弁護士に専念したリンカンが再び政治を志した理由
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前回まででアメリカ南部と北部の分断が無視できないレベルに達したところまで進みました。この時点でリンカンは政界から一度引退しています。
楊さんによると、リンカンは州議員を経て連邦議員になり、それも1期で辞めています。理由ははっきりわからず、学者ごとに仮説が異なります。
仮説の一つは、同じ党から候補を回す議員のローテーションシステムです。もう一つは、彼が政治家になった動機だったイリノイのインフラ開発 ── 鉄道など、資本主義が回るための最低限の社会基盤。リンカンはこれを連邦が主導して進めるべきだと主張していたが一段落したことです。
それがひと段落したっていうのもあって、彼は一回辞めて、その後12年間公職に就かないんですよね。
1849年に辞めてから1861年まで、リンカンは弁護士に専念しました。扱った法務案件は数千件にのぼります。
すげえ、めちゃくちゃ働いてるやん。
地元の名士の弁護士となり、経済的にも安定していました。ただ、1852年半ばごろから奴隷制が世論の大問題になっていくにつれ、彼の問題意識も高まっていったようです。
ちょうどダグラスが住民主権論 ── 新たな準州で奴隷制を認めるかどうかを、その地の住民の投票で決めればよいという主張を唱え始めた時期でもありました。
イリノイの情勢がリンカンに有利へと傾く
リンカンにとって重要なのは、彼がイリノイ選出の議員だという点です。イリノイは西部にあり、これからさらに西の開発が進んでいく州でした。
イリノイより西っていうのはまだなんか未開発みたいなところなんですよ。
イリノイ州はもともと奴隷制の州で、その後奴隷制を禁止した経緯があります。そのため奴隷制支持者もまだ残っており、彼らは民主党を支持していました。
当時は保守とリベラルが今と逆で、民主党が保守側です。奴隷制支持は民主党で、ダグラスも民主党から出ています。イリノイでは民主党が断トツで一番人気の党でした。
ところが開発が進み、資本主義が盛んな北部から鉄道が通ります。鉄道が通ると北部の人が大量に流入し、その人たちは反奴隷制でした。
鉄道が通るところに市場経済が広がっていくっていう。
北部からの流入によって、リンカンが所属していたホイッグ党が台頭し、民主党が弱くなっていきます。人口動態がリンカンに有利な方向へ動き始めていました。
さらにリンカンの弁護士としてのクライアントは、鉄道会社など資本主義社会の人たちが中心です。楊さんは、この局面で改めて奴隷制を争点に立てば一気に伸びると考えたはずだと解説します。
この瞬間に自分が政治家として改めてこの奴隷制を問題にして立てば、ガッっていけんじゃない?って思うわけですよ。
州のホットトピックが国の論点と一致するという好条件
樋口さんは、イリノイ州が奴隷制論争の最前線であり、鉄道会社のような資本主義の代表がクライアントにいる状況を整理します。飲み会で「リンカンさん、何とかしてくださいよ」と迫られていたかもしれない、と場の空気を想像します。
もうちょっとね、切羽詰まった訴えられ方をされてると思う。
イリノイ州の中にさまざまな思想の人がいるからこそ、奴隷制は論点になりやすいホットトピックになっていました。
楊さんはここが核心だと言います。イリノイのホットトピックが国のホットトピックと完全一致しているという点です。地方で支持される争点が、そのまま国政の争点になっている状態でした。
日本でいうと社会保障みたいなのを言うと、支持者にすごく支援される地域にいて、で、国も社会保障が問題になってるみたいな。
そのうえ対戦相手のダグラスは、住民主権論という独自の論点で連邦議会でも目立つ、若くてスピーチのうまい政治家でした。
論点の設定もマジでオリジナリティあって、攻撃力高いし、州で自己決定をするっていうのは確かにもうセクト型に沿ってるんですよね。
楊さんは、この状況で追い上げ中のホイッグ党出身リンカンがダグラスに挑めば、大きく飛躍できるという感覚があったと語ります。しかもそれは単なる出世欲ではありませんでした。
神聖を帯びたこの自分の役割みたいな感覚があるわけですよ。
州議会選挙への挑戦と、リンカンの差別的な発言
こうしてリンカンは州議会選挙に立候補します。連邦議員になるには州議会からの推薦が必要という仕組みがあり、ブランクのある彼はまず州議会を通そうとしたと解釈されています。
いずれ国政に打って出たいけど、まずは福岡市の市議会みたいな。
ところが、この選挙でリンカンは落選します。鉄道会社などから応援されていたはずでしたが、結果は伴いませんでした。
楊さんは時系列を補足します。この落選は引退の12年間まるごと後ではなく、辞めてから5年半ほど後の出来事でした。落選が続いたために結果的にブランクが延びたのです。
この時期のリンカンの演説には、現代から見れば明確に差別的な内容も含まれます。彼は白人と黒人の混血を取り上げ、白人には生まれながらの嫌悪感があると述べていました。
奴隷制反対なんだけど、差別的なんですよ。
樋口さんは、この差別意識がギャリソン ── 急進的な奴隷制廃止論者ウィリアム・ロイド・ギャリソン。黒人の平等を強く訴えたやクエーカー教徒 ── 平和主義と人間の平等を重んじたキリスト教の一派。早くから奴隷制反対を掲げたでない限り、当時の白人のデフォルトだったと補足します。
リンカンは1857年ごろの演説で、黒人をリベリア ── 解放奴隷を移住させる目的でアフリカ西岸に建設された国。当時アメリカでは黒人の「送還」構想が語られていたへ送る人種隔離政策にも触れていました。
とにかく奴隷制ダメ、黒人と混血ダメ、差別あるのは当たり前、劣ってるからねみたいな。でも人間としては尊重すべきです。
個人的な接点と、当時としての先進性
樋口さんは、リンカン個人の黒人への態度を整理します。ベースには他の多くの人と同じ差別意識があり、本によっては差別を完全に支持したわけではないが、明確に非難もしなかったと書かれています。
一方で、リンカンには黒人との個人的な接点もありました。スプリングフィールドでは黒人の居住区が近く、生活圏に黒人がいました。結婚後は自由黒人の女性を召使いとして雇っていたといいます。
大統領になった後、南北戦争中にホワイトハウスへ招かれた黒人の有力者の中には、リンカンが自分たちを軽蔑しなかったと語る人もいました。
そのリンカーンさんはちょっと我々を軽蔑しなかったねみたいな。
ただし、彼は完全な人種平等主義者になったわけではなく、私的な場では差別用語や差別的なジョークを口にすることもありました。
楊さんは、当時の感覚ではリンカンは非常に先進的な人物であり、現代から見て遅れて見えるだけだとまとめます。ネイティブアメリカンへの扱いはアメリカ全体でさらにひどいものでした。
リンカン・ダグラス論争と、二つに割れた家
落選後もリンカンはダグラスとの論争を続けます。次は直接、連邦上院議員選挙を狙う構えでした。この頃、ホイッグ党はカンザス・ネブラスカ法 ── 住民主権論に基づき、新準州が奴隷制の可否を自ら決められるとした法。反発した人々が共和党を結成したへの危機感から結成された共和党へと姿を変えていました。
これは今の共和党と同じ党です。
共和党はイリノイ州の候補としてリンカンを立てます。ホットトピックについてしっかり語れる人物として担がれたのです。相手は民主党のスティーブン・ダグラスで、1858年、正式なライバル同士の対決が成立しました。
この対決は「リンカン・ダグラス論争」として知られます。リンカンはここで、二つに割れた家を意味するハウス・ディバイディッド演説 ── 「分かれた家は立ち行かない」という聖書由来の言葉を引き、奴隷制のもとで国が半ば自由・半ば奴隷のままでいられるかを問うた演説を行いました。
ダグラスの住民主権論には納得感があり、他の政治家はうまく反論できずにいました。楊さんは、リンカンが弁護士のスキルを生かして対等に戦える論理を組み立てた点を評価します。
これは対等に戦っとるわってなって、彼がその共和党に選ばれて、そして実際に戦っていくっていう。
ダグラスの反論ロジックと、混血をめぐる応酬
ダグラスは、自由州の制度と奴隷制の拡散は共存できると主張しました。リンカンとは正反対の立場です。
ダグラスはさらに、自由州も自由黒人を市民から排除してきたのだから、自由州も奴隷州も大して変わらないと論じます。そのうえで共和党を「黒人の党」だと揶揄しました。
自由州も黒人差別してんじゃん、あんま変わんないじゃんって言ったって。だから共存できるでしょって言ったって。
樋口さんは、敵の味方だと決めつける揶揄は現代の政治でもよく見られると指摘します。ダグラスはまた、共和党が勝てば人種間婚姻が出現すると攻撃しました。
当時、混血は倫理的に忌み嫌うべきものとされていました。楊さんは、白人から見て劣った血を混ぜるという発想がそのロジックの背景にあると説明します。
今から見たらどっちも差別的だけどね。
リンカンもかつて南部が混血を促進していると批判していました。当時は双方が、相手こそが倫理的な下劣を引き起こすと言い合っていたのです。
チャーチ型とセクト型の綱引きとしての論争
リンカンはダグラスの共存論に猛然と反論します。住民主権で準州への奴隷制導入を認めることは、合衆国という政体の根本を脅かすという主張です。
楊さんは、これをチャーチ型とセクト型 ── チャーチ型は全体で一つのまとまりを重んじる発想、セクト型は個々の独立や自己決定を重んじる発想。番組で繰り返し使われる対比の枠組みの闘争として整理します。住民主権で奴隷制の可否を決めれば、一つの国として成り立たないという論理です。
連邦として成り立たないじゃんって言ってるってことです。
楊さんは、どちらの論も正当性の基盤がアメリカに存在すると言います。セクト寄りならダグラス、チャーチ寄りならリンカンで、決着はグラデーションの中の綱引きになります。
綱引きでグラデーションの中の妥結点を決めるっていうことですよね。
この綱引きは、連邦を重んじる北部の連邦派と、州の独立を重んじる南部の州権論 ── 連邦よりも各州の主権・独立を重視する立場。南部に多く、後の分離独立の思想的土台になったの対立でもありました。
奴隷制の可否は住民の投票で決めればよい。自由州も黒人を差別しており、奴隷州と共存できると主張
住民主権で奴隷制を決めるのは連邦の根本を脅かす。国が半ば奴隷・半ば自由のままでいられるかを問う
一線を超えた「奴隷制は悪」という主張
リンカンは、南部の既存の奴隷制は宿縁の制度として受け入れてきたと述べます。しかし西部への拡大を放置すれば、合衆国全体が奴隷制と共生することになり、奴隷制の全国化を招く危険があると論じました。
さらにリンカンはドレッドスコット判決 ── 奴隷は市民ではなく、連邦は準州で奴隷制を禁止できないとした1857年の連邦最高裁判決。反奴隷制派の強い反発を招いたも否定します。この判決では、奴隷を連れた奴隷主が自由州でも合法的に生活できかねないと解釈できたためです。
どんな判決出しとんねんって言ってるってことですね。
楊さんは、この主張がそれまでのラインを超えていると指摘します。これまでの共和党の論調は、ここまで奴隷制を否定してはいませんでした。ここまで言うと南部の立つ瀬がなくなるからです。
同じ水準の批判をしていたのはチャールズ・サムナー ── 急進的な反奴隷制の連邦上院議員。1856年、議場で南部支持の議員に杖で激しく殴打されたくらいでした。サムナーは議場で激しく殴打された人物です。
サムナーが言ってボッコボコにされたような話と同じ水準の話を今ここでリンカーンは言ってることになるんですね。
リンカンは、独立宣言の「すべての人間は平等に創られている」という原理を引き、黒人もその対象だと訴えます。楊さんは、独立宣言の倫理に反していると言われれば南部は立つ瀬がないと語ります。
本音と建前を分ける政治家リンカン
樋口さんは、リンカンがサムナーのような信念一本の政治家とは違うと整理します。状況の変化に応じて論点や出すタイミング、戦略を都度変えていくタイプでした。
つまりリンカンは、個人としての願いと、政治家として語るべき言葉やタイミングを分けていました。楊さんは、これは多くの政治家のデフォルトだと補足します。
リンカンがここまで踏み込んだのは、支持者がすでにそう思っていたからでした。彼はそれを代弁し、世論を集約する論者になろうとしていたのです。
それだけイリノイ州のボルテージ上がってきていて、ここでそのダグラスの論調を防げなければ大事になるって思ってる人がたくさんいるので。
リンカンはケンタッキーの友人ロバートソンへの手紙で、より踏み込んだ本音を記していました。建国の父たちに倣って奴隷制は平和的に消滅すると考えてきたが、現状はまったく違いつつあると書いています。
手紙の結びで彼は、この国が永久に半ば奴隷制・半ば自由のままやっていけるか否かが問題だと述べます。演説では南部に何もしないと言いつつ、本音では共存は無理だと考え始めていたのです。
その重い政治的問いに私は押しひしがれそうなのであるって言ってるんで、手紙の中で。
ただし演説では奴隷制の全廃までは口にしませんでした。そこまで言えばパニックを招き、ギャリソンのように支持を失ってしまうからです。
聴衆への呼びかけと、ギリギリを攻める感性
リンカンは論争の中で聴衆に繰り返し呼びかけます。奴隷制が悪だという感性を、いかなる形でも鈍らせてはいけないという訴えです。
ダグラスが仕掛ける罠は、住民投票で決めればよいという主張を広めることで、根源的な悪への感性を麻痺させ、無関心へ誘う点にある、とリンカンは言います。セクト型的な発想は自然に見えるが、それは感性を麻痺させていると論じました。
あなた方の感性に戻ると、やっぱり奴隷制って悪だよねってことを言ってるってことだよね。
楊さんは、この主張は南部からすればフィニッシュに等しいと言います。奴隷制が悪だと名指しされているからです。それでいてリンカンは急進的ではなく、大多数の共和党支持者の気持ちを代弁していました。
楊さんは、リンカンの強みを支持者の気持ちを汲み取る力だと説明します。他の政治家がワンテンポ遅れる中で、彼はワンテンポ早く、言い過ぎるギリギリを攻めていました。
一方で、このポジション取りゆえにリンカンはサムナーのような急進派からは手ぬるいと突っ込まれ、南部からはムカつくと言われます。両側から批判されるのは、バランスが取れている証でもありました。
選挙は敗北、しかし全国区の人気者へ
結果として、この上院議員選挙でリンカンは負けます。ダグラスが勝ち、リンカンは選挙期間中は弁護士もできず、敗北にかなり落ち込んだといいます。
ところが、7回にわたるダグラスとの論争は全国的な注目を集めました。イリノイだけでなく、北部の支持者から「言ってほしかったことを言った」と受け止められ、リンカンは一気に人気を高めます。
いや、言って欲しかったわっていうこと言ったんですよね、リンカーンが。支持者、北部の支持者からね。
楊さんは、この人気の広がりを野球にたとえた説明を紹介します。甲子園に出られなかったが、その相手が甲子園で優勝し、その相手に接戦を演じたからプロのスカウトが来た、という構図です。
めっちゃいい試合したねみたいな。負けたけど。めちゃくちゃいい試合して、みんなの心に残ってて。
樋口さんは、2か月間ほど7回続いた公開討論会が、アメリカ政治史上初となる公衆を前にした候補者間の連続討論会だったと補足します。話題にならないはずがない場でした。
ジョン・ブラウン襲撃事件が高めた社会の温度
論争の翌年、社会の温度感をさらに上げる出来事が起きます。奴隷解放を実現しようとしたジョン・ブラウン ── 暴力による奴隷解放を志した人物。連邦武器庫を襲撃したが失敗し、絞首刑となった。北部では英雄視、南部ではテロと見なされたの襲撃事件です。
ブラウンは21人の武装集団を率いてバージニア州の連邦武器庫を襲撃し占拠しました。奴隷の決起を期待しましたが決起は起こらず、ロバート・リー率いる軍隊に捕らえられ、絞首刑となります。
この事件は、北部の一部からは称賛され、南部では奴隷を解放させようとする北部への恐怖と敵意をかき立てました。楊さんは、事態がコントロールできない領域に入りつつあると語ります。
南部に対して敵愾心を抱いている北部人から見ると、ブラウンっていうのはもうよくやったねみたいな感じになったし。
樋口さんは、この事件が南部から見ればテロだと指摘します。デモのレベルではなく、暴力沙汰にまで発展していたのです。
割れた民主党と、大統領リンカンの誕生
奴隷制が最大の争点となる中で大統領選の年を迎えます。共和党はシカゴで全国党大会を開き、リンカンを大統領候補に指名しました。
共和党の綱領は、奴隷制の準州拡大に反対する封じ込め政策を掲げます。経済面でも高関税、ホームステッド法 ── 西部の未開拓地を開拓した入植者に土地を与える法。北部・西部の農民に有利な政策、大陸横断鉄道など、北部寄りの政策を並べました。
一方の民主党は意見が二つに割れます。南部からすると、ダグラスの住民主権論でさえ手ぬるく、もっと直接的に奴隷制を擁護し拡大させたかったのです。そこでより過激な南部寄りの候補が立てられました。
奴隷制擁護しろよ、直接。もっと擁護して、もっと拡大できるようにしろよ。何をぬるいこと言っとんだよってなったんですね。
この分裂が結果を左右します。民主党が結託していればリンカンは負けていたはずでした。票が割れたことでリンカンが当選したのです。
2つに分かれたことによってリンカンが当選するっていう、こういう勝ち方するんです、リンカンは。
樋口さんと楊さんは得票数を挙げます。1位のリンカンが186万票、2位のダグラスが137万票、3位のブレッキンリッジが85万票でした。
楊さんは、ダグラスとブレッキンリッジが統一できていれば200万票を超え、リンカンは負けていたと指摘します。南部ではダグラスでさえ共和党を抑えきれないという恐怖から、ブレッキンリッジに票が集まったのです。
南部支持率2パーセントの大統領という異常事態
さらに衝撃的なのが南部での支持です。リンカンの南部奴隷州での得票率は、わずか2パーセントでした。
98パーはリンカンなんか大統領なんなって思ってんのに、大統領ではあるんだよ。
樋口さんは、南部から見ればリンカンは殺意すら向けられる存在だと語ります。自分のビジネスを悪だと名指しされたのだから、当然の反発でした。実際に暗殺の噂も立ち始めます。
楊さんは、ここでリンカンの内面についての仮説を示します。彼はもともと衆議院議員としてダグラスと戦うつもりで、大統領になるとまでは思っていなかったのではないか、という見立てです。
したらものの数年でね、なし崩し的に彼大統領になってるんですよ。
問題は、ダグラスと論争していた頃の発言が残っている点でした。イリノイ州の支持者を意識して踏み込んだ発言が、大統領の立場では過激すぎるものとして残ってしまったのです。
マジで過去のツイート消したくなるやろな。
楊さんは、大統領なら言わないような内容を言ったまま大統領になってしまった状態だとまとめます。後にも引けず、共和党もその論調で行くと決めていました。
増す南部の焦燥と、離脱の相談
南部から見れば、リンカンは絶対に大統領にしてはいけない存在でした。楊さんは、今のリベラルから見たトランプ大統領以上の脅威だったと表現します。
あいつが大統領になったら俺ら終わるかもしれないと。
南部は事前に相談しており、もしリンカンが勝てば連邦を抜けようと決めていました。ボロクソに言われている以上、南部諸州で分離しようという発想でした。
樋口さんは、南部が連邦議会の下院で影響力を失いつつあった点も指摘します。リンカンが大統領になる少し前の時点で、下院の自由州の議席数はすでに3分の2に達していました。
理由は北部、つまり自由州の人口増でした。資本主義が勃興し、移民が大量に流入していたためです。人口で議席が決まるため、五分の三条項 ── 奴隷1人を人口の5分の3として議席配分に数えることを認めた憲法の規定。南部に有利に働いたの奴隷ボーナスでも北部の増加をカバーできなくなっていました。
すごい自分たちのビジネス全否定されてる。怖い。
サウスカロライナの離脱と南部連合の結成
リンカンは11月に当選しますが、当時の法律では翌年3月まで就任できませんでした。その間は前任の民主党の大統領が職にとどまり、約4か月のブランクが生じます。
この間に最初に動いたのがサウスカロライナ州でした。同州はすでに大統領選直前から南部諸州と密かに連絡を取り、負けたら離脱しようと申し合わせていたのです。
この人が離脱を宣言します。もう連邦から離脱します。
樋口さんは、これを今の日本にたとえます。福岡県が独立を宣言し、国に税金を納めず、他県から来た者を捕らえるようなものだと表現しました。
続いてミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスが追従します。翌年2月、アラバマ州モンゴメリーに集まり、連邦政府と敵対する南部連合 ── アメリカ連合国(Confederate States of America)。連邦を離脱した南部諸州が結成した独立国家を結成しました。
南部連合は新たな大統領としてジェファソン・デイビスを立てます。彼はウェストポイント陸軍士官学校を出たエリート軍人で、上下両院の議員も経験していました。
ところがデイビス自身も、大統領就任を打診されて驚いたようだと楊さんは語ります。将軍のつもりだったところに大統領の役が回ってきたのです。彼もプランテーション経営者で奴隷を所有していました。
「え?なんで俺?」ってなったらしいんですけど、「理由不明」って書いてあった、本に。
南部連合の憲法に込められた意思
楊さんは、南部連合が作った憲法の内容が興味深いと紹介します。まず元の合衆国憲法の前文は「より完全な連邦を形成し」と始まっていました。
これに対し南部連合の前文は「それぞれが主権を持つ独立した構成各州により、恒久的な連合政府を形成し」と変わります。州の独立的な権力を強調する表現でした。
よっぽど連邦派が嫌だったんでしょうねと。
さらに南部連合の前文には「全能の神のお導きの下で」という一文が加わります。合衆国憲法にはなかった一神教的な要素です。
楊さんは、キリスト教徒にとって倫理に反することは地獄に落ちることを意味すると解説します。リンカンの「倫理に戻れ」という言葉は、南部からすれば地獄行きの宣告に等しかったのです。
悪いやつだとかいうレベルじゃなくて、あなたのその生き方は神から遠ざかる地獄に行く生き方ですよっていう、恐ろしい意味が入ってると見なせる。
だからこそ南部は憲法に神の名を入れ、自分たちの正当性を確認したかったのだと楊さんは言います。彼らは聖書を持ち出して奴隷制を正当化していました。
自分の可愛い子とかも地獄に落ちるって言われてるんですよ、南部の人からすると。
楊さんは、こうした感覚は宗教を理解しないと見えにくいと補足します。当時の人々は演説で涙を流すほど宗教的で、救済は喫緊の課題でした。北部もまた宗教的理由から自らの正しさを確信していたのです。
南部連合の憲法には、他にも彼らの意思が刻まれています。黒人奴隷を所有する権利を否定・毀損する法律の制定を禁じ、外国からの輸入品に関税を課してはならないと定めていました。
共和党が関税の話してるじゃん。よっぽど嫌だったんでしょうね。憲法で関税課しちゃダメって。
「より完全な連邦を形成し」と、連邦のまとまりを打ち出す
「それぞれが主権を持つ独立した構成各州により」と州の主権を強調し、「全能の神のお導きの下で」を追加
自ら招いた分裂から始まる大統領ライフ
南部が離脱を宣言したところで、リンカンがどうリアクションするかが次回のテーマになります。楊さんは、この出発点をすさまじい苦悩だと表現します。
リンカンは連邦を何より大切にし、そこに神聖性すら感じていた人物でした。その連邦から離脱すると宣言され、しかも自分の発言が自分を大統領にした側面がある、という苦悩から大統領ライフが始まります。
離脱するって言われちゃう。しかも自分が言ったことで自分が大統領になったかっていう、この苦悩から始まります。
楊さんは、止められないエスカレーションの果てにここまで来てしまったと振り返ります。そこまで想定せずに語り始めた言葉が、国家分裂と大統領就任という結末まで転がっていったのです。
いきなりハードモードでスタートするな。
次回への引き継ぎ
樋口さんは、次回からいよいよ実務期間が始まると締めくくります。分裂した状態の国を引き継いだリンカンが、どのような大統領人生を歩むのかが焦点になります。
さあ、ということで、じゃあ実際実務期間が始まるわけですね、次からは。
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まとめ
無名の弁護士に戻ったリンカンは、イリノイの情勢と国の争点が一致する好機をとらえ、奴隷制拡大論争を足場に大統領へと駆け上がりました。しかし、それは支持者を意識した踏み込んだ発言が、望まぬ国家分裂まで転がり落ちていく過程でもありました。
- リンカンは1849年に公職を退き、約12年間弁護士に専念しながら奴隷制への問題意識を高めていった
- イリノイのホットトピックが国の争点と一致し、鉄道流入による人口動態の変化がリンカンに追い風となった
- リンカン・ダグラス論争で「奴隷制は悪」と一線を超えて主張し、選挙には負けたものの全国区の人気を得た
- 民主党が二つに割れたことでリンカンが当選したが、南部での得票率はわずか2パーセントという異常事態だった
- サウスカロライナを皮切りに南部諸州が離脱して南部連合を結成し、リンカンは自ら招いた分裂から大統領ライフを始めることになった







