死者の国への旅支度は、なぜ世界中で似ているのか?
シリーズではこれまで、死を6つの考え方に分類して見てきました。楊さんはそれを振り返り、人間は死の本質がわからないからこそ、さまざまな説明を作ってきたと整理します。
そのうえで楊さんが大事だと話すのは、死をどう考えるかだけでなく、死についてどう納得し、社会でどうコンセンサスを取るかという点です。その答えの一つがお葬式だといいます。
僕たちがどういうふうに死者を弔うかっていうことが、僕たちがどういうふうに死んだ後の世界を想像するかっていうことと関係があるんですよね。
その死んだらどうなるかと思っとることに左右されるね、その儀式自体がね。
最初の例は、北極圏で暮らす狩猟採集民のイヌイット ── カナダ、グリーンランド、アラスカなどの北極圏に暮らす先住民。アザラシやカリブーの狩猟を中心とした生活文化で知られていますです。イヌイットの考えでは、死者の国は生者の国とよく似ていて、歩いて行ける近さにあるとされます。
イヌイットの死者の国への道は、家に帰る道とよく似ているそうです。家に着く頃には家の代わりに先祖たちがいて、死者を迎え入れてくれると考えられています。
そのためイヌイットの人々は、亡くなった人にアザラシの毛で作った最高級の防寒着を着せ、ブーツとミトンを身につけさせます。道中の食料も持たせ、旅支度を整えて送り出すといいます。
マダガスカルなどでは、棺の中にスイッチを入れたラジオを入れ、死者の国までの道中を楽しめるようにする例もあるそうです。樋口さんは「音声コンテンツが盛り上がってるんですね」と返し、深井さんは土の中からラジオが聞こえたら少し怖いと笑います。
楊さんによれば、人間は古代から葬式をしてきました。紀元前3000年後半ごろのシュメール文明 ── メソポタミア南部で栄えた最古級の文明。楔形文字や都市国家を生み出したことで知られていますのお墓からも、死後に食べるためと思われる食品が見つかっているそうです。
死者を生きている時と同じ状態にして送り出す形は、中国の兵馬俑 ── 秦の始皇帝陵の近くに埋められた、兵士や馬をかたどった大量の陶製の像。1970年代に発見されましたにも見られます。始皇帝の軍隊を一緒に埋葬し、死後の世界でも軍を持てるようにしたと考えられています。
エジプト、ペルーのパラカス文明、インカ帝国、北米オハイオ峡谷のアデナ文明など、生前と同じやり方で送り出す葬送は多くの文明に共通していると楊さんは話します。一方で、死者の国がどんな場所かについては見解が分かれます。
古代ギリシャには、神々の伝令ヘルメスが魂を冥界へ導くという考え方と、アケローン川をカローンの船で渡って死者の国へ行くという考え方がありました。地底の冥界と川の向こうの死者の国という、2つの概念を持っていたそうです。
チェコでは、魂の行く道は虹に輝くカーブで、死者は波打つ瀬を渡ると考えられていたといいます。そこを渡れるよう、ブーツを履かせて埋葬したそうです。
ミイラ、鳥葬、そしてローマの「和解する法事」
エジプトの葬送は少し変わっていると楊さんは言います。エジプトでは、死者の国へ行った魂がこの世に帰ってきて復活すると考えられていたため、復活のための体を保管しておく必要がありました。
エジプト文明の初期には、遺体は砂漠に置いておくだけでミイラになっていたそうです。しかし産業の中心が湿度の高い地域へ移ったため、人工的にミイラを作る技術が発達しました。そこまでしてミイラを作ったのは、復活を信じていたからだといいます。
ペルシャ人については、敵対していたギリシャ人の記録しか残っておらず、正確さはわからないと楊さんは断っています。そのギリシャ人は、ペルシャ人は鳥や犬にズタズタにされてからでなければ埋葬されない、と書いているそうです。
楊さんは、ペルシャ人が昔から鳥葬 ── 遺体を鳥などの動物に食べさせて自然に還す葬送方法。チベットやゾロアスター教の文化圏で知られていますを行っていたのだろうと説明します。ただし皇帝や王など特別な身分の人は、エジプトのような豪華な墓に生前と同じ品々とともに埋葬されたといいます。
ローマ人は、死と距離を保たなければならないという感覚を持っていたそうです。シュメール文明では死者を家の床や城壁に埋めていたのに対し、ローマ人は都市の外側に墓を作る習慣がありました。
ローマの墓の周りで行われる法事は、次の3つの段階に分かれていたと紹介されます。
ローマの法事の例から楊さんが引き出すのは、葬式は死者がどうなるかだけでなく、生きている人がどう生きるかも規定しているという点です。ローマ人は死後の魂を先祖の魂を表す「ディマネス」と呼び、その前で祝った後に家族で仲直りしたといいます。
法事の時って親戚がたまに集まって、おじいちゃんが集めてくれたんやみたいな話しますよね。
機能してますよね、なんか。現実世界で。
死者と話す人々——シャーマンと葬式の3つの役割
死者の国に行った人がどうなるかを想像し、それをコントロールする技術として出てきたのがシャーマニズム ── 霊や神と直接交流できるとされる宗教的職能者(シャーマン)を中心とした信仰や実践の総称だと楊さんは説明します。
シャーマンはもともとシベリアの狩猟採集民の宗教職能者を指す言葉です。今日では、死者や先祖と通信できる霊能力者のような人を広くシャーマンと呼んでいます。
死者の魂と対話する文化は、オーストラリアのアボリジニ、南アフリカのコサ人、北アメリカのラコタ・スー族、ナイジェリアのヨルバ族など、多くの民族に見られるそうです。
ヨルバ族の人々は奴隷として多くキューバに連れてこられ、キューバにはヨルバ族の宗教とよく似たサンテリア ── キューバで広まった、西アフリカのヨルバ族の信仰とカトリックが融合した宗教。太鼓や踊りを伴う儀礼で知られていますという宗教があります。楊さんは実際にこの儀礼を受けたことがあるそうです。
サンテリアの儀礼では、みんなで踊ったり太鼓を叩いたりして神や死者の霊を呼び、司祭のような人が交信して占いの結果を出してくれます。楊さんが受け取ったお告げは意外なものでした。
(サンテリアの儀礼で)僕は勉強しないと論文書けませんよって教えてくれました、神様。
楽しい楽しい。これは正しい意見や。
ハイチのブードゥー ── ハイチで信仰される、西アフリカの信仰とカトリックが混ざり合った宗教。ゾンビ伝承の由来としても知られていますも、死者が蘇り、司祭には死者を蘇らせる技能があるという想像力を持っています。
楊さんは、死を中心にしたこうした社会現象を、葬式が持つ役割として3つに整理します。
| 役割 | 内容 | 例 |
|---|---|---|
| 死の合意 | 死とは何かをみんなで合意し、納得する場になる | 靴や食べ物、副葬品を持たせる |
| 生者への影響 | 生きている人がどう生きるべきかを教える | ローマの法事での家族の和解 |
| 死者との対話 | 死後の考え方や生き方を強化する技術になる | シャーマンの交信 |
こうして人間は、死の本質がわからないなりに死を扱おうとしてきた、と楊さんはまとめます。しかし21世紀の社会ではお葬式や法事があまり重視されず、儀礼の力が失われていると指摘します。
楊さんは、その結果として死がぼんやりしたものになり、死生学のような学問で死とは何かを問い直さなければならなくなっているのではないか、と話しています。
科学は儀式を塗り替えたのか?
儀礼の力が失われた理由について、樋口さんは科学の台頭をイメージします。墓石に何十万円もかけるなら生きている人のために使ったほうがいい、という合理的な考え方が儀式を塗り替えたのではないか、という問いです。
深井さんもそれに同意しつつ、自分自身の変化を語ります。学生の頃は始業式や終業式が大嫌いで、何の意味があるのかと思っていたそうです。
大人になってこういうの勉強してくると、人間ってコンセンサス取るために儀式が結構そのリチュアルですよね。めちゃくちゃ重要なんだなって分かってきてて。
その儀式が区切りになるし、全員の認知を切り替えたりとかするわけですよ。
深井さんによれば、COTENでも今期の始まりに集まるような儀式的なことを行っているそうです。儀式をしなければ全員の認知がバラバラのままになる、という実感があるといいます。
死の儀式は生きてる人たちのためのものかもしれないね、本質的には。
いや、基本的にそうだと思う。
SNSは巨大な墓場になるのか?
楊さんは、科学の話を別の角度から補足します。これまでのシリーズでは科学を医療技術の観点から扱ってきましたが、デジタル技術の進化によっても死の捉え方が変わりつつあるといいます。
わかりやすい例が、Facebookの追悼アカウントです。アカウントの持ち主が亡くなると「追悼」と表示されて残り続け、関係者が集まってコメントを残したり交流したりする追悼コミュニティが生まれます。
葬式では関係者が一時的に集まるだけですが、デジタル上の追悼コミュニティならいつでも誰でも故人を偲べます。このことから、その人はそもそも社会的な死を迎えていないのではないか、という観点が研究で提示されているそうです。
さらに、生前のオンライン投稿をAIに分析させ、亡くなった後も本人のように投稿を続けるサービスも現れていると紹介されます。
番組では、追悼アカウントは今後も増え続け、SNSは一種の巨大な墓場のような存在になっていくのではないか、という見方も語られます。ただしその墓場では、生きている人と死者がオンライン上でつながり続けており、死者は生きているとも言えるという点が面白いところです。
生と死が混ざった空間から、戻る儀礼がない
番組では、人類学者アルノルト・ファン・ヘネップ ── フランスで活躍した民族学者(1873〜1957)。著書『通過儀礼』で、人生の節目の儀礼に共通する構造を示しましたの「通過儀礼」という考え方が紹介されます。
通過儀礼とは、人が日常から一旦切り離され、また元に戻ってくるために行う儀礼だという考え方です。子どもが大人になる時に冒険に出て、戻ってくると大人になっている、というのが典型例です。
葬式もこれと同じ構造だと説明されます。身近な人が亡くなった状態は、死者への愛着と恐怖が交錯する非日常であり、それを日常に戻すために葬式や法事を行うというわけです。
日常
身近な人とともに普段の生活を送っている
非日常
仲間の死で、愛着や恐怖が交錯し、抑うつや恐慌に陥る
儀礼
葬式や法事を行う
日常への復帰
社会も個人も通常の状態に戻る
シリーズで見たウサギや犬、猫、ゴリラの例のように、仲間の死で非日常に陥るのはホモ・サピエンスが動物である以上避けられないと語られます。
そのうえで、デジタル空間の追悼の話は、生と死が混在する新しい社会的空間から通常に戻るための儀礼を、人間はまだ持っていないという話だと整理されます。
確かに(生と死が)混在して以上終わっ、続けてくださいって感じですもんね、なんか。
この問題はITに限りません。自殺、安楽死、尊厳死、認知症、脳死などでは、どこまでが生でどこからが死かが大事な問題になります。臓器移植、生殖医療、人胚技術、遺伝子操作のように生の側にも同じ問いがあります。
こうしたテクノロジーがもたらした新しい問題について、社会にはコンセンサスも、それを作るための儀礼もない。だからこそ考え続けなければならない場所にいるのではないか、という指摘で本編は締めくくられます。
儀式を失ったことで、何が高くついているのか?
エンディングで樋口さんは、捉えようのないものを捉えようとして捉えられない感じがすると感想を漏らします。深井さんは、構造自体はシンプルだと応じます。
深井さんの整理はこうです。人間は、よくわからないものを儀式で一旦決めることで理解コストを大きく下げてきました。ところが科学によって全部がフラットになり儀式をやめたため、そのコストがずっと上がり続けているといいます。
儀礼が有効だという自己認知がないので儀礼的なことをせず、真理を求めて議論し続けている。しかし真理がわからない領域もあるから困っている、というのが深井さんの見立てです。
わけわかんないみたいなことを受け入れらんないからつらいんだと思うんですけどね。
考えてもわかんねえことってあるじゃないですか。
深井さんは、人間はストーリーで理解することが得意で、基本的にそれでしか納得しないのに、そのストーリーを外されてもなお答えを追い求めてしまうところに皮肉を感じると話します。
ゲームとかの3Dゲームのバグで穴落ちて動けないみたいな感じに見える。
根拠を求めすぎる社会と「無知の知」
樋口さんは自身の感覚として、根拠なく信じることが昔より難しくなっていると語ります。いろいろなことが解明されていくので、どんなことにも根拠があるはずだと思ってしまうというのです。
例えば僕らビジネスとかやってると、なんで売れたのか、なんで売れなかったのかってあるじゃないですか。これも多分根拠があるはずだ。分析する。
そうすると何かしら根拠っぽいものが出てくるんですよ。なんか本当かどうか知らないけど。
深井さんは、啓蒙思想 ── 17〜18世紀のヨーロッパで広まった、理性によって世界を理解し社会を改善できるとする思想運動以降、理性で考えればわかるという考え方が加速し、社会は大きく発展したと応じます。その代償として、わからないことの受け入れ方が下手になっているといいます。
深井さんは、本当は無知の知 ── 自分が知らないということを自覚することが知の出発点だとする考え方。ソクラテスの言葉として知られていますがあればいいだけだと考えています。投資の成功要因や企業の成功要因、フランス革命がなぜ起きたかも、本当に科学的に分析しきれているとは言えないと指摘します。
それでも分析を頑張ることは重要で、そうでなければ社会科学をする意味がないとも深井さんは言います。必要なのは、頑張るOSと、頑張ってもわからないことがあるという感覚の両方だという主張です。
科学的・合理的に考えることを諦めず、できるだけやり続ける
考えてもわからない領域があると認め、仮説を絶対視しない
この二つをダブル駆動させることによって、死とかは理解されるものの一つなんだろうなっていう感じがしてるんですけど。
深井さんは、後世から見れば、今の時代の人が投資をわかった気になっていたことは愚かに映るだろうと言います。性の歴史や教育の歴史で何度も見てきたことを、自分たちも今やっているという自覚が必要だという考えです。
一方で深井さんは、科学を放棄すべきだとは一切思わず、自分は超合理的なタイプだと話します。合理的に考えれば合理的でない領域があるとわかるので、それを捉えることがメタ認知だといいます。
楊さんは、議論が深刻な雰囲気になったことに触れつつ、わからないことがあるのはまだ考える余地があるということで、楽しいことだと思うと付け加えます。社会にはこれからもさまざまなことが起き、そのダイナミクスの中で生きているのだから悲観することではない、という話で議論は落ち着きます。
次は障害の歴史へ。人文学に足りない「投資」とは
老いと死の歴史編はこの回で終わり、次のシリーズは障害の歴史だと深井さんが予告します。その次には、社会福祉がどう変遷してきたかを扱う予定だそうです。
深井さんは、今回のシリーズが想定よりずっと長くなったことに驚いていると話します。樋口さんによれば、老いと死の歴史編の台本は第一次世界大戦編と同じくらいの量になったそうです。
長くなる理由について深井さんは、調べるのが好きな優秀な人たちがチームで台本を書くと情報過多になるのは防ぎようがないと分析します。広告も時間制限もないので、YouTubeのように大幅にカットすることをしないからだといいます。
最後に深井さんは、老い、特に老いの領域がこれまであまり研究されていなかったことに危機感を覚えたと語ります。
こういうことを考え尽くすとか、エネルギー使ったみたいなこと自体がすごい多分重要で。人間にはどうせリチュアルが必要なわけだ。
深井さんは、老いや死を人文学の領域から捉え直すことにこそ今投資が必要なのに、世界がそこにお金を投下していないことを「やべえな」と感じていると締めくくっています。
まとめ
この回は、世界各地の葬式や死者との対話の文化から、儀式が死についての社会の合意を作ってきたことを確かめ、その儀式を失った現代がわからないものとどう向き合うかを考える内容でした。
- イヌイットの旅支度やエジプトのミイラのように、葬式の形は死後の世界の想像と結びついている
- 葬式には、死の合意、生きる人への影響、死者との対話という役割があったと整理されている
- SNSの追悼アカウントなど、生と死が混ざる新しい状況から日常に戻る儀礼を、社会はまだ持っていない
- 深井さんは、合理的に追求する姿勢と、わからないことを受け入れる無知の知を両立させることが大切だと語った
- 次のシリーズは障害の歴史で、その後に社会福祉の歴史が続く予定


