なぜ障害者は自ら声を上げるしかなかったのか
コテンラジオ「障害の歴史編」は、前回まで優生学への批判を扱ってきました。第7回と次回の最終回では、障害を持つ当事者たちがどのように活動してきたかが紹介されます。
導入として楊さんは、人間が人間の価値の優劣を判断してきた歴史を振り返ります。その判断が幻想だったとしても、制度や文化的な認識として社会に強く埋め込まれているため、簡単には修正できないといいます。
(ここで言う)社会っていうのは、括弧付きで、これはやはりマジョリティを前提にして設計された社会なんですよ。
楊さんによれば、マジョリティが設計した社会では、障害者のようなマイノリティが意思決定に加わりにくくなります。マジョリティの側にも、自分たちの社会リソースの取り分が減るため、状況を変えるインセンティブが薄いと説明されます。
その結果、障害者は追い詰められ、当事者が自分で声を上げるしかなくなりました。楊さんは、硬い壁に風穴を開けていく当事者運動の歴史を、シリーズの締めとして紹介すると語ります。
スウェーデンの入所施設はどれほど劣悪だったのか
最初の話題は、北欧から世界に広がったノーマライゼーションという考え方です。その前提として楊さんは、19世紀から20世紀前半のスウェーデンの入所施設の状況を紹介します。
スウェーデンの入所施設は、ほぼ例外なく一般社会から遠く離れた僻地に建てられ、数も規模も大きくなっていきました。多くの施設は知的障害者を大勢入所させ、人間としての諸権利を保障するものではなかったといいます。
19世紀のソンデーンレポートには、カビの生えたベッドや、不潔で寄生虫がいる状態、入所者が少しずつ死んでいくことを前提にしたような記述があると紹介されました。
なんか人権がないようなイメージですよね。
楊さんによると、こうした施設への入所を勧めていたのは多くが医師などの専門家でした。スウェーデン社会庁で医療顧問を務めたカール・グルンネワルドさんは、施設の実態を見せないために医学生を研修で連れて行くことはほとんどなかった、とインタビューで述べているそうです。
医師の人が診断をしてそこに送るんだが、そこ(入所施設)がどんだけひどいところかは医師の人は知らずに、送られた先で人権がない生活をしてる。
ノーマライゼーションは政府の報告書から生まれた
劣悪な施設の状況を受けて、スウェーデンでは1930年代後半から障害者団体が立ち上がり、社会的不平等の解消を求める運動が展開されました。
その流れを受けて、1946年の政府委員会の報告書で「ノーマライゼーション原理」という用語が初めて使われます。楊さんは、これがおそらく世界で初めてノーマライゼーションという言葉が登場した例だと説明します。
報告書には、障害のある人々の生活や雇用の状況をノーマライゼーション化する必要があると記され、公的に保障される通常の福祉サービスが障害者にも保障されるべきだという考え方が示されました。
楊さんは、それ以前の福祉国家が障害者を排除してコストを浮かせようとしていたことと比べ、大きな変化だと強調します。アメリカでは当事者個人が声を上げていくのに対し、国のレポートから出てくる点が福祉国家らしいとも話しています。
その後、デンマークのバンク=ミケルセン ── ニルス・エリク・バンク=ミケルセン。デンマークの行政官で、ノーマライゼーションの理念を法律に盛り込んだことから「ノーマライゼーションの父」と呼ばれますが、スウェーデンの考えを引き継ぐ形でノーマライゼーション思想を提唱します。その特徴は、障害者を健常者の考える「ノーマル」に近づけるのではなく、環境に働きかけて共に暮らせるようにするという点にありました。
楊さんは、同じ時期に断種法などの優生政策が行われていたことを指摘し、まったく違う考え方が並行して出てきたことに注目します。
国家の利益のために全員が頑張るべきで、頑張れない人を障害者と認定し、コストを割く必要はないと考える
障害者個人に社会へ合わせることを求めず、環境を変えて、障害を持つ人が普通に暮らせることを保障する
正解が大きくあるっていうのと(正解が)ないというので違いますね。
デンマークの1959年法とバンク=ミケルセンの原体験
1959年、デンマークで1959年法が制定されます。成立に尽力したのはバンク=ミケルセンで、知的障害者の親たちが声を上げ始め、それをバンク=ミケルセンがリードする形で実現したといいます。
デンマークでは1951年ごろから知的障害者の親の会が発足していました。親の会は子どもを守り、親同士の情報交換や相互扶助を目的とした組織で、入所施設での子どもの扱いに疑問を感じていたそうです。
バンク=ミケルセンは社会省の福祉部門にいた官僚で、親の会とつながりながら法案化を進めました。楊さんは「官僚なんだけど活動家」という珍しい存在だったと語ります。
1959年法は、ノーマライゼーションの理念を盛り込んだ世界初の法律でした。楊さんは、それまで世界的に優生政策が進められていたなかで、初めてそうではないものが出てきたと説明します。
楔が打ち込まれた感じですね。
1959年法が目指した「ノーマルな生活」とは、子どもが家族と一緒に街の家に住み、学校で教育を受け、成人すれば職業を持ち、結婚してもよく、独身でも親から独立して暮らせることでした。隔離や治療ではなく、普通の人と同じ生活を目指すものです。
バンク=ミケルセンがこうした考えに至った背景には、ナチス・ドイツ占領下のデンマークでのレジスタンス活動があります。彼は捕らえられて強制収容所に入れられ、自身もひどい扱いを受け、収容されていた障害者への過酷な扱いも目にしたといいます。
戦後、社会省で知的障害者福祉の仕事に就いたバンク=ミケルセンは、1500人規模を収容する施設や無差別な不妊手術など、知的障害児が非人間的に扱われる現場を目の当たりにします。
粗末なところに入れられて、過酷な取り扱いをされているみたいな。これって強制収容所じゃんと。
なんかここがね、またなんというか、歴史の妙ですよね。
「育ての親」ニィリエが広げた理念は、アメリカで何と掛け合わされたのか
バンク=ミケルセンの思想をさらに具体化したのが、スウェーデンのベンクト・ニィリエ ── スウェーデンの知的障害者の親の会で活動した人物。ノーマライゼーションの原理を具体的に整理し、国際的に広めたことで知られますです。ニィリエはノーマライゼーションの「育ての親」と呼ばれています。
楊さんは、ノーマライゼーションの考え方がスウェーデンで最初に言われ、デンマークのバンク=ミケルセンが確立し、再びスウェーデンのニィリエが推し進めたと整理します。北欧諸国の間でやりとりしながら発展した形です。
ニィリエはスウェーデンの知的障害者の親の会で事務局長を務め、理念を盛り込んだスウェーデン版の法律制定に向けて運動しました。その尽力で、ノーマライゼーションは世界的に認知され、アメリカにも渡ります。
楊さんは、アメリカは断種法をいち早く導入するほど差別的だった一方で、自分の権利を主張する文化や人権の概念がある国だと説明します。その性質とノーマライゼーションが掛け合わさり、ADA(障害を持つアメリカ人法)の制定という大きな転換点につながったといいます。
ノーマライゼーションとインクルージョンは何が違う?
ノーマライゼーションの説明の途中で、楊さんは近年よく聞く「インクルージョン」との違いを取り上げます。楊さんは、ノーマライゼーションがさらに発展した考え方がインクルージョンだと理解してほしいと話します。
楊さんの整理では、ノーマライゼーションはもともと社会から排除された障害者を対象としていました。一方のインクルージョンは対象を障害者に限らず、女性やマイノリティの人種、性的指向のマイノリティなど、社会から排除される可能性のあるすべての人を含みます。
もう一つの違いは目指す地点です。ノーマライゼーションは、公的機関にスロープを設けて車椅子の人が施設を使えるようにするなど、環境を調整してまず普通に暮らせるようにする考え方です。インクルージョンは、それぞれの違いや強みを包み込み、生かしていく感覚だといいます。
なんかマイナスを0にするやつと0をプラスにするみたいな違いがあるなと勝手に思ってるんですけど。
楊さんはこの整理について、障害学を専門に学んだ人には別の見解があるかもしれないと断ったうえで、自分が学んだ限りの受け止め方だと話しています。
社会から排除された障害者が対象。環境を整え、まず普通に振る舞い、暮らせるようにする
排除される可能性のあるすべての人が対象。違いを埋めるのではなく、差分を生かして活躍できる社会を目指す
ノーマルな社会、ノーマルな暮らしっていう、最低限の評価基準っていうのがそこに設定されてるっていうのがノーマライゼーションですね。
医学モデルは障害をどう捉えてきたのか
ADAの話に進む前に、楊さんは19世紀以降の先進国で障害者を取り巻いた2つの潮流を改めて整理します。シリーズで繰り返してきた内容ですが、難しい話なので何度も言うと前置きしています。
1つ目の潮流は近代医学です。科学の発達によって障害の説明は宗教のロジックから科学のロジックに移り、なかでも医学が障害を「個人に生じた悲劇」として捉え、克服の責任を個人の努力に委ねるようになりました。
楊さんは、障害は絶対性のない社会的認知であり、宗教のロジックで語られる障害者と医療モデルで語られる障害者は違う存在だと説明します。医療モデルでは、医療専門職やリハビリテーション関係者、家族が協力して治療すべき対象として障害者が位置づけられます。
2つ目の潮流は、資本主義の発展とともに生まれた保護主義です。楊さんは、工場で働けない人を障害者と認定して隔離施設に送ることを「保護」と呼んでいても、実態は排除主義だと指摘します。
「障害の本体は社会にある」社会モデルの衝撃
医学を中心に障害を解釈する「医学個人モデル」は、障害を完全に個人の問題に還元するとして、当事者から批判され続けました。そこに対するカウンターとして登場したのが社会モデルです。
社会モデルを1990年に唱えたのは、イギリスの研究者マイケル・オリバー ── イギリスの社会学者で、自身も障害の当事者。障害を個人の欠損ではなく社会的な障壁として捉える「障害の社会モデル」の代表的な提唱者ですです。オリバーは、障害の本体は社会的な差別だと主張しました。
番組では、足に障害がある人が階段を上れない場面が例として挙げられます。医学個人モデルでは足の障害が原因とされますが、社会モデルでは健常者しか歩けない階段という環境こそが障害になっていると考えます。
あなたの足が障害を抱えているから上れない、と個人の側に原因を置く
健常者しか歩けない階段という環境が、足が悪い人にとっての障害になっていると考える
楊さんは、いろいろな理屈で差別するという構造がずっと変わらなかったなかで、ノーマライゼーションや社会モデルの登場は、思考方法が大きく入れ替わる転換だったと強調します。
楊さんによると、社会モデルでいう「社会」は階段のような物理的な環境だけではありません。文化や情報といったコミュニケーション方法、制度、世間体のような意識上のバリアも含めて、社会がマジョリティにしか合っていないために障害が生まれていると捉えます。
社会モデルがなければインクルージョンは成り立たない
楊さんは、インクルージョンも社会モデルの考え方がなければ成り立たないと話します。女性が仕事の世界で活躍できないことを本人のせいにするのは医療モデル的な考え方で、社会モデルでは環境や制度設計、男性側の意識がそれを阻んでいると考えます。
楊さんはほかの例として、ゲイの人が会社で普通にゲイとして振る舞えない状況を挙げ、それも社会が障壁になっているからだと説明しました。
医療モデルから社会モデルの転換を理解しないと、インクルージョンの意味わからないなと思って。
この話を受けて、学校のクラスに障害のある子がいたときに「みんなで頑張って助けよう」とする例が挙がります。それも個人の裁量に任せた発想で、仕組みから変えるところまで意識が届いていないパターンは多いのではないか、という指摘です。
一方で、社会モデルを突き詰めると無限にお金がかかりかねないという難しさも語られます。極論すれば、障害者に無制限に社会リソースを割けというコンセンサスを得にくい論理にもつながりうるため、そうした批判や、社会モデル以外のモデルをめぐる議論も続いているそうです。
それでも楊さんは、社会モデルは知っておいていい概念だと強く思うと語っています。
能力主義のアメリカで、障害者福祉は戦争から広がった
話はアメリカに移ります。楊さんによれば、アメリカは建国時から障害者を冷遇してきた国でした。開拓時代の自力で切り開く感覚に、資本主義と民主主義が重なり、非常に能力主義的な国になったといいます。
能力がないと見なされた身体・精神障害のある人々は立場がなく、初期にはイギリスへ強制的に帰国させられたこともあったそうです。当初はイギリスの法律を踏襲した救貧院が建てられましたが、棒でぶたれたり、裸で鎖につながれたりと、人権のない状態でした。
ただし、耳が聞こえない人や目が見えない人に関わっていた医師や教育者の一部は、障害者を施設に追いやるのではなく社会に統合すべきだと考え始めます。1829年、マサチューセッツ州にニューイングランドの盲人向け保護施設が建てられました。
その初代校長を務めたのがサミュエル・グリッドレイ・ハウ ── 19世紀アメリカの医師・教育者。盲人教育に力を注ぎ、のちのパーキンス盲学校の礎を築きましたです。この施設は後のパーキンス学校となり、ローラ・ブリッジマン、アン・サリヴァン、ヘレン・ケラーを輩出しました。
シリーズの以前の回で登場したハウ博士の名前が出たことで、スタジオは大きく盛り上がります。楊さんは、差別が激しかった時代に、耳や目の障害については教育を施せばできることが増えると考えて動いた人物だと紹介しています。
ルーズベルトとスロープ付きのホワイトハウス
アメリカの障害者福祉を大きく動かしたのは戦争でした。戦争で障害を負って帰ってきた兵士に対し、国に貢献した結果として障害者になったのだからサービスを提供する、という形で福祉が発展していきます。
南北戦争では多くの身体障害者が生まれ、ミシシッピ州では1886年に州の収益の20%が義足や義手の購入に使われたといいます。戦傷者への対応をきっかけに整形外科が発達するなど、戦争のたびに同じような福祉の拡充が繰り返されました。
1935年には、ルーズベルト大統領が障害者を対象に含む社会保障法に署名します。戦傷者だけでなく、障害者全般へと福祉が少しずつ横に広がっていく流れです。
戦争
南北戦争などで兵士が後天的に障害を負って帰ってくる
戦傷者への福祉
国への貢献を理由に、戦傷者へのサービスやリハビリ医療が整う
横展開
1935年の社会保障法など、障害者全般へ少しずつ社会リソースが広がる
楊さんによると、ルーズベルト大統領自身も車椅子を使う身体障害者でしたが、国民にはそれがわからないように振る舞っていたそうです。それでも大統領が障害者だったことで、ホワイトハウスや連邦議事堂、陸軍省などに早い段階でスロープが設置されました。
バリバリアメリカっぽい挙動だよね。偉い人が困ってるからもうハードを整備していくっていうね。
ノーマライゼーションはどうアメリカに伝わったのか
厚い福祉はないものの、戦傷者の福祉が少しずつ横に広がり、盲人やろう者の教育にはそれなりに力が入っていたアメリカに、北欧のノーマライゼーションが1960年代に伝わります。
当時のアメリカでも、知的障害者は収容施設に隔離され、非人間的な扱いを受けていました。楊さんは1960年代の入所・入院の規模を数字で紹介しています。
楊さんによれば、ほかに1万人が民間施設に入所していました。こうしたなか、アメリカの知的障害者の親の会の活動がきっかけとなって、ニィリエとバンク=ミケルセンのノーマライゼーションが伝わってきます。
1966年、ミネソタ州知的障害者親の会の事務局長ウォルシュさんの一行が北欧を視察し、アメリカでは教育不可能と見なされていた重度の知的障害児が教育を受けて学ぶ様子を目にしました。周囲の環境や人々の価値観、態度が障害のある人に与える影響の大きさを、初めて実感したといいます。
一行はノーマライゼーション思想を広める啓蒙キャンペーンをアメリカでも展開しようと考え、バンク=ミケルセンとニィリエをアメリカに招きます。楊さんは、感動した瞬間に呼ぶというアクションの早さを、アメリカのすごいところだと評しています。
セルフアドボカシーはなぜ生まれたのか
ノーマライゼーションとともにアメリカに伝わったのが、セルフアドボカシー ── 自己の権利擁護。障害のある当事者が、自分の利益や意思、権利を自分自身で主張し守っていくという考え方ですという思想です。
知的障害のある人は長らく自己決定ができないと見なされ、だからこそ支援される対象だと認識されてきました。セルフアドボカシーは、その認識へのカウンターとして生まれた考え方だと説明されます。
楊さんによれば、セルフアドボカシーの考え方もニィリエが生み出したようです。ニィリエは、知的障害を持つ人も日々の仕事に出かけたり、リラックスする時間を持ったりすべきだと考え、そのためのプログラムを作っていました。
プログラムづくりのために知的障害を持つ男性や女性に質問していくと、好き嫌いについては当事者のほうがソーシャルワーカーや専門家よりよくわかっている、ということが見えてきたといいます。
わかんないから決めてあげないとって思われてて、決めてあげようとしてた。みんなナチュラルに善意で。
善意のバイアスは今も残っているのではないか
楊さんは、ニィリエの時代の話を他人事にしません。今の自分たちが障害を持つ人に「これはできないだろう」と思っていることも、同じ構図になっている可能性が十分にあるといいます。
でも僕たちもやってる可能性ありますから、いまだに。
ニィリエは、適切な支援と指導があれば知的障害者は自己決定ができるのではないかと考え、当事者のグループを作って、治療や訓練について自分たちが何をどう選択できるかを話し合う取り組みを始めました。
楊さんは、子どもに対して親が代わりに考えてあげようとする感覚も同じで、愛情を持ってそれをやってしまっている状態だと指摘します。
ただ、ニィリエの取り組みは簡単ではありませんでした。ずっと意見を聞かれず、尊重もされてこなかった人に急に意見を求めても、言えない人がたくさんいたそうです。それでも考え方は残り、アメリカでエド・ロバーツという人物につながっていきます。
番組ではさらに、行ったことのない国の人に対して「どうせこう考えているだろう」と思い込むような、外国の人へのバイアスも話題になります。それを良い悪いではなく人間の認知特性として捉え、楊さんは誰にでもあるブラインドスポットだとまとめました。
次回の最終回では、ノーマライゼーションとセルフアドボカシーがアメリカの性質と掛け合わさり、世界に広がって現代につながる大きな動きが語られる予定です。楊さんは、これまでよりだいぶ希望のある話になると予告しています。
まとめ
障害の歴史編の第7回は、隔離と排除が当たり前だった時代に、北欧の当事者団体や親の会、そして強制収容所を経験した官僚バンク=ミケルセンらがノーマライゼーションを形にし、それが社会モデルやセルフアドボカシーと重なりながらアメリカへ渡るまでをたどる回でした。
- ノーマライゼーションは、障害者を社会に合わせるのではなく、環境を変えて普通に暮らせるようにする考え方で、1946年のスウェーデンの報告書と1959年のデンマーク法から広がった
- 楊さんの整理では、ノーマライゼーションが「マイナスを0にする」ものなら、インクルージョンは違いを生かして「0をプラスにする」ものとされた
- マイケル・オリバーの社会モデルは、障害の本体を個人ではなく社会の障壁に見いだし、インクルージョンの前提にもなっている
- アメリカでは戦争を契機に福祉が広がり、1960年代に親の会を通じてノーマライゼーションとセルフアドボカシーが伝わった
- 当事者は自分の好き嫌いを専門家よりよくわかっていたという発見は、善意による思い込みが今も残りうることを示している




