下級武士は一生下級武士という身分の縛りがありました。しかし長州藩では、下級武士やそれ以下の身分でも、優秀な子どもなら上級武士の養子にできたといいます。
何かそういう仕組みを育みっていって、要は人材プールが広かったんだよね。
深井さんは、育みを封建制の中に無理やり作った出世の「バイパス」だと表現します。その例として、石高が高い家の出ではないのに要職に就いた周布政之助を挙げています。
長州藩にはもう一つ特徴がありました。深井さんによると、幕末に長州藩が活躍できた理由の一つは、藩がお金をたくさん持っていたことです。そしてその仕組みを殿様に提案したのも、晋作の先祖でした。
提案の中身は、普段の家計簿とはまったく別の会計を持ち、どれだけ困っても運転資金には使わず、新規事業投資にしか使わないと決めることでした。樋口さんは「内部留保」と言い換え、深井さんは、その内部留保を新規事業投資用に限定していた点が特徴だと補足しています。
長州藩は、この資金の流れによって、農業の生産性が高くなくても実力として100万石以上の経済基盤を作りました。
減封
関ヶ原の敗北で120万石から36.9万石に減る
別会計
新規事業投資にしか使わない資金を積み立てる
産業投資
米・塩・ロウ・紙の産業や、下関の倉庫業に投資する
経済基盤
実力で100万石以上の経済力を取り戻す
幕末
蓄えた資金が最後の最後で大きく役立つ
困った時にこそ、そういうブレイクスルーが生まれるんですよね。考え抜いたんだと思いますよ。
楊さんはここに、長州藩が幕末に力を持てた理由を見ます。尊王攘夷のような思想はさまざまな藩で生まれましたが、多くの藩はそれを政治力と結びつけられませんでした。長州藩がそれをできたのは、お金と政治力があったからだと楊さんは話しています。
「困った」とは言うな。父の教えとライバル久坂玄瑞
晋作は、そんな長州藩で大臣級の人物を多く出してきた高杉家の嫡男として生まれました。晋作自身の意識は「毛利家に仕えるエリート中のエリート」であり、晋作にとっての「国」とは毛利家、つまり長州藩だったと深井さんは説明します。
高杉家で男児は晋作一人だけでした。深井さんは、封建社会の家に生まれた一人息子として、晋作はとてもかわいがられていたはずだと見ています。
晋作の性格は負けん気が強く、その気質はのちの破天荒さにもつながっていきます。そして晋作は、保守的なタイプだった父から多大な影響を受けました。深井さんが特に面白いと挙げたのが、次の教えです。
男子というものは困ったということは決して言うもんじゃないというのは教わったと。
困ったって言ったら人間それでなんか安心するし、思考停止するもんね。
深井さんによれば、晋作の父は、普段から「困った」と言っていると状況を打開するエネルギーが湧きにくいと考えていました。どれだけ困っても考え続け、やり続ければ必ず突破できるので、死ぬ直前でも「困った」とは言うな、という教えです。
晋作はこの父の教えを、生涯かなり忠実に守りました。深井さんは、晋作の日記を読むと困っているのは伝わってくるのに、「困った」とは書いていないと話しています。
一方で、父を尊敬していたからこそ、晋作は葛藤も抱えます。父の考えは、晋作が飛び込みたかった吉田松陰たちの世界とは大きく違っていたからです。父への尊敬と、自分の進みたい道とのあいだの軋轢に悩むことが、晋作の青年期の特徴だと深井さんは説明します。
晋作にはライバルもいました。天才と呼ばれた久坂玄瑞 ── 長州藩の志士。吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作と並ぶ双璧と称されましたです。二人は幼いころから寺子屋で一緒に学び、のちに松下村塾でも二大巨頭になっていきます。
幼いころの晋作は、弓・槍・剣術などの武芸にばかり励んでいました。武士は軍人であり、晋作はエリートとして軍人の本分を果たそうとしていたのです。途中で天然痘にかかって顔にあばたが残り、「小豆餅」とあだ名をつけられてからかわれることもありました。
16歳で見た黒船騒動の江戸、そして松陰との出会いへ
晋作にとって大きな転機になったのは、16歳のときに父に従って江戸へ行ったことでした。ちょうど黒船が来航していた時期で、江戸中が前代未聞の大騒動になっていました。
深井さんは、晋作が実際に黒船を見たかどうかはわからないとしています。ただ、黒船を見た人の話や、対応できない幕府への不満を耳にしたはずで、最も多感な16歳のときにその空気を感じたことが、のちの松陰との交流や晋作の気持ちに影響したのではないかと想像しています。
深井さんによれば、同じ時期の江戸には桂小五郎や坂本龍馬、吉田松陰もいました。蒸気船が2隻、4隻とやって来て、空砲を撃って脅すような状況でした。その空気を肌で感じた人たちが、のちに爆発していくという構図です。
黒船騒動を経験した晋作は、「とりあえず何かしないといけない」と感じて兵学書を読み始めます。ただ、晋作が読んだのは武士の歴史や心得を説くハウツー本のようなもので、アメリカに対抗するために何を学べばよいのかは、まだわかっていませんでした。
晋作は藩校の明倫館 ── 長州藩の藩校。西日本有数の名門とされ、現在は萩市の明倫小学校にその名が受け継がれていますで、兵学や柳生新陰流などの剣術を稽古します。危機感はあっても、晋作の発想は「戦って勝つ武人」の枠からまだ出ていなかったと深井さんは話します。この時点で晋作が考えていたのも、日本ではなく毛利家をどう守るかでした。
晋作の少年期から青年期までの歩みは、時系列で次のように整理できます。
19歳で吉田松陰と出会ったことで、晋作は初めて何を学ぶべきかを教わり、視野が一気に広がっていきます。松陰は、この片田舎から日本を震撼させる人物が必ず出てくると断言していました。
なぜ松陰はそこまで断言できたのか。この問いに、深井さんと楊さんはそれぞれの見方を語ります。深井さんは、松陰の村塾から大臣5人と総理大臣2人が出たことに触れ、人間の可能性について次のように話しています。
一つの国の大臣ぐらいだったら、実はみんなポテンシャルとしてなれるのかもしんない。それ以上はもしかしたらむずいかもしれないけど、引き出しさえすれば。
楊さんは別の角度から、松陰を「愛の人」と表現します。松陰は身分に関係なく若者を一人の人間として見て、先生と生徒ではなく同じ目線で一緒に学んでいたと楊さんは話します。
何だろうね、親みたいな愛を与えたことに、その若い人たちがめっちゃ燃えたんじゃないかなと。
松陰がどのようなメッセージを晋作たちに伝えたのかは、次回、晋作の目線から語られる予定です。
まとめ
高杉晋作の原点には、関ヶ原の敗北で収入を大きく削られた長州藩の歴史があります。藩に受け継がれた反骨心、人材と資金への投資、そして父から受けた「困ったと言うな」という教えが、晋作という人物の土台になりました。
- 毛利家は関ヶ原の敗北で120万石から36.9万石に減らされ、萩に移されたことで、徳川家への反骨心を代々受け継いだ
- 長州藩は減封をきっかけに、育みによる人材登用と、新規事業投資専用の資金の積み立てを進めた
- 晋作は父から「困ったとは言うな」と教わり、生涯その教えを守りながらも、父との考え方の違いに葛藤した
- 16歳で黒船騒動の江戸を経験した晋作は、19歳で吉田松陰と出会い、視野を大きく広げていく


