戦前も戦後も一番人気、西郷隆盛はなぜ愛されるのか
今回の収録は3日間の強行スケジュールで、樋口さんは「アスリートみたい」と笑います。深井さんも、試合に臨むつもりで収録していると応じます。
そうした前置きのあと、新シリーズの主人公として西郷隆盛が紹介されます。楊さんは、この日のために楽天で陸軍大将姿の西郷のTシャツを買ってきたほどの気合いの入りようです。
西郷さんね、多分人間より犬の方が好きですから。
深井さんによると、今回のシリーズは西郷の内面に踏み込む内容になるといいます。西郷は大久保利通、木戸孝允と並ぶ維新三傑 ── 明治維新に大きな功績を残した3人の総称。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)を指しますの1人で、大久保もシリーズに頻繁に登場する予定です。
西郷隆盛の人気は際立っています。深井さんが紹介した約60年前の文献調査では、戦前と戦後で価値観が大きく変わったにもかかわらず、どちらの時代でも人気が高いのは西郷くらいだったそうです。
2017年の本によれば、新聞社が当選2回の前衆議院議員に「国家指導者として誰が好きか」を尋ねた調査でも、西郷隆盛が1位でした。樋口さんは、ネット記事の「歴史上の人物で理想の上司」ランキングでも上位の印象があると話します。
これに対して深井さんは、今回のシリーズを通してそのイメージがかなり変わるかもしれないと予告します。政治家には、目指すならむしろ大久保利通を勧めたいとまで言います。ただし西郷が「めちゃくちゃ素晴らしい人」であることは間違いない、とも強調しています。
西郷隆盛は近代の人なので、手紙や周囲の証言が数多く残っています。そのため本人の内面に迫りやすいそうです。深井さんは、苦難の連続だった人生そのものが共感を呼んできたのではないかと話します。
最期も悲劇的でした。自ら明治政府を作った西郷隆盛は、のちに西南戦争 ── 1877年、西郷隆盛を擁した鹿児島の士族が明治政府に対して起こした反乱。日本国内最後の本格的な内戦とされますで政府と戦って命を落とします。畳の上で死ねなかったことも、死の美学を重んじる日本で人気を集める理由の一つと言われています。
これさえ聞けば幕末がわかる?あえて難しくした完全版
深井さんによると、西郷隆盛本人の話が本格的に始まるのは第2話からで、第1話では薩摩藩を扱います。番組ではすでに吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞など、幕末期の人物を何度も取り上げてきました。
今回の西郷隆盛編は、時系列を丁寧に追い、「これさえ聞けば幕末の流れが大体わかる」シリーズになるといいます。勝海舟、徳川慶喜、高杉晋作、坂本龍馬も登場し、新選組も構造の一部としてわずかに触れられます。
今回は先にそっち(過去のシリーズ)聞いてもらった人でも楽しめる、さらにはもっと奥深くには踏み込むとこんな感覚だよっていうことが伝わるためにも、あえてちょっと初見の人は無理だろうなっていう難しさに設定してます。
情報を削って簡単にした構成は、高杉晋作編ですでにやっています。そのため今回は、あえて情報量の多い「完全版」にしたという説明です。深井さんは、いきなりここから聞くより、先に高杉晋作編を聞いておくよう勧めています。
受験にも役立ちそうだという樋口さんに対し、深井さんは役立つとは思うと答えます。ただし日本史は学者によって説が分かれており、教科書がどの説を採っているかはわからないとも言います。そのため、説が分かれる部分はその旨を伝えながら話すそうです。
豪放磊落ではなかった?学者が描く西郷隆盛の素顔
本題の入口として紹介されるのが、研究者の家近良樹 ── 幕末維新史を専門とする歴史学者。西郷隆盛に関する研究や評伝で知られます先生による西郷隆盛の性格分析です。一般的な西郷像とはかなり違う内容だといいます。
一般的な西郷隆盛のイメージは、太い眉にどっしりした体格、豪放磊落で小さなことにこだわらない人物というものです。内村鑑三の名著『代表的日本人』でも取り上げられていますが、そこに描かれた姿もステレオタイプ化された西郷像だとされます。
家近先生の分析によると、西郷隆盛は常に戦いに臨むような緊張感で日常を生きていた人でした。本人も、自分は生まれつき心が安らぐ時間を持てない性格だと認めており、心を静めるために禅に取り組んでいたそうです。
どっしり構えているように見えるけど、本人はこう焦ってる感覚があって、それをしかも自分で理解してるみたいな。
深井さんは、今回調べてみて、西郷隆盛がずっと生き急いでいて、自殺願望も抱え続けていたと感じたと明かします。
家近先生の分析では、ほかにも通説とずれる特徴が挙げられています。深井さんは、感情のエネルギーが強いのはイメージどおりでも、それは良い面ばかりではなく、本人もその感情に振り回されていたと補足します。
- 感情の振れ幅が大きく、悲しいことがあると死のうとすることが何度もあった
- 気配りができる一方で繊細・神経質で、ストレスが体調に出た
- 好き嫌いが激しく、敵と認定した相手は容易に信じなかった
- 作戦を練って駆け引きを楽しむ策略家だが、考えすぎて失敗することもあった
繊細さが表れた例として、殿様級の立場にあった島津久光との関係がよくなく、そのストレスで体調を崩していったことが挙げられます。
包容力についても、家近先生は「本質は少し違うのではないか」と指摘しています。一方で深井さんは、部下への包容力はほぼ間違いなくあり、当時の人々から非常に好かれていたと自分の見方を述べます。ただし久光のように西郷を強く嫌う人もいたといいます。
深井さんは、ステレオタイプは人物を単純化しすぎて、解像度をモザイクのように粗くしてしまうと話します。今回のシリーズでは、その解像度を上げたときに見えてくるものを感じてほしいといいます。
人の長所と短所は絶対的なものではなく、どんな時代に向き合っているかで評価が変わる、というのが深井さんの考えです。変転の激しい幕末から明治にかけては、それまで西郷隆盛の役に立っていた性質が、急に通用しなくなることも起こったといいます。
長州よりすごい?海洋国家・薩摩藩の広さと石高の低さ
ここから本編として薩摩藩の話に入ります。番組ではこれまで長州藩の話が中心でしたが、深井さんは幕末で一番すごいのは薩摩藩だと言い切ります。
深井さんの説明では、薩摩藩は幕末の少し前から大きな借金をしながら新しい事業に挑み、積極的に日本史へ介入して、明治維新を能動的に起こしていった藩です。対して長州藩は、吉田松陰の影響もあって突き抜けすぎ、「よく考えてない」ところがあると、長州好きを自認する深井さんは笑いながら評します。
薩摩藩の藩主は、鎌倉時代から約700年続く島津家です。支配領域は現在の鹿児島県と沖縄県の全域に、宮崎県の3分の1を加えたほど広く、南北の距離は1200キロに及びました。
鹿児島から最南端の八重山諸島までを半径にして円を描くと、江戸はもちろん、朝鮮半島や中国の一部まで含まれるといいます。異国である琉球王国を支配下に置いていた藩も、薩摩藩のほかにはありません。深井さんは、その扱いはひどいものだったとも付け加えています。
一方で、薩摩藩の石高は72万8000石とされますが、これは精米前の数字です。精米後に換算すると35万石ほどになり、広大な領域の割に石高は高くありません。深井さんの地元の松江藩でさえ20何万石あり、加賀藩は百万石です。
関ヶ原の戦いで敗れた外様大名である薩摩藩は、江戸時代を不遇の立場から始めています。石高の低さは、この事情とも重なります。
人口の4分の1が武士、薩摩藩の異様な軍人社会
薩摩藩のもう一つの特徴は、武士の割合が非常に高いことです。明治維新の頃、日本の人口約3300万人のうち、士族は約190万人でした。そのうち約20万人が薩摩藩の武士だったといいます。
藩は200以上あるにもかかわらず、日本の武士の10人に1人が薩摩藩士だった計算になります。薩摩藩では人口の4分の1、およそ20%が武士で、ほかの地域の5%前後と比べると約4倍にあたります。
人口の約20%(4分の1)が武士。日本全体の武士の約10人に1人
人口に占める武士の割合は5%前後
武士が多い理由の一つは、関ヶ原で敗れたあとも、薩摩藩が徳川軍の侵攻に備えて国防体制を維持し続けたことです。幕府の一国一城令 ── 1615年に江戸幕府が出した法令。大名が領国内に持てる城を原則1つに限り、ほかの城を壊させて軍事力を削ぎましたで本城以外の城壁は壊されましたが、そこに配置していた武士はそのまま残されました。
ほかの藩では武士を城下町に集めるのが一般的でしたが、薩摩藩は領内全域に武士を配置しました。地方の武士団は半武半農の暮らしを送りながら、治安維持や地方行政も担っていたといいます。
深井さんは、薩摩藩が武力を重んじ、「武士たるものは」という意識をほかの藩以上に強く持っていたと指摘します。ただ武士は米を作らないため、生産人口が減り、人件費がかさんで藩の収入は低くなります。
そこで薩摩藩は、金やスズなどの地下資源の採掘に加え、温暖な気候を生かした薬用植物やサトウキビなどの特産品で稼ぎました。最も大きな収入源は、琉球を搾取しながら行った琉球貿易で、藩に莫大な利益をもたらしました。深井さんは、薩摩藩の決断力や行動力の高さにも、武士の多さが良くも悪くも影響しているだろうと見ています。
辺境なのに世界の玄関口、薩摩藩が持っていた情報の強み
薩摩藩が幕末の中心に躍り出たもう一つの理由は、南九州が海外交易の拠点で、海外の情報が最も早く流れ込む場所だったことです。ペリー来航より前から、イギリスなどが琉球に干渉し、薩摩藩による琉球支配を揺るがすようなことを始めていました。
深井さんは、会津藩のようにそうした接触がない藩とは危機感の育ち方が違ったと話します。薩摩藩の状況を、誰も見ていなかった時代にいち早く英語のブログやYouTubeにアクセスしていた人たちにたとえています。
日本地図を見慣れていると鹿児島は辺境に見えます。しかし大航海時代の航路で見れば、鹿児島は日本の玄関口でした。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来たことも、鉄砲が種子島に伝来したことも、偶然ではないと深井さんは言います。
この掛け算(辺境であることと情報が入ってくること)がイノベーションになるんですね。
深井さんの考えでは、メインストリームにいる人は、自分たちのコンテクストの外に挑むインセンティブを失いがちです。中央と異なるインセンティブを持つことと、海外の情報が大量に入ってくること。薩摩藩ではこの2つが揃っていました。
その結果、薩摩藩からは蘭癖 ── オランダを中心とする西洋の文化や学問に強く傾倒することを指す言葉。そうした大名は「蘭癖大名」と呼ばれましたと呼ばれるほど海外の文化に関心を示す殿様が次々に現れます。武へのこだわりや、徳川と同格だという意識も持っていたため、幕府の命令に従っているようで本心からは従わない態度を取り続けました。これが幕末に大きな意味を持つことになります。
深井さんによると、シリーズでは会津藩と東北諸藩にも1話を割くそうです。薩摩藩と対照的な会津藩を描くことで、幕末の全体像が見えてくるといいます。
勝てないと知っていた、島津斉興の恐ろしいリアリズム
ここからは、西郷隆盛が生まれる少し前の薩摩藩の話です。アヘン戦争 ── 1840〜1842年に清とイギリスの間で起きた戦争。清が敗れ、東アジアの国々に西洋列強の脅威を強く印象づけましたが終わった翌年、イギリスの測量船サマラン号が兵員を連れて琉球に上陸しました。ペリー来航の約10年前のことです。
琉球側は退去を求めましたが、イギリス側は国王の命令だとして拒み、測量を強行しました。その後も外国船の来航が毎年のように続きます。
薩摩藩からこの状況の報告を受けた幕府は、琉球に兵を送って守りを固めるよう命じます。当時の藩主は、西郷隆盛が仕えることになる島津斉彬の父、島津斉興でした。
島津斉興は、戦えば必ず負け、兵を出しても琉球は守れないと判断していました。交渉で穏便に退去させるしかないと考え、幕府には少人数を一時的に派遣して「派兵した」と報告したといいます。
現状認識なんか全くせずに、自分が信じたい、こうあってほしいことをそのままファクトとして認識していくっていうのは、情報収集してないホモ・サピエンスの基本的挙動なんですよ。
深井さんによれば、幕末の諸藩もほとんどがそうだったため、攘夷を唱えることができました。長州藩も勝てるはずのない戦争をしようとしました。これに対して薩摩藩は、明治維新の20年ほど前の時点で、西洋列強との軍事力の差を認識していたといいます。
島津斉興の時代の薩摩藩は、洋式砲術の採用、大砲を造る鋳造所の設置、火打ち石を使う新式銃の製造、沿岸の要所への砲台建設を進めました。1840年代には火薬などを研究・製造する製薬所も創設しています。
深井さんは、江戸の中枢では将軍や老中をめぐる権力闘争に埋没し、外の情報への関心が薄れていったと指摘し、大企業でよく起こる現象にたとえます。薩摩藩は危機を察知すると実際に動き、諸藩より15年ほど早く近代化の第一歩を踏み出していました。
先生がいないから強くなった?独学の近代化と集成館事業
深井さんが「世界に類を見ない」と語るのが、日本の近代化の方法です。鎖国中の日本は外国人から直接教わることができず、見たものを真似て作ったり、オランダ経由で入った書物を手探りで読み解いたりする独学に頼るしかありませんでした。
深井さんが紹介したのは、この「先生不在」こそが、同時期にほぼ日本だけが近代化に成功した理由の一つだという指摘です。教わる相手がいないので、すべての部品がなぜ必要なのかを分解して理解しなければ、何も作れませんでした。
鎖国
外国人技術者から直接教わることができない
独学
実物や書物を分解し、部品の意味まで自分で理解する
態度の形成
機械を丸ごと理解しようとする姿勢が身につく
急速な習得
外国人技術者を招けるようになると、習得が非常に早かった
深井さんは、その差は情報量よりも、機械を自分ですべて理解しようとする態度にあったのではないかと話します。
薩摩藩が進めた工場建設や研究は、まとめて集成館事業 ── 薩摩藩が鹿児島に築いた西洋式の工場群を中心とする近代化事業。島津斉彬の時代に本格化しましたと呼ばれます。大砲や鉄の精錬に使う反射炉、ガラス工場、紡績工場などが含まれていました。
集成館事業の施設は、明治維新後も新政府軍の大砲製造所として使われました。1875年の時点で陸海軍の火薬はすべて鹿児島製で、当時最新式だったスナイドル銃の銃弾も、国産品の7割が鹿児島製だったといいます。
借金は250年払い、封建社会だからできた財政改革
こうした近代化を支えたのは、島津斉彬の前の代に行われた財政改革です。薩摩藩はほかの藩と同じく巨額の借金を抱えており、その額は500万両にのぼりました。1両を今の6万円と換算すると約3000億円になり、利子だけで収支が食いつぶされる規模だったといいます。
そこで薩摩藩は、お金を借りていた商人に対して、借金を一方的に250年払いへ切り替えるという手段に出ます。深井さんは、藩の借金は収入の約40倍にあたり、売上100億円の企業が4兆円の借金を抱えているような状態だと説明します。
樋口さんは「うちもそのくらいかもしれない」と言いかけ、深井さんに「それは売上が低いからでしょ」とつっこまれる場面もありました。
深井さんは、これは殿様に逆らえない封建社会だからこそできたことだと強調します。一方、樋口さんによると、さらに極端だったのが佐賀藩でした。
商人からの借金を250年払いの長期返済に一方的に切り替えた
借金の7割を返済免除にし、残る3割を1000年払いにした
深井さんは佐賀藩のやり方を「ジャイアンやん」と評しつつ、商人の側にも、殿様に恩を売ることに金銭以外のメリットがあったのではないかと推測します。
薩摩藩の財政が悪化したのは、島津斉興の2代前の島津重豪が近代化に投資しすぎたためでした。島津斉興の代の財政改革でなんとか持ち直すと、次の島津斉彬の代で再び大きな投資に踏み切ります。藩内では「崩壊する」と反対の声も上がりました。
深井さんは、薩摩藩の人々は手元のお金が必要な投資にまったく足りないという感覚で生きており、そのお金を正しく使って成果を出した点が重要だと話します。
損は4、5年構わない、島津斉彬の投資哲学と次回予告
島津斉彬は、鉱山開発などすぐには利益を生まない実験的な事業にも投資しました。樋口さんは、島津斉彬が「何事も大きな利益となるものは最初の費用がかさむものであるから、損失が生まれても4、5年のうちは構うことはない」「初めから利益が出るようなものは、後々大きな利益にはつながらない」と語ったことを紹介します。
深井さんは、経営者として正しいだけでなく、実際にそれを実行できたことがすごいと評価します。今の企業でも、新規事業が一度失敗すると撤退しがちだからです。
薩摩藩では、教えてくれる先生もいないまま、見ただけのものを作る試みが何度も失敗しました。それでも続けた結果、その拠点が明治維新後の主要な生産拠点になりました。深井さんは、トップの気概が大きかったと話します。
樋口さんは、そうした気概を持つ藩主が続いたことも薩摩藩にとって大きかったと指摘します。深井さんは、それは運ではなく、外国からの圧力による必然だったのかもしれないと応じます。
最後に深井さんは、次回で早くも西郷隆盛が生まれると予告します。時代背景はほかのシリーズで話してきたので省き、生まれたあとに16話あるという構成に、樋口さんは「大活躍すぎる」と驚いていました。
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まとめ
西郷隆盛編の第1回は、通説とは違う繊細で生き急いだ西郷隆盛の人物像を示したうえで、その舞台となる薩摩藩の特異さを描いた回でした。広い領域と低い石高、武士の多さ、世界への玄関口という立地、そして危機感に裏打ちされた借金と投資が、薩摩藩を幕末の主役へと押し上げていきます。
- 家近良樹先生の分析によると、西郷隆盛は豪放磊落というより、常に緊張し、感情に振り回される繊細な人物だった
- 薩摩藩は実質35万石ながら、南北1200キロの領域を支配し、人口の約4分の1が武士という軍人社会だった
- 辺境でありながら世界の玄関口でもあったことが、薩摩藩の危機感と情報力を育てた
- 先生不在の独学による近代化が、かえって技術を深く理解する態度を育てたという指摘がある
- 250年払いの財政改革で首の皮をつなぎ、なお投資を続けた危機感が、集成館事業の成果につながった



