丸メガネの雑談から、18歳の王太子のイギリス亡命打診へ
この回は、楊睿之さんが丸メガネに変えたという雑談から始まります。深井さんが出会ったころから3年ほど勧め続けていた眼鏡で、前回が辛辣な話だったため、少し和む話題を挟んだという流れです。
丸メガネにしてから、なんか[[愛新覚羅溥儀::清朝最後の皇帝。映画『ラストエンペラー』で知られ、丸い眼鏡をかけた肖像が有名です]]かなみたいな。
本題は前回の続きです。プロイセンの軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルムから虐待を受けていた王太子フリードリヒは、逃げるしかないという手紙を姉に送るほど追い詰められていました。
王太子フリードリヒは、イギリス大使のディケンズに会い、亡命者として受け入れてもらえないかと打診します。歴史家のあいだでは、この行動を「世間知らずだった」と評価する本もあるといいます。
楊さんによると、イギリスにとって次期国王なら受け入れる意味がありますが、王位を捨てて逃げてくる人を受け入れても利点はあまりありません。外交の力関係も崩れかねないため、冷静に考えれば受け入れられない話でした。
18歳のボコボコにされてる青年が逃げようとした時に、世間知らずだったねみたいな評価はちょっと僕は容しませんけど。
イギリス大使は、きっぱり断ることも、受け入れることもできません。そのため、王太子フリードリヒの申し出にはあいまいな返事しかしませんでした。
親友カッテと立てた南ドイツからの大脱走計画
大使の返事があいまいだったにもかかわらず、王太子フリードリヒはその4日後、側近で親友のカッテを呼びます。父の南ドイツへの旅に随行する途中で一緒に逃げてほしいと伝え、カッテも命をかけて一緒に行くと応じました。
この旅には外交上の目的がありました。ハプスブルク家の皇帝は、娘のマリア・テレジア ── ハプスブルク家の女性君主。のちにオーストリアを率い、プロイセンと長く争うことになる人物ですに位をスムーズに継がせたいと考えており、その意向を諸侯に認めてもらう必要がありました。
皇帝のこの意向を書面にしたものをプラグマティックサンクション ── 国事詔書とも訳されます。ハプスブルク家の領土を分割せず、女子にも継承を認めることを定めた取り決めですと呼びます。軍人王は、諸侯にこれを認めてもらうための説得役として旅をしていました。
旅の期間は1730年7月14日から8月27日までの1か月半ほどです。王太子フリードリヒは、この南西ドイツ歴訪の途中で逃げる計画を立てます。
王太子フリードリヒの逃亡計画は、3人で国境を越えてイングランドへ渡るというものでした。経路は次のとおりです。
南西ドイツで合流
軍人王の旅に随行し、別の用事で近くに来ているはずのカッテと合流する
フランスへ
カッテと2人で南西ドイツからフランスへ逃げる
オランダで合流
先回りしたもう1人の親友カイトが、デン・ハーグでイングランド行きの船を用意して待つ
イングランドへ
3人そろって船でイングランドに渡る
うわ大脱走や。
カッテの本名はハンス・ヘルマン・フォン・カッテです。名門軍人の家に生まれ、法律家か外交官を目指して大学で法学を学んでいましたが、父の意向でベルリンのジャンダルメン近衛騎兵連隊に入りました。
カッテは、フルート演奏と詩作という、王太子フリードリヒとまったく同じ趣味を持っていました。2人はこの趣味で意気投合し、当時から同性愛を疑われるほど親しく、恋人のようにお互いを扱ったという記述もあるといいます。
計画は最初から破綻していた。午前3時に待っていた監視役
もう1人の親友カイトは、ペーター・カール・クリストフ・フォン・カイトという人物です。王太子フリードリヒの側に仕えていましたが、軍人王の意向で別の場所に配置換えになっていました。年齢は、カッテが7歳ほど上、カイトが1つ上くらいです。
ところが、逃亡計画はいきなりつまずきます。カッテは遠征先の近くに来るはずでしたが、その出張命令を受けなかったため、そこへ行く用事がなくなってしまいました。
計画が最初から破綻していたにもかかわらず、王太子フリードリヒは1730年、18歳で逃亡を決行します。国王一行はシュタインスフルトという小さな村に泊まっていました。今のジンスハイム市の一部で、フランス国境から75キロの地点です。
王太子フリードリヒは、1日でフランスまで走り抜けられると考えたようです。そこでカイトの弟ロベルトに、午前3時に2頭の馬を用意して待つよう指示しました。
約束の時間に赤いマントで現れた王太子フリードリヒを待っていたのは、ロベルトではありませんでした。そこにいたのは、軍人王から監視役を命じられていたロッホ中佐、ブッデンブローク少将、バルドー大佐の3人です。計画は事前にロッホ中佐に知られていました。
だから計画段階で結構本当になんていうかな、詰めが甘い。
監視役の3人は、18歳の若気の至りとして済ませたいと考え、騒ぎにはしませんでした。一行はその日、何事もなかったように予定をこなします。
ところが翌日の日曜日、礼拝に向かう軍人王に、馬を用意するはずだったロベルトが良心の呵責に耐えきれず、事件を打ち明けてしまいます。
ロベルトから事件を聞いた軍人王は、最初はそれほど激怒せず、皮肉を言った程度でした。
まだいたのかね、もうパリにいるかと思ってたよと。
こわそれ。俺全部知ってんだぞみたいなことだよね。
カイトの亡命が、逃亡を国際的陰謀に変えた
軍人王は、自分が殴っているから息子が逃げたのだろうと理解しており、当初は逃亡未遂を重大視していませんでした。事態を変えたのは、計画が発覚した後の王太子フリードリヒ自身の行動です。
取り押さえられた後も普通に過ごしていた1日のあいだに、王太子フリードリヒはカイトへ「全部ばれたので身を隠しなさい」というメモを送っていました。メモを受け取ったカイトは、オランダから実際にイングランドへ亡命してしまいます。
逃亡事件から1週間ほど後、旅を終えてベーゼル城に戻った軍人王は、カイトの亡命を知ります。ここから軍人王は、イングランドが関与しているのではないかと疑い始めました。
当時のプロイセン宮廷は、イングランド寄りの派閥と神聖ローマ皇帝寄りの派閥に分かれて政治闘争をしていました。楊さんは、そのため軍人王の被害妄想にも無理はなかったと説明します。
逃亡未遂
当初は若気の至りとみなされ、軍人王も重大視しない
カイトの亡命
王太子のメモを受けたカイトが、オランダからイングランドへ逃げる
陰謀の疑い
宮廷の派閥争いを背景に、イングランドが息子をそそのかしたと軍人王が疑う
激高
息子が自分を裏切り、命を脅かしたと受け止める
とてもデリケートな時期なんですよ。
陰謀を疑った軍人王は激高し、王太子フリードリヒを尋問した際には、周りが止めなければ刺し殺しかねないほどだったといいます。ベルリンにいたカッテは共謀者として逮捕され、王太子フリードリヒも王太子でありながら逮捕されました。亡命したカイトだけは捕まえられませんでした。
友を庇う王太子と、敵対派閥による査問
逮捕された王太子フリードリヒは父に、全部自分に責任があり、カッテとカイトは自分にそそのかされただけだと懇願します。楊さんは、ここにフリードリヒの人格が表れていると語ります。
すごく友達を大切にする人なんですよ、フリードリヒ自身が。
軍人王は、長女ヴィルヘルミーネも共犯ではないかと疑い、暴力を振るって手紙から証拠を探しました。ヴィルヘルミーネが助かったのは、侍女が不利な手紙をすべてすり替えていたためだといいます。
王太子フリードリヒはキュストリン要塞に監禁され、厳しい査問を受けます。査問の委員長は国務大臣グルンプコでした。グルンプコは、王太子フリードリヒが頼ろうとしたイングランドと対立する、神聖ローマ皇帝派の人物です。
じゃあ一応イングランドのことを敵対視してる状態ですね、この人。なるほど。これは不利な状態か。
査問の論点は、軍で中佐の地位にあった王太子フリードリヒの逃亡が、軍人の脱走罪にあたるかどうかでした。哲学や文学を好む賢い青年だった王太子フリードリヒは自己弁護が巧みで、その巧みさがかえって父を苛立たせました。
185項の査問と、父が書き加えた恐ろしい問い
査問の項目は185項にのぼりました。そのうち最後のほうの問いは、軍人王が自分で書き加えたものだといいます。
仕事でさ、なんか。めちゃくちゃでけえミスした時にこの質問されたら超嫌じゃん。
父が書き加えた問いは次第に、息子を殺すつもりなのかと思わせる内容になっていきます。王太子フリードリヒは、そのどれにも慎重に答えました。
| 問い | 答え | 楊さんの見方 |
|---|---|---|
| 名誉に反して脱走を謀議した者はどう処罰されるべきか | 自分が名誉に反したとは考えていない | 処罰の重さを本人に言わせる怖い問い |
| 汝は君主となる資格を有するか | 何人も自分自身の裁判官となることはできない | 有る・無いのどちらで答えても責められる |
| 命が惜しいか | 国王陛下の慈悲にお任せする | これ以上ベターな回答は思いつかない |
| 継承を辞退することで命を長らえようと思うか | 書き起こしで答えは語られていない | ここで出席者全員が国王の意図を悟る |
楊さんは「命が惜しいか」という問いを、怒った上司の「やる気あるのか」に例えます。王太子フリードリヒは、あるともないとも言わずに慈悲に委ねる答えを選びました。
やる気がありますって答えてもなんかボコボコにされるし、やる気がありませんって答えてもボコボコにされる。で、普通黙るじゃないですか。
継承の辞退を問う項目まで来た時点で、査問委員会に出ていた全員が、国王は息子を処刑するつもりなのだと受け止めたといいます。
見せしめの厳しさと、大事なものを剥がされる王太子
楊さんは、軍人王がここまで厳しくした理由を想像として語ります。派閥争いのさなかに自分の息子にだけ甘くすれば、軍人王自身の政治的立場が危うくなります。そのため、反対派閥への見せしめの意味もあったのではないかという見立てです。
楊さんはさらに、啓蒙主義 ── 理性による合理的な判断を重んじる18世紀ヨーロッパの思想潮流。君主の統治にも合理的な説明が求められるようになりましたの時代が来ており、息子にだけ甘い対応は合理的に説明できなくなる、とも話します。
査問のあいだ、王太子フリードリヒの周囲の人や物は次々と処分されていきます。かわいがっていた馬や本は処分され、4000冊の本を持たせてくれた養育係デュアンは追放されました。人との会話もすべて禁じられます。
王太子フリードリヒと親しくしていた聖歌隊指揮者の娘ドロテアは、公開の鞭打ち刑に処されました。悪魔にそそのかされたのではないかという発想から、処女膜の確認までされたといいます。
そうね、自分の大事なものを最初に剥がしていくっていう状態ですね。
精神的に追い詰められた王太子フリードリヒは、査問が一度終わった後、継承権を放棄するので、死刑になるなら早くしてほしいと言い始めます。
このころ、神聖ローマ皇帝カール6世やポーランド王、スウェーデン王などから助命嘆願が届きます。楊さんによると、これらの嘆願は、将来王になるフリードリヒに恩を売る政治的行為という側面が強いものでした。軍人王には、あまり響きませんでした。
覆された判決。親友カッテだけに下された死刑
啓蒙主義の影響から、軍人王は裁判の場には臨席しませんでした。裁判は、この件は軍紀違反ではなく国家の問題であり、査問委員会だけでは裁けないという結論に至ります。
裁判は、カッテには終身の城塞禁錮、つまり無期懲役を言い渡すべきとしました。亡命したカイトには、出頭命令を出したうえで肖像画を公衆の前に掲げるという、国内での社会的制裁が科されました。
しかし軍人王は、この結論に満足しませんでした。裁判官たちは決定を変えられないと反論しましたが、軍人王は裁判を招集し直して別の決定をさせ、死刑宣告が下されます。
王太子フリードリヒは、王太子であることや助命嘆願もあって、死刑を免れました。楊さんは、軍人王が陰謀は思い過ごしだったかもしれないと考えたのではないかと推測しています。
はぁ、なるほど。なんとか落としどころをつけないといけないからですね。
窓辺で見せられた処刑。カッテが遺した言葉
カッテは、王太子フリードリヒが自分の命より大切だと思っていた親友でした。王太子フリードリヒは、カッテが死ぬくらいなら自分を殺してほしいと嘆願します。
一方のカッテは、自分が死ぬのを殿下のせいだと考えないでほしい、国王陛下も恨まない、と伝えたといいます。そのうえで、王太子フリードリヒと軍人王が和解することを望むと述べました。
「明日の朝7時に処刑する」と告げられたカッテは、早いほど結構だと答えます。王太子フリードリヒに処刑が知らされたのは、わずか2時間前でした。王太子フリードリヒは、泣きながら両手をすり合わせて身もだえし、延期を求める書状を国王に送ってほしいと嘆願したと記録されています。
7時半、王太子フリードリヒは窓際に引きずり出され、連れてこられるカッテを見せられます。王太子フリードリヒが「私を許してくれ」と叫ぶと、カッテは「喜んであなたのために死にます」と応じました。カッテは目隠しも断ってひざまずき、首を切られます。王太子フリードリヒは、その直前に失神したといいます。
えー、残酷。
楊さんは、軍人王にとってこの処刑は「お前のせいだ」と王太子フリードリヒに突きつける見せしめだった、と説明します。
父に従うと決めた王太子と、紙もペンもない軟禁生活
カッテの処刑から数週間後、王太子フリードリヒは父に、へりくだって恭順を示す手紙を書きます。それまでは、納得していない様子を父に見せていました。
態度を変えた背景には、親友を死なせてしまったことと、次に父の怒りに触れたら今度こそ確実に殺されるという思いがあったと楊さんは語ります。王太子フリードリヒは、反発を見せてはいけないと痛感したのです。
父に反発し、納得していない様子を見せていた
恭順の手紙を書き、父の言うことを聞く方針に切り替える。ただし他の人への手紙では、本心は嫌だったことがうかがえる
態度を変えた後も、軍人王は耐えがたい苦しみで息子を矯正しようとし、連日牧師に説教を聞かせました。楊さんは、このやり方をパワハラ系の上司のようだと表現します。
鬱病になってないのかな。
なったんじゃない?一回。
王太子フリードリヒは死刑を減じられ、小さな住居で監視付きの軟禁生活に入ります。粗末な衣食で、紙もペンも書物も許されず、軍人の身分も停止されました。下級役人のように地方行政の業務をさせられることになります。
軍人王は監視役に、生活の決まりを細かく指示しました。主な内容は次のとおりです。
- 国王と王妃以外との文通は禁止
- 食事に客を2名招くのは可。ただし男性に限る
- フランスやドイツの書物、音楽は禁止
- 遊戯や武道も禁止
これでやっぱりひずまないフリードリヒがすごい。
ヒレから学んだ行政と、父との和解の予告
王太子フリードリヒにとって、軟禁中の地方行政の経験はかなり勉強になったようです。次の王になる覚悟を決め、勉強熱心になっていきました。
幸いだったのは、行政区の局長ヒレが哲学の素養を持つ人物だったことです。王太子フリードリヒはヒレと親しくなり、商業政策や政治学を学びました。シュレージエンとの交易案のような行政戦略を、軍人王に提出するほどになります。
楊さんは、この熱心な勉強は「矯正された」と父に示すためのアピールでもあったと見ています。そうしなければ、締め付けはますますひどくなるからです。
自分がサバイバルするためでもあるんだろうね。
王太子フリードリヒは、親友の1人を亡命で、もう1人を目の前の処刑で失いました。軍人王に陰謀だと吹き込んだ宮廷の派閥争いを、フリードリヒは本当は憎んでいたのではないか、という意見もあるといいます。ただし、王になった後にその派閥の人々を冷遇することはありませんでした。
次回は、王太子フリードリヒと軍人王が和解する話になります。樋口さんも楊さんも、自分なら和解できないと口をそろえました。
その文化系でさ、繊細で芸術が好きで、ここででも踏みとどまれるっていうのが彼のなんか個性だと思うのね。
楊さんによると、軍人王の対応も少しずつ変わっていきます。ここまで追い詰められた末に起こる関係の変化が、次回の焦点です。
まとめ
18歳の王太子フリードリヒのイギリス亡命計画は、詰めの甘さから失敗しました。カイトの亡命をきっかけに軍人王が国際的な陰謀を疑ったことで事件は国家の問題となり、親友カッテの処刑という結末を迎えます。その経験を境に、王太子フリードリヒは父に従う道を選び、軟禁生活の中で行政を学んでいきます。
- 王太子フリードリヒの逃亡計画は、カッテの出張命令が出なかった時点で破綻しており、事前に監視役にも知られていた
- カイトのイングランド亡命と宮廷の派閥争いが重なり、若気の至りは国家反逆の疑いへと変わった
- 軍人王は裁判の結論を覆し、王太子フリードリヒの目の前で親友カッテを処刑させた
- 処刑を境に、王太子フリードリヒは父への恭順を示し、軟禁生活の中でヒレから行政や政治学を学んだ
- 次回は、ここまで追い詰められた父と子が和解へ向かう過程が語られる





