板挟みの高麗が味わった「使者を送れ」の重圧
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モンゴル帝国襲来編の第4回は、モンゴルの使者が博多に来るところから始まります。深井さんによれば、これは日本で将軍が追放されたのと同じ年の出来事だといいます。
モンゴル皇帝クビライは、傘下に置いた高麗 ── 10〜14世紀の朝鮮半島の王朝。長年モンゴルと戦って疲弊した末に、その支配下に入っていましたに、モンゴルの使者を日本まで連れて行くよう命じます。しかも事前に釘を刺していました。
絶対に波が高いから渡航が無理とか絶対言うなよ。
クビライは、高麗が言い訳をして避けてくると読んでいたようです。ところが高麗人は、モンゴルの使者を巨済島まで案内すると、まさに波の高さを理由に断ってきました。
言っちゃった。
結果はクビライの激怒でした。深井さんは、高麗がモンゴルと日本の摩擦に巻き込まれるのを嫌がっていたと説明します。
高麗は対馬や九州と交易船をやり取りするビジネス関係を持っていました。その事実を隠すため、朝鮮側の港にあった日本人用の館を壊すほどだったといいます。
クビライは、事前に予告していた言い訳を実際にやられて怒り、日本との交渉を高麗の責任でやれと命じます。板挟みだった高麗は、プロジェクトの役職を一段上げられてしまいました。
高麗はね、中間管理職じゃないですけど、板挟みの苦しみを味わう立場。
楊さんは、高麗には日本を攻めたい欲がまったくないと指摘します。攻めるとなれば自分たちが船も兵士も出さなければならず、30年近くモンゴルと戦って疲弊した高麗にとっては迷惑な話でした。
クビライの国書は何を語っていたのか
高麗の使者、帆布(朝鮮語ではパンブ)が到着したのは大宰府でした。深井さんによれば、大宰府は当時、日本で唯一の対外窓口だったといいます。
パンブが持ってきたのは2通の文書でした。1つはモンゴルの正式な国書、もう1つは高麗国王ウォンジョン(元宗)の書簡です。深井さんは、全文が残っているというモンゴルの国書を現代語訳で読み上げます。
国書の書き出しは「上天が慈しみ思う大蒙古国皇帝が、日本国王に奉る」というものでした。「大蒙古国皇帝」と「日本国王」という並びに、すでに序列が感じられます。
クビライは、昔から小国の君主であっても隣り合っていれば信頼と親睦の関係を保ってきた、と続けます。楊さんは、これが実態と食い違うと突っ込みます。
んなわけねえや。
楊さんは、この国書が中華思想 ── 中国こそが世界の中心の文明であり、周辺の国はそれに従うべきだとする考え方。従う国を序列の中に位置づけていきますのロジックを使っていると指摘します。実際には武力で従わせているのに、相手が「懐いた」という形で語る言い回しです。
国書は、クビライが即位した当初に高麗の民が戦争で疲れているのを見て軍事行動を止め、領土を返した、と続きます。深井さんは、20万人以上を捕らえておきながらの物言いだと述べます。
さらに国書は、蒙古と高麗の関係を「義としては君臣、喜ばしさは父子のよう」と表現します。父と子のように高麗を下に置く、序列を強く感じさせる言葉づかいです。
物は言いようだよ。
そして国書は日本に矛を向けます。クビライの治世になって以来、日本から一人の使者も来ていない、それはお前の国がよく知らないからだろう、と。だから使者を遣わして意思を伝えるのだ、という論法です。
結びは「互いに臣服しようではないか」「誰が好き好んで軍事力を用いたいだろうか」というものでした。深井さんは、これは日本を子分にする気満々で、従わなければ武力を使うという含みだと読み解きます。
昔から隣国とは親睦を保ってきた。高麗とは父子のよう。武力は使いたくない
武力で従わせてきた序列に日本も組み込む。使者を送らなければ軍事力を用いる
高麗国王が忍ばせた「気をつけてね」
モンゴルの国書に同封されていた、高麗国王ウォンジョンの文書が興味深いと深井さんは言います。そこには、クビライの本当の狙いが率直に書かれていました。
ウォンジョンの文書は、クビライが日本と好を通じようとしているのは貢ぎ物から利益を得たいのではなく、皇帝という名を天下に轟かせたいのだ、と伝えます。つまり相手の本音を教える忠告でした。
ちょっと優しいですね。
さらにウォンジョンは、試しに一人でも使者を派遣して様子を見てみてはどうか、と勧めます。深井さんは、老婆心ながらとにかく対話した方がいい、菓子折りだけでも持って行けという趣旨だと解釈します。
この文書からわかるのは、高麗が心からモンゴルに従っているわけではないという点です。前回モンゴルから使者が来たといっても、実際に日本へ来ていたのは高麗の使者であり、モンゴルの本軍ではありませんでした。
なぜ日本が狙われたのか。南宋と硫黄
日本に白羽の矢が立った理由を、深井さんはクビライの視点から説明します。この段階でのクビライの最大の目標は、南宋の打倒でした。
南宋 ── 漢民族の王朝。北方を金に奪われ、南に移った後も約300年にわたり中華帝国の主として君臨し続けましたは300年の長きにわたって中華帝国の主だった強国で、なかなか倒せません。クビライにとって、これが当面の大目標でした。
問題は、その南宋とずっと通商関係を結んでいる国があったことです。それが日本でした。特に、火薬に使う硫黄が鍵になります。
火山の少ない中国では硫黄が取れず、火山の多い日本はこれを輸出していました。モンゴルから見れば、日本は敵国・南宋の軍事に資している国ということになります。
邪魔なわけや。
日本と宋の関係の深さを、楊さんは博多の歴史から具体的に語ります。宋の商人たちは博多に多く住み、「博多綱首」と呼ばれる貿易集団のリーダーがいました。
その代表格が謝国明という宋の商人です。円爾(聖一国師)というお坊さんのパトロンとなり、博多に承天寺を建立しました。
この聖一国師は博多祇園山笠を作った人であり、そばやうどんなどの粉物を日本にもたらした人ともされています。承天寺の境内には、うどんそば発祥の地の石碑が建っているといいます。
一方で、日本と宋の関係は特殊でした。深井さんによれば、日本は宋の冊封体制に入っておらず、臣従も朝貢もしていません。国家間の友好関係というより、ただ盛んに貿易しているだけの間柄でした。
本来この近さなら臣従しなければ攻められる立場ですが、海を隔てているため宋も日本に興味を持たず、放っておかれていました。深井さんは、これを中国から見て非常に特殊な関係だと述べます。
南宋を倒したい
クビライの当面の最大目標は、なかなか倒せない南宋の打倒だった
日本が南宋を支えている
日本は南宋と盛んに貿易し、火薬の原料となる硫黄を輸出していた
先に日本を従わせたい
南宋を倒す前に日本を味方につけようと、まず優しい国書で臣従を促した
宋しか見ていなかった日本の対外認識
この国書に対し、日本はどういう感覚だったのか。深井さんは、当時の日本が宋以外の国を野蛮な国だと思っていたと説明します。
日本にとって、正当な中華王朝はあくまで宋でした。その宋には、仏教を学ぶために僧侶が渡っていました。聖一国師のように、宋に留学したお坊さんもいたといいます。
宋帰りの僧侶がいたため、日本側も一定の情報は持っていました。元があること、強いこと、北宋が南宋になったこと、高麗が従わされたことも、おそらく知っていたと深井さんは述べます。
それでも日本には、その国々と付き合うべきだという感覚がありませんでした。正当なはずの宋とすら正式な国交を結んでいない状態で、深井さんはこれを「すごくガラパゴス化している」と表現します。
返事を送らないという朝廷の決断
蒙古の国書が宛てられていたのは「日本国王」、つまり天皇でした。将軍でも執権の時宗でもなく、外交の権限はまだ朝廷が持っていたのです。
朝廷は、この国書に大騒ぎになります。高麗を打ち取ったモンゴルが、さらに日本を討つ意図をにおわせている、という認識がありました。
そして議論の末に朝廷が出した結論が、深井さんいわく非常に興味深いものでした。返事を送らない、という判断です。
シカト?
一応、下書きまでは作った形跡があるものの、送信には至りませんでした。楊さんは、この「態度を保留する」ムーブに再現性があると指摘します。
諦めてくれるまでお茶を濁し続ける。
楊さんが挙げたのは、幕末のペリー来航です。幕府は意見書を集めて検討した末、確固たる回答をせず交渉を引き延ばす道を選びました。深井さんは、回答しなければ引き延ばせるという認識が共通していたと述べます。
深井さんは、この発想の背景に島国であることがあると考えます。本格的に殺し合ってきた者同士なら、嘘をついてでも時間を稼ぐような騙し合いになるところ、殺し合いをしてこなかった朝廷はこういう対応になるという見立てです。
神頼みという「ベストソリューション」
返事をしない代わりに朝廷が取った行動が、神頼みでした。異国が来ないよう祈る「異国御祈祷」を、22の社に命じて祈願させたといいます。
深井さんは、当時の人々をフォローします。明確な意思を示さず祈祷する姿は現代人には現実逃避に見えるかもしれないが、当時は神仏への信仰が今とは比べ物にならないほど厚かった、と。
つまり、祈れば本当にどうにかなると信じられていました。彼らにとって神仏に祈らせることこそが、自分にできる最大の対応だったのです。
ベストソリューションやったわけよね、それね。
この信仰の厚さを示す出来事も起きました。京都の石清水八幡宮で、神社に祀られた剣を包む袋がネズミにかじられるという「怪異」が発生したのです。
天皇まで驚いて学者や陰陽師を召喚し、占わせたところ「天下を恐れさせるような事件が起きる」という結果が出ました。その後、内裏が焼失します。
占いは当たっているのではないか、と人々が恐れる中、その翌年にモンゴルの船が来ました。楊さんは、彼らはこうした世界観の中で生きていたと強調します。
怪異が起きる
剣を包む袋がネズミにかじられ、天皇が驚いて占わせる
不吉な占いが出る
天下を恐れさせる事件が起きるという結果が出る
内裏が焼失する
間を置かず、天皇の住む内裏が焼けてしまう
モンゴルの船が来る
恐れられた事件の翌年、モンゴルの船が到来する
寺社仏閣は、この状況を機に自分たちのポジションを上げようとする動きも見せました。箱崎宮の権威をめぐって、行政という土地の管理人が朝廷に文書を送っています。
その文書は「八幡の助けなしに、誰が三韓の来航を防げるというのか」という趣旨でした。深井さんは、三韓とは大昔の朝鮮のことで、モンゴルなのか朝鮮なのかも区別できていない当時の対外認識がここに表れていると指摘します。
時宗が下した「急ぎ用心せよ」の指示
一方の幕府、つまり執権・時宗はどう動いたのか。深井さんによれば、時宗は軍事動員権を持つ各国の守護に宛てて指示を出しました。
その内容は、モンゴル人が凶心を持って本朝をうかがっている、急ぎ用心せよ、というものでした。攻めてくる可能性があるから備えろ、という趣旨です。
深井さんは、この指示の漠然とした感じに驚きます。現代のアメリカ軍なら部下に「気をつけてね」で済ませず、もっと具体的な指示を出すはずだ、という対比です。
この漠然さの背景には、封建制ゆえに幕府に直接の指示権がない事情がありました。だからこそ、いつ攻めてきてもいいよう各守護が構えておくよう命じるにとどまったのです。
深井さんは、日本の対外経験の乏しさをあらためて整理します。遣唐使を最後に、数百年にわたってどの国とも正式な国交を持たず、対外認識の質も量も弱かったのは否めないといいます。
しかも当時は軍事政権で、外交経験は皆無でした。自分たちで殺し合っている人たちのところへ、まったく違う角度から従わなければ殺すかもしれないという連絡が来た、というのが当時の状況でした。
過激になった二度目の国書と、二度目の無視
時宗が執権になった後、二度目の使者が来ます。これはモンゴル側としては実は4回目のトライで、たどり着いたのは2回目でした。使者を送ること自体が大変だったのです。
最初の使者パンブは一度虚しく帰還し、その一年半後、今度はキムウソンという人物が対馬に到着します。名目は、3回目のトライの際に対馬で捕らえた島民2名を送還する、というものでした。
島民の拉致は情報収集などが目的だったと考えられます。この二度目の国書は長年内容不明でしたが、近年その写しが発見され、内容がわかるようになりました。
一度目が優しかったのに対し、二度目は過激でした。来年春までに使者を派遣して親睦を誓えば高麗と同等の待遇を保証するが、そうでなければ将軍に出撃を命じて軍艦で首都を制圧する、という内容です。
もうしばきまーすって。
深井さんは、一度目を無視されたモンゴルが「伝わっていないのか」と考え、ドストレートに言い直したのだろうと読み解きます。ところが朝廷は、この二度目の国書も無視しました。
一度目は、使者を送らないのはよく知らないからだろう、と含みを持たせつつ優しく臣従を促した
二度目は、春までに従わなければ軍艦で首都を制圧する、とドストレートに武力を予告した
送られなかった「平和的な反論」
二度目も、朝廷は下書きまで作っていました。深井さんによれば、返事をするつもりはあったものの、幕府が差し止めたという書き方もあり、その下書きが実際に残っているといいます。
下書きを書いたのは菅原長成という人物でした。内容は、日本の立場から平和的にモンゴルを批判する反論でした。深井さんが紹介していきます。
下書きはまず「モンゴルという国は未だ聞いたことがない」と述べ、聞いたこともない国にどうして良し悪しの感情を抱けるのか、と問い返します。それなのにモンゴルは武器を用いようとしている、という筋立てです。
そんな言ったらダメやろ。
さらに下書きは、聖人の書物や釈迦の教えでは命を救い生かすことを重んじ、殺すことを悪としている、と説きます。そんな教えがあるのに、なぜ徳があると言いながら攻めるのか、という正論でした。
めちゃくちゃ正論。確かにってなるけど。でもさ、なんかモンゴルに言う勇気ないわ。
結局この下書きも送られず、無視されます。幕府が「どうせ戦うことになるから送らなくていい」と判断したのです。
楊さんは、幕府が差し止めたもう一つの説を紹介します。返事を送ればやり取りが続き、朝廷が外交のイニシアティブを握ってしまう。それを幕府が警戒し、朝廷に外交権を握らせたくなかったのではないか、という見解です。
深井さんは、それもあるかもしれないとしつつ、嘘で時間を稼ぐことも、従うふりをすることもできたのに、朝廷も幕府も外国を無視すると決めた点を興味深いと語ります。
下書きにはさらに「天皇が治めるこの土地は古来より神々が守る国だ」という神国思想も書かれていました。楊さんは、これがとても日本らしいと述べます。
深井さんは、こうした認識の低さについて、当時の日本人が愚かなのではないと釘を刺します。大陸から海を隔てた島国では、情報の解像度がこの程度になるという現象が起きるのだ、という見方です。
現状認識は甘くても、覚悟だけは早かった武士
深井さんが重要だと言うのは、二度の使者を経て幕府がすでに戦うと心を決めていた点です。この覚悟までのスピードは本当にすごい、と評価します。
現状認識もできておらず状況もよくわかっていないのに、幕府には凄まじい根性があった、と深井さんは語ります。この後、元寇をどう防ぐかという展開も、同じような調子で進むといいます。
深井さんは、幕府が「これは絶対に来る」と考えたところに武士らしさを見ます。武力を予告してきた以上、本当に攻めてくると鋭敏に感じ取り、不完全ながらも備えを進めていったのです。
多分戦ごとに対するアンテナだけはめちゃくちゃ尖ってんだろうな。
この鋭さの背景には、政権中枢にいる者たちが普段から殺し合っていた事情がありました。明日急に殺されるかもしれないという感覚が当たり前だった彼らにとって、攻めてくる相手への備えは自然な反応でした。
そしてモンゴルは、使者を送りながら同時に南宋を攻め続けていました。幕府は幕府で着々と戦う準備を進めていきます。深井さんは、次回のテーマがモンゴルの南宋攻略だと予告します。
このモンゴルが南宋攻略した話聞くと、これが攻めてくるんかっていう怖さがめっちゃわかるんで。
まとめ
クビライの国書に日本が返した答えは、二度とも「無視」でした。返事を送らないという判断の裏には、海を隔てた島国ゆえの対外認識の甘さと、殺し合いに慣れた武士の早い覚悟が同居していました。
- クビライは南宋打倒を最大目標とし、南宋を支える日本を先に従わせようと国書を送った
- 使者を運ぶ高麗は、日本を攻めたくない立場と命令の板挟みで苦しんだ
- 外交権を持つ朝廷は返事をせず、22社に異国調伏の祈祷を命じて対応した
- 一度目の優しい国書も、二度目の武力を予告する国書も、日本は無視で通した
- 現状認識は甘くても、幕府は武力予告を受けて早々に戦う覚悟を決め、備えを進めた



